それは、地位だとか性格だとか役割だとか、そういう様ざまな種類の別の名詞で表されるものでもあって、そうしたものを僕たち人間も少なからず持っている。
問題は、名前と、その名前を付けられた存在そのものとが、同一のものではない、ということだ。
さて、まずはあらすじを。
久しぶりに会った友人とマジックショーを見た萌絵。有里匠幻の愛弟子達によるショーであり、そこで、近日とある公園で、匠幻自らが脱出ショーを行う、と予告され、興味を持った萌絵は、無理矢理犀川を連れて見物に出かける。
そこで、マジシャン有里匠幻の死体が、衝撃や謎とともに出現する。脱出しているはずの箱の中から見事に現れるはずだった匠幻はしかし、胸に刃物を差し込まれ、深紅の衣装をさらに濃く染めて現れた。
テレビ局の撮影を兼ねたその公開ショーの模様は、何台ものカメラに映像として収められたが、誰がどう殺害したのかまるでわからない。誰も箱に近づいていないのだ。
事件が解決しないまま、匠幻の葬儀が執り行われた。しかし、そこで匠幻は、死後なお脱出ショーを演じて見せた。霊柩車に載せられた棺から忽然といなくなった匠幻の死体。会場内からも一切出てこず、警察関係者はおろか、萌絵も困惑する。
さらに、愛弟子の一人が、同じく脱出ショーの最中に殺害されてしまう。
一体誰がどうやって何のために人を殺し、死体を消失させたのか・・・
という感じです。
大分前に僕が書いたことを覚えているかわかりませんが、この作品もまさにワッツダニット(何故そうやったのか)の典型とも言えるものです。どうして匠幻を殺し、どうしてその死体を消失させたか。この「何故」に対する物語だ、ということができます。
そして、それを理解するために、「名前」についての考察が必要なわけです。
これはもう、読んでくれないとなかなか理解出来ない考え方であって、もちろん読んでもわからないんだけど、そうした雰囲気に是非触れて欲しいと思います。
いつだって犀川は、謎を解決することに興味を持たないし、確度の高い仮説を持っていてもわざわざ言うことをしない。
しかし、今回の犀川は、この犯罪者に対して何か感じるところがあったのではないか、と思えた。美しい生き方ではないか、とまで言っている。そして、犀川のその感想を、否定する自分はどこにも存在しない。
どこまでも美しく、どこまでも潔癖な思想。理解されることよりも、貫くことに全てを捧げた人生。そうしたものを感じてみてください。
ちなみに、この物語の構成はなかなか面白くて、奇数章しかありません。偶数章は次作の「夏のレプリカ」にあります。つまり、二つの物語が対になっている、ということです。それぞれを、交互に読んだ読者がいるようですが、頭がおかしくなりそうだったそうです。やってみるのもいいでしょう。
それでは、いつものを。
(前略)おそらく、三角関数を組み合わせて再現できる曲面を、「人間の狂気」あるいは「経済的な妥協」という不等号で切り取った断面だろう。この手法以外によって作られた人工物は、いまだかつてないからである。
(後略)
「(前略)一般論だけどね、マスコミの報道のほぼ半分は嘘だといって良い。全部が嘘ではない、というのが救いだ」
(後略)
(前略)
「日曜日に何か思いつかれるご予定は?」
(後略)
(前略)前者に決まって登場する和服の古風な美人も、後者に不可欠な無口な美少女や美少年も、いずれも博物館の蝋人形mたいに、現代社会を生きているとは思えない。昨夜、彼女が読み終えたミステリィは後者のタイプだった。あんな不気味な少年がいたら、小学校で苛められるのに違いない、と思った。
(後略)
(前略)
「ふうん」彼はフォークを持ちながら唸った。
「何ですか?ふうんって」萌絵が顔を二十度ほど斜めにしていく。
「感嘆詞」
萌絵は犀川の言葉を無視して、食事に手をつけた。
「美味しい!」彼女は一口目で目を大きくする。
「それは形容詞」
(後略)
(前略)
「諸君・・・。私は、この危機から諸君の期待どおり生還しよう。私は、最悪の条件、最大の難関から脱出する。諸君が私の名を心の中で呼べば、どんな就縛からも逃れてみせよう。一度でも、私の名を叫べば、どんな密室からも抜け出してみせよう。私は、必ずや脱出する。それが、私の名前だからだ」
(後略)
(前略)
「先生には、この事件よりも優先しなくちゃいけない問題があるんですか?」
「あるよ。いつだって、最優先の問題がある。世界で僕しか考えていない謎があるからね」
(後略)
(前略)「間違っているのは、観察している人間の認識だ。したがって、人間さえ見ていなければ、何も不思議は起こらない。すべて自然現象だ」
「そんなの屁理屈です」萌絵は反論する。「物理も科学も、そもそも人間の認識の仕方じゃあないですか?自然現象を理解するためのプロトコルでしかありません」
(後略)
(前略)
「目的は何でしょう?」
「何かを得るためだ。殺人も、つまり交換だ」
(中略)
「何と何を交換したんです?」
「リスクとプロフィット」犀川は煙草を片手で回している。「当たり前の一般論だけど、子供の悪戯だって、大人の仕事だって、政治だって、戦争だって、宇宙開発だって、みんな同じだ。危険と利益を交換する。(後略)」
(前略)
「カメラで狙われているときは、もっと余裕のある上品な表情を作りなさい。なんです、あれは?はしたない。今にも貧血で倒れそうな顔だったじゃないの?」
「本当に、倒れそうだったんですもの」萌絵は弁解する。
「本当に倒れるまで、微笑んでいなさい。まったく、子供なんだから、貴女は」
(後略)
(前略)
「犀川先生は、どんな特技がありますの?」ミカルはきいた。
「そうですね、僕は、ミルクとコーラを半々でカクテルにしてよく飲みますけど、それだって、特技かもしれないし、あるいは、マジックだと思う人がいるかもしれませんね」
(後略)
(前略)
「先生が浦島太郎だったら、きっと、玉手箱を開けなかったでしょうね」
「うん、僕は開けないね」犀川は真面目な顔で答えた。
(後略)
「(前略)でも・・・、西之園君。物理の難しい法則を理解したとき、森の中を散歩したくなる。そうすると、もう、いつもの森とは違うんだよ。それが、学問の本当の目的なんだ。人間だけにそれができる。ニューラルネットだからね」
(後略)
「(前略)記号を覚え、数式を組み立てることによって、僕らは大好きだった不思議を排除する。何故だろう?そうしないと、新しい不思議が見付からないからさ。探し回って、たまに少し素敵な不思議を見つけては、また、そいつらを一つずつ消していくんだ。もっともっとすごい不思議に出会えると信じてね・・・。でも、記号なんて、金魚すくいの紙の網みたいにさ、きっと、いつかは破れてしまうだろう。たぶん、それを心のどこかで期待している。金魚すくいをする子供だって、最初から網が破れることを知っているんだよ」
「金魚すくいって、何です?」
(中略)
「君、小さいときに、何か呪文をかけられたんじゃないの?」
(後略)
(前略)しかし、世の中には追及しない方が素敵な不思議もある。それは、三十歳を越えて気がついた法則の一つであった。
(後略)
(前略)
場所は、栄町の東急ハンズ。いわゆる、普通で、一般的で、常識的な、ありきたりの、当たり障りのない、平凡な初歩コースといえよう。(後略)
(前略)
「ものには、すべて名前がある」(後略)
(前略)
同様に、人はアウトプットするときだけ、個たる「人」であり、それ以外は、「人々」でしかない。
そのアウトプットの目的が何であれ、他者(多くの場合、自分自身を含むが)に何かを伝えないかぎり、「人」となりえない。それが、名前のために人が生きている、という意味なのである。
(後略)
(前略)
こうしてみると、ある個人の思考が、別の人間に伝達する一瞬こそ「奇跡の脱出」、ミラクル・エスケープに他ならない。
(後略)
(前略)
「そう、人間はシンボルによって思考する」犀川は微笑んだ。「言葉や文字で思考するのではない。言葉も文字も、シンボルの一部でしかない」
(後略)
「(前略)もの心つく以前から盲目で耳も聞こえなかった人が、何を最初に理解したと思う?そういう人に言葉を教えるには、何が必要だろう?」
(中略)
「それ以前に、重要なことがあるんだ。それは、ものには名前がある、という概念なんだよ。すべてのものには名前がある、ということにさえ気づけば、あとは簡単なんだ。(後略)」
(前略)
「最高に綺麗なスイッチだね」
(後略)
(前略)「綺麗という形容詞は、たぶん、人間の生き方を形容するための言葉だ。服装とかじゃなくてね」
(後略)
森博嗣「幻惑の死と使途」
幻惑の死と使途講談社ノベルス
幻惑の死と使途―ILLUSION ACTS...講談社文庫