その悪魔がやってきたのは、番組スタッフから理解できない話を聞かされた日の夜だった。
一ヶ月ほど前、ある番組の企画で初恋の人と対面するというのがあり、その聞き取り調査をスタッフに受けた。僕は、もちろん迷うことなく梓ちゃんを挙げた。
中学時代となりのクラスにいた女の子だった。僕は彼女のことがずっと大好きで、でも積極的な性格じゃなかったから何も言えないでいた。でもある日、クラスメイトの女子に呼び出され体育館の裏に行ってみると、そこにはなんと梓ちゃんがいたのだった。そうして僕らは、別々の高校に行くまでの間ずっと付き合っていた。
梓ちゃんとのことは今でも思い出す。忙しくてなかなか同窓会なんかに顔を出したり出来ないのが残念だが、仕事に疲れた時なんかにふと思い出すようなことがあって、恥ずかしくて一人で苦笑いするようなことだって結構あるのだ。
しかしその日番組スタッフから、中村梓という女性はいない、と告げられたのだった。そんなはずはない、と粘った僕だったけど、スタッフが連絡を取った当時のクラスメイトの一人と電話をして納得せざるおえなかった。
そんなバカな!僕は家に帰るまでに何度胸の内でそれを繰り返したことだろう。梓ちゃんがいなかっただって。じゃあ僕のこの記憶はただの妄想だとでも言うのか!
その夜、僕の住むマンションに、悪魔がやってきたのだった。
「ちょうど20年経ったしね。ほら、約束だったでしょ、20年だけって?オッケーしたよね?」
その悪魔は何だかもの凄くフレンドリーに意味の分からないことを捲し立ててきた。
「約束って何の話だ?俺は今イライラしてるんだよ!さっさといなくなれ!」
僕は叫んだが、悪魔は動じもしない。
「なるほど、分かるよ、梓ちゃんのことだろ。いやだからさ、そのイライラを解消するためにもさ、ほら消しゴムがここにあるからさ」
もう何を言ってるんだかさっぱり分からない。消しゴムって何のことだ?
「ちゃんと消してあげるからさ、梓ちゃんの記憶。この消しゴムを頭にちょちょいってやったら消えるからさ。もう充分でしょ?」
そういうと悪魔はずいっと近寄ってきて、僕の頭を消しゴムで一撫でした。
20年前のこと。
その悪魔がやってきたのは、僕が同じクラスの女の子に振られた日のことだった。
それまで周りの女子にはそこまで興味が持てなかった。何人かの男子は女子と付き合っていたようだったし、その内の何人かはもう最後まで行ったなんて噂もあったけど、僕にはどうしてそんなことをしたがるのか全然分からなかった。
けど、僕のクラスに来た転校生の佳子ちゃんを見た時、僕は電撃を受けたようになってしまった。佳子ちゃんと喋りたい。手を繋ぎたい。ずっと一緒にいたい。そんな思いは日に日に募っていった。
僕は意を決して佳子ちゃんに告白したのだけど、あっさりフラれてしまった。
僕はもうどん底だった。
その夜、その悪魔が一本の鉛筆を持ってやってきたのだった。
「失恋?大変だねぇ。ねぇねぇ、いいのがあるよ。ほらこの鉛筆なんだけどさ、君の頭の中にさ好きな記憶を書き込めるんだよねぇ。どうどう?」
悪魔は異常に馴れ馴れしい態度でやってきて僕を苛立たせたけど、佳子ちゃんの失恋に沈んでいた僕は、藁にもすがる思いでその鉛筆を手に持った。
名前が同じだと辛いかもしれないから、梓ちゃんって名前にしようか。隣のクラスの女の子ってことにして、向こうが僕に告白したってことにして…。
僕は失恋の痛手を消そうとして、ありえない話をどんどん脳に刻み込んでいった。
「そうそう、ちょうど20年後にこの記憶消しにくるからさ。よろしく〜」
相変わらず軽いノリで悪魔は話し掛けてくる。
「でもサービスで、鉛筆で記憶を埋め込んだっていう記憶だけは先に消しゴムで消しといてあげるからね。心配しないでね」
一銃「消しゴム」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はつい最近著者自身による脚本でドラマ化もされた話題作です。もともとは新聞連載された小説だったようです。
物語は、アメリカはマンハッタン、ハドソン川の定期船であるスカイラインが事故で転覆し、戸倉美波が死んだことから始まる。
美波は外務省のエリートだった河野と一緒に死んだ。美波には夫も娘もいたが、高校時代惚れぬいた相手である河野のことが忘れられなかった。
専業主婦の西尾満希子は、日本でそのニュースを知り、すぐ灰谷ネリと原詩文と連絡を取った。
彼女達四人は、高校時代の同級生だった。卒業以来ほとんど連絡を取り合っていなかったが、美波の死をきっかけにして、再び彼女達の因縁が動き出したのだ。
高校時代。美波の弟の家庭教師だった河野に、美波が惚れた。二人は付き合うようになるのだが、同級生だった詩文が河野を奪い、あまつさえ河野との子供まで産んだ…。
高校時代、決して仲がよかったわけではない四人が、この出来事をきっかけにして捻くれた関係になっていく。美波の死をきっかけにしてまた関係性を取り戻した三人にも、過去から続く因縁が蘇ったかのように付きまとっていき…。
というような話です。
あんまり期待しないで読んだので、割と面白い作品だなと思いました。ただどちらかというとやはり、女性向の作品でしょうね。江國香織8割に桐野夏生を2割くらい足したような、そんなイメージの作品でした。恋愛の部分は江國香織で、40代という女性の『ささやかな老い』みたいなものを描くのは桐野夏生かな、というイメージです。
物語は、四人の視点を交互に移動しながら進んでいきます。また、現在と高校時代とも行き来するような作品です。この大石静という作家がもともと脚本家だということもあるんでしょうけど(小説は本作でデビューです)、非常にドラマ的な構成だなと思いました。
本作を読むと、女ってのは大変だよなぁ、と相変わらず思います。
先に四人の女性の大体の性格なんかを書いてみましょうか。
一番強烈なのは詩文です。詩文は、高校時代も現在もさほど大きく変わりません。常に欲望のままに生きている印象で、自分でも自分のことを淫乱だと言うほどです。同級生の彼氏をゲーム感覚で奪ってみたり、あちこち男性を渡り歩くような人生を歩んだりと、かなり地に足のついていない不安定な女性です。生きる気力があまりなく、母である自分にも妻である自分にも関心がなく、いくつになっても女として生きている、そんな女性です。ドラマでは永作博美が演じていたようです(しかし永作博美の可愛さはヤバいですね。40歳を超えているとは思えません)。
アメリカで事故死する美波は、主に高校時代の描写しかありませんが、至って平凡です。特に人目を惹く容姿でもなく、勉強が特別できるわけでも、運動が特別できるわけでもありません。自分の意見がさほどなく、周りに同調する感じで、大過なく日々を過ごせればいいというような女性です。
満希子は、高校時代と現在とで最も変わった女性でしょう。高校時代は、長身で美貌であり、常に注目される存在でした。教室でもリーダー格であり、常に皆を引っ張ったりまとめあげたりしていて、言い寄ってくる男には特に関心が持てなかったけど、そういうリーダーとしての自分にアイデンティティを感じていたような女性です。
しかし今は、元住職と結婚して実家の墓石店を継いだ専業主婦です。高校時代は、アナウンサーでもモデルでも何でもなれると言われていた満希子があっさり専業主婦になったことに、周囲は驚きました。しかも今となっては、相変わらずキレイではあるけど、服装や見た目に気をつかうこともなく、だらしない生き方をしています。平凡な夫と、平凡な生活を続けていることに嫌気がさすこともあるけれど、それも諦めているような、そんな女性です。
ネリは秀才で、エスカレーター式に大学に上がれる付属高校にいながら、唯一受験をすると言って猛勉強を始めました。しかも狙うのは、東大医学部よりも偏差値が高いとされるK大医学部。ネリは、受験がないせいで行事の多い校風にあって、行事の大半をサボっていたけど、それでも許されているようなところがありました。
現在まで、ほとんど男と付き合うことなく、脳外科医として仕事一筋で生きてきたネリですが、彼女も美波の死をきっかけにして、大きな転機を迎えることになります。
このまったくタイプの違う四人の女性が、高校時代と現在とで様々な係わり合いを持ちながら、自分の将来を考えたり、あるいは自分の人生を見つめ直したりするというような展開です。
一人一人のキャラクターが非常に丁寧に描かれるので、女性が読んだら自分はどれに近いだろうかという風にして読めるだろうなと思います。僕は女ではないけど、生き方としては詩文が一番近いような気がします。別に淫乱ということではなくて(笑)、生きていることに関心がなくて、何物にも縛られたくなくて、年を取っても自由に生きているというところがいいですね。でもそんな詩文も、やはり母親だったかというような部分も出てきて、やっぱりそういうところはちょっと違うなと思ったりします。
個人的にはネリが興味深い女性でした。仕事一筋でほとんど男と関わることもなかったというのは、どうなんでしょう、現実の女医とかキャリアウーマンとかにも結構ありえたりするんでしょうかね?男に関心がなくて、レズというほどでもないという女性は一体何を考えて生きているんだろう、というようなところが興味深かったですね。
一番不可解なのは満希子です。だって、高校時代誰もが憧れる美貌を持っていたわけなんです。というか、年を取った今でも飾り立てていないだけで器はいいわけなんです。それでも何もしない。専業主婦に落ち着いている、というのは別にいいんですけど、何も飾り立てず何もする気がないというのが僕には不可解でしたね。
やっぱり何だかんだ言っても、女性というのは容姿にはこだわるものじゃないですか。女性自身がそうしたいというよりは、無意識の内に社会にそう強要されているみたいな部分が強いのかもしれないけど、それでもやっぱり容姿のいい女性は何かと社会の中で得するし、得するしないに関わらず、女性というのは美しければ美しいほど自らの容姿を磨いていくイメージがあります。
それなのに満希子は何もしないんですね。これがどうしても僕は不思議でよく分からない部分でした。女性だったら共感出来たりするんでしょうかね?どうなんだろうなぁ。
美波は、高校時代のことがメインで描かれるだけだけど、ちょっと美波みたいな女性はイヤですね。ちょっと困る。男の身を滅ぼすような詩文みたいな女性はまだいいと思うけど、男に身を滅ぼされるような女性はちょっと見てられないですね。
ストーリー全体の展開はうまいなと思いましたが、やっぱりドラマのような多視点の構成はあまり小説には向かないような気がしますね。視点がどんどん入れ替わっていくので、僕みたいに小説をうんざりするほど読んでいる人間にはさほど困らないけど、そうではない人には読みにくいかもしれません。何でこんなことを書くかと言うと、最近の若い人達の小説を読む力がかなり衰えているなと感じるからです。とにかく、ストーリーが面白いとかキャラクターがいいとかよりも、読みやすいということが優先されるようです。読みやすいというのはどういうことかというと、漢字が多くなくて改行が多くて、登場人物が多すぎないで、時系列が行ったり来たりしないで、一人称で、というようなことですね。ちょっとそういう風じゃない小説があると、最近の人はもう読めなくなっちゃうらしいんですね。
まあ別にそういう世代に合わせる必要はまだないでしょうけど、段々そうなっていくんだろうなと思うと僕はちょっと怖いなというような気がします。
話を戻すと、僕のように小説をガンガン読んでいる人間でも、やっぱり視点がどんどん入れ替わっていくようなのはあんまり得意ではないですね。これは読みにくいとかではなくて、なんとなく一本通った真っ直ぐの道みたいなのがある方が小説として柱が太いように僕が思っているだけですけど。本作は全体としては悪くないですけど、もう少し章毎で視点を変えるみたいな形できちっと構成されていたらもっとよかったかもしれないなと勝手に思いました。
女性にオススメ出来る作品です。特に、一時期流行った「アラフォー世代」にはいいんじゃないでしょうか。登場人物がみなそれぐらいだし。四つのタイプの女性を読んで、自分はどれに近いのか考えて見てください。
大石静「四つの嘘」