自分でも何を書きたいのか整理できていないけど、この作品で度々現れる「模する」という行為の意味について考えている。作中である人物は、模するのは形ではなく、それが作られた精神や過程を模するのだ、というような表現を使っている。形にこだわるのは未熟だ、と。
そう、形にこだわることで、この物語は複雑になっている、といっていい。僕らが持っている、無意識のうちに当てはめようと思っている形、あるいは型。先入観や前提と言う言葉で表されるそれは、意識しなければ存在すら認識しずらいが、意識しなければその形に合わない世界を見ることはできない。
正常と異常の違いは一体何か。つまりそれは、自分の持っている型に収まるかいなか、でしかない。社会や集団としての型、というのは実際には存在せず、常識と名づけられたその幻想は、個人によって規定されている。
カメラは、ファインダーの四角い範囲でしか空間を切り取ることができないように、一人一人が様々な形のファインダーを持っている。それがその個人における型であり常識であり価値観であり、それに合わないものがその人にとって異常なものである。個人のファインダーの形の比較的重なる部分が社会的なモラルや常識といったもので、その範囲を持たないものは社会から孤立していく。
さて、よくわからなくなったところで、物語の説明を。
ほぼ同時刻に起こったと断定された二つの事件が物語の幕開けだ。M工大の実験室で首を絞められて殺された上倉裕子。現場は密室で鍵は事務室にあるものを除けば二つ。一つは発見者である担当教授。そしてもう一人は、社会人にして院生である寺林高司という男。遺体発見後すぐに連絡を取ろうとするも発見できず、筆頭容疑者として疑われることになる。これが発覚した第一の事件。
那古野市の公会堂で開催されていた模型マニア達による展示会に、犀川や喜多の同級生で、萌絵の親族という大御坊安朋という男が接点で、犀川・喜多・萌絵らがその公会堂にいた。会場となる展示室の一つが朝になっても開かず、その鍵を持っているのがあの寺林であった。警備室から鍵を借り開けてみると、そこには後頭部を殴られ横になっている寺林(幸い死んではいなかった)と、首が切られた女性の遺体があった。
当然、二つの事件の現場の鍵を所持し、一つの現場で朝まで横たわっていた寺林が、両方の事件の容疑者と目され捜査は開始されるが、これという物証もなく、また納得できない部分も多すぎ、寺林は、入院中警察により監視されるが、しかし拘束されるわけではないという微妙な立場であった。
萌絵はいつものように事件の謎を解き明かそうとする。モデラーという模型マニアに接触していくうち、首を切られた被害者の兄である芸術家と知り合う。掴み所のないその青年に例えようもない違和感を感じているところに、彼女宛に彼から手紙が渡される。それを読み、さらに寺林にも届いたという彼からの伝言を知り、病院を抜け出した寺林とともに彼のアトリエへ向かうと、偶然集まった喜多・大御坊・犀川などと共に、彼の最後の芸術を目にすることになる。そう、その日かれは、バスタブで感電死してしまったのだ。火事になった現場からほうほうの体で逃げ出す彼ら。珍しく犀川が自ら事件に思考を割く。誰が何のために殺人を犯したのか…
という感じです。
前作「今はもうない」の中で、「仮説を持たない者は何も見ていない」みたいなセリフがありました。つまり、人が何かを見るときは必ず枠あるいは型が必要だ、ということです。本作では、こんな例が出されました。「りんごを剥いている途中でそれを止め、また別のりんごの皮を剥き始める人」の話です。僕たちはそういう人のことを「異常だ」と、あるいはそこまでいかなくても、「何かおかしい」ぐらいには認識してしまいます。
しかしその判断は、「りんごの皮は食べるために剥く」という僕ら側の枠がまずあって、その枠を通して見るから変に見えるだけなのです。この枠や型の存在に、もちろんなかなか認識するのは難しいけれど、気づかない人が多いと思います。もちろん僕だってその一人ですが。
恐らく普通は、物語の作者というものは、これなら納得いくだろう、ミステリーで言えば、こういう動機で殺人を犯したのならば読者は納得するだろう、という発想で物語を発展させていくのではないかと思います。マンガだけど、名探偵コナンなんかはまさにその好例ですね。
でも、森博嗣は、敢えてそこを外してきます。そこが今までのミステリーと違うような気がします。既存のミステリーならば、例え異常な理由で犯罪を犯したのだとしても、その異常さを納得させるような過去や背景を設定します。しかし、特にこの作品では顕著だけど、森博嗣の作品に出てくる犯罪者の動機にはなかなか納得しがたいです。でも、納得できないからといって未消化になるかというとそうではなく、その点が森博嗣の作品を深くさせているんだろうと思います。
型を追い求め、そうすることで型から脱却しようとしたこの犯人の思想は、なかなか難しいけれど、模型というものの深さを知ることができて面白いです。
森博嗣は、その方面では結構有名な人らしく、同人誌計の編集長をやっていたり、コミケなどでも顔を知られた存在だったようです。模型を買う資金を得るために小説を書き始めた、というのはいくつか語った彼の執筆の動機だけれど、それぐらい模型が好きで、模型に関する書籍も出版しています。
女は子供の頃の遊びを大人になってからはしないけど、男は違う、というような話を金子・洋子・萌絵の三人でしていた場面があって。まあそれはどうでもいいんだけど、確かにそうだな、と思います。きっと森博嗣も、少年の心を持ち続けているのでしょう。よくわかりませんが、そんな感じです。
それではいつものを。
(前略)
これまで、彼が作り上げたどのフィギュアよりも、完璧な美を有する対象。
それが、たまたま、実物大の生きた人間だった、というだけのことである。
(後略)
(前略)その種の単純さは、犀川ぐらいの年齢になると、もう身近からすっかり姿を消していて、引き出しの奥に仕舞いこんだ昔の年賀状みたいに、捨てた覚えはないのに二度と見つからない代物だからである。
(後略)
(前略)
地震学者は、大地震が発生すると喜んで出かけていく。医者は珍しい病気の患者に群がる。核分裂の研究が何に利用されようと、科学者の興奮は冷めない。自分の子供をモルモットにしたのは誰だった?最初にグライダで空を飛んで墜落死したのは誰?
決して他人の不幸を無視するつもりはない。
けれど、勉強して成績を上げることも、スポーツの試合で勝つことも、商売で成功してお金を儲けることも、会社で出世することも、すべて、誰かから搾取した幸せなのだ。どこかで誰かが不幸になっているのである。
(後略)
(前略)
「犠牲にするものが多いほど、デザインは当然、洗練されるんだ。削られるほどにシャープになる。それが、デザインの本来の意味だし、シャープっていう形容の定義だろ?そんなの、自明のことだ」
(後略)
(前略)
「ふ…。どんなお金持ちでも、靴は二つしか履けない」
(後略)
(前略)
自分は一つだろうか、と思った。
自分はどこまでで一つだろう?
生きていれば一つなのか?
生きているうちは、どうにか一つなのか?
(後略)
(前略)
「貴女、相変わらず数字に強いわね」大御坊は笑う。
「ええ、人間みたいに複雑じゃないもの」
(後略)
「(前略)そして次は、感情にも、同じような種別のものが、同じように観察される種別のものが、仕切られて名付けられるようになる。あれは、笑っている、楽しい。起こっている、憎らしい。泣いている、悲しい。でもね…、そもそも、そんな分類がなされる以前から、みんな笑っていたし、泣いていたんだ。これをついつい忘れちゃうんだよ。鳥類も哺乳類も、植物も動物も、生物学で区別される以前から、何の不自由もなく存在していた。それと同じ。(後略)」
(前略)「鳥類と哺乳類の分類から漏れたカモノハシとか、植物と動物の境目にいるミドリムシとか、彼らは、人間の考え出した分類を知らないわけだよ。だから、全然影響がない。カモノハシが、自分の位置するところが中途半端で気持ちが悪いから、もうちょっと鳥っぽくなろうなんて思わないでしょう?でもね、人間は、自分たちが作った分類システムを知っているわけ。そもそも、そのシステムこそが文化とか社会のバックグラウンドなんだから、笑う、怒る、泣くとかいうパターンは、子供が成長する過程で教え込まれるし、本来の複雑さは、成長とともに、必然的にコントロールされて単純化へ向かう。赤ちゃんのときには、泣くと笑うの中間とか、笑うと怒るの中間の感情があったのに、いつの間にか、別々の物に離散化されて個別化される。わかる?大人になるほど、どんどん単純へ向かうんだよ」
(後略)
(前略)
「道徳なんてものが、そもそも単純化の最たるものでしょう?つまり、知識のない子供や頭の悪い大人にルールを教えるための記号なんだから。世の中のものを全部、一応マルかバツに分類した方が、マニュアルとして書きやすいし、馬鹿な教育者でも教えられるからね」
(後略)
(前略)炎が揺らめくのは、気体が酸化し、熱膨張による比重の変化が、期待を流動させているからだ。それはきっと、個人の感情が不変であっても、その人間によって影響される周囲が変動し、外部からは、その個人が揺らいで観察されることに類似しているだろう。
(後略)
(前略)
「危なかったわよう。二階の床が落ちたら、どうするつもりだったの?もう、今にも燃え落ちそうだったじゃない」大御坊が高い声で話す。「萌絵ちゃんまで上がっていっちゃうんだもの、どうしようかと思った」
「あの床は、難燃材だったからね」犀川は溜息とともに煙を吐く。「だから、二階に上がったんだよ」
(後略)
(前略)
「人間の作ったものだけが、模型になるんだ。動物も植物も、模型にはならん」
「何故です?」犀川はすぐに尋ねる。
「そりゃああんた…、自明のことだ」長谷川はまた不機嫌な表情に戻った。「動物とか植物を小さく作っても、それは単なるミニチュアだ。モデルではない。いいかね。模型が模するのは、形ではない。ものを作り出す精神と行為だ。人が生産する意欲と労力を模するのだ。それによって、その原型を作り出した人間の精神を汲み取る。しかしだ、まったく同じ肯定を踏めば、それはレプリカになる。また、多くの精神に触れるには、製作時間をできるだけ縮小しなくてはならん。だから、型を模することになる。型とは、製作システムの象徴だ。単に縮尺して模するのではない。型を模する。それがモデル、すなわち模型だ。(後略)」
(前略)「理屈とは、そもそも二とおりの機能を持っている。一つは、行為自体か選択や判断を正当化するための機能だ。この場合は通常、行為や決断が先にあって、その存在を補強するために、あとから理屈が構築される」
(中略)
「それじゃあ、先生のおっしゃった、理屈のもう一つの機能って、何です?」
「他の理屈を撃退する機能だよ」
(後略)
(前略)
「数字だけが歴史に残る」犀川は言った。「残らないのは、その数字の意味、すなわち、数字と実体の関係」
(後略)
「(前略)けれど、形のコピィに何を見るのか、という点に、その時代と、その人物の技量が影響する。(後略)」
(前略)
「やめてねm譲り合いは」国枝が無表情で言った。「仲直りなんてしない方が得だよ。もう二度と喧嘩しないですむんだからさ」
(後略)
(前略)こうしてみると、人生の後ろ三分の二は、死ぬための準備で生きているようなものだ。
(後略)
森博嗣「数奇にして模型」
数奇にして模型講談社ノベルス
数奇にして模型―NUMERICAL MODELS講談社文庫