僕たちは、五感によって認識された情報を元に、頭の中で現実を再構成している。つまり、手の届く範囲、見える範囲、聞ける範囲、その中に現実は存在しない。常にそれは僕たちの頭の中にひっそりと、それでいて悠然と存在していて、切り離せすことができないし、共有することができない。
つまり、全てが仮想。現実の要素に既にその言葉は組み込まれている。コンピューターで作り上げられていようが、僕たちが生きているという幻想を抱いているこの空間だろうが違いはない。あったとしてもそれは、フランスパンと食パンぐらいの違いしかないだろう。
そう、現実なんていつだって冷たくて笑えない。封印された詩的な幻惑が今はもうなくて、模型のレプリカみたいだ。そしてすべては有限で微小なんだ!意味不明ですね。
萌絵は、友人の洋子と愛と、長崎のテーマパークへ行くことに。そこは、日本最大のソフトメーカー「ナノクラフト」の経営しており、そこの社長の塙理生哉は、両家の親が冗談のように決めた萌絵の婚約者だった。一度も会った事のない彼から招待されたのだ。
中世ヨーロッパを模し、テーマパークにホテル、ペンションなどがあり、川もある。一つの王国のようなテーマパークは、信じがたいことに、萌絵を招待するために作られたのだという。
一般には公開されていない教会で事件は始まる。悲鳴を聞きつけた萌絵ら三人が中に入ると、一人の男性が血まみれで倒れており、一人の女性がうずくまっている。医学部である愛は男の死亡を確認し、一旦外に出て、事件とは別の理由により、それはあの驚愕の天才真賀田四季に関することだが、警察に電話していたので、到着していた警官に話をしている時、再度悲鳴が。中に入ると男の死体は消失していて、彼の腕時計をした腕だけが残っていた…
犀川は、妹の儀同の話を聞いて、真賀田四季が自分と接触しようとしていることを知る。いくつかの条件により彼は萌絵のいる長崎へ、できる限りそれを知られないようにしながら行くことに決める。真賀田四季。その恐るべき天才が犀川を導こうとしている…
事件はその後も続発する。出口の一切ない密室で、つい先ほど姿を現した第一発見者の女性。バスローブから服に着替えると言ってドアを閉めた直後悲鳴が聞こえ、ドアを開けるとバスローブを血まみれにした女性が横たわっている。同行していた警官によって死亡が確認され、その時にはまだ中にいたはずの犯人を探すも発見できない。
さらに、これまでにない特異な条件下で、ありえない世界に身を置きながら萌絵は第三の事件に遭遇する。
あの天才真賀田四季を匿っていると噂されるナノクラフト。全てのシナリオは、彼女によって描かれたのか?ソフトメーカーとして、仮想現実の技術でもトップを行くナノクラフト。どこからが現実で、どこからが仮想現実なのか。あるいは全てがバーチャルなのか…。
という話です。
天才という呼称は、日常的によく耳にするけれども、真賀田四季ほどの天才はやはりいないだろうと思う。普通は能力に対しての敬意である「天才」という呼称は、真賀田四季の場合人格に対して与えられる。その思想、概念。全てを超越し、何にも変えがたい、何とも釣り合わない存在。本当に、できることならば一度会って話したい。自分がいかに無能であるか、それを確認できるだけでも会う価値はある。
まさにシリーズの集大成と言える作品。森博嗣の作品(S$Mシリーズ)は、どれも収束することなく基本的に拡散する。だから、彼の作品に完結という言葉はふさわしくないけれども、でもシリーズを通じての思想が全て盛り込まれていると実感できる。特に後半四作の思想が見事に融合されていて、シリーズを時期をおかずに一気読みしたからこそ気づけたこともいっぱいあったと思う。
「THE PERFECT OUTSIDER」という副題も、シリーズ第一作の「すべてがFになる」の副題「THE PERFECT INSIDER」と呼応していて、もちろん全てわかっているなんて言うつもりはないけど、シリーズを通じてやりたかったことの一部はなんとなくわかったような気がする。
つまり、事件だとか犯人だとか、そういったことはすべて些細なことであり、このシリーズは、INから始まった萌絵・犀川・四季がOUTする物語、と言ってしまってもいいような気がします。もちろん、正確にわかっている自信はありませんが。
とにかく、真賀田四季がいるというだけで存在する緊張感。犀川の思考の志向。萌絵の崩壊と再生。全ての作品がこのためにあった、と言ってもいいぐらいの集大成。あらゆる才能の結集。シリーズを通して、是非ここまでたどり着いてほしいです。
こうやって文章を書いている僕が現実でない可能性だって、ちぎられたパンのどっちが1なのか、というのと同じぐらい不定なのかもしれない…。
それではいつものを。
(前略)
手に取る必要のないもの、見る必要のないものは、すべて意味がない。存在する価値がない。したがって、存在しない。
(後略)
(前略)
「失礼ですが、博士の夢は何でしょうか?」(中略)
「貴方と同じですわ」
(中略)「ある意味では、貴方の夢よりも、ずっと小さなことかもしれません。けれど、私には、ずっと難しいことなのです」
(中略)
「真賀田四季と握手をすることです」彼女は答えた。
「ご自分と、ですか?」
「ええ…、未だに、その夢は叶いません」
(後略)
(前略)
「母は欲望より強しって言うでしょう?」
「言わないね」真面目な顔で犀川は答えた。「空母と空海の誤植ならみたことがあるけど」
「え、なんの話?クーボ?」
「海にいるの、空の母」
(後略)
(前略)
人間だけが本能を乗り越える。本能を封じ込める。本能に逆らえる。それを犀川は「人間性」あるいは「人間的」と呼んでいる。人を愛したり、子供を慈しんだり、群れを成し社会を作ることは人間性ではない。むしろ、我が子を殺す意志こそが人間性だ。あらゆる芸術は、この反逆に端を発しているのである。
(後略)
「(前略)善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、こっらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。だけど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです。」
(後略)
「(前略)計算をして、処理をして、格納して、参照して、消去して、結局は、答えを一つにする。この単純化を伴う統合に、自らの能力を抑制する。ところが、彼らはそれをしない。それが不合理で不自由だと、子供の時から知っているのです。天才は計算をしても答えを出さない。彼らは、計算式そのものを常に持っている。我々は答えしか持たない。これが、凡人と天才の違いです。(後略)」
(前略)
「目的?」ふっと息をついて、四季は顎を僅かに上げる。「それは、言葉?行動の目的を一つに限定して、それを言葉に還元することで、精神の安定が得られるのね?」
「得られます」彼女は答える。
「次元の低い精神をお持ちね」
(後略)
(前略)
「誰が作った常識かしら?恋人がいとおしい。子供が可愛い。命は大切。昔は懐かしい。いったい、誰が決めたの?」
(後略)
(前略)「人を恨むなんて、そんな常識的な感情が、真賀田博士にあるとは思えません」
(後略)
(前略)
「冷酷?」四季はそこでくすくすと笑い出した。
「それは興味深い概念だわ。私の認識では、冷酷とは外部からの観察事象に過ぎません。自己を管理し評価する概念ではありません。貴女が言おうとしているのは、人から冷酷と言われてもかまわない、そんな人間になっても良い、という予防動機の意味ですね?しかし、そもそも、そんな観点から発想すること自体が、冷酷から程遠いと思うわ。違いますか?」
(後略)
(前略)
もしかしたら、理解したという感覚が本質であり、それをバックアップする論理こそ、究極の装飾ではないのか。
(後略)
(前略)無理をしないで生きている人間なんていない。生きていることと、無理をすることは、ほとんど同義なのだから。
(後略)
(前略)「欠けているのは僕らの方ですよ。欠けているからこそ、人間性なんてものを意識して、子供に教えて、やっきになって守ろうとする。愛情とか道徳とか博愛みたいなルールを作って、補おうとしているんです。欠けているのが人間だ、なんて言う人がいますけどね、それも違う。多いもの、大多数のものが正しいというエゴに過ぎません。真賀田博士は、最も人間性の豊かな人です。あれが、本来の人間でしょう」
(後略)
(前略)「全ての問題は、現実と理論のギャップに帰着する」犀川は淡々と言った。「したがって、問題の解決には、通常、二通りのアプローチが存在する。現実を変更するか、あるいは、理論を変更するか、そのいずれかだ」
(後略)
(前略)
完璧だ。
完璧な人間なのだ。
地球上の全ての人間の生命が、彼女一人と釣り合う。
だから、たとえ彼女が誰かの生命を消し去っても、それは、微小だ。客観的に見て、ゼロに近い。
しかしながら、そんな釣り合わない微小な生命を、彼女が消そうとすること自体が不自然である。
(後略)
(前略)
「そう、現実というのは、観察事項から推測された理論の中に存在する」犀川は答える。「白い犬を見たとしても、向こう側は見えない。その瞬間、向こう側は白くないかもしれない。しかし、犬の毛の色が瞬時に変化する機構を有していないとする実測結果と、躰の左右でちょうど色分けされている犬はあまりいない、という過去情報からの統計的推測によって、それを白い犬だと単純化する」
(後略)
(前略)
こうしてみると、人間だって、環境要因だ。つまり、個人にとって、自分以外の人間は、装飾と言える。
(後略)
「(前略)いつもいっているけどね、人間の能力とは、現象を把握すること、そして、それをモデル化することだ。現象と現象の関係を結ぶことだよ。それはつまり、問題を組み立てる、何が問題なのかを明らかにすることだ。それができれば、もう仕事は終わり」
(後略)
(前略)
「僕が考えて僕が動く。君が考えて君が動く。それも、博士の思考の一部なんだ。博士の頭脳は、博士の躰にあるんじゃない。現に、僕らだってコンピュータをつかうことによって、思考作業の一部は既に躰の外に出ているだろう?コンピュータも、他の人間の頭脳も、さらに偉大なる頭脳の、有限かつ微小な細胞に過ぎない」
「それが、真賀田博士の目的なのですか?」
「そうだ」犀川は頷いた。「自分の頭脳を拡大し増強する。それ以外に、生きている目的はないだろうね」
(後略)
(前略)
「まさか…」彼女は口もとを緩ませる。「パートナが必要な人間に見えます?それは、欠陥がある証拠ではありませんか?」
(中略)
「私には、誰も必要ありません」
(後略)
(前略)
「そう、全部、それと同じなの。外へ外へと向かえば、最後は中心に戻ってしまう。だからといって、諦めて、動くことをやめてしまうと、その瞬間に消えてしまうのです。それが生命の定義。本当に、なんて退屈なのでしょう、生きているって」
(後略)
(前略)
「あなたと一緒に歩きたかった。たったそれだけのために、このシステムを作らせたの。馬鹿馬鹿しいと思われたでしょう?」
(後略)
森博嗣「有限と微小のパン」
有限と微小のパン講談社ノベルス
有限と微小のパン―THE PERFECT...講談社文庫