2010年03月05日

すべては一杯のコーヒから

志保はその日から、父親とは口を利かなくなった。その電話のことは、お母さんにはもちろん、父親にも一切話さなかった。それでも、父親は相手の女性から話を聞いていたのだろう、志保が父親と口を利かなくなった理由をなんとなく理解しているみたいだった。父親を嫌いになればなるほど、電話の向こうの女性の思う壺だということは理解出来ていたけれど、そうだとしても、志保の心が父親と喋ることを拒絶した。
 恐らくお母さんも気づいていたのではないかと思える出来事があった。その電話よりも前のことだ。
 その日中学校が学級閉鎖になり午前中で授業が終わった。志保は特に連絡をすることもなく真っ直ぐ家に帰った。母親のいる部屋の前を通り過ぎた時、中からすすり泣く声が聞こえてきた。突然帰ってきた志保に聞かせないようにするためだろう、必死で声を抑えようとしているのが伝わってくるのだけれど、時々嗚咽が漏れ出てきた。志保はこれまで、お母さんが泣いているのを見たことがなかった。聞いてはいけないものを聞いてしまったと思い、すぐに自分の部屋に駆け込んだ。今日お母さんは叔父さんの会社で仕事のはずじゃないか、ということに気づいたのはしばらく経ってからだった。

「失踪シャベル 6-10」

内容に入ろうと思います。
本書は、アメリカのシアトルで周辺で展開していたタリーズというスペシャリティコーヒーショップを、日本に根付かせた人が書いた、自身のこれまでの人生や経営について書いた本です。
まず経歴がなかなか面白い人です。
幼い頃、父親の転勤の都合でセネガルへ、そして一端日本に戻ってきた後、今度はアメリカへ、という生活で、ちゃんと日本で生活するようになったのは大学時代から。高校時代、日本食を友人に受け入れてもらえなかった経験から、日本食文化を世界に広めたい、という起業意識を持つ。就職の際、いろんな経営者に会って経営を学べるからということで銀行を選ぶが、初めに配属されたところが田舎の支店で大した仕事をさせてもらえず、しばらくすると同期と大きな差がついていた。ある時友人の結婚式でアメリカに向かった際、自身が住んでいた頃は一杯100円以下だったコーヒーが300円以上で売られ、しかも店に行列が出来ているのを見て、スペシャリティコーヒーに可能性を見出す。シアトル中のスペシャリティコーヒーショップを回った結果、タリーズという当時さほどメジャーではなかったコーヒーショップに狙いを定め、資金も経営の経験もないところからなんとか経営権を獲得する。経営権を獲得してからも紆余曲折大変だったのだけど…。
というような感じです。
とにかく本書を読んで感じるのは、松田氏の情熱です。情熱があればどんな目標でも叶う、と言い切るほど僕は情熱を信じていない冷めた人間なんだけど、それでも本書を読んでいると、情熱で突き進んでいけば大抵のことはどうにかなるのかもしれないな、と思います。
何せ、大資本がバックにない状態で、大手とは言えないけど既にアメリカでチェーン展開を成功させ、ちょうど日本へ進出しようとしているタリーズと交渉しなくちゃいけないわけで、まさにここは情熱だけで乗り切ったという感じです。
初めはタリーズに電話をして取り次いでもらおうとしたけど、もちろん通してはもらえない。そこで松田氏は、二ヶ月間、毎日タリーズ本社に自身の経営のスタンスや日本でのビジネスのあり方などについてメールを送り続けたらしいです。すると、初めの内はなしのつぶてだったのが、しばらくして副社長から簡単な返信が来るようになったわけです。
それから再度押しに掛かろうと、また面会の約束のために電話をすると、ちょうど社長が日本にいるという。そこで滞在しているホテルを聞き出すとすぐさま向かうという行動力を見せます。
しかもタリーズの社長は、日本進出のために日本へと気ていて、とある大手スーパーと交渉に入っているということでした。そのスーパーの店舗にタリーズの店を作れば一手に増えると考えている社長に、まだ経営の経験すらない松田氏は、「それは間違っている」とタリーズの社長に言うわけです。スペシャリティコーヒーというのは、味は一流だけど、何せ値段は高い。日本では格安のコーヒーが流行っているけれども、それに対抗するにはブランドイメージを確立しなくてはいけない。ハーゲンダッツが日本で成功したのは、東京・青山に第一号店を出してブランドイメージを確立したからだ。タリーズも、銀座などの場所に一号店を出し、ブランドイメージを確立してからでないと日本での成功はありえない。
そういうことを社長に直談判するわけです。たぶん普通に日本で産まれて普通に日本で育った人にはなかなかこういうことはできないでしょうね。やっぱりアメリカで育ったという背景があるからだろうなと思いました。
そうして最終的に松田氏がタリーズと契約出来ることになるんだけど、その際資金がないという状況を訴えたところ、契約金をゼロにしてくれたそうです。タリーズの社長が変わった人物だったということもあるけど、そういう部分も、結局松田氏という人間が買われたのだろうな、という感じがしました。ホントに、とにかく情熱がなければそもそも契約にさえたどりつけなかっただろうと思います。
さて、それからも大変です。まず、一号店を銀座にと考えていたけど、物件が全然出てこない。銀座などの場所は、やはり話が大手に流れてしまって、資本のバックのない松田氏の元にはそもそも話すら来ないという状況らしいです。それでもなんとか銀座に一号店をオープンするけど、認知されていないブランドにはなかなかお客さんが入ってこない。無休で朝から晩まで働き、店内で寝泊まりするような日々が続きます。
銀座店をオープンしてからも、とにかく出来ることは何でもやるという精神で、とにかく動き続けます。
面白いなと思ったのが、客を呼び込むある方法。近くに歌舞伎座があったようで、舞台が上がると店の前を人がたくさん通る。その人たちをなんとか引き入れられないかと考えていた時、ある法則に気づく。それは、あるグループが店に入ると、その近くにいたグループも引き寄せられる、という法則だ。だから松田氏は、舞台が終るちょっと前になると交差点付近にいて、歌舞伎座から出てくる流れの先頭に立つ。そしてタリーズの前で、なんだこんなところにコーヒーショップがあったのかという風情でふらりと店内に入るわけです。すると、その後ろにいた人たちもつられて店内に来てくれることが多くなったということでした。とにかくやれることはなんでもやるという松田氏の精神は素晴らしいなと思いました。
また、タリーズで働く人はやりがいがあるだろうな、という感じがしました。松田氏は、幹部だろうがアルバイトだろうがみんな同じだということで、従業員すべてをフェローという呼び方で統一しています。スタッフは下の名前で呼ぶようにし、とにかくお客さんと積極的に話すようにというスタンスです。スタッフに本当に成長して欲しいという思いで真剣に怒ったりするために、その想いが伝わるのでしょう。初めは人前で喋ったり笑顔を作ったり出来なかったスタッフも、次第に店の有力なスタッフの一人になっていくわけです。会社とはとにかく人だと考えていて、アルバイトでも、タリーズで働くことで何かを得て欲しいと考えている。こういう経営者の元で働くというのは幸せだろうなと思います。
また、松田氏がコーヒーにかける力は素晴らしいものがあります。他のチェーン店では、ボタンを押せば出てくる自動マシンを使っているのに対し、タリーズでは気温やその他の条件などによって設定を変えられる手動マシンを使っているとか、大金を投じてタリーズ本社から焙煎の権利を買い、他のチェーン店が未だに輸入に頼っている中、タリーズはとにかく手間暇を掛けて最高の豆を最高のやり方で焙煎しているようです。また銀座店をオープンさせた時は、メニューに載っているのはあくまでも目安で、お客様の好みをちゃんと言ってくださいという風にお客さんにアナウンスし続けたそうです。ホイップをちょっと多めにとか、コーヒーをちょっと濃いめにとか、そういうお客さんのちょっとした好みも反映出来るようにお客さん自身の意識も変えようとしたというのだから、素晴らしいなと思いました。
経営の話とは関係ないですけど、最後に面白いと思った話を一つ。ある場所に出店する際、保健所からは衛生上の問題があるから屋根をつけなさいと言われた。言われた通りにすると、今度は消防から、スプリンクラーがうまく働かないから屋根を取りなさい、と言われたのでした。消防に、保健所には屋根をつけなさいと言われたのですがというと、それは保健所の論理でしょ、消防としては屋根を取らないと許可は出来ません、と言われたとか。縦割り行政の弊害というのは凄まじいものがあるなと思いました。
まあそんなわけで、本書はかなり良い作品だと思います。ビジネスの話ばかりでもなく、経営者の自慢話ばかりでもなく、読み物として面白い作品に仕上がっています。一番初めの章で、タリーズとの契約の話を持ってきて、次の章から松田氏の生い立ちに触れるという構成も、読者の興味をひきつけるという点で実によかったと思います。また何よりも、青臭いかもしれないけど、やれば出来るというメッセージが強く伝わってくるし、経営者の価値観によって会社というのはこうも変わるのだなという感じもしました。タリーズには行ったことがないんだけど、ちょっと行ってみてもいいなと思ったりもしました。ビジネスに関する本ですけど、ビジネス書というほどでもなく、読み物として結構面白い作品だと思います。是非読んでみてください。

松田公太「すべては一杯のコーヒーから」



 

この記事へのトラックバックURL

http://blogs.dion.ne.jp/white_night/tb.cgi/9240008