それから少しだけ沈黙があった。普段アカネちゃんも入れた三人で話すことが多いし、アカネちゃんと二人ということもよくあったけれど、アカネちゃん抜きでカナちゃんと話すというのは入学当初ぐらいのものだった。カナちゃんと二人で会話をするというのはどうも緊張する。何を話したらいいのか、よく分からなくなってしまう。
「話そうかどうしようか迷ったんだけど」
カナちゃんがそんな風にして切り出す。これから話すことが本題なのだろうなと志保は直感した。
「この前、アカネを探してた日ね」
そこでカナちゃんは、決意を固めるみたいにして少し間を開けた。
「会田君が他の女の子と歩いてるのを見ちゃった」
「え?」
志保は頭の中が真っ白になった。携帯電話を落としそうになって、慌てて右手に力を入れなおした。カナちゃんが言っている会田君と志保の知っている会田君がうまく結びつかなくて、でも頭の芯では、会田君が浮気をしていると言われているのだと理解していた。
「失踪シャベル 20-4」
内容に入ろうと思います。
本書は5編の短編が収録された連作短編集という形の作品ですが、連作短編集として内容を紹介するのがなかなか難しいことと、全体的に長編作品と言った趣があるので、それぞれの短編の紹介はせず、長編作品として内容紹介をしようと思います。
話は、高校の3年2組の同窓会で出たある話。名前だけの芸名<キョウコ>として女優デビューをしたクラスメイトを同窓会に連れてこよう、という話になった。ミーハー的な興味からだ。
美人だけど今はしがない小さな会社で事務の仕事をしている聡美や、映画の配給会社という華やかな世界で働く女性らしさのあまりない紗江子、アパレル業界で働きミーハー的な興味の強い由希らが動き出すも、なかなかうまくいかない。その過程で彼らは、自分の小さな世界が崩壊する音を聞くことになる。
高校時代、響子は女王だった。どんな高校にも行けた学力なのに好きな人と同じ高校を選んだ、という伝説から始まって、自分をまとう華美な衣装をこれでもかと積み上げていった。誰にでも優しくきさくな、という噂とは裏腹に、自分にとって都合のいい人ばかりを選抜し周囲に置いていた。すべては、熱烈に愛した清瀬の関心を惹くためだったのだけど…。
というような話です。
やっぱり辻村深月は、大人を描くより中高生を描く方がいいなぁ、という感じがしました。本書では、高校時代の話と大人になった彼らとがハイブリッドで描かれる話ですけど、大人の世界の視点が入っていることで辻村深月の良さが薄まってしまっているような気がしました。あくまでもこれは僕の個人的な感想ですけど。でも、「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」を読んだ時も思ったけど、やっぱり僕の中で、辻村深月は大人を描くよりも中高生を描く方が圧倒的にうまいな、と思いました。
たぶんそれは、世界の狭さが関係するんじゃないかなと思うんです。大人の世界というのは、様々な方向にベクトルが伸び、成長して感情なんかも調整出来るし、付き合う人間関係も広い。そういう意味で、大人の世界というのはやっぱり広いと思うんです。
でも、中高生の世界っていうのは狭いですよね。学校と家ぐらいしか基本居場所がないし、それなのにその中での価値観や序列の決定事項がシンプルなようでいて実は複雑だというところも面白い。辻村深月はそういう、境界が狭まれているような狭い世界での、濃縮されたような人間関係を描くのが凄くうまいような気がします。
大人の世界を描く場合、中高生時代のような狭い境界みたいなものってなかなかないですよね。基本的にみんなバラバラに生きているし、逃げ道もたくさんある。そういう関係性をリアルに描こうとすると、どうしても辻村深月の良さが希薄してしまうな、という印象があります。気体の分子というのは、空間が狭くなればなるほど激しく動きまわるけど(確か物理法則でそんなのがあったはず。逆に空間が広いとあまり激しくは運動しない)、それと同じように、狭い世界に閉じ込められた人々の、狭い世界にいるからこその激しい運動みたいなものを描かせたら辻村深月ほどうまい作家はなかなかいないんじゃないかなと思っています。
そんなわけで、高校時代の描写とのハイブリッドではあったけど、基本大人の世界を描いているこの作品には、どうもあんまり乗り切れなかったな、という感じがしました。やっぱりどうしても、大人の世界というのは外へ外へと逃げ道がいくらでもあるので(あってもそれを選択できない、という状況が本書でも描かれるのだけど、それでも)、どうしても境界に狭められている環境と比べて拡散してしまう感じがしました。
でもやっぱり、辻村深月の悪意の描く能力みたいなのは凄いなと思いました。本書では、『悪意』という言葉から連想されるような『積極的な悪意』(いじめとかそういうこと)ではなく、『積極的ではない悪意』を描くのが素晴らしいという感じがしました。『積極的な悪意』というのは誰しもが持つわけではないだろうけど、『積極的ではない悪意』、つまりそれを保持している本人さえそれが悪意であるとは気づいていないような、様々な言い訳や虚勢のベールに守られているような、そういう悪意っていうのは結構誰もが抱えているんじゃないかなと思うんです。本書では、そういう『積極的ではない悪意』が全編を通じて描かれていて、凄いなと思いました。嫉妬や妬みから相手の行為を純粋に受け取れないとか、自分はこんな場所にいるべき人間じゃないというような自惚れとか、そういう人間のさもしい部分を切り取らせたら、辻村深月は天才的だなと思います。
まあそんなわけで、個人的には今ひとつ乗り切れない作品ではありましたけど、辻村深月の力量が健在であることを感じさせる作品ではありました。辻村深月の作品を何か読もうと思っている人には、「凍りのくじら」や「スロウハイツの神様」辺りを勧めますが、でも人によってはこういう作品の方が合うのかもなぁとか思ったりします。やっぱり僕は、辻村深月が描く中高生が好きだなぁと思いました。
辻村深月「太陽の坐る場所」