2012年01月25日
皆様方にお願いします
如何なる理由があろうとも一つの家庭の中で家族が事実を話せず、知っていなが知らぬ振りをして暮ら差なくてはならない条件が有ってはいけないのです。それは、私が犯罪を犯していたとしても同じことなのです。社会生活に不都合はなくても不愉快極まります。(トボケを行う方は、正当な理由があれば不愉快でも何でもないのです。習慣化して他事に関しても同じように行う癖がつくのです)短期間又は改善の見込みがあれば我慢もできますが、永久に改善されない可能性があるのです。従って、対策に関して、ゼスチァーによる示唆や想念行為で指示又は要望などを行っていただいても意味はありません。
意味を持たせる必要があれば、言葉や文書で伝言その他の手段で通知していただく必要があります。云うならば、想念上の行為に現実の言行の上書を行っていただくことです。そのような行為があれば信頼関係も築けます。信頼関係があれば想念上の行為も通用します。但し、手段はあくまで手段であり見せかけで逆用することもできます。信頼は失います。如何なる人も私の家内に、無言の内に公安当局の意向を示唆をして了解させようなどとしていただく行為は受け入れられません。、家内は連想力が弱いので、 無理に連想させると、記憶喪失などの症状がでる可能性があります。意向は言葉でハッキリ伝えていただかなくてはなりません。
家内の記憶喪失は、既に経験があります。記憶喪失の事実は知っていますが原因は追及しようがありませんので、上記要望が正当性があるか?どうか?は雅子さんに聞いてください。上記に関して国民の皆様にお願いがあります。家内の実妹である水渓雅子(いずれ住所、電話番号を公開しますが、無碍(ムゲ)なこともできませんので、今は差し控えさせてもらいます)雅子さんが官憲に拘束されているなら、無理なことも言えませんので事実が話してもらえるようご協力をお願いします。官憲以外に拘束できる人はいないはずです。最早トヨタも、幸福の科学もその力はないはずです。さらには、家内の性格が私を護った(谷口建彦の解説しそうなこと)と云うことは認めることはできません。
他の人と結婚していれば展開が違ってくるのです。参考として、豊田英二はGLAの谷口建彦から「言われた通りにヤレ!」言われた可能性もありますが、私はそのようなことは言ってはいません。未だ豊田英二が当事件を仕切っているのですか?それとも未だ彼がオバマ大統領、その他の外国の要人に同じように指示しているのですか?事実なら、谷口建彦がそのような指示を行使する資格が、どこにあるかか?その根拠を追及していただきたいと思います。「言われた通りにヤレ!」の言葉が人から人え連鎖して伝えられることがあってはいけません。衆人環視の中でも人の一人や二人殺せなくては、強権を維持することはできない。と云う思想を強権思想と名付けさせてもらいます。私はとっくの昔にご承知なのです。
2010年10月19日⇔木漏れ日の空間「皆様方にお願いします」より
2011年04月26日
オトボケには徹底的に繰り返すことが必要です
私はテレパシー能力以外の霊能力は「要らない」と自分自身(良心)に言いましたが、霊能力で護ってもらわなくてもよいとは言っていません。贈られるものは断ってはいけないのです。但し、「護ってヤッタ」と恩に着られる恐れのあるものは、お断りする場合があります。断らない場合は、反作用が起きたり、自己責任になります。尚、アイディアは私の発案ではなく、「我を通した神からの霊的的な賜物である」と主張するなら、その人は自分で示せばよいのです。示した人に贈られたとすることもできるのです。(示す権利でも同じ)しかし、霊的には否定もできます。この世の規則で対応するしか仕方がないのです。
過去世に於いて死刑に値する罪を犯し処刑は逃れても、今生で無実であっても処刑される運命を甘受しなければならないのではないのです。今生は、処刑される罪を犯して処刑されるのです。(但し、道理に照らして)心当たりのある人(霊的には被疑者)は、残された人生で減刑してもらえるように反省して、少しでも行いに現わしておかなくてはいけないのです。我がふりを見て人を直せではなく、人のふりをみて我がふり直せなのです。摸範行為と混同してはいけません。何処が違うか?と云えば想いのないようです。前者は自分を盾に批判してやるうか、と云う内容です。後者は自分を見習えと云う内容をもつものです。
私は、本剣(刃物)勝負の場で度胸を試す気持ち」 はないのです。神(神に象徴される霊魂)の存在があれば、本剣勝負は回避されると思います。「いくら頑張っても駄目だぞ!」「靖に告げる。最後に頼みとするのは警察だぞ!君が、警察からそう言われたら仕方ないぞ!」「但し、君のことだ!」結構な創作想念を贈って下さるのは結構ですが、「私は元々信念など持っていない人間なです。云うならば、ぬるま湯に浸かるような人生を望んでんでいたのですが、それも叶わず、挽回しようとの気持ちから、人生の途中で否応なく使命に気付かされた。と云うべきです」私でも霊存在があり、正しい審判が期待できることかわかっていたら、はじめから使命に沿った生き方ができたかもしれません。
2010年09月03日⇔木洩れ日の空間「オトボケには徹底的に繰り返すことが必要です」より
2010年09月28日
遺族に関する負の遺産は棒引きにしなくてはならないだろう
家内が本日(2007-08-07)娘のところに出向いているのです。事件の有無について、娘に尋ねても、ねずみ一匹出ない上に私がカルト側の食い物にされる恐れがあるのです。宗教理念で勝ってもクソの役にも立たないのです。カルト宗教に対する奉仕は、被害がなければよいのですが、奉仕のし損になるのです。どうせ出ないねずみなら、私は無冠の帝王になっていた方がましなのです。
トヨタとしても、出ないねずみに構ってはいられないから、ノウハウの発案は、元のホーロクになる可能性もあるのです。ねずみが出れば、その限りではありません。国がカルト側に勝てると言うなら、そのことを先に家内を通して私に告げて貰えば、事件にはならないと思います。余計なものを通さない方がよいのです。子供と云うものは、親に負ける相手に加担する訳はないのです。
町内会の内川氏でも国が詫びれば家内に報告できるのです。カルト側の人質現象があれば、国がこれまでに、報告できなかったことの言い訳に何の支障もないのです。人質と云っても身体を拘束されているのではないのです。論理で拘束されているだけなのです。論理で勝てない者から、金品を要求すれば犯罪になります。お布施の名目なら、犯罪にならないところに問題があるのです。
注:殺人事件の場合は、被害者には絶対に事情聴取はできないのだから、被害者から事情聴取を取らなければ、捜査してはいけないと云う規則もないと思います。だだの市民が、法務局に負けても勝っても、命に支障が生じるとはどういう訳か?人質の両取り事件は前例がないのだから、(オーム人質とは違う)人質事件の前例は参考にする必要はないのではないのか?
事件でも病気でも次々に新しいタイプのものが生まれるなら、新しい対応をすることが法律に違反するのはおかしいと言わざるをえません。「何に?小渕さんが死んだのは霊力のせいだと!どちらの霊力なのだ! 」「霊力とは意志か?反作用か?どちらの反作用か?」以上について何も確定的な判断などできはしないのです。尚、人名は例えとして登場して貰ったものです。適当な人が居れば誰でもよいのです。
2007年08月08日⇔「子供は親に負ける相手に加担はしない」より
2010年09月24日
自称養母には性格的な異常性はなかった
嫉妬については、深層意識の知識でも理解できるものだった。自称養母にはおかしなところ(異常性)はありませんでした。二人だけの時は全然違感じを受けました。實君を呼び捨てにしても気にする様子はありませんでした。憎しみがあってはそうはいかない。拘るのは自称養父だけだったのです。「オレは解かっているのだ!」多少の嫉妬など、祖母も居たことだし度外視できたのです。嫉妬の情を咎めたりすれば、相手にも言い分云い分があることも知っていました。祖母より辰男さんの方にトバッチリが行っただろう。
私は、気配りは行っていましたが、自分の主張は行っていました。自称養母にとっては気持ちを無視されたように感じられ、きつい人間だと思われたことでしょう。「親(生母)に似ない鬼子」だと云われていたが、自分はそのよなことはないと思っていたので気にもしなかったが「親に似ない」無意識に自分が親でないことを肯定しているのです。それよりも矛盾を飲まされる方が気に入らなかったのです。勿論、矛盾だけではなく、自称養父の他人にホラを吹きたがる性格も気に入りませんでした。「ホラが吹きたいなら自分や實君のホラを吹け!」と言いたい気持だったのです。
参考として・・。加代子さんを凌辱した菅沼三代松さんは、性格的な異常性はありませんでした。しかし悪党のそしりは免れないでしょう。自称養父は悪党ではありませんでしたが、性格に異常性があったのです。法律で処罰する場合は、(客観的に扱う場合は)大変重要なことですので皆様方も心に留めておいていただきたいと思います。学業成績優秀なエリート裁判官では理解のむつかしいことです。一律に測ることはできないと云う意味です。
2007年08月07日⇔「愚か者でも自己防衛の権利がある」より再編集
2010年09月20日
自称養父は人間の気持ちの動きが理解できない人間でした
自称養母の嫉心については、深層意識の知識でも理解できるものだったかんから、特におかしなところはなかったと言えます。二人だけの時は全然違う感じを受けました。實君を呼び捨てにしても気にする様子はなかったのです。憎しみがあってはそうはいかないはずです。拘るのは自称養父だけだったのです。私は多少の嫉妬など、祖母も居たことだし度外視できたのです。嫉妬の情を咎めたりすれば、相手にも言い分がある状況だったのだのです。祖母より辰男さんの方にトバッチリが行っただろう。
私は、自分の主張だけは行っていたので、きつい人間だと思われていたのです。親(生母)に似ない鬼子だと云われていたが、自分はそのよなことはないと思っていたので気にもしませんでした。それよりも矛盾を飲まされる方が気に入らなかったのです。勿論、矛盾だけではなく、私のことに関して、他人にホラを吹きたがる性格も気に入りませんでした。、ホラが吹きたいなら「自分や實君のホラを吹け!」と言いたい気持だったのです。簡潔に結論を言えば自称養父が私のホラを吹くと自称養母の嫉妬か湧く状況だったのです。
2007年08月07日⇔「愚か者でも自己防衛の権利がある」より再編集
2010年02月14日
自称養父の三男である大海勉君へ・・。
以下は、自称養父の三男大海勉君を想定して、想念送信行為を行ったものです。「多分君に話してもらえる人はいなかっただろうから、オレから記すことにする」「オレは幼児時代に、損守を行ってもらった、曾祖母臓せつ臓に實君との間で徹底的な差別意識を持たれて育ったのだ。分かり易く云えば、若君と造相村役の感覚と云うことだったのだ」「曾祖は慶応三年生まれで江戸時代の社会風習が残っている時代に思想を身につけた人だったから当然と言えば当然だったのだ。民主主義だの基本的人権などと云う概念は全く知らない人だったのだ」
「しかしオレは現在の幼稚園年長年齢時には、独力で年長者と遊べるようになり、曾祖母との力関係は、逆転したのだ。勿論、祖母は、曾祖母の姿勢を快し良しとはしていなかったが曾祖母と祖母は実の親損でもあったので、争いにはなら造、老齢になれば娘の意向に従わざるを得なくなったと云う事情もあったのだ。誰にも貸しはあっても借りなどありはしないのだ」「責務と貸しは違うぞ!」「察するところ君は、自分の目や耳で見たこと聞いたことが全てではないことを自覚しないで、オレを批判しているようにも感じられるが、そのような姿勢では、大きな間違いを犯すぞ!」
「事情聴取を受けた場合は、自分の生まれる以前のことや幼児期のことも答えなくてはならなくなるぞ!どの造うな申し開きができるか考えて見なくてはいけないぞ!多分自称養父母から話してもらえなかったと答えるしか仕方がないだろう」「要するに君も自称養父母の責任を認めなくてはならなくなるのだ」「代理謝罪を行う資格は、十分あると云うことなのだ」「この事件を表でヤルか?ウラでヤルか?はオレの決定すことではないけれども、表でヤル場合、オレが、事情聴取を受ければ、先のような申し開きがあると云うことなのだ。」
「万一アメリカがでてきた場合を考えてのことだが
君がオレを兄弟とは思っていないことは、即ち、自称養父の、想い方や姿勢を証明しているだ!解りましたか!もっと言えば上級学校さえ卒業させればそれで自分の責任は果たせると思っていたのだ!勿論、オレもそれで不足はなかったが、問題は自分に不都合が起きれば、責任の転嫁を行う姿勢だったのだ)現に今でも事件さえ解決すれば、養育表などそくっくり返せるのだ!しかも事件の要因は自称養父にあのだ!この事態を何と心得ているのか?
「加代子さんの話は、加代子さんの気持ちを知りたいが為ではなく自称養父母のオレに対する気持の在り方を知る上で大切なことなのだ。話があったなら、オレにとっては、どちらの誰が断ったか?が重要な問題になるのだ!ケースによっては自称養父母を非難できなくなる場合もあるのだからだ!君も何もかも知らないでは、自称養父母の罪は重くなるだけなのだ!未だ、事件は解決してはてないのだ。このような話はオープンにはできないが、閉鎖してしまえば後になってから困るのるのだ!又も国が間違える可能性があるのだ!取締に当たる幹部といえども日本の社会の家族構成も意識も変わってから生まれた人達ばかりで、前時代の状況は知らないのだだから現在の社会状況を基に先入観で判断されれば間違うのは当然であるが、それでは困るのだ!調査く判断など通用しないので何れ調査を受けるぞ!」
「オレは彼女に面会はできなければ、できなくてもよいのだ。しかし、事情は知る権利はあると思っている。どちらからも話してもらえなければ、推測するより仕方なくなるのだ!」「不愉快な疑心暗鬼が生じる事態になれば、推測でも公開してもよいのだぞ!」「推測しかできないような条件があるにも拘らず推測をしてはいけないなどと云うことは、人間の精神活動を阻害するもので、重大な人権侵害になるとオレは、理解しているのだ!解りましたか?」「如何にCIAといえども調査しなくては間違いが起きるのだ」「CIAの調査を受ける可能性もあるのだ」
「何故に、CIAが以上のような事情を調査しなくてはならないのか?と言えば日本政府の怠慢なのだ」「日本政府が、行政指導で解決するには、国が君に代理謝罪を指導する道しかないと思うがどうか?靖(生母の父親違いの長男)も報告に来るように行政指導できるかも知れないがオレは知らない。オレは、道徳的立場での意見しか表明できないのだ。強制などできないのだ」「誰でも同じだが、行政指導を受けて従造わなければ、業務妨害になるのではないのか?」「今度は自分の罪ができてしまうから気を付けてもらいたい」「自称養父は悪人と云う分けではないが、彼が関連したところにはアチコチに誤解が生じているのだ」
「おじいさんも、加代子さんの件でオレに遺言があったならわざわざ、おふくろさんに託さなくても、自称養父に託せばよかったのだ!君は、おじいさんが、何故そうしなかったか解るか?おじいさんは、オレに関する人間関係を託すなら自称養父より、おふくろさんの方が、確かであると踏んでいたに違いないのだ」「人情の綾が理解できないようでは、いくら、学業成績が優秀でもアカンと云う見本なのだ」
「いくら自称養父が、不信感や誤解の種をばら撒いたたからと云って国の責任は逃れられないのだ!何故なら、人権擁護委員会に調査依頼を行っているからだ!」「要するに国が代理謝罪をするように行政指導すべき問題に進展したと云うことなのだ!」「オレには、君を代理謝罪に指名できる根拠があるのだ!別件で遺族を代表した行為があったではない?」「靖には代理謝罪ではなくて、おじいさん又は、おふくろさんの遺言があれば、報告する道徳的な責務があると云うことなのだ!」
尚、敬称については、勉君は私を兄弟とは思っていなかったアカの他人だと思っているなら、責任もアカの他人として果たしていただかなくてはならないのです。霊的な立場から言えばそのようになるのです。様子がありましたのでつけることにし、靖は兄弟だと思っていた様子ですので省かせてもらいました。但し、自分の方に非があれば兄弟でも、敬称はつけなくてはいけないのです。「君も自称養父の性癖はよく知ってると思うが、何故あのようになったかは知らないだろう。その原因は曾祖父に甘やかされて育ったからだ!祖母は一人娘で、祖父は婿養子でだったからはじめての男の子と云うことで、甘やかされて育てられたと云うことだ!」
「オレのことを自分が育てた様な言い方で、面識のある人や新たに面識のできた人には必ず言いふらすのです。旧時代の思想では自分の家で育てたと云うことだと思っていたのかも知れないが、それにしてもおかしいのだ」何故なら、彼は親らしいことはおろか、年長親族としてもオレに恩着せがましく言えることは、行ってはいないのだ!親(オレから言えば祖父母)の残した資産を管理して、学費その他のオレに必要経費をだしていたことが、即ち親に相当する行いだと思い込んでいただけなのだ!」
「その証拠には、片方では、祖父母がオレを甘やかして育てたからいけないと、社会に言いふらしていた形跡もあるのだ!」「要するに都合のよいことは、自分のせいで都合の悪いことは人のせいに無意識の内に
行っていると云うことなのだ!それが、自然に行える性格と云うことなのだ!」勉君に伝えることは、以上ですが、念のため・・。尚、国に事件解決の意志が無ければ、清水靖が国の意向には関係なく勝手に報告(遺書がければないと)にくるべきで、で国民の皆さまに靖がこれるように支援いただくことになります。(私が証拠を持たないケーバイースを説明するには限度があるのです。岡崎高校の同級生に説明してもらう方が適切なのです)
以下は、国の管理責任当局への伝言とさせてもらいます。自称養父は思想にめり込む傾向がありましたから、自称養父にはカルト宗教への入会は勧めてはおりません。又、自称養母については、勿論、結縁はありませんが、女の性から脱し切れていないと云うだけで、特に癖のある人ではありませんでした。亭主の姿勢に大きく影響されてはいたが、特別な人ではなく普通の人間でありました。したがって個人的な非難はいたしていません。但し、自称養父の吹き込みで間違った考え方はありました。責任も当然生じるものと心得ます。谷口にお礼は述べるべきたとは通告しましたが、トヨタにお礼を述べるべきだとは言ってはいません。念のため。
2007年12月28日⇔木漏れ日の空間「返答に窮したら警察に言って来いと言えば造いのだ」より
2010年01月12日
十分に国民がこの事実を知るようになってから行動する
大海勉君に伝えたいことがあります。「現在オレの亡父の位牌を預かってもらいるお寺は、曹洞宗であり、(亡父の位牌は、日蓮宗)娘さんは、純子の小、中、高校時代の同級生である。祖父母の祭ってあるお寺も曹洞宗であり、君の居住近くにある、昭子の実家の天恩寺も曹洞宗である。宗派会合などもあると考えられるので、先ずは天恩寺に事実の全容を話していただきたいと思います」
行動をおこすなら、十分に国民がこの事実を知ることになってから行動を開始した方がよいのです。「急がなくてもよい。君が来ても、とりあえずウラ情報は聞くが、直ちに行動を開始する予定はいのだ!」ウイルスの添付されたままきてもらっては困るのです。(ここでのウイルスとは、事件解決に障害になっている人や事態を指すのであって、特定の人を指すのではありません)
全ては私の関知し得ない、ウラのできこごとなのです。私の公開したものに関する当否の論議に皆さんは参加できても私は参加できないのです。理由は、提供してもらった情報を元に議論することは無意味なのです。先ずは、私の公開したものが事実か?どうか?を知らせていただく必要があるのです。この真実を全知全能の人が、知っていたならこのような事態には進展しなかった筈です。
2007年12月16日⇔木漏れ日の空間「十分に国民がこの事実を知るようになってから行動する」より
2009年12月31日
霊的な縁は切れるか?
私は、霊存在は実在するとする立場ですので、その立場で以下には記します。宗教団体や霊能者と言われる人達を遍歴したことに付いて述べます。世間一般には遍歴行為はよくないと思われている様子です。その根拠として、宗教団体なら固有の思想に基づく念の作用により、懺悔などを含めて良心の呵責が、排除されると考えます。そして、新たに、その思想に基づく、念に拘束されるものと考えます。したがって遍歴は、思想と思想の対立が生じるものと考えられます。
個人の霊能者は組織としての教えはありませんが、アドバイスなどは、その人の固有の思想に基づくもので、多くの人達と繋がっているものと考えられます。
即ち、アドバイスを受けた人達が互いに縁が生じたと解釈できます。確かに縁と云うものは、切ると反作用が生じると思います。しかし、反作用が生じると云うことは、自覚、無自覚を問わず、良心の呵責の現われと受け止めてよいかと思います。自分自身で、清算してしまえば、サッパリとした気持ちになります。
霊能者を渡り歩いことも宗教団体を渡り歩いたことも、フリーな心になってしまえばも、反作用は生じないものと考えます。但し、自覚なき良心の呵責は、完全に清算できるものではありませんので、縁を切ると一時的には反作用が起きることは、仕方がないとも思っております。但し、この世には、不測の事態などと云う、神の領域に属することもありますので、そのことについては、関知するものではありませんが、バチが当たったなどと考えない方が良いのです。
注:清算手段の中には、謝罪や懺悔の他に戒律と云って、自分自身で戒めとするものもあります。奉仕活動などがあります。(宗教団体などの義務的な戒律は、戒律ではなくて規律)
2007年12月14日⇔ 「霊的な縁は切れるか?」より
2009年11月03日
親族に出した手紙の内容について
13
私は親族である、山口家に決定的な絶縁になる以前に、宛名は誰であるか忘れましたが手紙で、山口英一はGLAの谷口にお礼を述べるべきだとは、記しましたがトヨタにお礼を述べるべきだとは記していません。トヨタにお礼を述べたような気配を感じますが、それは間違いだとも云っておりません。しかし、その行為は筋道が違いますので、ウラで勝手に行われても、私としては、GLAはおろかトヨタにも苦情はおろか、話し合いの手がかりさえも造れないことになってしまったのです。相手の立場が見えていないのです。
唯、親族は、お礼を行ったなら行ったで、自分から報告する義務があるのです。お礼を述べてはいけないと云うことではないのです。そのようなことが云える訳もありません。報告を行わない以上私の立場はなくなり、正常な状態で親族の誰とも、会話さえできなくなったのです。面会を避けなくてはならない状況が出来上がったのです。コトがトヨタの総帥に関することですので、うかつなことも言えません。その理由や言い訳、英一の間違いを指摘することもできなくなったのです。こ他の理由をつけて避けるより仕方がなくなるのです。絶縁状を出した分けでもありません。 2005年05月10日⇔初回掲載 (2007-11-16)⇔2回目
2009年07月17日
私は家内を引き止めているのではありません
町内会の内川氏は、ウラ事情の存在の事実を家内に知らせなくてはならないと当初は考えたと思います。しかし、話せる雰囲気創りからからはじめて、先ずは、村瀬さんや鬼頭さんなどを通して、家内に事件に関する渡りをつけ、次におっとり刀で自分が、事件の内容を話そうと云う構想であったとしたら、駄目になって当然です。短刀直入りに自分から話していただくべきです。家内が氏の意図を知ってるならそれでも良いのですが、そのような能力はないのです。知らないのだから、近隣人とのトラブルを持ち出されるのか?と警戒するのは人情なのです。ラブルを起こした人達との和解工作の下準備のように想い込むことができるのです。
多勢に無勢では警戒も行わなくてはならなくなるのです。氏に対して不信感を抱くとも考えられるのです。尚、氏に上記意図であったとしても、私からは、そのような意図について、カ家内には一切説明はできないのです。又、内川氏の意図が有ったとして、他の目的や意図を含みとして、私が、故意に家内を引き止めているものでも有りませんのでご了解下さい。いずれにしても、時と場合や事柄を考えて、誤解の生じないように行っていただきたいと思います。内川氏にウラ事実をは話す意図と用意がが有るなら、家内にたいして挨拶代わりの要領で「山本さん! ご主人のホームページで述べているウラ事情は本当にあるんだよ」と一言先に言ってもらって、詳細は、「次の機会で・・」できないことはないのです。
以上については意図がなければ別です。私は、余計な誤解を生まないようにしていただくたるに記さなくてはならないのです。この件については、あるから改めて話すことはないのです。話すことのできる場合は、問い質す場合にしかできないのです。話す必要があれば、ソチラから切り出してもらわなくてはいけないのです。国家の一大事であっても上記は変わらないのです。尚、氏の置かれた立場、性格から当然とも言えますが、大変権威に弱いところが観えますので、氏の姿勢は、権威の意向と判断してもさしつかえないと考えます。(以上について不平があればご指摘ください)
2007年10月14日⇔木漏れ日の空間「私は家内を引き止めているのではありません」より
2009年07月09日
ウラ事情が共に話せないこと自体が脅威なのです。
当ページに記す事件に関して、トヨタが法律的に解決できなく、国も行政解決ができなければ、家族が自分の知る全を私に話し、それに基ずいてインターネットでの公開を行ったとしても、何ら咎められるものではないと考えられます。当方がよほどの間違いを犯さない限り、公開は実行できるものと考えますので、外部からの危害は排除できるものと考えます。但し、幸福の科学は退会しなくてはならないのです。(2008年05月家族を残して単独で退会)家族は上記の考え方が理解できないので、私に反感を抱き責めようとします。
省みれば、幸福の科学などにひっついていたから、人権擁護委員会が身を入れて調査をしなかったのではないのか?と私は思うのです。(私はマインドコントロールに嵌る人間ではないから、大丈夫⇔事情聴取に対しても理解が得られると思っていましたが独善的な考えであった)要するに、家族とウラ事情を共に話すことができないこと自体が脅威なのです。当然ながら私は嫌われものになるのです。嫌いになったら出て行けと云うことになるのです。幸福の科学では案内のFAXを受けるだけでも効果がるとの言い分がありますので、単独で辞めれば、私が家族から一方的に責められるのです。
又、ウラ事情に関しても辞めた者には言わなくてもよいと云う言い分も立つのです。教義に従えば、和合僧破壊の罪により、死ぬと云うことや阿鼻叫喚の堕地獄に堕ちると云うこともあり得ないことです。しかし、源は幸福の科学の人権侵害にあると認識しており、批判は正当防衛と心得ておりまます。勧誘しておいて、不都合が生じれば自主退会をしなくてはいけないなど、独善と云う他ないのです。私は娘の純子に勧められて入会したのではありません。杉山義信君に勧誘されて入会したのです。
又家内は辞めたければ辞めればよいのだよと云いました。洞察力の浅い彼女にとってはウラ事情が有ろうが無かろうが関係ないのです。ウラ事情の存在など意味がないと思っているのです。私は怒鳴るより仕方がなくなるのです。勿論、家内はウラ事情には関ってはいません。関っているのは(関らされた)のは未成年者時代から子供達なのです。(理由があり一定期間なら仕方がない)理由も無く長年にわたり親を騙し続けることを容認する宗教 2007年10月10日⇔ 木漏れ日の空間「ウラ事情が共に話せないこと自体が脅威なのです」より
2009年05月21日
親族に出した手紙の内容
良識的に捉えれば、GLAの幹部であった谷口健彦が、私をことを豊田英二に紹介してもらったこことは、谷口健彦に一応のお礼を述べなくてはならないことでもあります。証拠はなく推測で述べることになりますが、紹介してもらったと云っても、私自身ではなく、私の言動や過去世にまつわる宗教理念に関するものであったとしたら、風評を紹介してもらったことになります。谷口は、私自身を紹介したのか?風評をしょうかいしたのか?自分では確かめる手段を排除されたのです。悪い言葉で表現すれば噂を(厳密には噂とは違いますが)紹介したとなれば、結果に悪しきものか生じれば、無作為の犯罪と云うことであり。悪しき結果は公として咎められなくてはならないものなのです。
しかし、風評を紹介されたのではなく、私自身が紹介されたならは、いずれはトヨタが関わってくることが予想できましたので、ウラで勝手に関わられたこととは言え、放置することもできず、私の養父と称していた、山口英一(2002年死亡)は、常日頃から親としての責務を果たすべきだと考えておりましたので、決定的な絶縁になる以前のことですが、谷口健彦にお礼を述べるよう、實君(1993年死亡)宛に故人は「谷口健彦にお礼を述べてもらいたい」との文面を郵送しております。賢いようでも愚かな故人は早とちりして、無責任にも豊田英二氏にお礼を言った気配を後日私は感じることになったのです。他人事などと思っていたから早ととちりなどが起きるのです。
さらには、故人が、谷口健彦ではなく、豊田英二氏にお礼を述べた気配を感じたことは、彼が英二氏と面会できた機会があったことが推測できるのです。又、私がお礼の要請を示唆した相手が、当人ではなく彼の子息であったことは、故人は、面子を捨てれば谷口に面会できる条件と理由が、既に存在していたと私は睨んでいたのです。彼は、私にはひた隠しにしていたが、實君は十分知っていたから思っていたからです。但し、事実は知りません。英二氏とは偶然のであったなら、お礼は言葉は仕方なかったとも言えますが、筋道としては、お礼は谷口に言うべきだったのですから、重複しても言うべきことだったのです。
結果として言えることは、上記に示す自称養父のまちがいが、人権侵害に発展する第一歩となったのです。豊田英二にお礼を言ったとしても、必ずしも、それは間違いだと言い切れないのですから、私としては手を招いて、成り行きに合わせた言行をするより仕方なくなってしまったのです。私自身は、成り行きがおかしくなっても誰を咎めることもできなくなってしまったのです。豊田英二氏は現在生存しているのか?どうか?知りませんが、事件に進展させた経過については責任がありますので、本来の仕事からは引退したとは云え、最低限自分の不始末iについては解決する姿勢がなくてはいけないのです。引退したと言っても事件からは引退できないのです。
2005年05月10日⇔木漏れ日の空間「親族に出した手紙の内容」より
2009年05月17日
面識の無かった人とは会う必要はない
当ページに記す事件に関連して・・、私は過去に面識の無かった人、文書の交換の無かった人とは、済んでしまったことに付いて、正常な話し合いはできないと考えられますので、如何なる理由があろうと、自主的な面会行う気持ちはありません。済んでいないなら済ませてもらいたいと思います。これは一種の信に関する問題ですので、面会する、しないは、私の意思次第と云うことになります。相手側の立場から「オレを信じろ」と云うなら、そのウラ付けがあるかどうか?自らの良心に聞いてみることだと思います。「オレを信じろ」では何時まで経っても駄目なのです。信とは相手を信じることなのです。
良心に問うてやましいことがなくても、相手が信じなければ、(当事件では、相手から見る相手とは私と言える⇔相手からすれば、私もオレを信じろと言っているもように見えるのです)いさぎよく去るしか仕方がないのです。後はどちらが正しいか? 神のみが知ると云うことになるのです。相手即ち、私に害を及ぼしておきながら、善後策に関しては、オレを信じろ!などと云う。良識の無いいい加減な構想を私が受け入れられる分けはないのです。改心できたと云うことは、自ら責任が取れなければ、いさぎよく離れることなのなのです。尚、ここで云う相手とは、複数を指しますが、主に、谷口健彦を対象としたものです。
事件に発展すれば、責任は国が追及すべきことなのです。何とか穴埋めをして責任逃れを行おうなどと、考えるからおかしなことになるのです。この世的に具体的な損害を与えてしまっては、宗教的な手段では責任は取れないのです。「信じて、オレの意向に従えば好い結果が出る」などの主張があるとするなら、それは貪りなのです。「もし好い結果が出なかったらどうしてくれるのだ!」と云う言い分が生じることを無視した考え方なのです。罪を犯した者は潔く法の裁きを受けることが、信を失った者が、信を回復できる唯一の手段なのです。 信とはそう云うものなのです。
信を回復するには、「オレを信じろ!」ではなく相手が「オレを信じるか?どうか?」なのです。勿論この世は方便の世界でもあるから、オレを信じてくれなどと云っても意味がないと、主張するものではありませんが、最後の最後は「オレを信じるか?どうか?」になります。どちらにしても、ウラで弊害の回復を行うとの名目で、独善的な措置を取っていただく必要はないのです。離れて貰うことなのです。憑依霊と同じようなことをヤッテもらっては困るのです。(現在⇔07-09-24は、そのような行為は行ってはいないと推測するが、確証はない)私の宗教理念が意に添わなければ、彼らは、このホームページも見なければいいのです。
彼らの意に添わなくても、生じた不都合な事実は解決するまでは、記事は下ろす分けにはいかないが、しかし、事態を改善するとの名目で、セツッカレなければ、新たに余計なものを呼び込むことはなくなるのです。カルトには、離れてもらっても一向に困りはしないのです。霊的な考え方を取り入れれば、自他は本来一体であると説きますので、信についても自他は一体なり、とする立場から説明することが要求されます。その点では、上記説明は誤りとも云えます。しかし、それは正しい宗教観に立ってはじめて言えることであって、カルト宗教のような独善的な宗教観に立って、言えることではないのです。
過ちを犯して他に被害をもたしたなら、この世の掟に従って処罰を受けなければならないのです。そのような者が、正しい宗教観に立って自らを弁明するなどの言い分は、言行の矛盾と言わざるを得ません。以上は、トヨタが、独自に単独で自身の責任に関しては、一定の責任を取るとの考え方であれば、それは個人の自由ですから、私が口出しすべきことではないのです。トヨタに、便乗して、この世的な責任が、取れるはずのないカルト宗教が、個人的な面会を求めてきた場合は、国の指導、要望に従うしかありませんが、国の介入がなければ、面会はしなないと云うことであり、その根拠として記したものですのでご了承下さい。
2007年09月24日⇔木漏れ日の空間より
2009年04月28日
超常現象について・・。
先のページで記しました、咥えていたタバコに火が着いたことは、超能力ではなく、単なる超常現象なのですが、私にとって霊的な意味があるとすれば、GLA、中野富敏の、くだらない、姿勢を正すための決断が、霊的存在により、肯定されたとも受け取れたのです。(他人からすれば単なる超常現象)その観点からすれば、当事件は私の方から仕掛けたとも言えるのです。火がついたと云う現象と、私の決断と、どちらかが先であったか?と言えば、間一発、私の決断の方が先でした。そのことは、意を強くしたとは事実です。
但し、事件が法廷闘争等に発展するような場合、この事実を、霊的に肯定された行為であるなどとは、仮に、第三者が見ていて証言が成り立つものであっても、(実際は見ている人はいませんでした)主張できないものです。立場を逆にして、GLAのみならず、霊を信奉する人が、上記に類する現象を根拠として、この世的な事柄ついても法廷、(法廷で通用しないことを常識とすれば、社会の秩序が維持できなくなります)その他で通用すると、勝手に思い込んだ言動をすれば、間違いが起きるのは当然です。
超常現象の意味などを、出来事や事態の根拠として認めれば、現象を起こした霊的存在が、仮に神とするなら、仕掛けた私が間違っているなら、誤解を生じさせる行為があったとして、神に責任転嫁ができることになるのです。又、逆に自らを、生き神様を戴いているとする団体が、それは、当団体の神様が行ったことであるとの正当化もできることになります。以上は異端な見解ですが、良い結果が出た場合は主張できるのです。そのような事柄に類似した言行は実際にあったのです。俗に云う我田引水の考え方が成立するのです。
上記に関しても、悪い結果かが出た場合は、神の責任とは言えませんので自己責任になるのです。しかし、自己責任はどちらの自己責任か?が、置き去りにされたまま、事態を進展させれば、当事者にとっては他人のせいにもできるのです。分かり易く言えば私は、中野富敏の責任になるように努力し、中野富敏は私の責任になるよう努力することができるのです。タバコに火がついたと云う超常現象は、あくまでも、当事者がどのように捉えるか?の問題なのです。超常現象は、客観的に意味づけることは不可能ではあります。自分の言行に正当性があれば、勝手な意味付けも何ら咎められるものでもいのです。
当事件は、上記にし示すように、GLA、中野富敏のくだらない姿勢を正すための、私の行為に端を発したものとも言えるのです。一般からすれば、余計なことをしなくて、サッサとGLAを退会してしまえばよかったのではないか?と云う意見もあろうかと思います。しかし、私は、再三にわたる、畑田氏からの活動への参加を誘われたのであり、参加してみれば、互いに間違いを起こさないように、注意し合わなくてはいけないとの教えだったのです。一概に否定する要因もなかったのです。説に忠実に行った結果がこのあり様です。言うことと行うことに矛盾がある結果なのです。



