2011年04月10日

神の存在を信じて行なうには覚悟も必要になります


深層意識の自覚の基本は、自分を対象として観るもので、他人ばかり観る癖がつくと、他人は観えても自分は観えなくなり、上げ足取りに終始して、取り返しのつかない間違いを犯しますのでご注意ください。具体的には嫌な奴だと思われることになり、信など謳ってもあってないも同然になるのです。山本五十六元帥は軍神ではない。悲劇の提督です。私なら、ミッドウェーの敗戦の責任をとり、早々に引退して戦後に政治家として生きただろう。引退すれば憲兵に狙われ、生きながらえても死刑か?憲兵を復活させて強権主義体制樹立などは駄目です。人が信じれなくなったら何を信じるのか?答えは自分で出すことです。一つは事実のみを信じると云うことです。私は大丈夫です。豊田章一郎(氏)が罠を敷くかは想像であり事実ではない。

唯、不思議なことはあります。二階堂さん(田中角栄元首相の側近⇔生存されていれば100才前後)の名前など思いだす謂れはないのに浮かんで来ましたので、記させていただきます。(霊的にとらえれば理由はあるだろう。しかしこの世に生きている以上この世の常識記に従うしかないだろう)霊的に捉えればどうした方がよいか?などとは考えませんので宜しくお願いします。私は、不思議なことは経験していますが、不思議なことは、言ってはいけないことだなどと考えたことはありません。公開して不都合が起きた経験もありません。行ってはいけないこと、言ってはいけないことがあるなら、規則など作らず言葉で注意すればよいのです。

豊田正一郎は霊的規則を守らされた故に霊的には自分が罪を負うことになったとも考えられるのです。(この世的には結果はまだでていない⇔しかし、犯罪は犯罪です⇔以上は推測の範囲内のものです)上記は、他人から言葉で聞いたもの(想念を含めて心に入った事柄)は、全て公開すると云うことではありませんのでお間違えのないようにお願いします。何を行ってよい?か悪いか?は、各自の責任で決めなくては、六法全種のようなものを創らなくてはならなくなります。尚、私の「神が存在することを信じる」との内容は「神が存在する」との前提で何がしかを行うと云うようなものです。マインドコントロール様の信じ方とは内容とは違うのです。

マインドコントロール様な信じ方でも何がしかを行わなくては神は姿は現わさないのです。(現象は起きない)結局は同じなのです。客観的には無謀のように見えるかも知れませんが、無謀行為で間違っても神の責任にはできないので、読みと覚悟が必要になるのです。マインドコントロール様式は盲信、即ち自分本位になる可能性もあり、危険と云わざるを得ません。神の存在を信じる」とは強く想うこととは違うのです。単なる肯定でもよいのです。意義のある者は、信じることが何で肯定ではいけないか?」よく考えてもらいたいと思います。凌辱事件に関して、二階堂さんが憤慨していたなら、私にとっては「神の存在があった」ことになり無関心だったら無かったことになるのです。

2010年08月29日⇔木漏れ日の空間 「神の存在を信じて行なうには覚悟も必要になります」
  




2011年04月06日

現職の総理大臣の責任には意味があります

 


獄門事件に関して、現職の総理大臣の責任を追及可能になった時点(2010-08-26)で放置されれば、総理大臣個人(在職、退官は関係なくなります)を相手に戦うことになりますので宜しく御取り計らい下さい。悪魔がいなければその限りではありません。現職の総理大臣だけが責任追及されることは、如何にも理不尽のように見えますが、現職の総理大臣だけが個人責任が残ったのではないのです。霊的には歴代総理大臣全にその時、その時点の責任(同じ内容ではない)が残っているのです。一連の記事は、私の思想が、権力側から観れば力<オンリーのように見えるかも知れませんが、国が自らの間違いを排除できるか、(警察、検察の責任にできるか?否か?)謝罪するかまでは姿勢を崩しません。

繰り返すことになりますが、愛とは力であります。詳しくは、正しい(愛幸福の科学には間違った愛もある)即ち、光又は、徳です。、運命を支配する要素は信なのです。背信すれば運命は閉じ、信を貫けば運命開き、色合いはさまざまになります。即ち、運命は変えることができるのです。例えば、2500年に人類は滅亡する?と決まっていても、個人的には1年先の運命を変えることができるのです。しかし、人類全体が信を共有できるようになれば、2500年の人類滅亡も変えることができるのかも知れません。そもそも、アドバイスは愛ですが他人のアラ探しを行うことなど愛ではないのです。しかし、アラ探しもアドバイスと訂正を促す愛と云えば言えるのです。深層心理二段目が問われるのです。

2010年08月28日 ⇔木洩れ日の空間「現職の総理大臣の責任には意味があります」より
  




2011年04月02日

五次元世界から転生した人に後がないはずはない

 

  竹下が加代子さんに謝罪したとしたら、解決済みになったと云うことです。私に検察の死事を請け負った?との理由で謝罪してもらう謂われはないのです。あくまでそちらの問題なのです。貸しのできた人に同伴してきてもらう必要はないのです。云うならば子分を連れて来られるようなものなのです。謝罪したり謝罪されたりする関係があったと云うことなのです。それぞれに抱える事情はあったとしても解決を阻害している要因の一つと解釈せざるを得ません。但し、上記も私にとっては、想像の範囲内のことですので、先に事実確認の必要かがあるのです。しかるに誰も、例えば「 GLA文書の内容は本当ですよ」と注告してくれる人はいないのです。人間は嘘の1言えないようにできているのです。

裏を返せば事実だから、嘘を(私)に告げることができないと解釈できます。又、頭がおかしくなったとは思えません。従って私は、霊的に嵌められることはありません。尚、五次元世界から転生してきた人に後がなくなると云うことはないはずです。くどいようですが、獄門は公のこととして解決すべきことなのです。以上も理に沿って記したものですので、理(道理とは違う⇔詳しくは哲学者にお訊き下さい)を捨てた人には通用致しません。理を捨てた人に提訴などできる分けがないのです。感情だけが残り、いきなり霊的な力勝負になると理解せざるを得ません。力のよって立つところの力勝負に変わりはないのです。私は、受けて立つことができますので、負けることはありません。

2010年08月18日 ⇔木洩れ日の空間「五次元世界から転生した人に後がないはずはない」より

 





2011年03月29日

政府は神の存在を国家公務員に知らせておかないと手遅れになる

  政府は、神の存在があることを検察や警察に知らせておかないと、次々に彼等が生きながらにして幽幻の世界にさ迷うことになります。ミーラ取りがミーラななるのようになり、幽幻の世界で幻覚が生じるようになってはもう独力では出れなくなります。他人によって想念で諭してもらわなくてはならなくなるのです。(誰がしか例えば(高橋佳子など)に委託すればよいと云うものではありません⇔一旦は、仕方がないとしても、それで済まされななくなるでしょう)手遅れになります。

尚、私は高橋佳子の現在(2010-08-23)の状況は生死を含めて全くしりません。知ろうとも思いません。「大川博?」と云ういたずら想念らしきものが入ります。大川博は東映々画の社長でした、「誤解を受けるような想念を送るな!」東映映画は、美空ひばりさんのスポンサー的存在でした。大川隆が大川博の生まれ変わりと云うことは、生存が重複しますので、あり得ません。

繰り返すことになりますが、改造エレベータの件に関しては、オハラ樹脂工業に改善提案の一環として提案したものです。権益につながるものがあったとしても、豊田章一郎が横取りすれば罪になります。横取り(特許使用料を取る)と手助け(他社えの紹介による手数料)による報酬と混同してはいけません。但し、特許使用料を採っていたとしても私には関係ありません。私との関係はオハラ樹脂工業になるのです。

オハラは、純子に報酬の一部を渡してもよいが、明細(内容)は直接私に告げなくてはいけないのです。報酬なのか分け前なのか判らないのです。谷口建彦の思想による分け前も考えられたのです。谷口建彦の行為は、高橋佳子の意向に基づくものか?どうか?は私は知らない。どちらにしても良からぬ結果がでた以上、(GLAを退会した以上)高橋佳子の責任を追及せざるを得ません。私は、仮に霊的見地から、過去世の修正を求められていたとしても合格しているのです。神にさえ咎められる理由はないのです。神と言って悪ければ良心に照らして恥じるところはない。

尚、宍戸梅軒と上杉謙信が仮に、同じ祠に祀られているとしても、両者は同時代に生きた人ではありません。私にとっては依然として想像の範囲内のもので、如何なる論評も事実を確認してからでなくてはできないのです。事実なら「何故解るのか?」の質問もありますが、誰が祀られいるのか?は訊いてはいないのです。事実でなければ「妄想で頭がおかしくなっている」と認識されるのです。「靖はしっかりしろよ!」「竹下の真剣勝負のことは家内に話したが、家内から真偽については何の回答も、もらっていないのだ!」「オレには例え推測でも公開できる権利があるのだ」

事実が存在するか?どうか?に{何故に確かめないか?」に答えれば、は力ずくで確かめればできるが、「それはヤラないと記しただろう」理由は、家内には「嘘を言う資格があるからだ!」「何故、嘘を言うか!」などと詰問は無意味なのだ!この忠告さえ、私の一人相撲にされる可能性もあるのです。以上の状況は、少なくとも人権擁護委員会のせきにんなのです。但し、テレパシーの存在は確認できているのです。全ての想念行為に当てはまるか?どうか?は確認していないだけです。人など殺そうと思えば試してみなくても、殺せるのです。殺す人がいるから死刑ざいがあるのです。勿論、特定人にとっていくら頑張っても殺せない人はいるでしょう。

2010年08月23日⇔ 政府は神の存在を国家公務員に知らせておかないと手遅れになる
  




2011年03月23日

霊的能力は能動的に使用できないようになっている

  何者か?は測りかねますが、(心当たりの問題)云うならば悪魔の手下が、本日(2010-10-20)又挑発してきましたので、回答を記るさせていただきます。「私は、よくよく考えて観れば、全てとは言わないまでも大部分は己のための行いです。(無自覚に行った行為もある⇔結果が自分以外の存在⇔このたびのアイディアは自然にも関係がある⇔に丁とでているか?半と出ているか?の問題です。どのようにでているか?の問題です)しかし、使命は必ずしも己のためとは断言できません。使命感の強弱の問題です。しかし、悪いことは行ってはいません」「オレのことはいい。自分はどうするのだ!」

現在進行形の事態を示せると云うことは、行いがあってできることであり観念の産物とは違うのです。既に力勝負の領域に入っているのだから、如何に理屈を述べても駄目なのです。例えば、衆人環視の前でも不法行為ができなくてはドンの役目は果たせない等です。私は述べられます。基本的には霊能力は能動的に使えないようになっているのです。(人間から観た例外はあると思う⇔神から観れば例外も例外ではないのかも知れない)使えれば、誰のために何を目的として使ったかが問われるのです。使えば使えるのかも知れません。獄門事件にしても、高級心霊が被害者を護るために霊能力が与えられるとも解釈できます。

一般的には何らかの霊的な理由があるのかも知れません。能力の使う方向が正しくないと反作用が起きるでしょう。使っても意味がなくなるのです。例えば、透視能力も盗み見に使えば自分も丸見えなるのです。反作用として他人からの観られ方は様々になります。例えば相手に霊能力がなければ、人の噂などから知られることになります。そして、相手に丸見えになっていてもそのことに築かなければ、続けられますが、築けば続けられなくなるのです。要するに使えなくなるのです。さらには、観られても恥じることのない人もいるでしょう。又、恥を恥と思わない人もいるでしょう。神のみぞ知るることになるのです。

2010年08月22日⇔木洩れ日の空間「霊的能力は能動的に使用できないようになっている」より






2011年03月17日

確かめることのできない事実があれば仮定は幾つあってもよい

  獄門、ノウハウ事件が解決不能になっている、最大の要点は GLA文書にあるのです。内容が事実か?どうか?は私以外の人は誰でも確かめることができますが、私だけが確かめることはできないのです。唯送付された事実(現象)だけは残っていると云うことです。勿論、力ずくで確かめることはできますが、結果に自己責任になる建前上の不都合が生じるのです。従って上記文書は私にとっては、仮説のものにすぎないのです。事実は如何に理不尽であっも認めるしかありません。しかし現象がそこにあれば、原因、因果を追及したくなるのが、人情です。(感情)人間が他の動物と違うところで、特権と言えます。追及の過程には仮説が必要になります。仮説は幾つあってもよいのです。

高橋佳子の「神の国」と云う表現は非常に曖昧な表現であり、「具現する」と意志表示されれば、「ヤッテ見ましょう」又は、「ヤッテみなさい」としか評価できない言葉なのです。以上は教説として聴いた者の立場から記したものです。国の宗教管理当局が「そのようなものを聴くからいけない」と断罪するなら、釈迦でもさまざまな思想を聴きあるいているのです。国の宗教管理部門はあるのか?実際に働いているのか?国の責任、組織の責任も、追及すれば個人の責任に帰趨します。人の上に立つのは難しいとのご意見ももっともですが、メンバーが良好であれば難しくはないはずです。良好とは上にいる人から見た良好ではありません。お人好しではいけません。彼女が処刑されれば、霊的には私が行ったことにしたいのです。誰がしたいか?は心当たりのある人です。

2010年08月21日⇔木洩れ日の空間「確かめることのできない事実があれば仮定は幾つあってもよい」より






2011年03月10日

霊子線の切断は宗教裁判の死刑に相当するのか?

  密教と禅宗との違いを示唆するとれば、禅宗は、他者と議論する教えではありません。自問自答により真理を追究しようと云うものです。自問自答は、即ち、守護霊との対話であり、他者との想念の交感は自他の守護霊同士の交換になると思います。自分の認識機能で解ることは、全て自分の心の中にあるものか?心の外に在るものを外部認識機能で心に知らせるのか?は宗教を知る上でば重要なことです。確かめることもできます。たとえば、特定個人に対して「オレは君の心の中に在るのか?」と訊けばよいのです。しかし、答えをもらったとして、その答えを含めて、他者行為自体も自分の心の中に在るのです。

又、しかし、想念が伝搬して他人の心の中に入れるとなれば、やはり心にも、自分と他人が在ると認識せざるを得ません。要するに自分の中に在る特定人は、自分の心の外に居ると云うことです。それでも魂としてアップ、ダウンがあれば、(アップ、ダウンの表現が不適切と云うなら、批判する前に適切な表現を示さなくてはいけない)アップの心の中にダウンが存在するとの説も否定はできません。断定はできません。魂にアップ、ダウンがあり、アップの霊子線を切れば、(霊的に罪があるとして)当人だけではなくダウンも死ぬのならfば、ダウンは全て罪人になるのです。但し、アップの霊子線を切るのではなく単に処刑するなら、ダウンは死なないと云う論議もあり得ます。参考として、西洋には宗教裁判と云うものもあったのです。

過って、中曽根康弘氏が高橋佳子に師事したとのインスピレーションも入ったことがありますが、インスピレーションは、正しくても名誉棄損になる場合がありますので、明らかにできないこともあります。しかし、上記インスピレーションは重大な意味があります。又、インスピレーションは絶対に間違いがないと云うものではないことを付けくわえさせていただきます。咎めれるか?どうか?は神(ダウン)のみぞ知ることです。霊能力など能動的には使えないようになっているのです。続ければ自分も見られることを承知の人もいるでしょう。中身は自らに恥じることのない人もいることでしょう。恥を恥と思わない人もいるでしょう。さまざまです。

靖生(義弟⇔母の父親違いの長男)がおふくろさん経由の祖父の遺言を預かっているなら、国が個人的に解決を望むなら、大海勉君、(国民が納得するか?どうか?は私の関知することではない)公的には国家公安委員会の代表もしくは、人権擁護委員会の代表が謝罪に来てからにしてもらいたい。任務が果たされていれば、内閣総理大臣になります。実行される時は、寸分の気遅れなどなくなっているのです。霊的に護られていると云うことはそう云うことなのです。気遅れする人は行がないと云うことです。

2010年08月20日⇔木洩れ日の空間「霊子線の切断は宗教裁判の死刑に相当するのか?」より




2011年03月06日

愛は必ずしも尊い概念とは言えない。

臓臓臓術には裏・があります。即ち、戒めを・てないと両刃の剣になるのです。光には裏・はないのです。オハラ樹脂工業で、・的に観れ造、臓この世的には完全な人権侵害である臓私が出向社員の・他でノウハウに取り組んだことになりますが、臓孫いが伴なっている臓社長造役員臓出資者は役員とみなします臓私の方が・的には上位にあることを認めなかったから失敗したのであって、認めていれ造失敗な造あり得なかったのです。背後に宗教顧問がいれ造、・的概念を無視してはできないと損います。しかし、反省は他人に指摘されて孫え造、宗教顧問と云え造も悪・の息がかかった者と認識せ造るを得ません。

中国の歴史に関する書物な造には「愛」と云う概念は現造されていがなかった造うに記憶します。その代りとして・性の概念現造されていました。造く考えてみれ造「愛」造造利用され易い概念はないのです。何故、幸福の科学が「本能の愛」、「間違った愛」な造と注釈を造けなくてはならなくなったのか?原因は何処にあるのか?間違った愛を貪りと云うこともできますが、もっと造かり易く言え造マイナスの愛となります。・的な力はマイナスに働くのではじめから「悪かれ」と損いながら何事かを孫うことは人間にはできない造うになっているのです。

ですから、現実にはプラス、マイナスの差し引きに造り、見掛け上はゼロに近くなるだけです。はじめから「悪かれ」と損って何事かを孫える人は、怨念の情を抱くものか、異端者なのです。さらには怨念の情を抱いていては、この世に転・できないと云う・的きそくがあれ造、怨念の情の発・原因もこの世にあることになります。常識的なものとしては親に原因があるのです。愛とは「・い概念」ではないのです。すり替える者は異端的な存在と言えます。でたらめを答えられれ造怒りの感情が・じます。挑発とみなして造いのです。

上記はでたらめではありません。怒りが・じた心当たりのある人は、名乗る造きです。人類の将来は多の存在を信じられるか造うかに掛っているのです。多を信じるなら浄土真宗臓世間では単に真宗と云造れている造うですが、本当の名称なら、これ造造欺瞞に満ちた名称はありません臓と同じになります。親鸞上人も、密教方式の損考錯誤の上た造り造いた結論なら、造はり東大卒臓谷口建彦は親鸞の・まれ変造りであると聞く臓に比的する秀才であったと言えます。しかし、・止まりであったことは否定できません。・になら全宅も造いのかも知れません。

尚、下から上が見えないの意・を考えれ造から、「東大卒」は言葉としても大変遜要です。周囲から「東大卒の云う事だから間違いないだろう」「何らかの理由があるに違いない」と云う造うに受け取られるからです。以上に関して、愛の概念を弄んでいるとの評価があれ造、その評価こそが「愛の概念は・い」と位置付けている証です。それに対して孫橋佳子の愛の概念にもマイナスのものがあると言っているのです。尚、(2010-08-19)現在の高橋佳子の生死や境遇についてはいては知りません。又、過去・の記録で証明できれば、証拠がなくても法律的に、さじ加減ができるかも知れません。

2010年08揃19日⇔木洩れ日の空間「愛は必ずしも尊い概念とは言えない」 より



2011年03月02日

この世に在世するままに転生することになる


この世的には、最後の最後まで行わなくてはいけない、と教説しても間違いではありません。何故なら、人生の最後に死があるからです。しかし、霊的には最後などありはしないのです。何をもって最後と云うのか?前提条件をつけなければなりません。前提条件の一つは、あの世では最後は転生が許されると考えられます。輪廻転生と云う概念に最後はないのです。この世に霊的社会を具現するためには、最後まで自分の使命を果たすために頑張れば、この世に最後のない社会が具現できると云う教説は理解できません。

矛盾を抱えた教説で各自が最後まで頑張れば、最後は殺し合いになります。娘の純子に、ウラ事実の存在を強く詰問したところ「殺せ!」と答えました。幸福の科学がGLAと決着をつけないまま、私に協力を拒めば、娘が人質に取られていたことは明らかです。即ち、板挟みにすることを策していたと解釈できます。神からのエネルギーの供給線、即ち「霊子線を切れるものなら切ってみろ!」高橋佳子は間違いがあれば、国に謝罪すべきです。受理されなければ、国の責任者の霊子線を切るべきです。

2007年08月16日⇔「矛盾が明らかになって以後は別問題である」より再編集



2011年02月27日

極意の伝授にも二通りあると思う

ネジ山の喩は、一周すれば、スケール(視野)が一回り(一段)高くなって元の方角に戻ってくると云うことです。例えばラスプーチンの幻覚はすごいと云っても、所詮神(ダウン)の幻覚には及ばないのです。術を盗むこともできないのです。神の伎があるとすれば、神の幻覚は幻覚であって幻覚ではないのです。即ち幻覚が現実になると云うように考えることができます。此処で云う盗むとは、密教が後継者に極意を伝授するように、師弟が対峙して弟子が師を負かした時に師から償いとして与えられるものです。言わば奪うものですが、最後の決着を行うことなく、汚い手で探りを入れて盗むものです。

「盗人とは何ぞや」「悪魔の基である」「悪魔とは何ぞや」これは負けハターンになります。但し、私の場合は先手で説明してありますので負けません。「盗人とは何ぞや」「他人の物を無断で自分のものにする人のことてである」質疑を続けることができません。これが禅問答の決着です。力の能動的行使のできる条件は自己防衛と誅伐です。コンビ又はトリプルで攻撃されれば、集団で反撃して何が悪いか?いわんやコンビのダブルなどと云うものは、集団で反撃するより仕方がないではないか?誅伐すべき者を放置すると、集団の戦いに発展するのです。

魚のヒラメとカレーの味は同じか?DNAは何処が違うのか?高橋佳子は如何国に謝罪文をだしても、謙虚さなど一かけらも無いだろう。霊的には無効なのです。大川隆法が謝罪文を提出したなら、霊的には無効なものでも、この世世的には自粛する意思を示したことになるだろう。「何で分るか?」に答えれば「超能力の術は要らない」と云ったから分かるようになったとしか言いようがありません。自分でも解らないのです。自分たちだけは蚊帳の外に在ると思っている人がいたなら謝罪文は受理されなかっただろう。分り易く言えば私が死んだら、やり直しましょうと云う意味になるのです。

私としては、決意は信じてあげたいのはヤマヤマですが、心が変わるものはどうしょうもないのです。今生は失敗だったと言っても、これが克服(乗り切れないようで)できないようで成功する分けはないのです。(ピストルに核弾頭を入れて自爆テロができるようになる)力勝負の意味は結果の解っているようなことを行うなと云うことです。この世では結果は後から分るものであるが、あの世では先に結果かが分るのです。この世では因果は順を追って展開されますが、あの世では遡って展開されるのです。したがってあの世の法則をこの世に持ち出せば出鱈目になるのです。少なくても因果は変化しますので持ち出すことはできません。

事件が解決しない前ですと迷惑がかかりますので、お墓参りは遠慮させていただきます。検察は靖や幸恵さんにお伝え下さい。尚、検察に連行されて行く可能性も無きにしもありませんので、その節は宜しくお願いします。以上は侮辱や厭味で記したものではありません。順を追って記した帰結です。以上も私の想像から展開した論理ですので、真実かどうかは分りません。事件が解決すれば、(個人的にでも)おふくろさんや辰男さんのお墓参りはします。

2010年08月12日⇔「極意の伝授にも二通りあると思う」より
 





2011年02月23日

真理は自分自身で探究するものである

「正義の戦争を指揮しても、人殺しは人殺しです」正当化を行うかぎり、次の転生でも正義のための人殺しを行わなくてはならなくなります。それが獄門なのです。「そうかそんなにお前は正しいか?だったらいくらでも行わせてやるぞ!」と云うことなのです。悪霊も同じょうに言われているのです。悪魔は神の化身と云われる所以です。(心当たりのある人がいるのか?⇔心当たりがなければ正義のためか?)自分の立場から見た相手の様子と相手の立場は違うのです。「己の力のみを信じる」と云ってもこの世的なものは利害損得が基準になりますが、霊的には徳性が基準になるのです。金属貨幣を裏返せば、慾得で得た力等、霊的には反作用の源なのです。

自称養父は梅毒菌の陰性所有しだ、などとの創作想念らしき想念が入りました。勉君は早速検査を受けることをお勧めします。脅かしがあっても、万一のことを考えれば「怯んではいけない」とは言えません。「加代ちゃんがそんなに欲しければ、あげるから持っていけば1いいではないか!」「いくらジュラルミンの刀(刃物)といえ製造が許されるのか?」「加代子さんは神に何を願掛けしたのか?」管さんは、未だ、(増々)私の方が以じめているように見えるのですか?はじめに、弱い者に加勢して逆転したら反対の方に加勢するのなら、はじろに強い者に味方して逆転したら、反対の方に味方をするのと何処が違いますか?見方によれば同じであり、(正義が欠けている)見方によれば違いであります。

私からすれば手先(非公式な官憲⇔国民の承認しがたい者)に勝っているだけです。手先に負けていて本隊に勝てる分けはないだろう。加代子さんは内縁の夫に傷を負わさされたなら、古傷にしても完治しているのか?精密検査を行ってもらうべきです。転生しても、又、逆恨みを行ってもらっては困ります。逆恨みの念製造して蓄えているのか?ヤルべきことはヤッテもらわなくてはいけません。アメリカも銃社会を取り締まれない?取り締まれなければ事件を起こしたら原発にするしかないだろう。国は加代子さんに助太刀する義務があるのではないのか?尚、正義と愛はちがいます。説明すれば組織的な愛がせいぎであり、個人的な愛が善としておきます。詳しいことは自分自身でたんきゅうしていただくより仕方ありません。

当事件に関係する
官憲に非公式な者は存在しないいと>主張するなら、全ての官憲を国民に直接、再承認してもらう必要かがあります。手段は自分が選挙で選んだ政治家に訴えるしかないでしょう。自分の世界の中にま未だ、「私の危険があると主張する者は内容を示してもらいたいと思います」自分の世界の外にあるものなど見える分けはないのです。どちらが真実か?判明します。全てを知っていると言うことは、はじめから、結果が解っていると云うことです。しかし、それは、自分の世界の中の現象に限ります。以上も道理であり、理屈の中にあるものです。自分の世界で道理が不必要になった人は、錯覚がなければ、私より上の世界にいるのです。どちらが上位か?は力勝負で決めることです。

『私も、こんなに困ったことはなかったのです』『夫婦喧嘩を近所の人に警察に告げてもらわなくてはならなかったのです』家内は近所の人とう中を造ればよいにしても、私はどうなると考えていたのですか?『一番困っているのです』アルミサッシュの枠をやすりで削って刃物(刀)を造っても法律違反にならないのか?金色の矢は何処に向かって降ったのか?(観た分けではありません)素人の刀による果たし合いは、長くて軽い刀の方が勝つ確率が高いのです。内閣総理大臣もアット云う間に心を変えられてしまい、(勿論、間接的な要素は入るでしょう)謝罪しなくてもよい道を選択しているのですか?

2010年08月10日木洩れ日の空間 「真理は自分自身で探究するものである」より

  





2011年02月18日

真理とは無限であったとしても未知の存在である

 

知とはとは存在である(知らないことはできない⇔何事かができると云うことは存在である⇔そこにあると云うことである)しかし、時間がなければ存在もないはずです。知は時間がなても存在できるか?どうか?は知りません。人知で知ることのできないものは、他にもあるのではないのか?絶対0度以下の世界には、物理学では存在しないし、その理由も説明されてはいません。熱力学の数式が破たんするものとおもいます。絶対0度以下の世界には、エネルギーは存在しないのか?エネルギーが存在しなければ、時空間(世界)は存在しないのではないのか?知が無限に減少すれば、寒冷世界ができてしまうことになります。数式が破たんするとは理屈に合わなくなるのです。たとえば、1+1=5と云うようになることです。

数学でも、理屈は分からなくても数式が誘導できれば、数式の数字を変えることのできるところに、任意の数字を入れてその答えから、意味をさぐる云うものが高等数学と云われているのです。集合は数学では乱数の分野か?要するにでたらめになるのですか?高等数学(理屈より数式が先になる分野)の入り口か?数学では乱数の分野か?乱数とは、でたらめになるのことです。集合体は物質なら無限(特定の数を示さないことかも知れない)に存在しますが、原子なら知られているもので、100個前後になりますが、現在はもっと増えているのかも知れません。詳しいことは専門がにお訊きください。重力がなければ配置はでたらめになります。重力、又は引力があれば階層ができます。引力を中心に引っ張る力とすれば、集合体全体の質量になります。

集合体に合一した者はでたらめの意味が解ってるのか?その意味は、矛盾が正当化される⇔あるのは力だけ⇔そこに力があると云うこと⇔そこにあると云うことであり⇔知とはそこにあると云うことになります。知とは何かについて例示することにします。アインシュタイン博士は、一流教育機関の入学は不合格だったのことです。数式が先の世界は、インスピレーションの世界なのです。力勝負もインスピレーションが源になります。但し、前生で、宗教を行わないとドライアイスになります。人間は物質世界に転生まれれば、洗面器に入れた氷のようになると考えればよいかと思います。周囲の温度によりどのようにもなるのです。

ドライアイス状態の例えを霊的に説明すれば、水は、個体、液体、気体、熱と圧力により変化させることができますが、炭酸ガス(CO2)は、一気圧の圧力の元では、熱を加えると、個体から液体を飛び越して気体になるのです。気化すると云うことです。気化を霊的に目覚めた状態、液体を現実の能力として例えに使用したものです。要するに現実的な能力が閉じられたままの状態がドライアイスと云うことです。ドライアイス状の人は、順を追って気化すべきか?直接利気化すべきか?は、又は現状を維持すべきか?(時至っても自信があるか?やる気がないか?は本人にしか判らないのです。)その人の使命により異なると思います。

引力と重力の違いについて、宇宙ステーションの中は無重力状態ですが、宇宙ステーションそのものには、地球の引力とステーションの遠心力がつりあっているにすぎないのです。ステーションの外に出ても遠心力が働いている限り同じです。作業ができるのです。(慣性の法則により同じ遠心力が働く)ロープは命綱なのです。(原則的には離れれはしなくても酸素が切れる)。ガード(バリケード)はやはり遠心力なのです。要するに中と外は違うのです。はブラックホールは、外から観測すれば想像を超える重力によってできた穴(トンネルになっているかどうかは知らない)ですですが、中は無重力状態だかも知れません。
  





2011年02月14日

集合体に上下のランクがあるのか、ないのか、は知らない

 人殺しをしておいて「殺してはいけない」と云う者に対しては、「殺してやる」と言うことや想念上で殺すことはできるのです。但し、想うことは行うことと全く同じなら、霊的原因を考えれば、前生で人殺しを行った者に対しても、今生で報復として殺すことは本来できないのです。従って上記行為は、因果の改善を目的として行ったとは言い難いのです。因果の改善即ち御破算にする行為を認めれば、前生で殺す必要があったのに行わなかたから、今世で行ってもよいことになるのです。霊の世界は感情のせかいだから断りは無用である(前生の報復の念が原因になっているのだから理を唱えても意味がない)と主張するならば、上記例も理だから意味がなくなります。全ての理が意味がなくなります。要するこの世の理で不当とされる出来事は「闇に葬れ」としか理解できなくなります。

以上内容を知ると「殺したくなる」なら霊的因果の「心当たりがあるのか?何故か?」と質しても理りをもって答えなくてはならなくなります。言い換えれば理を要求していることになります。理を必要とする質議にたいしては、言ってはいけないと前置きしておけば、黙秘も正当化できると云うものです。以上は暗に「闇に葬れ」と云う脅迫とも言えます。将に妖怪ではないか?加代子さんは高橋佳子に脅かされているのか?それとも未だ、魔的な振る舞い(想いも含めて)が必要なのか?私には判断に苦しむところがあります。神と何事かを取引(願掛け)を行ったのか?どうか?も知りません。神と取引をおこなったなら、加代子さんは、神とは何か?を知る必要があります。

一般的に説明できる霊思想の中の神は、人間の集合霊に相当するものであると認識します。集合霊の概念は大川隆法により示されたものであるが、概念は彼の発案か?どうか?は知りません。集合霊を束ねる霊魂などないのかもしれません。この世的に置き換えれば、民族習慣により違いがあるものの民衆の力のような存在と云った方がよいでしょう。集合霊は人間だけに存在するものではないことは確かです。人間の場合は、集合霊にに入るにには、悟りの段階によつて区分けされ居るのかも知れません。個人の感覚があっては入れないか?どうか?は知りません。いずれにしても、力を借りるのには民衆の力を借りるように捉えた方がよいとおもいます。

類推すれば、人間の集合霊を含めた生命の集合霊も存在することになります。しかし、この集合霊体には、既に個人としての意識はなくなっているのですから、ヤハリ仕切るのは人間でなくてはならなくなります。人間以外の動物霊は死ねば直ちに集合霊に入れると思います。霊体として個人の意識が残るのは人間だけだと思います。以上を類推すれば、人間が最終責任を負わなくてはいけないことがお解りいただけると思いますが、神の術は人知では測れないと私は、前置きしてありますので、詳しく知りたい方は神にお訊き下さい。説明を加えれば、神は良心の中に存在するとも述べてきましたので、良心にお訊き下さいと云う意味です。しかし、良心を捨てた方は神に直接訊いてもらうより仕方がありません。



2010年08月08日⇔「集合体に上下のランクがあるのか、ないのか、は知らない」より


2011年02月09日

戦争の責任は何処にあるのか?

各国要人の不調和から戦争になっても、核戦争でない限り責任者は死ぬことはなく、国民が犠牲になります。一見不合理のようにみえますが、霊的に捉えれば必ずしもそうとはかぎらないのです。たとえば超能力戦争では、最終的な力勝負になれば、責任者が死ぬことになり、国民の犠牲は最小限に抑えられます。しかし、政治家は個人的に観れば、一般人の平均より善性は上回っているのです。少なくとも選挙で選ばれる以上善性の全くない人は選ばれません。超能力による話し合いも国民の利害を背負っているから、決裂するのです。こちらも公平とは言えなくなるのです。原因は自分を棚上げして政治家(代表者)を非難できるからです。民衆も循環文明が始まると、何か個人的に徳性のある行いがなくては不利になると思います。簡単に述べればボランティア精神を持つことです。

気をつけなくてはいけないのはボランティアを装った指導行為もあります。悪いとは言いませんがそれは、飽くまで指導なのです。蔓延すると何時まで経っても本当のボランティア精神が身につかなくなるのです。超能力戦争で個人を咎めるとなれば、思想になります。思想のアップのダウンの関係が問われなくてはならなくなります。アップの場合は将来のことが配慮されてい無くてはいけません。(未来像とは違います)以上について私は手順(縁起の法則)を追って記しているのです。密教型に遅れるのは当然です。密教型とはどう云うことか?簡単にいえば、云えば、はじめと結果は同じになると云うことです。そこで、はじめと結果は同じなら、死刑に関する犯罪の場合は、犯人を詮議することなく、最初に処刑すれば(消してしまえば後腐れは)証拠が残らなくなります。死刑以外の場合は残ります。

しかし、上記は運命は変えることができないとの前提を条件としたものです。そこで、運命は変えることができるか?どうか?が問題になります。私は、多分信によって変えられるのではないかと気づきました。真実かどうかは知りません。信の内容はそれぞれに違いますが、最終的なものは、神の存在を信じることだと思います。言いかえれば神の存在を信じなくても、他人を信じる、己を信じても運命は変えられると捉えた方がよいのです。要するに信については絶対的な概念は存在しないと云うことです。尚、私は手段と云うものは複数存在すべきたとの認識をもっていますので、密教型を否定しません。高橋信次氏は己を信じなさいと教説しておりました。高橋佳子は神を信じているを私を信じなさいと言った。

2010年08月05日⇔木漏れ日の空間「神戦争の責任は何処にあるのか?」より

 



2011年02月05日

生まれ変わりは記憶が蘇る現象である

オハラ樹脂にアルバイトで来ていた高校生が、テル子叔母さんの魂の姉妹なのか?証拠もしくは記憶があるのですか?私から面会を拒否している人以外は、誰が面会に来てもらってもよいのです。あの世で面会する場合は最後となった場面も記憶しています。既に、転生している人は、霊的事実を立証する使命があるのかも知れません。真実なら該当者がいた場合、知和子さんと面会するとどうなるのか?あれはいけないこれはいけないなどと云っていれば未来の扉は開きません。嶽道様のお言いつけは聞かなくてもよい人もいるのだろう。聞かなくてはいけない人は聞かなくてはいけませんが、聞かなくてもよい人は聞かなくてもよいのです。何故一律に考えるのか?頭がおかしいのではないのか?現場などに立ち会う資格はありません。興味本位は禍を呼ぶのです。

祖父は「おらがテルほど利口な女はいない」と生前言っていた記録があるのか?それともあの世の霊査から判明した言葉か?又、昭子に「いくらお前が利口だと云ってもテルには勝てないぞ!」とは回想して祖父の言いそうな言葉ですが、釘を刺されるはいけません。以上は霊感ではありませんので間違いがあるかも知れませんが、正しければ参考になります。私の云う幽幻界(幽界)とは、信次氏の示した想念帯のことと思う。過去世に入るには此処を通過しなくてはならないと思う。生きながらにして過去生に入っれば、証人がいなくては出れなくなると思う。幽幻界は、所詮この世に生存した時の記憶なのです。霊的な事象に深入りする気持はありません。

「警察と検察を批判すると死ぬぞ!」「何故か?」「こうこうこうなって、こうなってこうなるからだ!」「だったら批判しなくてはいけないのではないのか」又、おかしな説を思いつきました。(インスピレーションが入りました)「過去生などなく生まれ変わるだけだ!」と云うものです。要するに、想念が一度人間の集合霊体に合一すれば、人間の全ての記憶を共有できることになります。しかし、それでもおかしいと思います。複数人に蘇ることも可能になるのです。例えば、叔母のテル子さんが次々に出現してもよいことになります。再会してはいけないなと云う霊的規則があるなら、再会できない人に記憶が蘇るでしょう。再会してもよいと云う規則があるなら、既に、この世で面会を果たしている人に蘇るに違いありません。面会については、高校時代に私のことを陰で、良くもも悪くも言いふらしていた者がいると思います。内容を確かめてからでなくてはできません。

インスピレーションとは何か?霊能力とは何か?を考えた結果を記すことにします。インスピレーションは、霊感と云ってよいと思います。インスピレーションは、論理的におかしいことでも矛盾したことでも気付きます。しかし、矛盾したことを想像することはできないと思います。例能力や超能力はやはり論理の上に立っての想念活動であるに違いないと思います。但し、上記は他界した後にも、想念行為が可能であるとの前提条件を基に、想像上で論理を組み立てたものです。結論は、人間の側が方向転換しなければ、神の側(立場)も方向転換が、できないのです。私は道具となっているのです。風向き(現象)を示す風車の矢のようなものなのです。どのような現象が起きているか、観て判断すべきこととの意味です。






2011年02月01日

司法制度が欺瞞化されて行く

  私は裁判のことは知りませんが、例えば一審が単に事実ニ審が動機、目的を考慮されたものであったとしても、当事件は私には、事実を知る手段がなかったと云う前提条件は二審でも変わりはありませんので、判決も変わらないものと思います。一審で一度前提条件を変えることはできても、検察の罪になります。密教が審査すれば裁判はできないのではなく、行う必要がないのです。審査すれば審査した人が死にます。検察の幹部が死ななければならないようなことを策動している者がいるのか?魂の兄弟が同じ空間で出会ってはいけないと云う規則があるなら、そのパートナーも遭ってはいけないことになります。会うことはできても相手のパートナーにチョクカイなど掛けて、不調和が生じれば責任が生じます。

リハーサルを行えばリハーサルに歯止めがかからなくなり、容疑者(容疑者か犯人かは密教でなくては判らない⇔複眼があると云っただろう)を泳がせれば、泳がしたまま逃げ切られてしまうと云う状態で、官憲の使命が果たせるものか?何処に責任があるか?考えてみれば、個人のその時その場の責任個人は(大局観を強いられてはいけない⇔配慮は必要でも義務があってはいけない⇔人間をコンピュー化してはいけない)が軽んじられているからです。習慣になるまでは厳しくても、習慣になれば厳しくはないのです。以上は批判であってアドバイスではありません。複眼といえども気付かない錯覚、思い込みは観えないので附け加えさせていただきます。

転生の問題は証人又は、証拠物件(不適切な用語と云っても正しい言葉は知らない)なくては一歩も進まないのです。実際にそれらの事実が存在したなら潰していては駄目ですょ。「深入りと勉強と何処が違うか?」二宮金次郎とラスプーチンが同じ霊魂であっても不思議ではないのです。(私は、未だ聞いていません)「私の過去生はあるのか?」容疑者の名前を示すと名誉棄損に可能性が生じる事態は、司法制度を見直す必要があります。検察は容疑者を列記しなくてはいけないのです。この世的な力は悪徳でも蓄えることができますが、霊的にはマイナスになっているのです。この世的勝負には先手は有利に働きますが、霊的には不利になるのです。

凌辱事件の犯人は、私以外の人は皆分っているのかも知れません。私もは想像はできますが解っているとは思えません。何者かの罠なのかも知れないのです。自然死を含めて最後には枕元で、事実を知らせていただける方は、あらかじめ検察と、渡部医院、八千代病院、安城市保健所、吉見弁護士に申し出ておいていただきたいと思います。循環文明一巡目は形の上ではテレパシーなど存在しない社会と同じなのです。唯証拠を隠せなくなるだけで大進歩なのです。隠せないとなれば進んで提供した方が得策なのです。隠し玉など一つ用済みになれば、又入るのです。切り札を隠し持っているのとは霊的意味が違うのです。

この世的には慾得を全く除外して計画など創案できないから、打算は仕方がありませんが、霊的には咎められるのです。この世的には、先手は有利に働きますが、霊的には咎められるのです。生身の人間は悟らない限り打算が働くようになっているから、霊的な知識、技などを先取りして(この世的には先手に当たる)勝負はできないようになっているのです。魂の腐った人は人間では治せませんので、精神に異常をきたした人は、精神科医のコンサルタントで治していただくことをお勧めします。(心当たりのある人のことになります)悪霊なら正当化を教えるかも知れませんが、治るかどうかは知りません。

2010年08月06日⇔木洩れ日の空間「司法制度が欺瞞化されて行く」より





2011年01月27日

循環文明の幕開けに伴う要注意点

想念の世界は確かに最後は一対一の勝負になりますが、離れている者は最後まで接近できないのです。例えば他国に如何に武勇に優れた人がいようと、自分の城の中では勝負させられないと同じです。想念のテリトリーの中に入れなければよいのです。一対一でも勝てるなどと思っていると、ラスプーチン級になると一対一の勝負の前に用心棒にさらわれ相手のテリトリー(例えば精神修行道場)に連行される恐れがあるのです。その他手の込んだ手段を隠しもっていても、決して明かすことのない強さもあるのです。早く言えば拷問に強いと云うことです。拷問など意味がないのです。勢いスパイ合戦になり自分のペースに持ち込めるのです。

要するに相手も一対一の勝負になる前に決着をつけようと考えるのです。上記手段は、既に前例があるのではないか?仮に有ったとしても検察も警察もどうしょうもないのです。そもそも、(女一人に立ち向かわせようとの考えが重大な結果を招くのです。直接切り合いにならない限り、(化けの皮が剥がれるまで)神を信じる人を裏切ることはできないのです。ブラックポールを通過して別の世界に行ってもらうことです。神を信じて願掛けの要素を持つ人には、にわかに見棄てることはできないのです。神の存在を信じていれば、最後はきりあいになるのです。信じるとは相手を信じることではありません。良心を信じることです。

今さらリハーサルを行って研修している時間はないのです。他の世界の人に順次入れ替えて行くしか方法はないのです。一夫多妻いは人類史上数多く見られた事実ですが、一婦多夫の社外が成立するものか考えてもらいたいと思います。天照大御神を気取っていても高級心霊にはなれないのです。ネジ山は正義の方向は何処まで周って行っても、人間が位置を変えない限り視野が大きくらる(スケールと深味が増す)だけで正義は正義です。下って行って方向は同じことなのです。(スケールが小さくなる)悪の方向は位置を変えなくては悪のスケールや深さが増すのです。

「オレなど殺せない」と頑強に言い張る者がいたらその根拠を民衆に提示することを要求します。説明するべきです。拷問にかけても口を割らなければ、利用価値の有る者です。選ばれる人間です。私なら、次第に気が弱くなって持ちこたえられなくなり、口を割るから選ばれないのです。食いついて得た力で得た城など砂上の楼閣と同じなのです。しかし、問題は気が弱くならない根元はなにかと云うことです。手ほどきしたのは誰なのか?面識が無かった者に会う気持ちはありません。トヨタとは一面識もなかったのです。他に、個人的に面会する必要のある人はいません。面識のなかった者に謝罪を受け無くてはならない事態はおかしいのです。公的な問題なのです。

私は過去世に現在の災難に比的する罪があったとしても、転小は修正するためにあるのですから、今生は、どの時点でも、何ら罪を犯してはいないので合格したと思います。したがって霊的理由によって殺される謂れはないのです。現在でも、獄門事件に関して、怪しげな者に因縁をつけられても訴えるところはないだろう。理由は、検察、警察を批判しているからです。神が存在するなら、加害者に列席する根のが、死に物狂いで抵抗すれば、さらに深い地獄に堕ちなくては理に反するのです。過去生がないのに何故生まれてきたのか?過去生など誰がどう言おうと自分に記憶くがなければ意味がないのです。言った人を信じるか?信じないか?です。

各国要人の不調和から戦争になっても、核戦争でない限り責任者は死ぬことはなく、国民が犠牲になります。一見不合理のようにみえますが、霊的に捉えれば必ずしもそうとはかぎらないのです。たとえば超能力戦争では、最終的な力勝負になれば、責任者が死ぬことになり、国民の犠牲は最小限に抑えられます。しかし、政治家は個人的に観れば、一般人の平均より善性は上回っているのです。少なくとも選挙で選ばれる以上善性の全くない人は選ばれません。超能力による話し合いも国民の利害を背負っているから、決裂するのです。こちらも公平とは言えなくなるのです。
 






2011年01月23日

良心を捨てた方は神に直接お訊きください


加代子さんは高橋佳子に脅かされているのか?それとも未だ魔的な振る舞い(想いも含めて)が必要なのか?一般的に知られているの霊思想の中の神は、人間の集合霊に相当するものであると認識します。集合霊の概念は大川隆法により示されたものであるが、概念は彼の発案か?どうか?は知りません。集合霊は人間だけに存在するものではないことは確かです。人間の場合は、民族習慣により違いがあるものの、集合霊を神と位置付られているように感じられます。そして、悟りとはこの集合霊に入ること考えればよいと思います。しかし、入るには個人の感覚があっては入れないことは頭で理解できます。類推すれば、人間の集合霊を含めた生命の集合霊も存在することになります。

しかし、この集合霊体には、既に個人としての意識はなくなっているのですから、ヤハリ仕切るのは人間でなくてはならなくなります。人間以外の動物霊は死ねば直ちに集合霊に入れると思います。霊体として個人の意識が残るのは人間だけだと思います。以上を類推すれば、人間が最終責任を負わなくてはいけないことがお解りいただけると思いますが、神の術は人知では測れないと私は、前置きしてありますので、詳しく知りたい方は神にお訊き下さい。説明を加えれば、神は良心の中に存在するとも述べてきましたので、良心にお訊き下さいと云う意味です。しかし、良心を捨てた方は神に直接訊いてもらうより仕方がありません。

個人の人間が集合霊体に入るには、高潔も邪魔になる可能性があるのです。難しいのです。各個人に於いても、集合霊体の意向を無視すれば、地獄に行かなくてはならなくなると思います。言い換えれば各個人には個人の行うべきことがあるのです。一度信を捨てたものに対しては、信じなくても反作用は起きないのです。運命は下降しないのです。仮性は永遠に生命の住める星ではないことはないのです。エネルギーは重力から採取して水は大気(空間)の水素を採取刷ることができますが、当面の問題は酸素です。しかし、酸素は、論理的には水素から合成できるのです。

質量が鉄以下の物質は、同じなのです。金は違うと思います。金は放射能を出していない(壊れやすくない)から、鉛に変換できないと思います。太陽の中では行われているのです。宇宙の初期にはエネルギーだけあったと云うことで、エネルギーから最初に創られた物質が水素なのです。宇宙は水素だけで満たされることになったのです。私は縦型振り子の転生など行いたくはありません。気付けはアイデァは解るのです。「悪いのか?」それも一つのアイディアです。ですから、良心を意識の中に植え付けなくてはいけないのです。循環文明一巡目の開幕に際して、一城の主を志す者又は一家の主とならんと欲する者は、身近に一対一の勝負を好む者を置かないことです。

2010年08月03日木洩れ日の空間 「良心を捨てた方は神に直接お訊きください」より

 






2011年01月19日

力も知識も内在することと行使できることは違います

 

武闘に関する力勝負の場における度胸は、人殺し場数を踏んでいる方が勝っているのです。自信と度胸は違いますが、同時に働きます。例えば、水が気化する過程に於いて、水蒸気と酸素と水素に分解される(私の説)工程が同時に行われることと同じです。私は、たとえ0.1%でも人殺しの疑いがあるものとは、面会は致しません。面会の出会うは違います。屁理屈が先に出てくる人は注意人物です。理由は、はじめに他人のあらさがしをする心があるからです。何故か?と先に疑問が生じれば反省につながります。反省など何時でもできると思われる方も要注意人物です。例えば自分の影を追って追い越すことが不可能な状態に嵌るのです。知能の問題ではないのです。又、はじめて解れば自分の影を追っている状態なのです。上記状態を脱するためには、先に隠徳業の第一歩を踏み出す事です。

テレパシー能力が一般に普及すると困難になります。マンネリズムに嵌り増々地獄から脱出できなくなるのです。それはさておき隠匿は誰に対してもよいのです。特定の相手を想定するウラには打算が働き原点になるのです。全てを他人から教えてもらってから行うと100点満点中0.5点以下にしか力にはなりません。地獄に堕ちれば自力では脱出できなくなります。上記は特定の人を対象とした軽蔑ではありません。但し、心当たりのある人に対しては否定しません。一般大衆を対象とした啓蒙です。宗教者即ち、天使の使命を持つ人の中にも脅迫(戦いは仕方がないとしても)を肯定する人がいるのか?答えは、最終的には力の問題です。

力は、(権力とは違う⇔一時的なもの)内在することと行使できることとは違います。知識も同じかも知れません。知識も力の内内たと?」「知っていて設問するな!」「知っているなら知らない人に説明しろ!」この世に生きている人間の深層意識など殆ど悪なのです。その原因は正義が廃れたからです。しかし、打算と悪とは違います。理由は、打算は未だ、一段深い意識で善悪の区分けができるからです。時代の推移と云えます。区分けが自覚的にできるようになれば深層意識でも、表面意識に取り込めるのです。私の言うところの複眼ができるのです。心眼と違うところは、心眼では、他人の深層意識は観えても自分の深層意識は観えないのです。魔に陥る危険性がありますが、複眼を磨けば魔に陥ることはありません。

以上の過程は、古来僧侶に代表される自己研鑽を志す人達が他人から教えてもらうのではなく自分で気付いて(悟って)行いとして示していたのです。しかし、現在では心理学と云う学問で理解できる人には示すことができるのです。但し、興味がなければ、本当の意味では理解できません。説明しても自覚を記憶としか理解できないのです。又、力にするためには行いがなくては駄目でしょう。続ければ正義はストレートな力を発揮しまが、それぞれの正義か存在するので危険でもあるのです。学問である心理学は、良心については説明してありませんので注意しなくてはいけません。真理がくには、良心も取り入れるべきだと思います。宗教との一線何処で引くかが問題になります。科学で同じ問題が出ると思います。

唯言えることは、イタコ?(既成宗教の顔を立てれば⇔どういう想いからでたか言葉か自覚している⇔複眼の効果⇔最後には良心を観なくてはならなくなる⇔それなら最初から良心に照らし合わせた方がまし)のように霊の意向をストレートに伝える使命のある人は、上記に当てはまらないかも知れません。霊的な事象は親縁ですので、やはり学問と宗教の二本立てで行うことが最良と思います。私は、如何に悪魔が期待しても、神社祭司を含めた各種宗教間で揉まれることはありません。私の何でも公開できる立場を批判するなら、先ず官憲に立場、即ち、論理的に事実確認ができない状況(勿論、確認を行おうと思えばできますが、嘘も答えられるのです)の改善を提言してください。改悪は反作用を覚悟して下さい。

私は、凌辱獄門は個人的にはもう救えません。元々救う義務はないのです。しか、論理展開で救うことは可能です。実行するしないは政府の仕事です。それもできなくても責任は追及できます。(資格は残ります)しかし、自分の命と引き換えに(地獄に落ちることと引き換えに)お行う必要はないのです。復唱するとすれば、毒薬持参(解説して貰う必要がある)も含めて、各過程で謝罪にきていただく道は残してあります。ノウハウ事件と関連付ければ、日本は第二のヨダヤ民族になる可能性もあります。私を殺しても結果は変わらなく、霊的罪が残るのです。上記は解らない人がいれば記す必要が生じます。私も反作用に賭ける自信はありません。

結論として、上記は国民の皆様には考えてもらう必要があります。非公式なら事実の報告など誰でもできるようになります。公式なものであっても人類の滅亡は回避できるのです。私が責任を問われる謂れは何処にもないのです。油断もすきも創ってはいけません。魂の兄弟の件は、どちらかクリアーしていればのれますが、両方とも駄目なら乗れません。「知っていて知らぬ振りはいけません」「私は真実は知りません。霊的意味など先取りできないようになっているのです」客観的に観ても霊存在は認めなくてはならない時代に入ったと思います。認めるためには、客観的に立証される材料が提示されても不思議はないと思っていますが私を含めて危険が生じるひとが居れば別です。危険を創っている方に罰が当たると考えなくてはいけません。反作用を期待することはきけんです。罰と反作用は違うのです。

2010年07月31日⇔木洩れ日の空間「力も知識も内在することと行使できることは違います 」より

 




2011年01月15日

密教は生命を司る神により管理されているのかも知れない

奥密教の力が確かなら、歴史を貫いて正義を護ってきたのです。確かでなければ、その途中で挫折したのかも知れません。神に象徴される高級人霊か、毒蛇の力を借りられるなら、生命を司る霊存在しか判らない分野なのです。個人の力ではないのです。正義を貫けなければ最高実力者にはなれないのだろう。最後は格闘能力である、想念上でも同じことだなどと何時まででも言っている人間は、(それも、事実でありますが、一種の暗示的脅迫にもなるのです)奥密教にアキレス腱切ってもらってから転生すべきです。竜神と仏はどちらが偉いのか?答えは同格なのです。ヤツデの神様があるとすれば、(祭っている人がいるとすれば)植物霊と云えますが、人間は、植物の恩恵により生きているから霊的な力は人霊より強いと思います。上下関係は意味がありません。神とは何か?について

火で植物の種を焼き尽くすことはできないと思うのは浅はかです。水素爆弾(人間の介在がなければ起きない)でも霊的には火なのです。しかし、それでも決着はつかないのです。エネルギーと捉えて初めて決着がつくのです。物質はエネルギーから創られているからです。植物霊が如何に強くても、祭っている人は人間ですから、「生かす」と「利用する」の両刃の剣になるのです。続ければ、エネルギーの根元は重力であり、重力は空間の歪みだそうです。メカニズムは専門家でも未だ、解っていないのです。GLA初代教祖高橋信次氏は、宇宙旅行は帆船の旅行のようなものになると云っていました。空間の歪みからエネルギーが得られるとは言っていませんでしてが、霊的には解っていとも推測できるのです。

ブラックホールが、五次元世界が内包する、我々の四次元世界(幽幻界を含む)と同じ構造を持つ別の四次元世界(別の宇宙)への通用門かも知れません。だとすれば、ブラッホールを通過しても五次元世界は行けないのです。最新宇宙論ではブラッホールはなくなったかも知れない。アインシュタイン博士の重力場理論は博士自身が間違いを認めていたのです。以上はいわば話としての知識です。現在では理論の持つ意味は専門家のパソコンから盗むこともできるのかも知れません。実証できないことはそのようにもなるのです。高温の方は無限大に近く存在しても、低温の方は、マイナス273度(絶対0度)以下は何故存在しないのか?宇宙の真実を知っていると云うなら、事実でないものを根拠に他人に影響力を行使すれば罪になります。(マインドコントロールに落し入らしめれば)徹底的な質問を試みる必要があります。

以下も私の推測ですが、理論物理の専門家でも数式から誘導される結果から、その意味を探るにすぎないと思います。霊感のようにはじめから解っていたとは考えられないのです。但し、犯罪にかんすることは、霊感で解ると思います。私は手順を追わないと解りません。無限は次元の境界と関係あるのか?無限大の概念は一つですが、無限小は二つあります。一つはマイナスの符号を持つものであり、一つは分母が無限大になる分数です。世評に耳を傾ければ、「桐山密教など密教ではない」との声が聞こえるとしても、自分で密教と言えば密教になるのが、密教の教義ではないのか?他方山岳仏教も、(現在は修験者、即ち、山伏は居ないかも知れませんが、霊場はあるでしょう)水は、電気で酸素と水素に分解できますが、高温、高圧でも分解できると思います。二通りあるのです。別の宇宙へのトンネル通過も二通りあるのではないか?又、水の分解は自然の蒸発の中でも多少は起こるなら、大気の酸素は減らないことになります。

密教を自任する人たちから言わせれば、あのような者は密教ではないと言うでしょう。何処が違うのか?前記は形を中味の選択の相違なのです。広い意味では霊的に覚醒すれば、(テレパシー能力がつけば)誰でも密教を行うことになります。以上は、社会通念の批判とは言えても、特定存在の批判にはなっていません。罰することはできないのです。よくよく考えてみたら私の精神的苦しみと思っていたのは精神的な不安にすぎなかったのです。悪魔とは人の弱みに付け込むものです。民衆がボヤボヤしていれば、(討議に参加しなくては)目の前で本剣による個人的な果たし合いも、自由にできるようになるのです。メカニズムは予め想念で設定した通りに最終設定から実行を遡ればよいのです。参考として、地球の表面も滑らかな曲面ではないのです。重力からエネルギーを取り出す研究は現実に行われていると思います。

2010年07月26日⇔木洩れ日の空間「密教は生命を司る神により管理されているのかも知れない」より