2006年04月29日
旅の記録 江戸城外堀_食違見附
食違見附跡標識_1
上智大学グラウンド南端のあたり、紀尾井町から外堀を越えて迎賓館方面出でる道の喰達見附は、江戸城の見附としては最も標高が高い。江戸城の見附御門は、寛永13年(1636)より牛込門、市ヶ谷門、四谷門、食違土橋、赤坂門の外堀工事を行い寛永16年に完成している。食違見附は1659年(万治2年)に築造された土橋の門で、別名伊賀町新土橋とも呼ばれた。
食違見附跡標識_2
この喰違見附は他の見附のとは違って、左右の柱の上に1本の貫(ぬき)を通しただけの簡単な冠木門(かぶきもん)が設けられていただけであった。この食違見附の名前の由来は道が、ジグザクの食違いになっていたところからついたという。
尾張屋敷跡表示板_1
この見附から清水谷方面へと下る紀尾井坂周辺は、江戸時代、広大な大名屋敷の立ち並ぶ武家地。大政奉還後、それらの屋敷はうち捨てられ、のび放題になった庭木はうっそうと茂って紀尾井坂をおおったといいます。食違見附跡(食違土橋)_1
この見附門は明治5年に廃止されたが翌明治6年に皇居が炎上し、現在の赤坂迎賓館の場所にあった紀州徳川藩上屋敷が仮皇居となったところから、食違見附が重要な連絡路として歴史上に現れてきた。このあたりは参内に訪れる政府高官の通り道となった
。明治7年、時の参議岩倉具視の場合は喰達見附において武市熊吉らの襲撃にあい、堀へ飛びこんで辛くも虎口を脱した。
食違見附跡_2(弁慶堀側紀伊国坂から)
「食違見附の変」も起こっている。これは「明治6年の変」といわれる西郷隆盛の朝鮮派遣(いわゆる征韓論)をめぐる対立で大久保とともに岩倉具視がこれを否決したため反感を買い征韓派の不平士族が襲ったといわれている。岩倉具視は堀に逃げて命拾いした。人影の少ない淋しいところである上、複雑な地形は身を隠しやすく、暗殺者にとっては格好の襲撃場所だったとおもわれる。
食違見附跡_3
明治11年(1878年)5月14日早朝、紀尾井坂の下にある清水谷で、時の内務卿大久保利通が石川県士族島田一郎らによって暗殺されたが、この大久保の馬車はこの食違見附を渡って赤坂仮御所に向かう途中であった。大久保49歳であった。食違見附跡_4
そして戦前は今上天皇が皇太子時代、父君である昭和天皇は、皇太子と一緒に住まず慣例に従って赤坂御所に住まわせていた。そして皇太子は週に1回だけ宮城(きゅうじょう:昭和23年まではこのように呼ばれていた)に上がっていた。このことを『御通り』と言い、ルートは赤坂の御所を出て食違見附から紀尾井坂を通り、半蔵門に入っていったという。これが午前10時と午後3時に行なわれ、警察や憲兵も出る大変な警備で、『御通り』が始まると自分の家の直前でも身動きすることが許されなかったと言う。大通りを使うと警備上問題があるということでこのルートを使用したとのことであるが、終戦まで行なわれていたらしい。紀尾井坂
現在では土手に「食違見附跡」という標識が建っているが、通りは狭い道であり、四ッ谷側と弁慶濠側、両方の土手の上にある大きな木の枝が伸び、木のトンネルを作っている。小泉八雲の「怪談」の中で「のぺらぼう」が出てくる「狢(むじな)」の舞台となった場所である。紀尾井坂標識

食違見附あたりの絵図及び地図
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