2006年05月13日
旅の記録 三春城(福島県田村郡)
小さな城下町三春と城山
三春城は、三春町の中央に位置する大志田山の頂上にあり人口約2万の小さな城下町三春のシンボル的存在で、城下から見上げると鶴が舞うように見えたというので、別名“舞鶴城”とも呼ばれています。三春城はこの地の豪族であった田村氏3代義顕により、1504年(永正元)に築かれたのが始まりとされています。山頂からは吾妻山、安達太良山や阿武隈の山並みが望め、三春の城下町一帯も見渡すことができます。春には、東斜面の梅、桃、桜の(三春の名前はこの3つの花が同時に咲くところからきています。)花が順次咲き競い見事だそうです。
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愛(めご)姫生誕の地碑(城山公園二の門跡付近)
三春城を本拠とした田村家は、伊達家と結ぶため娘・愛(めご)姫を伊達政宗に嫁がせましたが、三春城は、この愛姫の生誕の地です。なを、田村家は義顕のあと、隆顕、清顕と続きましたが天正十四年(1586年)に清顕が嗣子なく没すると、家中は清顕の娘(愛姫)婿の伊達正宗に従う。(田村家は豊臣秀吉の奥羽仕置により改易となりましたが、のちに伊達政宗の孫が田村姓を名乗り、曾孫が一関藩主になりました。)“奥州仕置”により、田村氏4代宗顕が伊達政宗に従って仙台に去った後、三春は会津領となりました。蒲生氏・上杉氏・加藤氏の支配地となったわけですが、その後、加藤嘉明二男の明利に3万石が与えられ三春藩ができました。。三春城絵図(田村時代)
加藤明利は、同じく加藤嘉明の与力大名である松下長綱と入れ替わり、二本松城に転じました。のち長綱は乱心改易となり、一時期幕領となりましたが、1645年(正保2)に常陸宍戸より秋田俊季が5万5千石で入り、秋田氏が11代続いて明治を迎えました。 現在、三春城跡は三春町役場前の城山にあります。、建物は一切ありませんが、石垣や土塁などが残り、城山公園として案内板や標柱などはしっかりと整備され親しまれています。 なを、秋田氏時代に藩主が屋敷を構え政務を行った二の丸下山麓の政庁跡(田村氏時代の三の丸)に建つ三春小学校に、すぐ近くにあった藩校「明徳堂」表門が移築されています。
藩校「明徳堂」表門
三春町関係のホームページで、三春町の町の特色として「梅・桃・桜の花が一斉に咲き競う「三つの春」から名づけられたという三春町は、人口約2万の小さな城下町です。国の天然記念物で樹齢1000年を数えるベニシダレザクラの巨木「滝桜」や三春ダム「さくら湖」、神社・仏閣などを多くの観光客が訪れます。また2004年には、三春城築城500年を迎えました。 仙台の木下駒・青森の八幡馬とならんで日本三大駒とされる三春駒、土人形の三春張子人形は郷土民芸として有名です。仙台に伝わる木下駒や堤人形と似ているのもなにかの縁でしょうか。」![]() | ![]() |
三春城跡(舞鶴城跡)_城山公園の写真
南からの登城_二の門〜揚土門〜大門
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揚土門上の_三の門跡 ![]() | ![]() |
北からの登城_二の丸(秋田氏時代の御殿上の郭)入口〜矢倉跡〜二の丸(田村氏時代_秋田氏時代は本丸の一部)〜本丸
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三春城跡の航空写真と秋田氏時代の三春城絵図及び本丸の写真
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