2006年10月21日

旅の記録 萩城跡(山口県萩市)


萩城跡_指月山指月山            萩城(はぎじょう)は慶長九年(1604)関ヶ原の役に敗れた毛利輝元が防長2国36万9千石の居城として築いた山口県萩市にある城です。国指定史跡で別名で指月城(しづきじょう)とも呼ばれています。
 城郭の縄張りは梯郭式平城と山城である指月山頂の詰の丸で構成されているそうです。江戸時代には幕末に山口に移るまで、長州藩の藩庁となっていました。
 日本海に張り出した指月山に詰の丸と、その山麓に本丸・二の丸・三の丸(堀内)を配し三重の堀を巡らした大きな城です。

萩城古写真(絵葉書)萩城古写真           天守は5層5階の複合式後期望楼型だったそうですが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に悉く破却され、石垣と城壁の一部のみが現存しています。
 解体前の古写真に、天守の在りし日の秀麗な桃山様式の白亜の姿が認められます。
 近年では全国に先駆けて破却された天守等を復元する動きがあるそうです。




萩城跡_天守跡と内堀
天守跡と内堀_1萩城跡_天守跡と内堀_1
天守跡と内堀_2萩城跡_天守跡と内堀_2

指月小橋を渡り二の丸東門跡を通り石橋を渡り本丸へ
本丸への石橋と内堀萩城跡_内堀
東門跡石垣萩城跡_東門跡石垣

萩城絵図抜粋萩城絵図抜粋
二の丸(海岸)の石垣城側二の丸(海岸)の石垣城側


指月川(疎水)と石垣萩城跡_運河と石垣_1           萩城の場所は、戦国時代、指月山に津和野の城主吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となったところだそうです。
 長州藩の居城が萩に決まったいきさつは次のように言われています。それは、当初、萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めたそうです。これに対し幕府より、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答が下ったとのことです。これは外様大名の雄、毛利氏を山陰の僻遠地に押し込める政策とも言われています。



指月小橋指月小橋_1           1604年(慶長9年)に萩城建造に着手し、指月山に連なる干潟を埋め立てて城地が建造されたそうです。1608年(慶長13年)に落成、平時に建設された城ですが、指月山に詰の丸を配するなどは、戦時を意識した構えとなっているといえるそうです。これは、いつかは幕府と決着をつけるための根拠地としての城造りがなされたものだという説もあります。
  1863年(文久3年)時の藩主だった毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えました。

指月山と二の丸石垣
指月山(二の丸)石垣_1萩城跡_指月山石垣_1
指月山(二の丸)石垣_2萩城跡_指月山石垣_2

指月山(二の丸)石垣_3萩城跡_指月山石垣_3
指月山(二の丸)石垣_4萩城跡_指月山石垣_4

指月山(二の丸)石垣_5萩城跡_指月山石垣_5
指月山(二の丸)石垣_6萩城跡_指月山石垣_6



国立国会図書館 貴重書画像データベース〔日本古城絵図〕278 長門国萩之城絵図
見るなら↓クリックしてください。
278 長門国萩之城絵図


現在萩城跡は指月公園(しづきこうえん)として、松下村塾や武家屋敷などとともに萩の観光名所となっています。 城の入り口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国指定重要文化財)が残っています。城下町も国指定史跡となっていて、また、指月山には原生林が残り、国の天然記念物に指定されています。
萩市観光案内図萩市観光案内図
鍵曲の通り鍵曲の通り


 萩城の外堀は、萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀です。元和八年(1622)に完成したといわれています。
 堀の長さは740メートルあるそうです。幅は城下町側から、町屋が張り出してきたため、当初の40メートルから時代につれてだんだん狭くなり安政年間には16メートルになていたそうです。現在は堀の跡に小川が流れている感じです。
 北の総門は萩城三の丸(堀内)の東側にあたる出入り口です。総門としては、ほかに中ノ総門・平安古ノ総門があり、この門は他の門の北に位置して北の総門と称し萩城外堀を隔てて城下町に隣接した門番所があって、暮れの六ツ時(日の入り)から明け六ツ時(日の出)まで門を閉め、夜中は人も荷も手形を有する者に限り通行が許されたそうです。
北の総門北の総門
外堀跡萩城跡_外堀跡

 萩の城下町は木戸孝允(桂小五郎)旧宅の面する江戸屋横丁、高杉晋作旧宅の面する菊屋横丁、や伊勢屋横丁が幕末の町並みをよく残している。
菊屋横丁高杉晋作旧宅前菊屋横丁
高杉晋作旧宅前高杉晋作旧宅前


 明倫館(めいりんかん)は、長州藩の藩校。水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称された。
1718年(享保3年)、萩藩6代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建(敷地940坪)。1849年(嘉永2年)には、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩市江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)。
1863年(文久3年)藩庁移転により、上田鳳陽が1815年(文化12年)に山口市中河原に開設していた私塾山口講堂(後に山口講習堂)を山口明倫館と改称・藩校に改め、萩・山口の両明倫館が並立することとなる。
萩明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。国指定史跡(1919年(昭和4年)12月7日指定)を受けている。
 山口明倫館は、山口講習堂時代の1861年(文久元年)に、山口市内中心部の亀山東麓のお堀に囲まれた広大な敷地に移転、その後身である旧制山口高等商業学校、山口大学経済学部の亀山キャンパスとして、110年間使用された。1973年(昭和48年)に、経済学部が山口大学本部のある平川キャンパスへ移転・統合された後は、現在、跡地には山口県立美術館、鳳陽館(鳳陽会<経済学部・旧高商・経専同窓会>館)が建てられている。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
萩_明倫館跡萩_明倫館跡
萩城下町絵図萩城下町絵図

明倫小学校 1明倫小学校 1
明倫小学校 2明倫小学校 2
明倫小学校_明倫館跡明倫小学校_明倫館跡
明倫館_有備館の門1明倫館_有備館の門1
明倫館_有備館の門2明倫館_有備館の門2
明倫館_有備館明倫館_有備館

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