
久留米城【別名:篠山(ささやま)城、雨城】の創築は、永正年間(1504〜21)に、この地方が九州の豪族大友氏と龍造寺氏の抗争の地点であったころ、西側に流れる筑後川を控えて笹藪の生える小高い丘陵地に砦があり、篠山城と称したのがはじまりといわれているそうです。
今日みるような近世城郭の始まりは、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定後、毛利元就の子 秀包が入ってから後といわれています。
その後、関が原の戦いにより慶長6年(1601)石田三成捕縛で功を立てた田中吉政が筑後一円三十二万五千石で柳川城(当時支城であった久留米城)に入ったが、元和6年(1620)に病死した時、嗣子がなく断絶し、元和7年(1621)久留米城には丹波(京都) 福知山城から有馬豊氏が21万石を拝領して入り、以後有馬氏11代の居城となりました。
久留米城址正面道路
久留米駅(福岡県久留米市)から久留米(篠山)城跡まで歩いても15分かからないくらいの距離です。久留米駅を出てまっすぐ昭和通りを20〜30m歩きJR交番前で左折し、先の京町第二公園交差点を抜け、ブリジストン通りをまっすぐ行き、篠山城南交差点で斜めにに左折し、少し歩くと、久留米(篠山)城本丸跡に突き当たります。
三の丸、二の丸跡はほぼブリジストンの工場敷地となり、城跡らしいものは見られません。ちょうど篠山城南交差点からの道が三の丸、二の丸跡を縦断し両脇に主にブリジストン関係の施設が並んでいます。
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本丸前狛犬

久留米(篠山)城本丸跡に突き当たると、本丸を取り囲んだ堀の一部(南側部分)が水をたたえて、今も残っており、高石垣とともに見えてきます。
その西側の堀の石垣の上には、かって未申櫓と中央近くに太鼓櫓がありました。東側の堀の石垣の上には、天守のなかった久留米城の天守かわりの三重の巽櫓が威容を誇っていたいたそうです。
久留米(篠山)城本丸跡は現在篠山神社になっています。
堀を渡りきった両端に狛犬があり、本丸大手の冠木門跡に久留米城址碑が石灯籠と並んで建っています。
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冠木門跡を本丸に入ると東に折れると巽櫓下への通路(かっては櫓を回りこみ石垣下に下りる階段があったようですが今は確認できません。)、西に折れると櫓門跡を通り右に神社入口の鳥居への階段に行き当たります。
まっすぐ進むと有馬記念館の建物が西下櫓跡あたりに建っています。有馬記念館の前には今も当時の井戸があります。
本丸の中央には篠山神社の建物があり、その西側に本丸御殿跡の石碑があります。
本丸の東側には久留米大学医学部のグランドがあります。かっての東側内堀の跡にヘリポートを見ました。
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丑寅櫓跡下石垣

東側の月見櫓跡付近から下への少し急な階段が蜜柑曲輪へ続いています。蜜柑曲輪を北に回りこむと、見上げるような石垣の上が丑寅櫓跡です。さらに北西に回りこみ、筑後川の川原に出るとこんもりと茂る林の小山が乾櫓跡の方向です。
なお、堀際に立つ久留米市の久留米城址説明板には、久留米城下町の説明として次のような記載がありました。「・・前半省略・・元和7(1621)年、有馬豊氏が田中家の改易をうけて筑後北半21万石の大名として入城し、幕末まで有馬家の城下町として栄えることとなる。
有馬家は入国当初から約40年かけて、廃城となっていた久留米城の大改修を行ない、本丸、二の丸、三の丸・外郭に濠を廻す連郭式城郭を建設している。二ノ丸以下の郭にあった町屋・寺社を城外に移転させ、それを守るような形で荘島・櫛原・京隈などの士屋敷を配置した城下町を作りあげている。
この城郭と城下町が現在の久留米市街地の骨格になっており、市街地には往時をしのぶ多くの史跡を見ることができる。」
〔日本古城絵図〕 西海道之部(1)
のなかにあります。「久留米城」で検索してみてください。











