2007年11月10日
旅の記録 日隈(ひのくま)城(大分県日田市)
日隈(ひのくま)城の城山

日隈(ひのくま)城は別名を日ノ隈城、隈城、亀翁城、隈の山城などと称する、大分県日田市亀山町所在の梯郭式平山城です。
文禄三年(1594)に豊臣家蔵入地(豊臣政権下の直轄地)であった日田に宮城 豊盛(宮木豊盛)が代官として赴任、三隈川(筑後川上流)を臨む日隈(ひのくま)山(亀翁山)に日隈城を築城。慶長元年(1596)毛利高政が改修して望楼式五階造り地下一階の天守と三層の櫓をあげ威容を誇ったといわれています。
日隈城の推定曲輪配置

遺構としては、曲輪跡と石垣のみとなっており、南西は表、東が裏であるといわれています。
城の南に三隈川、その支流で、亀山公園を境に分流する小股(小俣)川は当時は、川ではなく、人口の堀(切抜き)であったと言われており、廃城の後に洪水によって川となったと伝えられているそうです。
城郭の形状は一二三段状の梯郭式の平山城。山頂の本丸から段状に二の丸、三の丸。
大手門下に丹後丸、東側に馬責場(馬場)という曲輪構成であったといわれています。
日隈城の大手門跡碑

城内に建てられた建造物としては、慶長元年、毛利高政によって五階天守・三重の月見櫓・丹後丸櫓・二の丸門櫓・北の三ノ丸櫓・三本松大門などが増築され城下には二重の堀と土塁が廻らされたそうです。
移築された建物としては、日田陣屋本陣とするために御殿、隈町願正寺山門とするために大手門があるそうですが双方とも現存していません。
日隈神社と日隈城址碑

慶長六年(1601)毛利高政が豊後佐伯へ転封後もその管理下にありましたが、慶長六年(1601)小川光氏が月隈山に丸山(永山)城を築き、関ヶ原の戦いの始末が終わると、城は小川氏の預かりとなりました。
元和二年(1616)には、江戸幕府発布の一国一城令により幕府へ明渡して後に廃城となりました。
大手門跡石垣

豊臣から徳川へ政権の変わる一時期にわずか二十数年の間ですが日田の城として機能し、江戸幕府の天領になり政治の中心が代官所(西国筋郡代府政所)の置かれた永山城(丸山城)の城下町豆田に比重が移った後も隈の山城として神社として残っていきました。
実際、寛永年間に破城されたといわれるそうですが、松平直矩時代の日田陣屋役宅増設の時貞享元年(1683年)、
『松平大和守直矩候時 永田貞清殿、郡退去 貞享元甲子年初年春 永山、隈居城并家中諸士の家屋作る。同三年秋に大半就成・・・』
と城としての残存を伺わせる記述もあるため、実際の破城の経緯は詳らかでないそうです。
亀山公園入口

廃城後も二つの城がある程度の間日田の町に存在していたようです。
今は、亀山公園(きざんこうえん)として整備されています
☆亀山公園は、日隈公園とも呼ばれ、三隈川(筑後川上流)沿いの日田温泉(隈地区)の隣にあるこんもりとした丘。三隈三丘(日隈・月隈・星隈)に数えられるものの一つで侵食によって形成された残丘です。
亀山公園説明碑

元治元年(1864)に、後漢時代の銅梁作細線式獣帯鏡が発掘された古墳(日隈1号墳)跡でもあり、安土桃山時代に築かれた日隈城跡でもあります。
名称の由来は亀のような形をした山なので亀山と呼び、元は曹洞宗龜翁山真光寺があった丘で、その名龜翁山を縮め、読みをキザンと呼ぶようになったという説が一般的だそうです。元は日ノ隈山若しくは、日隈(ひのくま)山といい、他に隈の城山と呼ぶこともあるようです。
本丸跡日隈神社鳥居

山頂には日隈神社があり、後醍醐天皇、楠木正成公、春日大明神の三柱を祀り、拝殿には大久保利通が書いた「龜翁山」・西郷隆盛の書いた「日隈神社」の額がある。戦前までは、日田県知事を務めた松方正義を祀った松方神社が山頂の南にありましたが、太平洋戦争敗戦後、GHQの命令によって撤去され、建物などは移築されたそうです。
☆ 三隈(みくま)は、大分県西部の日田市に位置する日田盆地内にあるに日隈、月隈、星隈の3つの丘の総称。
三隈三山ともいう。
侵食によって形成された残丘(侵食残丘、水蝕残丘)である。日田盆地には、この三山以外にも、石井町に隈山という残丘もある。三隈川は、もとは日田川といったが、この三山の間を流れていることから三隈川と名付けられたという。
目立つ丘であることから、古くから古墳や寺院、城地として利用された。現在は緑地公園や観光地になっている。
堀跡の小俣川土手

☆宮城 豊盛(みやぎ とよもり、1554年(天文23年) - 1620年(元和6年))は、安土桃山時代から江戸初期までの武将。宮木とも書かれる。豊臣家に仕える。慶長4年(1599年)従五位下丹波守に任官。
文禄2年(1593)に秀吉から豊後国において1万石の所領を与えられ(対馬に5千石という説もあ
ります)、又、文禄3年(1594年)には豊後日田・玖珠二万石(四万石とも)の蔵入地代官を務めた。慶長3年(1598年)慶長の役の最中に秀吉が没した後、徳川家康より命を受け、朝鮮へ戦役中の将兵の撤兵を指導した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、石田方に付き敗戦後は、家康に所領を安堵されたことにより家康につく。元和5年(1619年)京都知恩院の普請奉行を務めている。翌、同6年(1620年)京都にて67歳で没している。孫の宮城主膳正豊嗣があとをついだが、寛永4年(1627)加増になり、奥州南部(盛岡)浜坂、居組など二方郡全部と気多郡の4カ村、およそ1万3,000石を領する。銀閣寺再建でも名前が出てくる。宮城家は豊嗣に跡継ぎが無く断絶。
二の丸跡から本丸跡への石段

☆毛利 高政(もうり たかまさ、1559年(永禄2年) − 1628年12月11日(寛永5年11月16日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。豊後国佐伯藩の初代藩主。 1595年(文禄4)9月、豊後国日田・玖珠二郡の内で2万石(一説には6万石ともいう)の朱印を受けた。併せて両郡内の蔵入地も預けられ代官を兼務した。日隈城(隈城)を居城とし、五重の天守、三重の月見櫓等を増築している。1597年(慶長2)、慶長の朝鮮出兵では軍目付(いくさめつけ)に任命され、南原城攻略では軍功を挙げている。1600年(同5)、関ヶ原の戦いでははじめは西軍に与し、丹後田辺城(舞鶴城)攻めに参加するも途中、東軍に寝返った。藤堂高虎のとりなしが改易を免れた要因の一つとなった。1601年(同6)、豊後海部郡(現在の大分県佐伯市周辺)2万石へ転封となった。1606年(同11)、佐伯城を完成させた。1628年11月16日、70歳で死去した。墓は高輪東禅寺。法名は養賢寺院殿前勢洲剋史乾外紹元。
参考・引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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暮し生活 無料懸賞・ゲーム【ネット無料体験で暮し生活の向上研究!】 at 2007年11月11日 19:38
松平直矩に関するブログをまとめています。
松平直矩-でつながるブログリング【blogring.org】 at 2008年12月14日 23:49
この記事へのコメント
私は東京の戦争遺跡を歩くというコンセプトで「葵から菊を訪ねて」をアップしています。
千代田区、港区、新宿区が江戸城外堀跡の管理計画書を発表し、完成400年への展望を決意しています。このことを一度ご説明をしたいと思います。お会いできるようご配慮下さい。
また、リンク集に貼らして頂きたいと思いますのでご承認下さい。
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Posted by 長谷川順一 at 2008年07月01日 17:42
<写真掲載・借用の許可願い>
ブログ「旅の記録」運営者様
拝啓 時下益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
さて、突然ではございますが、私どもが現在編集中の「週刊・江戸」シリーズ(デアゴスティーニ・ジャパン発行)第82号に、「旅の記録 江戸城_雪の桜田門」(2006年01月24日)から「雪の桜田門(右側にお堀の写っている写真)」を掲載させていただきたく、メールを差し上げました。
第82号は「桜田門外の変」を特集しますが、その扉ページに雪の降る桜田門と、「桜田門外の変」を描いた錦絵を入れたいと存じます。「江戸城_雪の桜田門」の写真の雪の降る感じが事件のときの天候とぴったりで気に入りました。
「週刊・江戸」シリーズは今年1月に創刊し、現在は74号まで出ており、発売以来、書店や読者のご好評をいただいております。
なお、写真の掲載使用料が必要な場合は、些少ではございますがお支払いすることもできます。
また、写真提供の明記と所蔵の明記はいたします。その場合は、ブログ名称は避けており、個人名か「個人所蔵」などとします。発行の折には掲載誌をご献呈申し上げる所存です。
誠に勝手ではございますが、ご返事をお待ち申し上げますので、何卒よろしくお願いいたします。敬白
<企画概要> 発 行 元 株式会社 デアゴスティーニ・ジャパン
形 態 AB大判36頁(表紙含む) オールカラー
発行部数 3万部(想定部数)
監 修 加藤敦子、小林信也
掲 載 号 第82号(特集トピック:「桜田門外の変(仮題)」)
発 行 日 2011年8月23日(予定) (2010年1月に第1号を発行)
(有)作品工房「週刊・江戸」編集室
担当:高橋鋼司
〒169-0075 東京都新宿区高田馬場1-6-16
ユニオンビル603号
Tel:03-3204-0764
E mail:kojit@sakuhinkobo.com
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Posted by 高橋鋼司 at 2011年06月20日 18:01

