2012年05月26日

ある晴れた土曜、写真と映画(2)九段下にて

鋭意執筆中 → 多忙のため火曜日以降のアップの予定です
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ある晴れた土曜、写真と映画(1)築地にて

今日はあれこれ顔を出す日。その前にまず、所沢郵便局に行って不在時に届いた冊子小包を受け取ると、その場で梱包をほどいて、振込票を抜き出して本の代金を振り込み。

P1000910.JPGそのまま、最初の目的地の築地へ。築地本願寺の本堂で日印国交樹立60周年を記念するイベントの一つとしてインド大使館主催の写真展「仏陀の智慧の道」が開催中(5月25日〜30日)です。やって来たのは、この写真展のお手伝いをしたからですが、と言っても、私がしたのは少しばかりの調整だけ。

会場のスタッフに見知った顔は無かったので、お忍びでも良いかなと思ったのですが、いちおう受付には挨拶。

今回の写真展は、写真家のビノイ・ベール氏と松本榮一氏が撮影したインドから日本に至る仏教が過去・現在において伝わった地の仏教遺跡の写真を、前田專學東方学院長の監修のもと、本堂の壁面を回廊状に仕切り、伝来の流れにそって展示しています。


P1000913.JPG写真展を一通りみて境内へ。ちょうど震災復興支援活動「築地スマイル広場」のイベント「緑のマルシェ」をやっていました。まぁ、簡単に言えば、被災地支援の物産展ですが、出店の3分の2は被災地以外です。しらす丼や富士宮やきそばを食べてもなぁ、と言うことで、宮城県鮎川浜のくじらのみそ漬けなどを頂いていると、牛串を売っている女性に何やら見覚えが。あっ、女子プロレスラーの神取忍だ。

Facebookにそのことを書いたら、写真展には「いいね!」もコメントもないのに、速効でコメントが続々と(笑)お前ら神取に食いつき過ぎ。

売り子の神取から買った(築地へは一人で行ったので証拠写真は無い)牛串を食べ終わったら、さて、次へ移動です。

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2012年05月19日

近世文人の自筆資料とその他のこと

連休中、府中市美術館に「三都画家くらべ」展を見に行った時に興味を覚えた幕末の銅版画の展覧会が、2006年に天理ギャラリーであったのを調べたことまでは、このブログでも書いていたかと思いますが、天理ギャラリーのサイトを見てみると、「近世の文人たち─自筆資料にみるその人となり─」という展覧会を5月13日から6月10日まで開催するとのこと。

天理図書館には、江戸時代の学者・作家その他文化人の貴重な自筆資料が所蔵されているのですが、昨年の10月に奈良の天理図書館でそれらをまとめて公開した展覧会が、東京に巡回してきたものです。本居宣長の『古事記傳』や賀茂真淵の『萬葉考』など、むしろ本業に関するものですので、コレ幸いと、見に行くついでに、銅版画の図録も入手することにしました。


これも何かの縁なのか、本居宣長を軸にした日本宗教学会での発表題目をオンラインで申し込んでから出発。夕方から研究所の研究部会がありますので、その前に神田錦町の天理ギャラリーに寄って、そのまま本郷通りを北上して研究所へ行こうという段取りです。


天理ギャラリーは上田秋成展以来です。2年ぶりですが、この間に見ておかないといけない展覧会をしていたかも知れませんが、それは図録を物色して補完ですね。

講堂で日本オリエント学会が発表会をしていたので、あれ、間違えたかな?と思いましたが、展示室の方へ向かうと展覧会をしていましたので、一安心。

自筆資料といっても書簡から原稿までさまざまですが、原稿もまたさまざま。浄書されて、ほぼ版下稿といって良いものから、推敲の跡が著者の苦闘を伝えるものまであります。

本居宣長『古事記傳』、村田春海『贈稲掛大平書』、橘守部『稜威道別』などは前者ですが、賀茂真淵『萬葉考』、伴信友『踏歌考』、平田篤胤『赤縣太古傳』などは後者で、朱墨、胡粉、貼紙など、いまならワープロ・ソフトで簡単にできる推敲も、かつてはその作業自体がたいへんな労働でした。

その胡粉による修正跡がすさまじい『萬葉考』のところで、警備の男性と女性が「胡粉」がどうしたという話しをしていたので、ついおせっかいに、貝殻から作った顔料だよ、と口をはさんだら、その女性は館員の人でした(汗)

聞くと、展示して、展示品についての講習を済ませると天理図書館の学芸員は天理に帰ってしまうそうで、残された館員は、私のような物好きの質問責めに四苦八苦するそうです。白色の塗料についての質問について学芸員に問い合わせたら「胡粉」だという答えが返ってきたものの、はて「胡粉」とは何だ?というところに私がやってきたという次第です。

なぜかそのまま館員に対してレクチャーをする流れになってしまいました(汗)以前、秋成展を見にきたことがありますよ、という話題から、秋成とその妻瑚璉尼(たま)の話題が出たので、宣長とその妻勝、篤胤とその妻織瀬のエピソード、あるいは井伊直弼は国学者でもあるんだよとか、国学者の銘々伝のような話しをとりとめなく。

来館者の質問の中に、藤原惺窩の『惺窩姜沆筆談』で、どこまでが惺窩で、どこからが姜沆のものか、というのがあったそうです。専門家には分かることなので案外と必要性に気がつかないことですが、一般の人のためには矢印くらいつけておいた方が親切ですね。

また、学芸員の意図が不明ですが、契沖・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長と足代弘訓の5人を一つの軸にまとめた肖像を展示しておいて、弘訓だけキャプションがありません。やはりこれも当然のようにこの名無しの人は誰かと質問されるそうです。


そんな雑談をして、買うべき図録も買って、研究所へ。またしても当日のご指名で司会になったのですが、今回は「胎内五位説」についてでしたので、まだ分かる範囲ですね。


帰途、今回の研究部会の内容から、未入手だった中村生雄氏の遺稿集『肉食妻帯考』(青土社)を買おうかなという気になって、書店で財布を開いたら、あら恥ずかしい。お金が100円ほど足りません(汗)店員に取り置きをお願いして、そのままATMへ。

貧乏人なんだから、財布にはお金が入っていないものと思っていないといけないですね。

Posted by yohaku at 22:31  |Comments(2)TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月12日

「報道写真とデザインの父 名取洋之助 日本工房と名取学校」展

旧都立日比谷図書館が千代田区に移管、改修され、図書館機能とともに、四番町図書館にあった歴史民俗資料館の機能も移転してきて、昨年の11月、千代田区立日比谷図書文化館としてオープンしました。オープン前、知らずに行って改修工事中で追い返されて以来、すっかりそのことを忘れていたのですが、今回、「没後50周年記念企画 報道写真とデザインの父 名取洋之助 ― 日本工房と名取学校」展があるというのを知って、迂闊なことですが、日比谷図書文化館の存在を思い出しました。

という次第で、早稲田大学の図書館に籠もる前に、日比谷図書文化館に寄ってみることにしました。改修しただけあって、手垢が着いた旧日比谷図書館がキレイになっています。地下にはLibrary Dining HIBIYAなるレストランまでありますが、丸善プロデュースだけに値が張ります。懐事情により昼食は日比谷公園のベンチでパンを食べて済ませ、写真展へ。

名取洋之助(1910〜1962)は、写真家であり、編輯者でした。昭和3年(1928)から7年まで、青春時代をドイツで過ごした名取は、昭和8年(1933)、「日本工房」を立ち上げ、報道写真、そしてその写真を記号して、それらを構成して一つの物語を作る組写真という手法を日本に持ち込みました。

しかし、名取の組写真は日本ではまだ新しい手法であったためか、日本工房の核となる仕事は『NIPPON』という外国向けの日本宣伝のグラフ誌でした。そこから『COMMERCE JAPAN』、『SHANGHAI』、『CANTON』、『華南画報』、『MANCHOUKUO』、『EASTERN ASIA』、『カウパアプ・タワンオーク(東亜画報)』という、日本軍のアジア進出に併走するグラフ誌を次々に発行してゆきます。

敗戦を南京で迎えた名取は、昭和21年に日本に引き揚げ、日本の『LIFE』を目指した『週刊サン・ニュース』を創刊しますが、1年半であえなく休刊します。むろん、まだ名取の理想は、日本の現実とは合わなかったためです。戦前の雑誌は、国策に沿うものでしたので、多少帳尻が合わなくても良かったのですが、戦後の名取の戦場は商業誌で、そこでは採算が取れなければいけません。その後、名取は、昭和25年(1950)に創刊された岩波書店の『岩波写真文庫』の編輯にかかわります。この頃になって、名取の組写真という手法が一般に定着するようになります。いまでこそ名取流の組写真はあまり見かけませんが、それは昭和30年代から40年にかけて濫費されて、すっかり陳腐化してしまったためです。最近では、また一周回って新鮮になってきた感じです。

組写真という手法の基礎となる“写真は記号である”という名取の思想は、一方で一枚写真による表現を「お芸術」や「俳諧趣味」といって嫌うものでした。しかし、今回の写真展では、名取自身の写真のほか、名取の編輯した雑誌にかかわった土門拳、藤本四八、木村伊兵衛、小柳次一、三木淳、稲村隆正、薗部澄、熊谷元一の写真がふつうの写真展のように一枚写真で展示されていました。これでは「報道写真とデザインの父」というタイトルが泣きます。

『NIPPON』を始め、『COMMERCE JAPAN』、『MANCHOUKUO』、『カウパアプ・タワンオーク』など、名取が携わったグラフ誌も数多く展示されていたのですが、いずれも表紙ばかりで、見開きになっているものがあまりに少ない。これでは「報道写真とデザインの父」と(略

まぁ、悪いことばかりでもなく、名取が編輯した経本折りの『NIPPON 日本』(1938年。土門の写真を熊田五郎が構成)が、屏風のように立てた状態で表裏全ページ見られるようになっていたのは上出来の展示です。


会場に入ってしばらくするとシャッターの音が。写真撮影禁止のハズだがなぁ、と思っていると、案の定、オヤジが職員に注意されています。ところが、このオヤジ、確信犯のようで、なんで写真を撮ってはいけないのか、道理に合わないと職員に喰ってかかっています。

やれやれ。見たところ全共闘世代のようですが、この世代はとかく反権力が好きで、かつて国家権力と闘って敗れた敗残のトラウマか、今では博物館の職員のような小権力に喰ってかかって溜飲を下げています。オヤジは元ジャーナリストと称していましたから、なおさらでしょう。

それにしても声がでかい。鑑賞の迷惑千万。しばらく我慢していたのですが、「問題意識を喚起するためわざともめるようにしている」というオヤジの台詞が耳に入って、私もスイッチが入りました。オヤジの独りよがりの正義のために、良質な鑑賞空間を破壊されては公共の道徳が成り立ちません。もめるオヤジと職員の間に割って入って、オヤジにはご退出頂きました。


それにしても、一度、生地の武闘派にスイッチが入るとなかなか「慈愛の人」(笑)に戻らないので困ります。月曜は重要な会議があるのですが、日曜のうちに切り替わらなければ、月曜は休もうかなぁ(爆)

Posted by yohaku at 23:44  |Comments(0)TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月04日

「奥絵師・木挽町狩野家」:板橋区立美術館

近世絵画の意欲的な展覧会を開催することでは、府中市美術館と板橋区立美術館とは双璧です。その後者の板橋区立美術館で開催中の「奥絵師・木挽町狩野家」展が6日までということで、天気は降ったり止んだりと不安定だったのですが、出かけてきました。

館蔵品展ということもあって大出血サービスで観覧無料というのが嬉しいですが、さらに嬉しいことに、写真撮影が出来て、さらにお座敷コーナーには、5点の屏風が巡らされて、ガラス越しではなく、間近に屏風に対することができます。いきおい畳に横になって眺めたいところでしたが、監視員がいるので、きちんと静坐して鑑賞です。まして、公儀お抱えの絵師の狩野派ですので、無礼があると、お咎めを受けそうです。

木挽町狩野家は、江戸の狩野四家(中橋・鍛冶橋・木挽町・浜町)のうちの一つで、狩野孝信の息子のうち、二男の尚信に始まる系統。その6代目の栄川院典信の時に木挽町に屋敷を拝領してから木挽町狩野家と呼ばれるようになりました。それ以前は竹川町に屋敷があったので竹川町狩野家なのですが、遡って尚信を木挽町狩野家の初代に数えます。

栄川院典信は、停滞した狩野派の活性化を図り、7代・養川院惟信、8代・伊川院栄信、9代・晴川院養信と、後に続く者も狩野派に新風を吹き込むことに勉めて優れた作品を生み出し、そのため幕府からも重用されました。また、狩野芳崖、橋本雅邦は、最後の10代・勝川院雅信に学んでおり、江戸から明治への橋渡しの役割を果たしています。先日、松永記念館で見た友信も雅信に学んでいます。

とは言え、狩野派の粉本主義と呼ばれる形式化されたスタイルは抜けがたいものがあり、〈四季花鳥図〉という類は、やはり退屈です。理由の一つには奥絵師の仕事としての公的な調度品としての制約がありますが、見ていて面白いのは、そうしたオフィシャルなものからは外れたものです。

karako.jpgむろん形式化しているとは言っても、栄川院典信の「唐子遊図屏風」なようなモノは見ていて面白いですし、たぶんに私の好みが〈四季花鳥図〉には無いことが理由でもあります。

しかし好みに忠実に従えば、晴川院養信の「鷹狩図屏風」は、鷹狩りの様子を描いて余すところがなく、伊川院栄信の「花鳥図」は、牡丹の背景の青が鮮烈で、好もしい作品です。

saigyo.jpg物語を題材にした作品も良いです。尚信の「富士見西行・大原御幸図屏風」は、右隻に富士見西行、左隻に大原御幸を描いていますが、富士見西行の大胆な空間の使い方が見ていて飽きさせませんし、狩野寿信の「徒然草屏風」は、『徒然草』から8つのエピソードを描いていて、これもいつまでも見ていたい作品です。

お座敷コーナーに河鍋曉斎の「龍虎図屏風」がありましたが、狩野派の流れを汲む曉斎の技量を改めて再確認しました。曉斎の妖怪画をもてはやすのは好い加減止めた方が良いように思いますよ。(今回の展示品ではありませんが)「美人観蛙戯図」などの曉斎の方が好きですね。


2時間近くたっぷり鑑賞して外に出ると、来るときに降っていた雨が止んでいます。いつもは行き帰り都営三田線西高島平駅を使っているのですが、距離が1.5倍くらいの違いなので、東武東上線の下赤塚駅まで歩いて見ることにしました。途中にある東京大仏も見ておこうと思ったのですが、行ってみると入門は3時45分までというつれないご案内。ちょっと敷居が高いですねぇ。

東上線に乗ってから気づいたのですが、もうちょっと行くと東京メトロの有楽町・副都心線の赤塚駅があるので、一本で新宿まで出られました。失敗したなぁ。


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2012年05月03日

柳瀬叢雨

最初の週間予報では曇り時々雨でしたが、いざ木曜日になってみると夜半から降り出した強い雨が止む気配がありません。しかし、当初の予定通り、所沢市坂の下にある「柳瀬荘」に出かけることにしました。何とはなれば、柳瀬荘が公開されるのが週一回木曜日だけなのですが、今日を逃すと2016年まで木曜日が祝日になることがないからです。

雨が降っていなければ、自転車で、行きは三富開拓地を通り、帰りは滝の城址を回ってというのも考えていたのですが、万やむを得ず所沢駅東口から志木駅南口行きのバスへ乗車。

20分以上バスに揺られて、所沢市の東端に到達。この雨の中、柳瀬荘を見学しようという物好きはいるはずもなく。バスを降りる乗客は私一人。柳瀬荘の訪問者も私一人です。

柳瀬荘の現在の所有は東京国立博物館ですが、昭和23年(1948)に寄贈される以前の持ち主は、耳庵松永安左ヱ門(1875〜1971)でした。4月29日に小田原の老欅荘を訪問したのも、もとはと言えば、勤労して税金を納めている模範的な国民である私が、5月3日しか柳瀬荘を訪問する機会がないことから計画が始まっています。この機会に耳庵関係の建物で見ていないものを見尽くしてしまおうというところです。

ourinkaku.jpg柳瀬荘は、黄林閣、斜月亭、久木庵からなります。黄林閣は、天保15年(1844)に建てられた東久留米市柳窪の大庄屋の屋敷を移築したもので、重要文化財に指定されています。まさに「大」庄屋の屋敷と呼ぶべき規模です。

久木庵は、江戸初期に建てられた土岐二三の茶室を移築したもので、2畳台目の草庵風の茶室です。この久木庵と黄林閣の間にあるのが、耳庵が意匠を凝らした斜月亭です。

shagetsutei.jpg黄林閣からの廊下が平面も立面も斜めに斜月亭に渡っているところは一見して数寄者の遊びが見られますが、茶人の数寄はもっと厭らしいものです。床や書院の柱や框などが凸凹していて整っていないように見えますが、それは東大寺や当麻寺の古材を転用しているからです。これを主人が自慢すると野卑になります。茶人の風体は、分かる奴だけ分かれば良いというのが常道です。

所沢と志木の間のバスは1時間1本なので不自由この上ありませんが、他に客もいないことなので、一通り見たら、黄林閣の縁側に腰掛けて、バスの来る時間まで雨音を聴きながら読書。秋艸道人會津八一の歌集『鹿鳴集』を、私のような自称孫弟子ではなく、本物の弟子の吉野秀雄が解説した『鹿鳴集歌解』(もう一冊、李氏朝鮮の朱子学者の党争についての本もカバンに入っていたのですが、とても気分ではありません)。

中に当麻寺の歌もあります。

ふたがみの てらのきざはし あきたけて やまのしづくに ぬれぬひぞなき

季節違いですが、気分は合っています。それに、老欅荘を訪れた時にも感じたのですが、柳瀬荘で確信したのは、耳庵が好もしいと思う季節は秋だろうということです。紅葉する樹木が肝心な場所に配置されています。ならば秋の歌が好い。

紅葉の時期に来られないのが残念ですが・・・まぁ、訪問できただけでも良しとしましょう。あと残っている懸案は、旧江戸川乱歩邸(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター)です。こちらは金曜日のみ公開で、しかも祝日は休館です。勤労して税金を納めている模範的な国民はいったいどうしたら見ることができるのか・・・

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2012年04月30日

「三都画家くらべ」:府中市美術館

santo.jpg府中市美術館で「三都画家くらべ 京、大坂をみて江戸を知る」が開催中です。出展リストを見ると個人蔵が大半で、この機会を逃すと、次はいつ見られるか分かりませんので、見にゆきたいとは思っていたのですが、会期終了間際(5月6日まで)になって、ようやく見にゆくことができました。

タイトルの通り、江戸絵画を、江戸、京、大坂という地域に分けて比較してみようという企画です。「三都」とは言うものの、京と大坂は、近いだけあって人物の交流も、上方と江戸の間に比べれば、ずいぶんと盛んですので、京・大坂はひとまとめで良いような気もしまう。上方と江戸、で十分かも。

上方と江戸では明らかに違います。「人物画くらべ」の美人画で、それが端的に表れています。江戸の美人は、松野親信の「本を読む美人図」にしても、懐月堂度辰の「立美人図」にしても、ツンデレ風です。昔の言葉で言えば「おきゃん」で「おてんば」。江戸は、やはり武士と男伊達の街です。

一方の上方は、人間に陰影があります。京の祇園井特、三島上龍に関する解説で「京の人々の高度で複雑な美意識を物語っている」とありましたが、いやいや、京女の底意地の悪さを写実したら、美人画としたら異様な出来になったのではないのかな。

京の画家で言えば、何と言っても円山応挙でしょう。応挙と長沢蘆雪、師弟の「楚蓮香図」が並べて展示してありました。楚蓮香は、立ち上る芳香で、外出すると胡蝶が周りを飛んでつき従ったという、唐の時代の伝説の美女です。応挙はたしかに上手いのですが、上手いだけ。艶があるのは蘆雪です。応挙先生はお茶屋遊びが足りなかったと見えます。その点、蘆雪は怪死を遂げるだけあって、世すれています。

京の人で大坂暮らし、つまり上方の中村芳中の「人物花鳥図巻」は、琳派のたらし込みの技法を目の当たりに見ることができますが、サイコロ賭博をしている人物(一人は布袋?)の表情が何とも言えないおかしみがあります。人物のおかみしで言うなら、大坂の文人画家岡田米山人の「山水・人物・花卉図屏風」でしょう。これは有名な作品ですので、知っている人も多いかも知れませんが、飄逸とした雰囲気が心地よく、座敷に引き回して、屏風の影で居眠りをしたくなります。

総じて、江戸のものより、上方の方が私の好みにはあっているのを再確認しました。

上方と言えば、常設展の小特集で「京の銅版画」をしていたのが、掘り出し物でした。これ専門の企画展でも良いですね。

gengendo.jpgいずれもハガキ大(8cm×14cm)の小さなサイズに紙に、松本保居(玄々堂)、岡田春灯斎、石田有年(または石田旭山)らの銅版画による名所図が刷り出されています。ロビーに大きく引き延ばされていた玄々堂の「祇園社神輿あらいのりもの」「浪花安治川口天保山春之景」。あるいは春灯斎の「祇園祭山鉾図」など、出来の良いのもありますが、全体的には、名所絵図の引き写しであったりして、絵自体はさほどすばらしいとも言えず、遠近法も狂っていますが、興趣はそこにはないのでしょう。

細かい描写で見ていると目が疲れてきますので、家でじっくり見たいところですが、図録とかは無く、玄々堂の「四条川原夕涼之図」の絵ハガキだけがありました。それと、蘆雪が良かったのですが、蘆雪が無いので応挙の楚蓮香図の絵ハガキとを買って帰ってきました。

(調べてみたら東京の天理ギャラリーで2006年に企画展「幕末明治の銅版画」があったようです。図録が残っているかどうか問い合わせてみよっと。)

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2012年04月29日

小田原道中(2)電力と数寄

松永安左ヱ門(1875〜1971)が、小田原の地に移り住んだのは、昭和21年(1946)のことです。戦前、東邦電力社長・会長として電力の国家統制に抵抗し、それに敗れた後、所沢の柳瀬山荘に隠棲しました。松永がそこで没頭したのが、茶事です。耳庵を名乗りました。

耳庵が茶を始めたのは昭和の初めです。茶の師は、鈍翁こと益田孝(1848〜1938)、三井の総帥です。「茶人」鈍翁と運命的な出会いをした時、安永は数えで61歳。『論語』為政篇の「六十而耳順」から採って号としました。その時の茶会の客が、杉山茂丸・福澤桃助・山下亀三郎、曲者ばかりです。鈍翁は、明治39年(1906)、小田原市に別邸掃雲台を営みますが、耳庵が遅く小田原に居を構えたのも、師鈍翁の遺芳です。

柳瀬山荘を手放し、小田原に引っ込んだつもりの耳庵でしたが、昭和24年(1949)に引っ張り出されて電気事業再編審議員に就任します。ここから「電力の鬼」と称される活躍が始まります。

耳庵が強行したのが、全国を9ブロックに分割し、発送配電一貫経営の民間会社を配置するという現在の電力体制です。ニュースを騒がしている東京電力もこの時生まれました。今、東電によって我々が蒙っている危害の一因は、耳庵が強行した地域独占の発送配電一貫によるもので、戦前の、例えば耳庵が東邦電力の会長を務めていた頃のように、電力会社のサービスエリアが錯綜し重複していたような状況ならば、東電は嫌だから、他の電力会社を使うということが出来たでしょう。ただし、このことは電力の安定供給とは必ずしも合致しません。ネットでは新自由主義の評判は悪いですが、戦前の日本などは極端な自由主義経済で、戦中の経済統制や戦後の行政指導などは、みごとなまでの国家社会主義です。どちらにしても帯に短したすきに長しです。

さて、話を元に戻しましょう。しかし、誤解しては困るのは、耳庵は、日本発送電会社という国策会社を解体し、民営化させるための手段として、9ブロック分割案を出したのであって、その主眼は民営化にあったのです。東電が政府の管理をかたくなに拒んでいるのは、この耳庵の遺伝子かも知れません。国策会社を民営化する際に地域ごとに分割するというパターンは、この後、日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本道路公団の民営化などの際に踏襲されます。


さて、ここで耳庵の話題を出しているのは、何も東電の問題にからめたジャーナリスティックな興味ではなく、ただ単にそれはきっかけに過ぎません。安永と言わず「耳庵」と書いているように、私が先に知っていたその男は、「電力の鬼」安永安左ヱ門ではなく、茶人耳庵であり、さらに、耳庵のことをよく知るようになったのは、平成21年に慶応義塾創立150年記念企画展「未来をひらく福澤諭吉展」にかかわった時に、資料として耳庵の書いた『人間 福澤諭吉』(実業之日本社から2008年に復刊)を読んで以来です。

耳庵と福澤とについては、結局、その時はブログに書くことはありませんでしたが、耳庵は福澤がまだ健在な時に慶應義塾に籍を置き、直接に福澤の謦咳に接しています。最初の出会いがふるっていて、入学したての若き耳庵が校庭で先生にお辞儀をしていたのを福澤が見とがめて、福澤曰く、「うちでお前さん方に教えているのは、生徒の古いんで、お前さんの方の仲間、いわば同格だ。ただ少し早う入って、年も上、勉強もちっとは進んどるだけなんだ」と言って、耳庵を叱ったのです。慶應と言えば、《先生》は福澤諭吉ただ一人というのは有名ですが、「ここで先生といえば、まあこのわたしだけなんだが、このわたしにもいちいち用もないのにお辞儀なんぞせんでいい。ごく自然な会釈でたくさんだ」とは福澤先生のお言葉。まったく、どこかの大学出身の人間に煎じて呑ませてやりたいことです。おや、つい本音が(笑)

耳庵が福澤先生をどれくらい敬愛していたかと言うと、勲一等瑞宝章の授章式は欠席しても、福澤全集完成記念会には出席したというほど。こうした弟子が一人でもいたならば、教師として誠に幸福であると言えるでしょう。某大学の教師がこれだけの弟子を(以下略)

rokyoso03.jpg前置きが長くなりましたが、その耳庵の終の棲家となった小田原の住居「老欅荘」訪問が、今回の小田原行の裏テーマにして、真の目的です。

中世小田原城の遺跡「小峰御鐘ノ台大堀切東堀」を通り抜けて、その南端からさらに坂を下ってゆくと、左手に山縣有朋の古稀庵庭園、右手に元は大倉喜八郎の別荘、現在は割烹旅館山月が見えてきます。有朋の作庭センスは、言われているほど感心はしませんし、山月の方は懐の具合が悪く、貧乏学者には敷居が高いので、もれなく山月の先の小道を右に折れてまっすぐ松永記念館・老欅荘へ。

もとは財団法人松永記念館だったのですが、財団が昭和54年(1979)に解散して、小田原市に土地・建物が寄贈され、現在、小田原市郷土文化館の分館となっています。入館料は驚きの無料。貧乏学者にはありがたい。浮いたお金で図録を買い込むので、結果は極端な赤字転落ですが(爆)

記念館は、本館と別館、そして耳庵の住居だった老欅荘からなっています。敷地には耳庵の生前には茶室黄梅庵があったのですが、これは堺市の大仙公園に移築され、その代わりに幻庵野崎廣太の葉雨庵が移築されてきています。

rokyoso02.jpg本館には耳庵の生涯を紹介する展示があり、別館にはゆかりの美術品が展示されています。訪問した時には、別館には浦上玉堂、松村呉春、谷文晁、岡本秋暉、狩野友信が展示されていましたが、出色だったのは友信の「武者絵図屏風」です。六曲一双の右隻には、稲村ヶ崎で海に太刀を投じる新田義貞が描かれているのですが、左隻には、潮が引いて海底が露わになった様子が描かれています。友信の狙いは、明らかに海底のアワビやサザエといった貝、エビ、カニ、ヒトデを描くことにあります。

さて、本題中の本題。老欅荘です。茶人耳庵の数寄が凝らされた住居です。連休中だと言うのに客は私一人。係りの人にたっぷり説明をしてもらい、ついでにたっぷり雑談を。なんでも耳庵の生地壱岐にある松永記念館に関係者で訪問した時に3.11の地震があって、慌てて帰ってきたとか。さすがに小田原は震源から遠く、老欅荘には被害は無かったそうです。

10畳の広間にある床は3畳もあり、耳庵はそこに自分の棺を置いてもらうつもりだったのですが、実際には記念館本館2階の広間に安置されたそうです。

rokyoso01.jpg鎖の間の花頭窓など各所に意匠が凝らされているのですが、やはり老欅荘内の茶室(と言っても老欅荘はどこでも茶が建てられる構造になっているのですが)松下亭の意匠がいちだんと優れています。付書院風の肘掛窓があって、茶室専用という風情でも無いのですが、実際、耳庵は、この部屋で起居してそうです。

客がいないことを良いことに、庭を眺めながら、ひたすらまったり。


老欅荘を出ると、どこも閉館時間を過ぎているような時間でしたので、のんびりと旧東海道を歩いて小田原駅まで。鯵にこだわって晩飯をついに食いそびれましたが、まぁ、それもまた来る理由が出来たということで。

さて、耳庵が小田原に移住する前に暮らしていた所沢の柳瀬山荘ですが、私の住んでいるところからそう遠くもないものの、木曜日のみ公開というハードルに阻まれて、これまでは外を通り過ぎるだけでした。ところが、今週の木曜日は運よく憲法記念日に当たっています。天気予報は曇り時々雨ですが、この機会を逃すと、次の機会は何年先になるか分かりませんので、吶喊する予定です。


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小田原道中(1)古い城と新しい城

小田原に来ています。表テーマと裏テーマがありますが、まずは表テーマから。

umadashimon.jpg平成5年に策定された「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」に従い、小田原城ではこれまでに銅門(平成9年)と馬出門(平成21年)が復元されています。銅門が復元された頃から、見に行きたいとは思いつつ、時期を逃し続けて、ついに本日、小田原までやってきました。なぜ踏ん切りがついたかと言えば、裏テーマのお蔭ですが、それは次のエントリーで。

馬出門は、大手門から三の丸に入り、二の丸に入る手前に存在する一つの曲輪の規模を持つ大馬出である馬屋曲輪に入るための門です。天守閣で配っていたパンフには「馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いた」と書いてありますが、大馬出にある門だから馬出門ではないのかなぁ。或いはダブル・ミーニングかも知れませんが。

akaganemon.jpgさて、その馬屋曲輪を経て、二の丸に入る門が銅門で、二の丸を経て本丸に入るための門が常磐木門(昭和46年復興)です。大手門はさておき、正式の登城ルートに沿って復元されていることになりますので、上出来の整備プランです。

銅門が正式な入口となる二の丸ですが、そこには二の丸御屋形がありました。慶応元年(1865)、三度目にして最後の上洛になる14代将軍徳川家茂の上洛に合わせ二の丸御屋形の増改築が行われたのですが、その際の資料が資料館となっている天守閣に何点か展示されています。赤字で増築部が示された「二の丸御屋形図」や棟上式の様子を描いた「城御殿棟上式図」など、BOBLBEEのザックから手帳を出してメモをとっている私の姿を子どもたちが奇異な目で見ていましたが、研究者たる者、そんなことに動じるガラスのハートを持っていたらやっていけません(笑)まぁ、研究目的で来ているわけでもないのに、すぐメモを取るのも人としてどうかとは思いますが。

奮発して小田原城の文久図も購入。ここのところ古地図の複製を良く買うような気がしますが、たぶん気の所為です。

小田原城の天守閣に登るのは、下手をすると20年ぶりです。雛形(模型)が3基も残っているにもかかわらず、昭和35年の建築時には、それを無視している部分がありますので、木造で作り直しても良いかとは思いますよ。築50年ですから、そろそろ老朽化もしているでしょうし。

higashikuruwa.jpgさて、その天守閣を眺める絶好の場所が最近出来ました。「出来た」と言うと語弊がありますが、文化財保護の宿敵マンション建設を市民の運動で押しとどめ、その後、整備されて平成22年に史跡公園「八幡山古郭東曲輪」として公開されたのが、その場所です。東曲輪は、後北条氏の居城であった中世小田原城の中核部の一部です。近世小田原城と堀切を挟んである(今はJR東海道線などが通っています)この東曲輪から眺めると、天守閣越しに相模湾を眺めることができます。

まぁ、歴史好き以外には単に急斜面の上にある平らな空き地に過ぎませんけどね。さっきまでの天守閣の連休の賑わいが嘘のように私の他にまったく人がいません。そんなものだからなのでしょう、中核部分のさらに中核は、城山陸上競技場や小田原高校を作る際に削平されてしまって跡形も無くなるという次第です。

ohorikiri.jpg幸いなことには、東端の東曲輪が残ったように、西端では、小峰御鐘ノ台大堀切東堀が残っています。大堀切は、西堀、中堀、東堀の三つの堀が連続する堅固な防壁なのですが、そのうちの東堀が良好な状態で残されています。

天気が良いのも善し悪しで、東曲輪からほぼ登り坂をひたすら1200m近く歩いていたら、汗ダラダラです。それだけに、大堀切の中を通ってくる海風の気持ち良いこと。

まぁ、ここも歴史好きでなければ、開発から取り残された単なる谷なのですが。

さて、大堀切の底を通り抜けて山手の住宅街の中にある裏テーマへ向かいましょう。次は「好き」ではなく、「数寄」です。


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2012年04月07日

格納庫

kakunoko.jpg今週末の土日の所沢市民文化フェアに合わせて、会場の所沢航空公園内にある所沢航空発祥記念館の格納庫と航空公園駅前のYS-11の内部が特別公開になっています。

ベランダ用のサンダルを買いに出かけたついでに、格納庫の中をのぞいてゆくことにしました。格納庫と言っても記念館の展示スペースよりも狭く、ノースアメリカンF-66Dセイバーや富士ベルHU-1Bヘリコプター、川崎バートルKV-107ヘリコプターなど、小型機や小型ヘリばかりです。中には、ガムテープで補修されている箇所もあって、記念館内の展示品と比べて整備の手があまり加えられていないようです。

ヘリコプターは操縦席まで搭乗できるモノが2機ほどありましたが、父親が真っ先に操縦桿を握り、子どもが父親に変わるよう急かし、母親が親子のやりとりを眺めているのがお決まりの光景(笑)

また、格納庫には、厚木基地の土中から掘り出された航空機エンジン「火星」や逆噴射実験用エンジン、落下衝撃試験に使用されたYS-11の胴体など、ちょっと変わったモノもありました。


azumagawa.jpg市民文化フェアの出店をひやかしながら、公園内をぶらぶら。八分咲きの桜もありますが、多くはつぼみ〜六分咲きといった程度で、見頃は来週になりそうです。そのまま航空公園を突っ切って、東川まで下りてみると、こちらの川沿いの河津桜は満開です。

桜を眺めながら、飛行機新道から所沢の街へ。歩道が狭いので、あまり桜ばかり見ていられてませんが。

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2012年04月05日

バロン・サツマ 〜メゾン・ドゥ・ジャポンの夢

新年度の済ませるべき手続きを済ませるために早稲田に来てみると、中央図書館の展示室で「バロン・サツマが来たァ!」展をしていました。

バロン・サツマこと薩摩治郎八(1901〜1976)は、国内屈指の木綿織物商薩摩商店の三代目に生まれ、その資金力を背景にして、パリを中心に、文化・芸術のパトロネージュをした人物です。

大正12年(1923)、パリに移住し、フランスと日本の間を行ったり来たりしながら、昭和4年(1929)、パリ在住の日本人美術家の団体「仏蘭西日本美術家協会(会長:藤田嗣治)」を援助して展覧会を開催させ、第2次大戦中はフランスに留まり、戦後、日仏交歓プロ自転車競技大会の開催(昭和32年)に尽力するなどしましたが、その業績で今に残るものは、パリ国際大学都市日本館の建設と運営への援助でしょう。パリ国際大学都市は、パリ周辺の高等教育機関および研究機関に在籍する研究者に宿舎を提供する施設で、大正14年(1925)、当時の文部大臣アンドレ・オノラの提唱で開設されました。日本館はそのうちの一つで、他にイギリス館やドイツ館、アメリカ館にインド館、あるいはモロッコ館など40の留学生寮があります。

ここ最近、相次いで薩摩治郎八の評伝が刊行されていて、何事かと思うのですが、早稲田で展覧会をしているのは流行に乗ったのではなく、未亡人の利子夫人から遺品が早稲田大学図書館に寄贈されたことを記念したものです。

現在の日本では、大企業はサラリーマン社長ばかりで、文化の後援者となるような企業人はいなくなり、個人で金を持っているのは大抵は成金で、教養の持ち合わせが無く、すでに権威のあるモノには金を注いでも、これからのモノを見抜いて、それに金をかけるというような人物は払底してしまっています。とんと金の使い方を知らないのです。薩摩治郎八の再評価は、そうした時代と無関係ではないのでしょう。


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2012年04月01日

性と聖の交錯

行こう行こうと思いながらも日程が合わなかったり震災で自粛したりとかで、すっかり「念願の」が冠になってしまった川崎の金山神社の「かなまら祭」にようやく行ってきました。

まさにCool Japan! 聞いてはいましたが川崎大師へ向かう大師線が外国人観光客だらけでニューヨークの地下鉄のようです。

駅を下りると、まさに目の前をエリザベス神輿が巡行中です。かなまら大神輿、かなまら舟神輿は黒光りする遊び人ですが、エリザベス神輿は春らしい桜色の巨体が天に向かって突き立っています。

kanamara02.jpgさっそくエリザベスについて行くことにしました。ふつうの祭半纏に混じって、コスプレをした人も。そして手に手に一物の形をした飴を持つ妙齢の女性が。

まさにカルナバル、混沌としています。整然とした見せるためのショー的な祭が多くなるなか、秩序をいったん無化する祝祭の姿がこの祭にはあります。いやいや、そこまで高尚ではない(笑)下品で猥雑で、だからこそ熱気があります。哄笑があります。

kanamara01.jpg天の岩屋戸に引きこもったアマテラスを誘い出すための祝祭で、アメノウズメが女陰を露わにして踊り、それを見て神々が笑い騒ぎ、それがアマテラスに変わる新しい神を示していたように、性の力というものが、聖の力に転換するのは、文化人類学者・民俗学者の説を引くまでもなく、時代と地域を通して、広く見られることですが、日本においては、もともと両者のハードルは低く、かなまら祭が「奇祭」と呼ばれるのは、むしろ日本の伝統の衰退と見ることもできます。

その衰退には、歴史的に見ると、神社を国家が管理する都合から、合祀による神社整理を行い、また、祭祀を国家が規定し、各神社の由緒ある祭礼が特殊神事として脇に追いやられるなど、明治政府の宗教政策が神道を規格化し、信仰の生命力を奪うものであったことが、原因の大きな部分を占めています。

また、近年では、管理することも、されることも人々が望むような、デストピア的な社会環境になり、祭礼も様々な規制を受けます。

まぁ、かなまら祭を一般化するのは差し障りがありますが(笑)少なくとも伝統文化というショーケースに入れられて管理されていない人々のエネルギーが見られることは確かです。

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2012年03月28日

東京の回教寺院

ランチの時に不図思い立って代々木上原にある東京ジャーミィに行ってみました。

camii02.jpgジャーミィとは金曜礼拝が行われる大規模なマスジド(モスク)のことで、マスジド・ジャーミィとも言います。現在ある東京ジャーミィはトルコ文化センターを併設していることから察せられるようにトルコ宗務庁の援助で平成12年(2000)に開堂したものですが、その前身は、東京回教学院で、ロシア革命で日本に亡命していたタタール人の指導者ムハンマド・アブドゥルハイ・クルバンアリが昭和6年(1931)に代々木富ヶ谷に開校し、昭和10年に現在地に移転、昭和13年になって学院の隣に開堂したのが初代の東京ジャーミィです。なお、このジャーミィは昭和61年(1986)老朽化のため取り壊されています。なぜトルコ政府が二代目のジャーミィ建設の援助をしたかと言うと、ロシアを追われたタタール人は大トルコ主義の立場から「トルコ人」という認定を受けてトルコ共和国の国籍を取得したからです。

初代のジャーミィの建設には、頭山満、犬養毅らアジア主義者がかかわっていました。興亜のためなら宗教、人種おかまいなしというところが、狭量な戦前の軍部や今のネトウヨとは違うとことです。ちなみにクルバンアリは軍部に睨まれて、ジャーミィの完成を見ることなく国外追放になっています。

また、右翼と言えば落とせないのが大川周明ですが、大川の本職は、『回教概論』や、『クルアーン』の翻訳(『古蘭経』)の業績があるイスラム学者です。なんだかんだで右翼とイスラムとは縁があります。

小田急線代々木上原駅から徒歩3,4分ほどの距離で、駅前の通りから井の頭通りに出るとジャーミィのミナレットがすぐ視界に入ります。イスラームというと厳ついイメージがあるかも知れませんが、けっこう気楽に中に入れます。と言うかトルコ人気質でしょうか、かなりいい加減で、今日などは受付や物販の所に人がおらず、不用心も良いところです。

ちょうど12時のズフルの礼拝の時間に当たっていて、4,5人ほど礼拝をしていましたので、礼拝堂の中はのぞくだけにして、入り口脇のテラスに腰掛けてしばらくボーッとしていました。まぁ、要は腹ごなしの散歩です。

camii01.jpgオスマン様式ということですが、オスマン様式とは即ちビザンチン様式で、ビザンチン様式とは即ちローマ正教会を受け継いだロシアの教会堂の様式ですので、お茶の水のニコライ堂と、ある角度から見ると似ています。まぁ、こんなことを言うと、敬虔な人からは怒られそうですが・・・。違いを示すのはトルコ人好みの鋭角の三角屋根のミナレットです。

小田急線で新宿から4駅の距離というのがやや中途半端。1,2駅ぐらいだと定番散歩コースにしても良いんですけどねぇ。

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2012年03月25日

「東インド会社とアジアの海賊」展:東洋文庫ミュージアム

駒込の財団法人東洋文庫に来ています。と言っても調査目的ではなく、昨年10月にオープンした東洋文庫ミュージアムに今ごろやっとの訪問です。

今月7日から企画展「東インド会社とアジアの海賊」展が始まっています。「海賊」と言っても、立場の違いによって「賊」であるか否かは変わってきます。だいたい東アジアの海賊は商人と兼業です。中国人の父と日本人の母の間に生まれた鄭成功などはその典型です。彼は清にとっては海賊のままでしたが、明にとっては忠臣に変わりました。また、阿片戦争をしかけたイギリス東インド会社などは清にとっては海賊と言っても良いでしょう。しかし、まだ中国などましな方で、インドに対しては、商品や人を奪うどころか、国すら奪っています。オランダ東インド会社は、同じくインドネシアの島々を奪っています。「アジアの海賊」とは、‘at’ではなく、‘to’の方の意味かも知れません。

morrisonsbunko.jpg展示品は著名なモノが大半ですが、借り物でなく自前で所蔵しているのが、東洋文庫が世界有数の東洋学センターである所以です。その規模は、大英図書館(Asia, Pacific and Africa Collections)、ビブリオテーク・ナショナル(仏)、サンクトペテルブルク東洋学研究所(露)、ハーバード大学燕京図書館(米)と並びます。その蔵書の核となるのは、三菱財閥三代目総帥の岩崎久彌が購入した英タイムズ誌の北京特派員G.E.モリソンのモリソン文庫と、その久彌自身による岩崎文庫です。

モンタヌスの『日本誌』(1669年)は、宣教師や東インド会社の商人の報告書を基に想像で書いているので、私の大好きな“誤解された”日本が満載です。「日本の貴婦人」と題された絵では、梶棒が前ではなく後についた乗り物に乗っています。また、今回は展示されていませんが「大仏殿」とか「江戸城」とかは無茶苦茶です。展示しなかったのは東洋文庫の良心か(笑)

モンタヌスは想像ですが、かりにも日本に本当に行って将軍にも謁見したケンペルの『日本誌』(1728年)も、展示されている江戸城大広間の様子は、いちおう書き込まれた情報は正確なのですが、何かが変です。

さすがにシーボルトの『日本』(1832年)の挿絵はかなりまともです。さすがに19世紀ともなると、挿絵は写実的です。ヨーロッパ人もアジアの風景を見なれたということでしょうか。むろんそれはお互い様で、今回の展示にはないのですが、江戸時代の日本人が想像で描いたヨーロッパはずいぶんと珍妙です。眼の構造は変わりが無いとは言え、それを処理する脳に蓄積されたデータと組み込まれたソフトには時代や文化の制約があり、絵は写真ほどには正確ではありません。

展示されているモノはどれも素晴らしいものばかりなのですが、配布資料が頂けません。「展示品リスト」は展示品のタイトルだけが記されているだけですし、リーフレットは総展示品数78点に対して24点についてしか解説しておらず、どちらも情報量が不足しています。リーフレットは500円と安価だったのですが、1500円くらいなら許容範囲(まぁ、これは人によって異なるでしょうが)ですので、全展示品についての解説を掲載した冊子にして欲しかったです。

フラッシュを焚かなければ写真撮影可ですので、これはというモノは写真に撮っておいて正解でした。次回からカメラ必携ですね。


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2012年03月20日

〈武家の古都〉鎌倉と幻の明治憲法記念館

休日が晴天になるのは1か月くらいぶりです。今週末も天気が下り坂という予報でしたので、春分の日の今日は少し遠出をすることにしました。

「中世歴史博物館」を名乗る神奈川県立金沢文庫では、なかなか私の足を所沢から向けさせる企画展がなかったのですが、現在開催中の「鎌倉めぐり」は、ひさびさに心惹かれる企画展です。

この企画展は「「武家の古都 鎌倉」世界遺産登録推進」を謳っていますが、今回の展示は、鎌倉が「武家の古都」と認識され観光地化した江戸時代以降の鎌倉の地図や紀行文が中心で、まさに私の関心領域内です。

観光地と言っても、遊興の地であった隣りの江ノ島や、風光を楽しむ金沢八景に対して、鎌倉の観光は、修学旅行でした。同じパターンのモノが何種類も作られた一枚刷りの「鎌倉絵図」には、鶴岡八幡宮や高徳院大仏などの実在する社寺のほかに、「頼朝公御屋敷」「親王屋敷」「文覚屋敷」「土佐坊屋敷」「尊氏屋敷」などの屋敷跡が示されていて、「武家の古都」鎌倉の歴史をたどることができるようになっています。現在の観光マップでも遺蹟を示す石碑の位置が記され、社寺参詣と並んで、鎌倉観光の楽しみが歴史探訪であることは江戸時代から変わりありません。

地図の中の情報を一つ一つ読んでいると時間がいくらあっても尽きません。しかし、もう一箇所行きたい場所がありますので、あとは図録で楽しもうと思ったのですが、どうも図録の出来が良くありません。まぁ、A4版32頁の小冊子に文句を言っても詮無いのですが、地図の掲載サイズが小さく、地図中の文字がよく読めないモノがあります。また、冊子のサイズとは関係ないことですが、「江島鎌倉道中記」(p.23)は、展示されていたモノには房総から三浦半島への航路が書き込まれていたのに、図録に掲載されたモノには、それが有りません。展示と図録とは別のモノなのでしょうか。


shomyoji.jpg金沢文庫から隧道を潜って称名寺の境内へ。まだ桜には早く、枝ばかりが目に付きますが、梅が数本あって彩りを添えています。

ひさしぶりの金沢ですので、金沢文庫駅に戻らず、金沢八景までぶらぶら散歩。称名寺の赤門から真っ直ぐ進むと、平潟湾に突き当たりますが、そこに「明治憲法起草の碑」が建っています。ただ、説明板は「明治憲法起草の碑」なのですが、石碑に書いてあるのは金子堅太郎の筆になる「憲法草創之處」なんですよね。統一しては如何かと。

明治20年(1887)6月から、伊藤博文は、金子堅太郎・伊東巳代治・井上毅らブレーンを集めて、金沢八景の「東屋旅館」で憲法の構想を練り始めます。そのため、ここが「草創之処」となります。ただし、東屋旅館は、この石碑のある場所から40mほど金沢八景駅の方へ行ったところにあり、その庭園内に石碑が建っていたのですが、旅館が廃業した後、現在地に石碑が移されました。

憲法草案の方は、その後、東屋に盗賊が入って機密書類が盗まれるということがあったことから、安全のため、平潟湾に浮かぶ夏島にあった伊藤の別荘に会場を移し、そこで憲法草案が完成されました。

現在、夏島には記念碑があるだけですが、その手前の野島に、明治31年(1898)、伊藤は別荘を建てます。それが「旧伊藤博文金沢別邸」として現存し、平成21年(2009)から撤去部分も復元して公開されていますので、そこまで行きます。もはや散歩とは名ばかりですが、それはいつものこと。


4時30分閉館で、4時に到着。間に合いました。少し金沢文庫で時間を取りすぎたようです。

itotei.jpg旧伊藤博文金沢別邸は、茅葺寄棟の田舎屋風の質素な造りです。伊藤はこの別荘にある計画を立てていました。それが「赤坂仮皇居御会食所移築計画」です。赤坂仮皇居御会食所とは、明治21年、明治憲法の審議が行われた場所です。明治31年、東宮御所造営のため解体されることが決まると、伊藤は明治天皇に願って、明治40年に下賜されることになります。伊藤にとっては、自分が心血を注いだ明治憲法の記憶を留めておきたかったのでしょう、下賜前年の39年には既に金沢別邸への移築計画の図面を作らせています。しかし、実際には赤坂仮皇居御会食所は伊藤の大井別邸に移築され、伊藤の歿後の大正7年(1918)、明治神宮封献会に封献され、現在は明治記念館本館となっています。金沢八景の住民にとっては残念な結果ですが、いずれにしても現存しているのはありがたいことです。

別邸の客間は東京湾の眺望を楽しめるように配置されていますが、畳に横になって東京湾の景色を眺めていられたら気持ち良いでしょうね。祝日でも客は私の他は3組程度でしたので、平日なら独占できそうです。

4時30分で目出度く追い出されたので、さてさて、おとなしく帰りますか。今度こそ本当にぶらぶらと平潟湾に沿って金沢八景駅へ。

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2012年03月10日

「琉球王朝の華 組踊と琉球舞踊」展

永田町の方へ行く用があったので、伝統芸能情報館で開催中の企画展示「琉球王朝の華 組踊と琉球舞踊」展を見てゆくことにしました。

伝統芸能情報館は国立劇場の裏手にあるのですが、小劇場の方では、ちょうど今日、「組踊と創作舞踊」という新作の公演をしているようです。とても優雅に観劇という懐具合ではないので、入場無料の企画展示が私には相応しい(爆)

玉城朝薫によって18世紀に創始された琉球の楽劇「組踊」と琉球舞踊の衣装、小道具、楽器と舞台の写真が展示されています。舞台写真と対応させるように『舞楽図』、『琉球人坐楽并踊之図』(沖縄県立博物館・美術館蔵)の対応箇所がパネルで展示されていましたが、この絵巻は実物を見たいですね。

この2つの絵巻は、天保3年(1832)11月22日、江戸の芝白金の薩摩藩邸で披露されたものを記録したもので、歴史資料としても貴重です。

しかし、やはり動いているものを見ないことにはどうしようもないので、シアタースペースに籠もって用意されたビデオ5番組を2時間弱かけて全視聴。ビデオを見ると、今度は本物が見たくなる・・・

申請した科研費が通れば、風呂敷を拡げた手前、沖縄へ行かなければならないのですが、今のところ沖縄は遙かな南の島です。なにしろよく行く沖縄料理店で系列のホテルの無料宿泊券を何度かくじ引きで当てているのですが、旅費は自前ですので一度も利用したことはありません(爆)

伝統芸能情報館を出て内堀通り正面の大劇場の方へ出ると、明日の東日本大震災一周年追悼式の準備で荷物の搬入やら仮設テントの設営やらが始まっていました。



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2012年02月11日

皇帝の顔:北京故宮博物院200選展

赤貧ど真ん中ですが、「乾隆帝是一是二図軸」、「乾隆帝大閲像軸」など清朝帝室の文物の実物を見るため、三食抜いて東京国立博物館の特別展「北京故宮博物院200選」を見に行ってきました。

特別展の一番のウリは、1月24日には中国に帰ってしまった「清明上河図」でしたが、細部をじっくり見てこそ意味のある絵巻を、3時間も4時間も待った挙げ句、人に推されながらチラ見するのでは、何のために行ったのか分かりません。基本的に並ばされると心どころか身にも異常を来す体質ですので、どんな名品だろうとご遠慮申し上げたい。

それに目下の関心は、宋代ではなく清代です。だからこそ三食抜いて(く・ど・いwww)のこのこやって来たのです。まぁ、日本、中国どころかヨーロッパでもインドでも、つくづく16世紀以降に関心が偏っています。

そういう次第で、第1部「故宮博物院の至宝」は後回しにして、先に第2部「清朝宮廷文化の精粋」から。第1部に対して第2部は比較的すいています。すいているどころか、数点あるお目当ての乾隆帝の肖像の前は私がいくら立ったままでいても迷惑にならない状況。誠にありがたい半面、お前らの目は節穴かと嘆きたくもなります。

さて、「乾隆帝是一是二図軸」は、清朝第6代皇帝乾隆帝のコレクション自慢の絵です。山水画の衝立を背に、商の青銅器、戦国時代の玉器、下って明の青花(染付)など、愛蔵の品に囲まれてご満悦のご様子。

しかし、この絵は虚偽の絵です。乾隆帝がこれらのコレクションを持っていなかったということではありません。今回の特別展では絵の中に描かれた品々が故宮博物院の所蔵品として展示されています。この絵が虚偽であると言うのは、皇帝も含め、満洲人が漢人の服装をすることは禁じられていたにもかかわらず、この絵の皇帝は、中国の文人風の服装なのです。言わば、女真(満洲)のハーンが中華の天子として中華の文物を愛玩しているコスプレ画像なのです。

コスプレ好きは親譲りのようで、乾隆帝の父である雍正帝にも、「雍正帝耕織図画冊」、「雍正帝行楽図像冊」があり、前者は、農民に扮して雍正帝が農業にいそしみ、後者では、儒教の文人、道教の仙人、チベット仏教の僧侶、はては西洋の王侯に扮しています。

なぜかくも清朝皇帝はコスプレ好きなのか。それは、そもそも清朝皇帝とは、中華帝国の皇帝では無いのです。こう言うと大清帝国=中華帝国=現在の中国の版図という中国の公式見解に反しますが、清朝は中華帝国の枠外にはみ出している王朝でした。大清帝国⊃中華帝国ではあっても、大清帝国=中華帝国ではなかったのです。

清朝皇帝は、満洲人に対するハーン、漢人に対する天子であるほか、モンゴル人に対して、大元ウルスの伝国の印璽を継承する大ハーンであり、チベット人(と仏教徒)に対して、最高施主としての転輪聖王であるマンジュシュリー天ハーン(文殊菩薩皇帝)であり、東トルキスタンのイスラム教徒(回民)に対して恵み深い保護者という、一人5役を掛け持ちしていました。

おのおのそれに相応しい出で立ちで清朝皇帝は登場することになります。「乾隆帝是一是二図軸」や「乾隆帝古装像屏」などの乾隆帝は、展示室内に復元された紫禁城養心殿西暖閣内に書斎「三希堂」を作ったような中華文明の保護者としての天子ですが、一方、ジュゼッペ・カスティリオーネ(中国名:郎世寧)が描いた「乾隆帝大閲像軸」は、満蒙八旗に君臨する大ハーンとしての姿です。

マンジュシュリー天ハーンとしての清朝皇帝は、「乾隆帝文殊菩薩画像」で、マンダラの中の本尊に化しています。イスラム教徒に対する画像の展示はありませんでしたが、「乾隆帝大閲像軸」や清朝皇帝として正装した「乾隆帝像」を描いたカスティリオーネなどヨーロッパ人に対しては、現実にはなかったことですが、「万国来朝図軸」の中で、中国に朝貢する諸国の使節の中に、イギリスやフランスなどヨーロッパの国々の使節を書き加えることで、世界帝国の皇帝として臨んでいます。ちなみに日本の使節も画中にいます。もちろんこれも虚偽の使節です。

第2部の主人公は乾隆帝なので、大清帝国の全盛期のまま、特別展の会場を後にすることになりますが、この乾隆帝の治世を頂点にして、大清帝国は緩やかな下り坂に入ります。

一皮むけば清朝は八旗の軍事力によって中国本土(China Proper)と藩部(モンゴル、チベット、東トルキスタン)を支配する征服王朝ですが、清朝の繁栄は、八旗の軍事力の低下をもたらしました。清末、白蓮教、太平天国や捻軍の鎮圧に活躍したのは、八旗に代わって団練と呼ばれる地方の漢人の民兵組織です。また、長期にわたる安定は、清朝は征服王朝であるという統治の根幹を忘れさせ、儒教的な世界秩序、つまり華夷の別が広がってゆきますが、それは清朝自体が夷であることを、漢人に再認識させるもので、この2つとものが、清朝の中国支配を崩壊に導くものでした。

現在のチベットや東トルキスタンの問題は、大清帝国の版図をそのまま中華民国の領土として受け継いだことにあります。孫文などが民族主義によって「排満興漢」を叫んでいた時には、チベットや東トルキスタン、あるいは満洲などは、漢人の土地である中国には含まれていなかったのですが、実際に中華民国が成立すると、そうした「民族主義」はなりをひそめます。そして今に続く中国の民族問題が始まるのです。

ただこのあたりに関しては、美術館では荷が重いと言うか、そもそも展示する美術品があるのかという問題がありますので、歴史系の博物館での展示に期待した方が良いのでしょうが、私も以前に見に行きましたが「孫文と梅屋庄吉」展開催という実績もありますので、東博でも清末に関する展示も(やる気があればの話しですが)可能でしょう。

さて、後に回した第1部の方ですが、人がやっぱり多いので、ちょこちょこと見て回るだけ。そんな次第で、これといった感想もありません。むしろ常設展で、前田青邨の「切支丹と仏徒」や荒井寛方の「乳糜供養」などが展示されていたのが嬉しかったですね。一番の収穫は、橋口五葉の「髪梳る女」と「化粧の女」。特に「髪梳る女」の実物には心が射貫かれました。思わずあっても買う金が無いのにミュージアムショップで五葉の画集を探す始末。

昨年、千葉市美術館で「生誕130年 橋口五葉展」(なんで気づかなかったんだ!)があったようですので、金回りが良くなったら、さっそく(いや半年先くらいになるか…)取り寄せましょう。


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2012年01月23日

空漠:大船渡〜陸前高田

朝、北上を発ち、大船渡出身の方の車で、大船渡と陸前高田を訪れました。大船渡では、市の観光物産協会の方に案内をして頂きました。

ofunato.jpg東日本大震災から10か月が経過し、津波で破壊され、押し流された建物や自動車、船舶などは、すでにあらかたが撤去され、そこに何かがあり、誰かがいた痕跡だけが残されています。

道路を走っている車は瓦礫を積んだトラックであり、動いているのは重機ばかりです。大船渡は、山の方には津波の被害が及ばなかった地域があり、仮説住宅が建てられている高台の大船渡中学のある辺りから街を見下ろすと、太平洋セメントの工場から、瓦礫を燃やす煙が風に流されています。

rikuzentakata.jpg山ひとつ隔てた南にある陸前高田は、まったくの空漠です。そこに人がいて、暮らしがあったことが、きれいに消し去られています。大船渡の方も、駅であったところに行くまで、街並をきちんと思い出せないようでした。

陸前高田の景勝地であった高田松原というのは、地元の人にとっては定番の行楽地であり、昨日、酒を飲みながら語られた高田松原への思いは、余所者にはしょせん共有することができませんが、すっかり有名になった高田の一本松のあるあたりを眺めると、松原そのものを飲み込んで海に返してしまった津波の力を知ることはできます。

復興と言っても、三陸は緒に就いたばかりです。津波はまだ過去の出来事ではありません。

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2012年01月22日

北上散歩:挨拶篇

食事を済ませて、まだ出張の目的までは時間に余裕があるので、北上展勝地のレストハウスの向かいにある「みちのく民俗村」を、いっしょに北上に来ている同僚のS君と見学することにしました。

まぁ、S君は私の趣味に無理矢理付き合わされているのですが、基本的に、初めての土地の場合、私は郷土博物館を訪れることにしています。まぁ、土地に対する挨拶のようなもの。今回も、みちのく民俗村という民家園に興味もあるものの、本旨は園内にある北上市立博物館の方です。

さて、市立博物館ですが、昭和48年開館ということで、展示品に、なるほど納得の民衆史観の解説が付けられています。愛すべし。

まぁ、それはさておき、その土地の成り立ちを知ることができますし、地元の人間が、土地の何に誇りを持っているか(反対に、何に関心が薄いか)を知ることが出来るので、郷土博物館巡りは有益です。

2月危機へ向けて窮乏中での岩手出張なので、いろいろ図録類を物色するものの、結局、『菅江真澄と北上地方』1冊だけを血の涙を流しつつ(笑)購入。まぁ、優先順位は国学者です。国見山廃寺跡(極楽寺)に関するモノがあったら優先順位は変わったのですが、なぜか平泉に先立つ東北の仏教文化の中心地と胸を張るわりには、それらしい資料が見あたりません。

suganoke.jpg民家園の方は旧菅野家住宅(重文)を見ただけで、時間切れ。雪は写真を撮るには絵になるのですが、いかんせん足下が覚束ないので、今度は雪の無い時にゆっくりと回りたいですね。

北上には最低でももう1回は訪れることになるので、楽しみはとっておきましょう。

そうそう、北上市立鬼の館というのも気にはなったのですが、夏油温泉の近くにある同館に行ってしまうと確実に約束の時間に間に合わなかったので断念しましたから、これもまたの機会ですね。

Posted by yohaku at 15:30  |Comments(1)TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月01日

北極星へ、「あの花」へ

いつものごとく悪友ドリー・尾崎&テリー・天野と初詣に出かけました。今年は秩父へ。

テリーたってのご希望だったのですが、もちろん信仰心の欠片もない彼のこと、初詣と言っても目的は昨年ヒットした深夜アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』が秩父市を舞台にしているので、通称「あの花」の聖地巡礼です。

まぁ、淡泊なもので、秩父に行ければそれでOKのようですので、秩父神社で初詣をして、B級グルメでも堪能すれば上々というところ。


chichibu.jpg秩父神社は、『旧事本紀』「国造本紀」に「知知夫国造 瑞籬朝御世、八意思金命十世孫知知夫彦命、定賜国造、拝祠大神」とあるのに基づき、崇神天皇(瑞籬朝)の時代の創建と伝える古社です。「大神」については、現祭神の八意思金命のほか、大己貴神あるいは八意思金命の子の天下春命(「天神本紀」の記す知知夫国造の祖)とする説などありますが、恐らくはその土地の「おおかみ」という漠然とした神の名であったものが、国家の管理の網の中に組み込まれる中で整理されていったのでしょう。

鎌倉時代初期には、秩父平氏(秩父氏など)の信仰する妙見菩薩が合祀され、その妙見菩薩に乗っ取られるかたちで、「妙見宮」と呼ばれるようになります。「妙見」とは、北極星(あるいは北斗七星)を神格化した妙見菩薩のことで、中世から明治の神仏分離まで、秩父の神は「秩父妙見大菩薩」でした。

妙見菩薩は特に関東平氏の諸流から厚く信仰され、秩父氏のほかにも、千葉氏が守り神として信仰し、千葉氏の氏神である千葉神社もかつては千葉妙見宮と呼ばれました(以前アップした千葉神社の記事をご参照下さい)。北極星はまた、北辰と呼ばれますが、千葉周作が自分の流派のブランドイメージとして「北辰一刀流」という名を選んだのも、千葉氏を名のったことに由来しています。

今はさいたま市となっている旧大宮市は、氷川神社の門前であるが故に「大宮」でしたが、かつてはもう一つの「大宮」が埼玉県にはあり、それが秩父神社のある「大宮郷」でした。大正5年(1916)の町名変更までは、秩父町(現秩父市)は「大宮町」と名のっていました。


その門前町ですが、今日は本当に元旦かというくらいに人がいません。行きの西武秩父線もがらがらだったので、けっこう空いているかなと期待していたのですが、期待を通り越して不安になります。

西武秩父駅に連なる仲見世通りに並ぶみやげもの店も閑散としていますが、地酒のラベルにキャラクターの絵を入れるなど、みごとに「あの花」に乗っかった商売をしています。

P1000681.JPGさて、13時も回って、昼食時でしたので、B級グルメですが、相変わらず詰めの甘いテリーのこと、行きたいと言っていた店は当然正月休み。ただし、目的の「わらじカツ」自体は仲見世通りで売っていたので、そろって金に縁の無い中年3人男で、わらじカツと豚肉の味噌漬けが乗ったミックス弁当を買って、仲見世通りの端のベンチで昼食。まぁ、500円という値段からすると上等です。不満は無い。


ぶらぶらと参道を歩いて、さすがに神社に近づくと参拝客で行列が出来ていましたが、一昨年の江ノ島や、昨年の浦和の調神社に比べると行列で大変だったとでも言おうものなら怒られる程度。鳥居を出て右に少し曲がったところにもう行列の端があります。

katsugiishi.jpg三人で無駄話をしていると、すぐに本殿が見えてきましたが、左の方に何やら人だかりが出来ています。のぞいてみると「担ぎ石神事」というのをやっています。もとは横瀬の神明神社の神事だったのですが、一時途絶えたのを保存会が出来て復活し、それを元旦に秩父神社で行っているとのことです。

いわゆる「力石」です。半病人の私とドリーは見るだけにしたのですが、テリーは担ぎ石に挑戦。十五貫(56kg)は持ち上げたものの、二十三貫(86kg)で敢えなく敗退。御神酒とティッシュと木のメダルをもらってきました。


参拝も済ませて、後はこれという予定も無いので、秩父鉄道の秩父駅の地場産コーナーをひやかして、たまたま目に入ったブックオフに正月早々立ち寄るという花のないいつもの行動パターン。

ramentomenma.jpgそうそう、「あの花」に乗っかっている秩父の街ですが、途中、ラーメン屋にめんまののぼりを発見。間違っているようで間違っていない(笑)

Posted by yohaku at 21:07  |Comments(3)TrackBack(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする