2012年05月24日

久多志古淵神社、葛川明王院

2011年5月9日(月) 久多志古淵神社、葛川明王院

京都府舞鶴市「松尾(まつのお)寺」の「仏舞(ほとけまい)」を観て、京都市の実家に泊まった翌日の今日、京都市左京区の最北の地「久多(くた)」を訪ねました。

「志古淵(しこぶち)神社」の「久多花笠踊(はながさおどり)」と久多地区の「松上(まつあ)げ」が、8月に此の地で行われるので、下見をしておきたかったのです。

京都市側から能見(のみ)川を遡る府道110号線は、離合不能の狭い道が多いと聞いて心配だったので、滋賀県側から久多川を遡る県道783号線を行って、安心しておきたかったのです。

「進々堂北山店」でパン食べ放題の豪華な朝食を摂った後、「鯖街道」を北上し、「八瀬大原」や「途中越(とちゅうごえ)」、「花折峠(はなおれとうげ)」、「梅の木(うめのき)」を通って「久多」に到りましたが、梅の木から久多までの道は、最初の部分が少し狭い位で、殆どが“くたくた”にならない程度の道だったので、安心しました。

「下の町(しものちょう)」を過ぎて「中の町(なかのちょう)」に来ると、久多花笠踊が行われる、こじんまりとした志古淵神社がありました。

志古淵神社は、久多の「産土神(うぶすながみ)」の1つで、安曇川流域一帯に分布する「志古淵神」を祭神としており、旧社格は「村社(そんしゃ)」です。

「久多花笠踊」が、毎年8月24日に直近の日曜日に、この神社の境内で行われるので、死なない内に観に来たいと思っています。

少し奥に行った「宮の町(みやのちょう)」には、「松上げ場」という広場が田圃の中にあり、「灯籠木(トロ木)」を立てる装置の根元には、灯籠木が横たえられています。

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田圃の周りには、遅咲きの桜が未だ多くの花を付けており、川の土手には、暖かさに誘われて出て来たらしい、体長が1mはある茶色い蛇が、のんびりと日向ぼっこしていました。

帰り道には、滋賀県葛川坊村町(かつらがわぼうむらちょう)に在り、「天台宗回峰行(かいほうぎょう)」の修験道場である、「葛川(かつらがわ)北嶺山明王院(みょうおういん)」に寄ってみました。

ここでは毎年7月15日に、「太鼓まわし」という修験道の行事が行われているので、死ぬ前には観に来たいと思っています。

境内には、高さが1m以上はありそうな「参籠札(さんろうふだ)」が飾られていて、「地主大権現奉参籠」と書かれた平成22年の札には、4人の「大々先達(だいだいせんだつ)」の名が、書かれていました。

明王谷の小さな川を隔てた南側には、「明王院」の鎮守である「地主(じしゅ)神社」があり、「地主神(じぬしのかみ)」である「志古淵大明神」も祀られています。

実家に戻る途中の「静原(しずはら)」では、京都へ来た時にはYさんと連れ立って来ている「京都ローンテニスクラブ」に立ち寄った後、龍安寺の実家に戻りました。

夜は、子供の頃から妙心寺の北門前に在る料理屋で、「京都市立御室(おむろ)小学校」時代の旧友4人と旧交を温めました。


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2012年05月19日

油日神社、櫟野寺、金勝寺

2012年3月14日(水) 油日神社、櫟野寺、金勝寺

京大病院での定期検査に合わせて、京都ローンテニスクラブでのテニス、中学時代の旧友と旧交を温めること、帰路における静岡県大井川町「藤守の田遊び」の観賞、等の予定を持って船橋を6時半に立ち、新名神高速道路土山インチェを下りて、滋賀県甲賀市甲賀町油日(あぶらび)にある「油日(あぶらび)神社」には、14時頃に着きました。

今日探訪する神社仏閣は、白洲正子が著書「かくれ里」の「油日の古面」や「油日から櫟野へ」に書いている所で、この書物は、イラン旅行で一緒になった餡さんに、教えて貰ったものです。

油日神社は「油の神」として、油業者の信仰を集めており、旧社格は「懸社(けんしゃ)」です。

観たかった「田作(たづくり)福大夫(ふくだゆう)神ノ面」や「「伎楽面(ぎがくめん)呉公(ごこう)」、「ずずいこ様」は、境内にある「甲賀歴史民俗資料館」に展示されているように思われましたが、閉っていました。

宮司さんには会ったのですが、丁度金融機関に行く用事があるとのことで、観る事は叶いませんでした。

「天台宗 福生山自性院櫟野寺(らくやじ)」は油日神社から程近い所に在りました。

本尊の「木造十一面観音坐像」は、高さが312cmもある大きな平安時代初期(8世紀)の仏像で、嘗ては33年に1度だけ開扉される秘仏だったそうです。

今では春季や秋季に特別公開があって、毎年見る事が出来ますが、春季の特別公開は4月からの様で、今日は諦めざるを得ません。

境内には「大開帳準備委員会」によって、「平成30(2018)年は、三十三年に一会(いちえ)の結縁(けちえん)。ご本尊、十一面観音さま大開帳の、ご祥当年(しょうとうねん)を迎えます。」という看板が立てられています。

この後は、県道4号(伊賀草津)線を草津の方に向かい、滋賀県栗東市荒張にある「天台宗 金勝山金勝寺(こんしょうじ)」を訪ねました。

金勝寺は「金勝山(こんぜやま)」(標高567m)の山中にあり、車で上がっていくと着きましたが、更に奥へ行くと、平安時代初期の作とされる「狛坂(こまさか)磨崖仏(まがいぶつ)」に到るハイキングコースにもなっているので、次回来た時には行ってみたいと思います。

金勝寺は寺伝では、天平5(733)年に「聖武(しょうむ)天皇」(在位:724〜749年)の勅願によって、「紫香楽宮(しがらきのみや)」の鬼門鎮護のために、「良弁(ろうべん)」(金粛菩薩(こんしょうぼさつ)。東大寺の開山)が創建し、平安時代初期に、僧「願安(がんあん)」が寺院として整備したと言われています。

境内は、「仁王門」や「本堂」(本尊「木造釈迦如来坐像」、218cm、平安時代)、「二月堂」(「木造軍荼利明王立像」、361cm、平安時代)、「虚空蔵堂」(「木造虚空蔵菩薩半跏像」、194cm、平安時代)などがこじんまりと纏まって、配置されています。

本堂の本尊木造釈迦如来坐像の両脇には、「山津照明神」とか「飯道権現」、「三上大明神」等が、「良弁僧正」らと共に祀られていて、神仏習合の古い形を残しています。

着いたのが16時を過ぎていたので、拝観を終える頃には日も落ちて来て、寒くなってきました。


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2012年05月18日

石馬寺、教林坊、奥石神社、桑實寺

2012年5月9日(水) 石馬寺、教林坊、奥石神社、桑實寺

京大病院での定期検査に合わせて、京都ローンテニスクラブでのテニス、中学時代の旧友と旧交を温めること、御蔭祭の観賞、等の予定を持って船橋を5時半に立ち、新東名高速道路を快走して旧名神高速道路彦根インチェを下りて、滋賀県東近江市五個荘(ごかしょう)にある「臨済宗 石馬寺(いしばじ)」には、12時半頃に着きました。

新東名を初めて走ったところ、交通量が少なく、平坦で真直ぐの部分が多くて走り易いのですが、刺激が少なくて眠くなり兼ねないので、痛し痒しです。

今日探訪する神社仏閣は、白洲正子が著書「かくれ里」の「石の寺」に書いている所で、この書物は、イラン旅行で一緒になった餡さんに、教えて貰ったものです。

石馬寺の参道は、苔むした不揃いの石段が、鬱蒼と茂った新緑のため日陰となり、しっとりとした雰囲気を醸し出しています。

静岡県や愛知県を通っていた頃には雨が降っていたのですが、滋賀県は暑い位の好い天気です。

参道には「繖(きぬがさ)三観音(さんかんのん)」という幟が立てられていて、この寺と「観音正寺」、「教林坊」の名前が書かれています。

この山地は「繖(きぬがさ)山」(「観音寺山」とも言われます)と言い、石馬寺と反対側の北麓には、毎年5月4日に「伊庭の坂下し祭」の行われる「繖峰三(さんぽうさん)神社」があり、以前から観に行きたいと思っています。

帰りしなには、寺の墓地まで墓石を運ぶ一団と、石段で擦れ違いました。

推古2(594)年に、聖徳太子が馬を木に繋いで繖山に登り、下りて来たら馬が石になって池に沈んでいたので、霊異を感じた太子が、ここに伽藍を建立したと伝えられています。

参道の入り口に向かって左の方に「蓮池」があり、馬の背の様な恰好をした石が、池の水面に浮かんでいます。

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近江八幡市安土町石寺にある「教林坊(きょうりんぼう)」は、繖山の南麓の観音正寺の参道の近くにあり、嘗ては観音正寺の末寺が多くあったそうですが、今ではこの坊が残っているだけです。

拝観日は、11〜12月の夜間ライトアップ特別拝観の時期以外は、土日祝日だけだそうですが、寺の看板には、庭園は小堀遠州の作庭になる“近江の名園”、と書かれていました。

「奥石(おいそ)神社」は、近江八幡市安土町東老蘇(ひがしおいそ)にありますが、「老蘇(おいそ)の森」に覆われて静かに建っていて、ここからは繖山が遠望出来ます。

「天台宗 繖山 桑實寺(くわのみでら)」は近江八幡市安土町桑実寺にあり、着いたのは15時近くになりましたが、駐車場が無いので道端に車を停めました。

白鳳6(666 か 677)年に、天智天皇の勅願によって創建されたと伝えられる古い寺だそうで、寺の名は、開山の「定恵(じょうえ)和尚」が中国から桑の木を持ち帰り、この地で日本最初の養蚕技術を広めた事に、由来するとのことです。

山号の繖山も、蚕が口から糸を散らし繭を懸ける事に、因んだもののようです。

嘗ては2院16坊の僧坊があり、室町幕府12代将軍義晴が、仮幕府を3年間置いています。

不揃いな石段を400〜500m、標高432mの繖山の中腹にある「本堂」まで急登し、受付で、「佐々木六角氏」の居城であった「観音寺(かんのんじ)城」の城址までは、今登って来た以上の距離があると聞いて迷いましたが、閉門の17時までにはまだ時間があると考えて、登る事にしました。

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600から700mほど登って行くと、城址に到りましたが、もう少し足を延ばして、「観音正寺(かんのんしょうじ)」まで行ってみました。

ここは5〜6年ほど前に、車で上がって来たことがあり、奥の山の途中まで歩いた時に、「これより先は桑實寺 拝観料が必要です」と書かれた看板を見た事を思い出しました。

観音正寺からの景色を堪能した後、元来た道を引き返しましたが、来た時に1人に出合っただけですから、独りで歩いていると、少々心細く感じました。

無事に下まで下りて来たら17時近くになっていたので、以前に訪れた事のある「伊呂波」という安土の街中のレストランで、明日の京大病院での検査で、コレステロール値が220以内に収まるかどうかを気にしながらも、近江牛の特上ロース肉定食を戴きました。

Posted by yone at 10:43  |Comments(6)TrackBack(0) | 神社仏閣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月16日

下鴨神社「御蔭祭」

2012年5月12日(土) 下鴨神社「御蔭祭」

「京都観光一日乗車券」(1,200円)を買って、バスで「下鴨神社」(正式には、「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」)や八瀬の「御蔭(みかげ)神社」(下鴨神社の摂社)、高野の「赤の宮神社」(下鴨神社の摂社)を駈け廻りました。

「御蔭(みかげ)祭」は、「賀茂祭諸儀」(5月1日〜5月19日)の一環として、「賀茂祭(葵祭)」(5月15日)に先んじて、毎年5月12日に行われるもので、葵祭の始原の姿を伝えていて、自然と人との関係を知ることの出来る祭り、とされています。

比叡山の西麓、八瀬にある「御生(みあれ)山」(御蔭山ともいう)で新しく生まれた、「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と「玉依媛命(たまよりひめひめのみこと)」(2柱とも、本社「下鴨神社」の祭神)の「荒御魂(あらみたま)」を、本社に迎えて「和御霊(にぎみたま)」と合体し、神威を増す為の神事が「御蔭祭」です。

神威を増した2柱の神を持て成し、讃えて、御霊を鎮め、五穀豊穣と万民安寧を祈る祭りが、「葵祭」です。

龍安寺の実家を7時半に出て8時過ぎに下鴨神社に着いて、糺の森(ただすのもり)を本殿に向かって歩いて行くと、鳥居の前あたりに乗用車や、「御蔭祭供奉(ぐぶ)」という幕が張られた10数台のマイクロバスが置かれていて、供奉団を運ぶ準備がなされています。

9時から「勧盃(かんぱい)の儀」が「舞殿(まいどの)」で行われ、神職6人に御神酒が振る舞われました。

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続いて「みたらし池」の前で祝詞が奏上され、机上にあった「大麻(おおぬさ)」で、関係者や参列者に対して、お祓いが行われました。

続いて「橋殿(はしどの)」の前で、「神宝(しんぽう)」である、「榊」や「御鉾」、「御楯」、「金幣」、「銀幣」、「和琴(わごん)」、「御鳴鏑箭」、「御弓」、「御太刀」、「御剣」、「御鞭」、「御白杖」が、供奉する人達に渡されていきます。

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供奉する人達は神職だけではなく、嘗て下鴨神社の社領であった5ヶ郷の氏人や、「葵桂(あおいかつら)」を採って納める静原や雲ケ畑の人々も、加わっているそうです。

御祓いを受けた後、供奉団の「行粧(ぎょうそう)」は進発し、本殿への「中門」に停めてあった、「錦蓋(きんがい)」で覆われた「神霊櫃(しんれいびつ)」を載せたトラックが、9時40分過ぎに最後に、「楼門(ろうもん)」を出て行きました。

昭和38(1963)年以降、交通事情によって車での行粧となっていますが、神霊櫃を載せたトラックを先頭に、八瀬の御蔭神社へ向かって、9時50分頃に進発していきました。

時間が出来たので朝食をと思ったのですが、時間が中途半端で開いている食堂が無かったので、出町柳の名曲喫茶「風月堂」でクラシック音楽を聴きながら、アップルパイとモンブランを戴きました。

御蔭神社には11時40分頃に着きましたが、12時からの「御生神事(みあれしんじ)」の準備がなされていて、本殿の門には紅白緑黄の垂れ幕が張られています。

11時50分頃から、門の前に控えている供奉団の人々に御楯や御鉾等の神宝が渡されて行きます。

12時、午の刻、になると、「御生木(みあれぎ)」が本殿に奉じられたようで、神職が祝詞を奏上する声が聞こえて来ました。

12時10分過ぎには門が開いて、中からは、御生木に遷御した荒御魂の入った「神霊櫃」が、神職に奉じられて出て来ました。

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御蔭神社から下鴨神社までの「還立(かえりだち)」の道中は、府立大学前からは神霊櫃を「神馬(じんめ)」に移しますが、高野橋の近くにあって、「路次祭(ろじさい)」の行われる「賀茂波爾(かもはに)神社」(通称は「赤の宮神社」)までは、供奉団は車に乗って移動します。

ここでは舞殿で、13時40分頃から、「陪柔(べいじゅう)」と呼ばれる楽人の奏楽によって、舞人による「還城楽(げんじょうらく)」という舞が、舞殿の前に置かれたトラックに乗った神霊に対して、奉納されました。

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近くの「基礎化学研究所」に勤務していた頃から知っていて、赤の宮の近くの高野川に程近い所にある、うどん屋を訪ね、明太子丼ときつねうどんセットを戴きました。

一旦下鴨神社に戻り、下鴨中通りを御蔭橋通りの辺りから北上し、府立大学前から南下して行粧して来る、供奉団一行を観に行きました。

15時半頃に行粧に出会いましたが、御神霊は神馬の背中の錦蓋に揺られて、下鴨神社で行われる「切芝神事(きりしばしんじ)」へと向かって行きます。

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神馬は16時前に、糺の森の中頃にある「切芝(きりしば)」という祭祀場に到着し、紅白緑黄の幕が張られた「幄(とばり)」の中に牽き入れられて、顔だけを外に出されています。

神馬の前で、神を讃える風俗歌「三代詠(さんだいえい)」等が唄われて、「東游(あずまあそび)」という舞が奉納されました。

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そもそも私が御蔭祭りを知ったのは、もう彼是5年ほど前に、この東游が此処で舞われることを、ある書物で読んだからです。

16時半過ぎには、神馬の一行は下鴨神社の本殿へと向かい、閉ざされていた中門が開かれて中に入って行きましたが、中門は再び閉ざされました。

中では「御生木(みあれぎ)」が本殿の中に納められることによって、「御生(みあれ)山」(御蔭山ともいう)で若々しく「ミアレ」した神霊が本宮に迎え入れられ、「和御霊(にぎみたま)」と合体して神威を増したようです。

5分程経って、16時50分過ぎには、中門が開いて大役を終えた神馬が出て来たので、それを見届けて京都駅へと急ぎました。

中学時代の友人と、京都駅近くで30年以上振りの再会をする為ですが、17時半の約束を30分遅らせた甲斐があり、悠々間に合いました。


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2012年05月03日

秩父小鹿野神社「春祭り」

2012年4月21日(土) 秩父小鹿野神社「春祭り」

京葉道路から、首都高速、外環道、関越道花園ICを通って、埼玉県秩父郡小鹿野(おがの)町の小鹿野小学校(臨時駐車場)には、10時半過ぎに着きました。

市街地の東西に有る「小鹿(おしか)神社」と「元宮」との間を、神輿が往復することが「春祭り」の基本形態で、起源は江戸時代初期に遡るそうです。

「春祭り」は、現在では毎年4月の第3土曜日と、その前日の金曜日の2日間に行われる、小鹿神社の例大祭です。

旧家に残る由緒書に拠れば、「諏訪明神」(現在の小鹿神社のある所)と「小鹿野明神」(現在元宮のある所)を、村の鎮守としたと記されている様です。

元宮に参拝して市街地を西へ向かいましたが、西の外れから北の小鹿神社に向かう参道には、「笠鉾(かさぼこ)」や「屋台(やたい)」が神社に向かって曳行されて行きます。

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「拍子木(ひょうしぎ)」と言われる「役人(やくびと)」の一つが打ち鳴らす拍子が、笠鉾や屋台の進行や旋回など、全ての行動を指揮して行きます。

先頭の「腰之根(こしのね)笠鉾」に続いて、「新原(しんはら)笠鉾」、「上町(かみちょう)屋台」、「春日町(かすがちょう)屋台」が続きます。

社殿では11時半頃に神事が終わり、神楽殿では神楽が舞われていますが、観ている人は僅かなので気の毒です。

小鹿神社は天平年間(729〜749年)に創立され、安永4(1775)年に現社殿が建造され、旧社格は郷社であったと書かれています。

12時過ぎには4基の笠鉾・屋台は、神社の境内に引き揃えられましたが、上町屋台の皆さんが、神職から御祓いを受け、「拍子木」と言われる人達が拍子木を打って、独特の「3本締め」をしていました。

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私も拍子木に合わせて手拍子を打ったのですが、独特な拍子なので間違えてしまい、恥ずかしい思いをしました。

上町の皆さんは、境内に在る腰之根笠鉾の「腰之根会所」に出向き、挨拶をしていきました。

会所の前の壁には、役割分担表が貼り出されていて、「行事」として、「会計」とか「書記」、「鉾曳行責任者」、「会所」、「鉾係」、「役人係」、「芯綱係」、「太鼓係」が、また「祭り役人」として、「拍子木」とか、「反り木」、「襦袢」、「金棒」の担当する人達の名前が、書かれています。

会所に置かれていた樽酒の銘柄について、我々が話をしていたら、会所の方から酒を勧められたので、帰る予定の時刻20時を念頭に置いて、30ml程をいただきました。

滅茶苦茶美味しかったので、本当はもう少しいただきたかったのですが、はしたないので止めました。

「秩父市山田恒持神社の春祭り」(2012年03月12日投稿、同3月11日見学、カテゴリーズ;鉾・笠鉾)で見られた、竹の筒が吊るされた笠鉾や屋台もありましたが、昔潤滑油として使われたというネギは、入ってませんでした。

12時半過ぎになると、「所作」と言われる長唄による舞踊を舞う少女達が、屋台の舞台に上がりました。

「上町屋台」には、向かって右の柱には「長唄 手習子 富田紗也加」、左に「長唄 羽根の禿 罍春月」、「春日町屋台」には、右に「長唄 舞妓 出浦智佳」、左に「長唄 松の緑 小澤早也香」、と書かれています。

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出浦智佳(ともか)ちゃんの舞踊が終わり、人気抜群の富田紗也加(さやか)さんの舞踊を観ていた12時45分頃に、歌舞伎が12時半から始まっていた事を思い出したので、「小鹿野町観光交流館」まで、急いで歩きました。

因みに同好の士が、後ろに居られた智佳ちゃんの御母さんに訊いてくれた処、智香ちゃんは小学校2年生で、早也香さんは高校2年生でした。

観光交流館の奥にある「多目的ホール」では、「小鹿野歌舞伎保存会」による、「絵本太功記十段目(えほんたいこうきじゅうだんめ)尼ケ崎閑居之場(あまがさきかんきょのば)」が、上演されています。

「小鹿野歌舞伎」の起源は200数10年前に遡り、江戸で歌舞伎修業を積んだ「初代坂東彦五郎」が、帰郷後近所の若者に教えたことに始まるそうで、小鹿野に芝居一座が引き継がれ、明治・大正期に最盛期を迎えました。

「武智十兵衛光秀」や「真柴筑前守久吉」、「加藤虎之助正清」といった配役を、保存会の皆さんが演じられるのを観ていると、真近で観られるのと台詞が聞き易いのとで、非常に分かり易いです。

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14時に歌舞伎が終わって暫らくすると、13時頃に小鹿神社を出た神輿渡御が、交流館の前を通過して行きましたが、この後交流館にある御食事処で、「昭和の大衆食 わらじカツ丼」をいただきました。

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昭和時代初期の小鹿野では、わらじカツの1枚は酒の肴として、もう1枚はおかずとして食べられていた
そうで、2枚のわらじカツはヴォリュームがあって、秘伝のタレの味付けは絶品でした。

15時半からは、元宮の近くで男女3人づつの射手達によって、「流鏑馬(やぶさめ)」が行われました。

颯爽と走って矢を放ち、見事に的を射る女性射手も居ますが、的を打ち砕く迫力は、男性射手には敵わないようです。

かなりメタボ気味の馬が多いのですが、特に1頭は速度を出して走れないので、これに乗った射手による騎射は行われませんでした。

17時頃に市街地に戻ると、笠鉾や屋台が曳き回されていて、所作と呼ばれる舞踊を所々で披露し、町会の会所の前を通る時には、挨拶していきます。

屋台の上では「上乗り(うわのり)」と呼ばれる男女の子供が、また屋台の前では「反り木(そりぎ)」と呼ばれる化粧した青年が、手に扇を持って、屋台の進行を煽っています。

18時過ぎになって、元宮に曳かれて来た笠鉾・屋台に順次提灯や雪洞(ぼんぼり)が付けられていくと、昼間とは一味違った趣が醸し出されます。

提灯や雪洞の灯りは、昔ながらの蝋燭ではなく、ELランプを取り付けた笠鉾もあります。

19時頃までには、4基の笠鉾・屋台が元宮の境内に曳き揃えられ、町内ごとに食事・休憩を取った後、提灯や雪洞の灯りを付けて、夫々の町内へ曳行されて去っていきます。

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最後に元宮に笠鉾・屋台を引き揃えて祭りを終える年と、小鹿神社境内に曳き揃えて終える年とは、1年交代とされています。

19時過ぎにはスターマイン花火が上がり、今年の祭りの終わりを告げていました。


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2012年04月30日

埼玉県鷲宮神社八甫分社「催馬楽神楽」

2012年4月14日(土) 埼玉県鷲宮神社八甫分社「催馬楽神楽」

埼玉県久喜市にある「鷲宮(わしのみや)神社」の「八甫(はっぽう)分社」で、毎年4月14日に行われる「土師一流催馬楽神楽(はじいちりゅうさいばらかぐら)」を観に、同好の士と共に出掛けました。

10時過ぎに、八甫分社の近くに有る、埼玉の酔仙さん(酔仙ブログ;http://saitama-no-suisen.cocolog-nifty.com/を推薦します。)の御宅にお邪魔して御茶をいただいて休憩した後、酔仙さんのご夫妻と一緒に、出掛けました。

11時少し前に着きましたが、神楽殿では「端神楽(はかぐら)」が始まっていました。

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「素面(しらふ)」(面をつけない)の巫女1人による舞で、曲目の間に、白幣と鈴を持った小学生の少女によって、舞台の端から端までを幣で祓い清めるかのように舞われます。

鷲宮神社は、「土師部(はじべ)」(素焼きの土器を造る人々)が移住した「土師(はじ)の宮」と称したと言われ、「ハジ」が「ワシ」に転訛したという社伝があるそうです。

神楽の起源は定かではありませんが、「吾妻鏡(あずまかがみ)」(鎌倉時代末期の1300年頃編纂)の建長3(1251)年の記事に、紹介されています。

曲目は「十二座」に、「端神楽」と「外」、「番外」を加えた15座あり、大半は記紀の神話に題材を取った一種の舞踊劇ですが、神楽舞の中に、平安時代の歌謡の一種である「催馬楽(さいばら)」が唄われるのが特色です。

神の「依代(よりしろ)」となる「採物(とりもの)」を使う此の「出雲流(いずもりゅう)神楽」は、関東各地に広まり、江戸の里神楽にも影響を与えたので、“関東神楽の源流”とされています。

次に、「第二座 天心一貫本末神楽歌催馬楽之段 (てんしんいっかん もとすえかぐらうた さいばらのまい)」と言う曲目が、奏演されました。

「素面」で狩衣姿の2人が、1人は榊と鈴を持ち、もう1人は篠と鈴を持って舞いますが、榊と篠は共に御目出度い木で、建築にあたっての清めの舞と言われています。

2人は、山野を守る、「山雷神(やまいかづちのかみ)」と「野槌神(のづちのかみ)」だそうです。

神楽殿の舞台の前には、真中に大きな白い幣、向かって左に小さな白い幣、右には五色の幣が、置かれています。

「囃子方(はやしかた)」は、笛、大拍子、大太鼓、小太鼓各1人で、「囃子座(はやしざ)」に座り、「謡方(うたいかた)」も1人、その横に座っています。

端神楽が別の少女によって舞われた後、催馬楽神楽保存会長の針谷さんが、はっきりとした言葉で、分かりやすい説明をして下さったので、良く理解出来ました。

この神楽は、伊勢神宮の神楽と似ているので天皇陛下が観たいと言って鷲宮神社(本社)で観たことや、保存会が中華人民共和国で出張演奏した時に、今では中国に無い神楽を多くの家族連れが観に来た、といった話もありました。

次に、「第九座 五穀最上国家経営之段 (ごこくさいじょう こっかけいえい のまい)」が舞われました。

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「鳥兜(とりかぶと)」を被って「三番叟(さんばそう)」の面をつけた人が三方(洗米)や扇、鈴を持ち、鳥兜に「保食神(うけもちのかみ)」の面をつけた人が種壷や扇、鈴を持って、2人で舞いますが、五穀が豊かに実り国が栄えることを願う、種蒔きの舞と言われています。

午前中は端神楽以外には2座で終わったので、近くのスーパーへ行って、酒が飲めないので“豪華弁当”を買い込んで来ました。

神社の境内でベンチをテーブル代わりにして、観客用の折りたたみ椅子4脚で周りを囲みました。

未だ綺麗に咲き残っている桜の花を愛でながら、太鼓は打てないので、せめてもの事に、“神楽弁当”に舌鼓を打ちました。

13時過ぎには、端神楽の後に、「第五座 磐戸照開諸神大喜之段 (いわとしょうかい しょじんだいき のまい)が舞われました。

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「天冠(てんかん)」を被り、鏡を付けた五色の幣と鈴を持った素面の巫女と、同じく天冠を被り、白い幣と鈴を持った素面の巫女、それに白い大きな幣と扇、鈴を持った翁の面を付けた人、計3人による舞ですが、「天岩屋戸(あまのいわやと)」の神話を題材にした、人々の喜びを表した舞と言われています。

巫女の2人は、小学校の6年生だそうです。

続いては、「第六座 八洲起源浮橋事之段 (やしまきげん うきはしわざ のまい)」が舞われました。

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「伊邪那岐(いざなぎ)」の面を付け、烏帽子を被って太刀を携えて、「日形」と扇、鈴を持った「男神」と、「伊邪那美(いざなみ)」の面を付け、天冠を被って、「月形」と扇、鈴を持った「女神」の2人が、橋を巡って舞います。

この曲目は、「国生み」の神話を題材にしたもので、神業を偲び、子孫繁栄や開運を祈るものと、伝えられています。

うまし女と出会った、うまし男と出会った、良かった、といった意味の事が古事記に書かれている、との説明がありました。

続いて端神楽の後には、「第八座 祓除清浄杓大麻之段 (ばつじょ しょうじょうしゃく おおぬさのまい)が、舞われました。

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素面の巫女2人による舞で、2人とも、杓と扇、鈴を持って舞いますが、神話の「ミソキ」を題材にしたもので、心身を清浄にして過ちを改悛せよいう教えを表わしたもの、と言われています。

巫女の2人は小学校4〜5年生で、その所作には、川の水を汲むことを表現していた所も、あったそうです。

神楽殿の向かって左側の袖には、小学校の低学年らしい少女が先輩の演技を観て、身振り手振りで真似ている姿があったので、ここの保存会は流石やなと、安心しました。

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最後は、「外 天津国津狐之舞 (あまつくにつ きつねのまい)」が舞われました。

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この番外の曲目の1つは、「江戸の里神楽」から逆輸入されたものと言われる演劇性の強いもので、鷲宮神社(本社)では奏演されず、ここ「八甫鷲宮神社」(分社)でのみ奏演されているそうです。

パキスタン旅行の日程の都合で、本社春季祭での奏演が観られないので、八甫分社での奏演を選択したことが、ここでは幸いしました。

狐の面を被り、杓と鈴を持った2人(「天孤」と「地孤」)が、ヒョットコの面を被って、五色の幣と鈴を持った農民に対して、農作業を教えるもので、勧善懲悪を表しています。

ヒョットコの口が、向かって少し左側に曲がっているのが、特徴だそうです。

舞が終わると、幣の横に置かれていた「菱餅」が,狐やヒョットコから観客に向かって投げられたので、私も第1球ならぬ“第1餅”をナイスキャッチしました。

催馬楽神楽が15時に終わって時間があったので、酔仙さんに、同じ久喜市にある鷲宮神社本社(旧社格は県社)へ連れて行ってもらいました。

この神社は「武蔵国鷲宮神社」と呼ばれ、一説には出雲族の草創に関わる関東最古の大社で、「お酉様」の本社とされています。

着いて程無くして、数台の軽トラが、分社で使った道具類を、倉庫のある神楽殿へ運び込んできているのが見られました。


Posted by yone at 22:11  |Comments(2)TrackBack(0) | 神楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月27日

成田へ

2012年4月9日(月) 成田へ

イスラマバードから北上し、フンザ上空からタクラマカン砂漠、イリ、ウルムチ、敦煌、西安の上空を通って、「北京首都国際空港」に着きました。

着陸から15分くらい掛けて移動し、象の鼻の無い所で、恐らく空港の端っこに駐機しました。

北京時間5時(日本との時差1時間)に着いて8時15分に出たので、きっと機体整備なんかを、成田よりコストの低い筈の、ここでしたのでしょう。

今回は、イスラマバードでスイスイと乗り換えられたので良かったのですが、成田に着く時間が変わらずに、イスラマバードを3時間も早く出るのであれば、成田へ行く客にとっては、メリットがありません。

北京では待合室待機になったので、Starbucks の Cappuccino(Small) を飲んでみましたが、27元(約400円)したので、そんなに安くはありません。

6時から開店していたレストランでは、青島の350ml入りの缶ビールが、12元で売られていました。

パキスタン航空からは、サンドウィッチとジュースが提供されましたが、パンがパサパサで、サンドされていた物も美味しくありませんでした。

出発便の電光掲示板を見ていると、「中国東方航空」(本社上海市)の青島・福岡便とか、青島・大阪便、「中国南方航空」(本社広州市)の大連・富山便が運航されており、私が仕事で来ていた20年ほど前とは、隔世の感を禁じ得ません。

しかし富山が「TAYAMA」と表記されていたのには、笑っちゃいました。

北京からは、東シナ海、韓国、北陸上空を通って、福島あたりから常陸灘を南下し、筑波山を右手に見るコースを採りました。

税関検査を終えて外に出ると、多くの報道関係者が待ち構えていて、私もフジテレビの「めざましテレビ」の取材を受けましたが、翌朝にはニュース性が乏しくなったらしく、放映されなかったようです。

余談ですが、パキスタンから出した葉書が、24日に、遂に着きました。

それも、1週間程度で着くと言われていたイスラマバードからの葉書ではなく、40日間くらいは掛かると言われていたフンザ、カリマバードからの葉書がです。

4月6日にホテルのレセプションに出したので、18日で着いています。

現地の情勢が沈静化したものと期待が持てるので、喜ばしい限りです。

イスラマバードでは現地ガイドに手渡して、確実に一週間程度で着くなと安心していただけに、世の中が益々分からなくなり、残念です。


2012年04月26日

ギルギット、イスラマバード

2012年4月8日(日) ギルギット、イスラマバード

フンザ6回目の朝、いよいよ飽きて来ました。

身体は至って元気で、印パキ最長不倒6週間は我ながら立派なもんですが、気分的には鬱陶しさが募ります。

朝食時の説明では、午前様に及ぶ折衝の結果、7時半に軍のエスコート付でカリマバードを出るという話になったそうですが、4時半になっても軍は到着していないので、ちゃらになりました。

ポリスではなく、飽くまでも軍のエスコートで動きたいので、12時半まで待つことになり、外出禁止でホテル内で待機させられました。

ヘリは雪崩の起きたスカルドゥに回って仕舞ったので、軍が来ても、イスラマバードから来た空軍のC130 輸送機の待つギルギットまでは、陸路で移動することになります。

部屋に戻って、のんびりしていたら、8時40分にレセプションの前に、荷物を持って集合ということになりました。

ドライヴァーの宗派はスンニー派だったので、無難な宗派の人に換えて、他の日本人が泊まっている別のホテルに、集結しました。

10時10分、ポリスにエスコートされて4台のマイクロバスは、ギルギットに向かってカリマバードを出発しました。

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シーア派の家屋や車のアンテナ等には、黒い旗が掲げられています。

途中2箇所で、シーア派の青年2人がバスを停めてバスに乗り込んできて、スンニー派が居ないかどうか車内を眺め回し、屈みこんで座席の下までチェックしました。

現地ガイドは、身分証明書をチェックされました。

その間、エスコートしてくれたポリスは為す術も無く、部族社会の現実を、まざまざと見せつけられた格好です。

スンニー派は髭を伸ばしているが、シーア派は短く切り揃えていると聞きましたが、確かに青年達は髭が短かったです。

途中でエスコートしてくれた車の台数が、2台から3台に増えましたが、14時頃にはギルギットの町に入ったので、ホッとしました。

市街地のあちこちに検問所が設けられていて、戒厳令が敷かれてますから、軍人以外の姿は見掛けません。

14時半頃にギルギット空港に着き、大使館員の出迎えを受けました。

荷物のX線検査とボディーチェックを受けた後、“ノンステップ型”で輸送機の後部から乗せていただきました。

どんどん混んで来たので、縦4列の折りたたみ式のシートに、1人分の仕切りらしいものは無視して、ぎゅうぎゅうに詰められました。

日本人が多かったですが、日本人以外の人も家族連れ等、何人かは見掛けました。

輸送機ですから、大きく高い胴体に、左右3個づつ位の小さな窓が、あるだけです。

15時6分に出発して10分に離陸し、20分程で水平飛行に移行し、30分弱ほど水平飛行した後に下降し、16時13分、イスラマバードの空軍基地に着陸しました。

プロペラ機の五月蝿いエンジンが停止すると、間髪を容れずに、「ジベジベ(Jeewe Jeewe、永遠に、永遠に)パキスタン」、「パキスタン ジンダバード(Zindabad、万歳)」の声が上がりました。

パキスタン空軍の軍人がニコッとしていたので、あの国旗降納式における甲子園風の応援が、役に立ったのです。

空軍基地に降り立つと、大勢の報道陣が詰めかけていて、ヴィデオを回したり、インタビューしたりしています。

イスラマバード空港は狭くて、古くて、薄暗い空港で、肝心な酒も売って無いし、ほんまにええとこ無しですワ。

テニスコートで何時もお世話になっている、主に女性達の為に、チョコレートだけは買いました。

最近パキスタン・インターナショナル航空は、PK852便北京経由成田行きの出発時刻を、試験的に3時間前倒しにしているので、19時40分には動き出しました。

10時過ぎにフンザを出て、20時前にはイスラマバードを、予定していた便で離陸出来た訳ですから、申し訳ないですが、信じられない程に効率的に帰国の途に就くことが出来て、感謝感激しています。

周りの関係者の方々にはお世話になり、本当に有難うございました。


2012年04月25日

ドゥイカル村、バルティ水路

2012年4月7日(土) ドゥイカル村、バルティ水路

4時に起床して、5時に出発し、「ドゥイカル(Duikal)村」に向かいました。

「ミール峰」(標高7,026m)が最初に色づき始め、ゴールデン・ピークが続き、レディ・フィンガー峰やフンザピークも徐々にガスから解放されて行きましたが、ラカポシ峰だけは最後まで山頂がガスに覆われた儘でした。

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朝食時の説明では、状況は変わっていないので、昼食は外でバーベキューということになりました。

朝が早かったのと、疲れが溜まっていたので、午前中はぐっすり寝てしまいました。

しかし、50%の確率でヘリが飛ぶとの大使館からの連絡が午前中にあったので、バーべキューは中止となり、14〜15時頃に予定される連絡を待つので、ホテル内待機となりました。

しかしフンザからは東方にあるスカルドゥで大規模な雪崩があり、軍人も100〜150人巻き込まれたので、軍隊の力がそっちに削がれることになったということなので、雲行きが怪しくなって来ました。

15時の説明では、案の定、大使館からの連絡はなかったので、「バルティ水路」ウォークに出掛けることにしました。

バルティット・フォートの建つ峰を越えて下の谷の方に降りて行くと、「ウルタル・サル氷河」からの雪解け水が流れて来て、砂落とし場の様な5〜6m平方位のプールに入り、そこから下に水路として流れていきます。

水路を流れの方向に歩いて行くと、昨日ハマチ水路を遡上した時に見た水門に到りましたが、今日は水門が開けられていて、ハマチ水路に水が流れていました。

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夕食時には、ノーという連絡がない以上は期待して待つしかないが、明日8日(日曜日)のイスラマバード発は絶望的になったと言わざるを得ない、という説明がありました。

ギルギットからイスラマバードまでは、パキスタン空軍輸送機で移動することになりますが、ヘリは人間優先になるので、手荷物は10kg以内にする様にとの指示がありました。

主荷物は、別便で到着することを覚悟しておいて欲しい、とのことでした。

インターネットには、フンザに日本人約60人、ギルギットに約10人、計70人強が足止めされていて、大使館が軍に救出を要請しているという記事が、載っていたということです。

6夜目の宿泊、2泊目の延泊に突入しました。


2012年04月24日

ハマチ水路

2012年4月6日(金) ハマチ水路

6時半の気温は9.1℃です。

晴天でレディースフィンガー峰やウルタル・サル峰が良く見え、村の景色が、どんどん艶かしくなっていくので、むしろ苛立ちを覚えます。

4回目の朝を迎え、本来なら今日カリマバードを発って、ハイウェイをチラスへ向かう予定でした。

朝食時の説明では、パキスタン空軍のヘリコプターを要請しているのでホテル内待機とし、来ないことになれば、12時に再度集合ということになりました。

ヘリのキャパには限界があり、輸送は人間優先になるので、手荷物は念の為に、3〜4泊の宿泊を覚悟したものにしておかねばなりません。

いよいよ手持ち無沙汰になって来たので日本へ手紙を書き、ホテルのレセプションに渡しましたが、40日くらい掛かると言われ、この情勢ですから、もっと日数が掛かることを覚悟して、トライアルの気持ちで出してみました。

ブルガリアの「リラ修道院」からの郵便葉書は、半年以上経った今でも届いていないので、もう自棄糞(やけくそ)ついでです。

昼食後、時間が空いたので、ホテルの下の方を流れている「ハマチ水路」を散策してみましたが、言うまでも無いことですが、水路に魚反(はまち)が泳いでいる訳ではありません。

ハマチ水路は水門が閉じられていて、水は流れてはいませんでした。

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今日もディラン峰が、たわわに咲いた杏子の花を付けた梢の向こうに、真っ白に冠雪した美しい姿を見せています。

15時には、今日はヘリが来ないとの説明があり、5泊目の宿泊が決まり、1泊目の延泊となりました。

夕食まで時間が出来たので、読み飽きた白洲正子著「かくれ里」の代わりに、「IXY600F カメラユーザーガイド」と、「方位・高度・気圧・温度計測機能 3069 (B)取扱説明書」を、真剣に読んでみました。

カメラでは、世界時計で訪問先の日時・時刻を、画像の右下に記録する方法を知り、早速明日から活用することにしました。

今までは頭の中で暗算処理していたので、これからは手間が省けますが、その分早く呆けることになるかも知れません。

電子時計では、高度メモリー計測しておけば、最高高度や最低高度が記録されるので、居眠りしてても大丈夫ということになります。

これまた体力の維持には役立ちそうですが、気力の維持には問題が出てきそうです。

夕食時の説明では、大使館や現地法人も精力的に動いてくれているが、軍がチラス方面に注力せざるを得ないので、難航しているとのことでした。

また、NHK国際部からホテルに取材の電話が入ったことや、家族に電話したら、朝日テレヴィ報道ステーションでも報道されていたと言っていた、といった情報もありました。

4月8日(日曜日)予定していた帰国便には間に合いそうもないので、パキスタン航空以外の航空便の可能性も含めて、検討しているとの話でした。

明朝は、一昨日に夕焼けの高峰群を観賞に行った「ドゥイカル(Duikal)村」へ、朝日に輝く高峰群を観賞に行くので、気を取り直して、早く寝ました。

2012年04月23日

バルベル水路、民族舞踊

2012年4月5日(木) バルベル水路、民族舞踊

枕元のカーテンを開けると、レディー・フィンガー峰とウルタル・サル峰がはっきりと見え、村の杏子の花も更に増えたようです。

6時の気温は8.2℃ですが、緯度が福島県辺りにあり、標高2,200mにあることを考えると、むしろ暖かいのかも知れません。

朝食時の説明では、アッタバード湖等の上部フンザへは、ハイウェイが封鎖されていて行けないので、11時までフリーとし、その後にギルギットへ移動する可能性もあるということでした。

朝散は、一昨日に歩いた「ダラ水路」を逆方向に歩きましたが、戻る時に道を間違え、午後に行くことになった、ダラ水路よりも高い所を流れる「バルベル水路」とダラ水路との間にある道を、戻ることになりました。

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ラカポシ峰やディラン峰が鮮やかに見えました。

土産物屋の店先を覘いた時にデコトラのTシャツを見付けて、1枚300ルピーで買えたので、どうも昨日の店ではぼられた様に思いました

道路に停めてあった車には、「トヨタカローラ神奈川」というステッカーが貼られた儘になっていて、日本からの輸入中古車であることが明瞭です。

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昼食の時の説明では、今日はギルギットへの移動はなくなったので、午後は花見に出掛けることになりました。

午後はバルティット村の一角にある小高い丘に登りましたが、丘の下の方に見える道を、シーア派の抗議デモが行くのが見られました。

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「パキスタン・イスラーム共和国」ではスンニー派が9割を占めると言われていますが、ここギルギット・バルティスタン州は、シーア派が多い地域ということです。

イスマイーリー派が圧倒的に多いと言われるフンザでも、シーア派が結構居て、全く平穏とは言えないようです。

帰りは標高が2,300mある「バルベル水路」を歩いて帰りましたが、標高が高いので、勿論眺望は良くなりました。

この水路には、この時には水が流れていませんでした。

夕方、日本に電話して、現在の状況を説明し、併せて阪神タイガースの戦績を確認しました。

DeNAには第3戦を落して1勝1敗1分けでしたが、ヤクルトには1勝1分けで、まずまずのスタートを切っていたので、安心しました。

夕食はフンザの伝統料理で、「Buruce Shapie」というチーズサンドとか、「Chap Shuro」というミートパイ、スープ、豆料理、ホウレン草カレー、デザート等をいただきました。

その後、民族舞踊を楽しみました。

楽器は、「Dadang」(太鼓)と「Damal」(小鼓)、「Suranai)」(横笛)の3種類で、日本の祭り囃子のようにも聞こえます。

レストランのコックやホテルのマネジャー、レストランのウェイター、現地ガイド、の皆さんが、次々と自らの舞踊を披露しますが、どうやら定型はなく、基本型さえ押さえれば自由の様です。

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現地ガイドの誘いを受けて、彼の手の型を真似て踊ってみたところ、好評を博しました。

煽てに乗り易いO型の私は、ゴーゴーやトゥイスト、モンキーダンスの様になりながらも踊りまくりましたが、流石に2,200mの標高のもとでは、10分も踊ると、心臓が“沸騰”しました。


2012年04月22日

アルティット砦、ドゥイカル村

2012年4月4日(日) アルティット砦、ドゥイカル村

標高2,700mにある「ドゥイカル(Duikal)村」で高峰群の朝焼けを見る為に、4時に起きたのですが、生憎の雨で中止。

夜が明けて来ると、目の前の山にはガスが掛かり新雪が積もっていますが、花は昨日より咲いている様に感じます。

雨が降ったせいか、水道水の濁り方が酷くなりました。

イスマーイール派には「アザーン」(イスラム教の礼拝を呼び掛ける朗唱)が無いそうで、朝も静かです。

ホテルの前庭を朝散した後、近くにある元藩王所有の豪華ホテル「ダルバルホテル」を訪ねましたが、客がギルギットから引き返してしまったとのことで、商売あがったりだそうです。

道で出会った人に訊くと、チラスでシーア派6人を殺害した被疑者の逮捕に抗議して、スンニー派がギルギットの警察署を襲撃したので、軍が戒厳令を敷き、カラコルム・ハイウェイは閉鎖されているとのことです。

チラスは、アフガニスタンやスワット渓谷に近いので、タリバーンも潜入しているらしいです。

フンザ川を隔てて対岸にある「ナガール藩王国」に対する防衛拠点として築かれた、「アルティット(Altit)砦」のある「アルティット村」は、古くはシルクロードが通っていました。

「バルティット村」や「ガネシュ村」と並んで古い歴史を持った村で、城壁に囲まれた内部は迷路のようになっており、民家が200軒ほどあり、約1,000人が暮らしています。

村の入り口には樹齢900年を越える胡桃の古木が立ち、嘗ては裁判の場や冠婚葬祭場、踊り場、集会所として使われた広場や、400年前からの民家があります。

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日本大使館が、排水設備を寄付しています。

砦の中は修復中で入れなかったのですが、現地ガイドさんのジャベールさんの家の中を、見学させていただきました。

狭い戸口を頭をぶつけながら入ると、居間の真中に囲炉裏風の薪ストーブがあり、そこで沸かした湯で淹れ、塩や胡椒を入れた、チベット風のミルクティーをいただきました。

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狭い家ですが、2010年に起きた大地震でフンザ川が堰きとめられて出来た、「アッタバード湖(Attabad Lake)」の底に家が沈んでしまった親戚の人等7人が、生活しています。

父系主義で、いとこ同士の見合い結婚が多いそうですが、結納の時には30人、嫁入り道具の搬入の際には60人が、相手の家を訪問し合うそうです。

昼食はホテルで食べましたが、牛肉が美味しかったです。

フンザ川やカラコルム・ハイウェイの方に降りていく道に杏子林があるので、散策しましたが、「ディラン(Diran)峰」(標高7,273m)を覆っていた雲が取れ、杏子の花とのコンビネィションが綺麗です。

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直射日光は強烈で、半袖姿で十分です。

夕方からは、標高が2,700mあるドゥイカル村へ、夕陽に輝く高峰群を見に、ジープに乗って出掛けました。

ウルタル・サル峰やフンザ・ピーク、レディー・フィンガー峰が真上に見え、フンザ峡谷を挟んだ東の方角には、ラカポシ峰やディラン峰、北方の奥の方には、「ゴールデン・ピーク(Golden Peak)」(標高7,027m)が見えます。

夕陽に赤く染められた高峰群は、昼間とはまた違った魅力を、見せてくれました。

何時もガスに隠されて、その姿を見ることが難しいレディー・フィンガー峰が、夕日に照らされて、はっきりと見られたので、嬉しくなりました。

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夕食時には、フンザワインとフンザウォーターを仕方なく飲みましたが、世界で一番、どんな酒でも楽しむことが出来る、日本国の有難さが身に沁みて分かりました。

絶対に日本へ帰って、清酒を飲むで!

情勢次第で、明日の日程が決まるということですが、カラコルム・ハイウェイが閉鎖されているので、アッタバード湖には行けそうになさそうです。

ギルギットから来てくれるパキスタン軍のエスコートの元で、ギルギットに先ずは移動し、イスラマバードまでの飛行機が飛ぶのを待つ1〜2日間は、軍施設の只中にあるホテルに滞在することになるかも知れない、という説明がありました。

13時半の気温は20.3℃、16時の気温は26.7℃でした。


2012年04月21日

ダラ水路、バルティット・フォート

2012年4月2日(日) ダラ水路、バルティット・フォート

7時の気温は7.9℃で本当に寒いので、厚手の寝巻を持ってきて正解でした。

部屋のカーテンを開けると、フンザの村の風景が眼前に広がっていて、杏子と思われる花が、咲き始めています。

「ウルタル・サル(Ultar Sar)峰」(標高7,388m)や「フンザ・ピーク(Hunza Peak)」(標高6,270m)、「レディー・フィンガー(Lady Finger)峰」(標高6,800m)といった、6,000〜7,000m級の高山が迫って来る様に、眼前に屹立していますが、上の方にはガスが掛かっていて、山頂は見えません。

少し頭が痛く、高山病の極く初期の症状を呈していますが、食欲や排泄は万全な状態を維持しており、昼過ぎには極く軽い頭痛も消えました。

「Hasegawa Memorial Public School & College」を訪問しましたが、ウルタル・サル峰で亡くなった長谷川さんの遺族達の寄付によって建てられました。

男子はカラチまででも出してもらえますが、女子はギルギットまででさえも出してもらえないそうなので、朝礼で並んでいるのを見ると、高学年は圧倒的に女子ばかりです。

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日本大使館が、2008年に建設された新しい校舎を、寄付しています。

「ダラ水路」はカリマバードに何本かある水路の1っで、幅が1〜2m程の土盛りの水路ですが、雪解け水を引いて来て、生活用水や畑の灌漑に使われています。

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水路に沿って民家や果樹畑が並んでおり、ラカポシ峰や「ディラン(Diran)峰」(標高7,273m)が前方に、その雄大で冠雪した美しい姿を見せてくれます。

アーモンドの花は満開で、サクランボや梨の花もそこそこ咲いていて、杏子の花が3分咲きといったところでしょうか、今年は例年より少し遅めの様です。

「バルティット(Baltit)フォート」は、この地方に8っあった「藩王国」の1っによって、13世紀に最初に築城されました。

15世紀に、チベット文化の影響の強い「バルティスターン(Baltistan)地方」の「スカルドゥ(Skardu)」から王妃を迎えたことから、建築様式にはチベット様式の影響が見られ、チベット・ラサにある「ポタラ宮」と良く似た建て方がされています。

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1891年にイギリスが侵略して来た時には、「ミール(Mir、藩王国王)」は中国へ亡命したそうですが、1945年までは此処に住んでおり、「フンザ藩王国」は1974年まで存続しました。

城は標高約2,350mの見晴らしの良い高台にあるので、歴史的に仲の悪い、対岸の「ナガール藩王国」のあった「ナガール地区」や「フンザ川」が良く見えます。

牢獄や冬の間、夏の間、客間、屋上の裁判の間等がありますが、イスラム教「イスマーイール派(Esmailiyan)」(8世紀に起こったシーア派の一派で、別名「7イマーム派」)の「アーガー・ハーン(Agha Khan)財団」が、同派に属するフンザ地区の此の建物を、1990年に修復しています。

現在の「カリム・アーガー・ハーン4世(Kharimn Agha Khan IV)は、イスラム教イスマーイール派の分派ニザール派の「第49代イマーム(Imam、最高指導者)」です。

城を下りて来た辺りに土産物屋が集まっていたので、シルクロード地図が書かれたTシャツと、フンザ・バルチット・フォートの写真がプリントされたTシャツを、購入しました。

乾燥杏子も買いましたが、デコトラの玩具は粗雑な柄のものしか無く、しかも80米ドルと言われたので、買うのを止めました。

中国からの密輸入ビールの空き缶が、堂々と店先に飾ってありましたが、私は敢えてビールを飲むことはないので、買った人の話によると、500mlの缶ビールが500円程度したそうです。

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夕食の時に、カラコルム・ハイウェイが閉鎖されたので、日本人の旅行グループが、スカルドゥからフンザに入ることが出来なくなったと聞きました。

「フンザウォーター」と言われて、秘かに売られている「桑の実の蒸留酒」と、「フンザワイン」と言われる「葡萄酒」を買ってみました。

蒸留酒は、500mlペットボトル入りで800ルピー(約800円)、ワインは、同じく1,000ルピーもしましたが、ものは試しといった所です。

蒸留酒の方は先ず先ずの味ですが、ワインの方は酢の様な変な味がして、不味いです。

今日の12時半の気温は15.8℃、17時半の気温は20℃でした。

2012年04月20日

カラコルム・ハイウェイ(2)

2012年4月1日(土) カラコルム・ハイウェイ(2)

7時の気温は18.9℃で、標高が1,000mあっても乾燥しているからか、寒いとは感じません。

朝がゆっくりだったので、昨晩は良く寝て、睡眠不足を解消しました。

インダス河が真下を流れていて、朝食を食べながら雄大な眺めを楽しむことが出来ました。

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チベット高原の東と西の違いはあるものの、黄河が雪解け水を集めながら、荒涼たる山塊の谷間を悠然と流れ来る姿と、インダス河が眼前に繰り広げる姿には、良く似たものがあります。

食事の後、ホテルの外に朝散に出るのは危険なので、ホテルの庭を、雄大なインダスの流れを楽しみながら散歩しました。

今日はフンザのカリマバードまで約250kmの移動なので、昨日の半分の距離です。

ホテルに近い所で「岩絵」を観ましたが、6世紀頃にシルクロードを旅する人達が、渡河の待ち時間に仏陀や仏塔を描いたもので、書かれている文字はカローシュティ文字ではなく、現地の文字だそうです。

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乗合バスが遅れたので、出発が少し遅れました。

この辺りは部族社会で部族間の縄張りが厳しいため、家畜の遊牧は不可能で、放牧のみがなされています。

直射日光はギラギラとして暑く、日中はTシャツで十分です。

この地域は、ユーラシアプレートとインドプレートがぶつかり合うため崖崩れが多く、2005年10月のパキスタン北部大地震で、大きな被害を受けた地域でもあります。

崖崩れが起きると、軍隊が直ぐに大きな岩を爆破して、土砂を排除して通れるようにしてくれるそうです。

途中、イスラマバードへ向かう「コンヴォイ(Convoy)」と擦れ違いましたが、乗合バスやトラック等が、長蛇の列をなしていました。

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砂金採りをしている人達が結構いるそうですが、彼らが泊まり込んでいるテントが幾つか集まっているのが、川底の方に見えました。

「ジャグロット(Jaglot)」という町の近くで、インダス河は東方に入って行くので、我々は「ギルギット川」の方に進路を取って、北西に向かいました。

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この辺りはまた、「ヒマラヤ山脈」と「カラコラム山脈」、「ヒンドゥークシ山脈」がぶつかって、鬩ぎ合う所でもあります。

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ギルギットは標高1,500mにあり、昨日飛行機が飛んでいれば泊まる予定であった、凄く良さそうなホテルで昼食を摂りましたが、美味しい味の食事が出ました。

ギルギットは治安の悪い所なので、ホテルの近辺にも軍施設が密集しており、安全な所です。

ギルギットから先の渓谷の対岸には、川から20から30mの所に、シルクロードの痕跡が見られ、崖崩れで分からなくなった所もありますが、石組のしっかり残っている所では、対岸からもはっきり識別が可能です。

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今は、羊や山羊、牛の放牧の為に使われている道が、多いようです。

ギルギットから「スワット(Swat)渓谷」に入って、ペシャーワルに抜けるシルクロードの道も、嘗てはあったようです。

その後、「ラカポシ(Rakaposhi)」(日本での愛称は“アカホシ”(赤星))という標高7,788mもある山を、直ぐそこに見ることができる場所が道路沿いにありましたが、残念ながら見えませんでした。

悪路に阻まれて速度を出せないので、20時前にやっと、カリマバードに着きました。

ホテルは標高2,200mにあり、部屋に入っても寒いので、暫らく布団の中にもぐりこんで温まった後で、22時頃にシャワーを浴びましたが、寒いのなんのって。

水が少し濁っているのは、氷河の雪解け水を其の儘使っているので、細かい砂が沈澱しきらない為です。

21時半の気温は、11.3℃でした。


2012年04月19日

カラコルム・ハイウェイ(1)

2012年4月1日(土) カラコルム・ハイウェイ(1)

4時に起床し、4時45分から朝食を摂り、5時半にホテルを出発して、イスラマバード空港には6時頃には着きました。

荷物検査の後、睡眠不足のせいでボケていたのか、ナップザックを取り忘れました。

何となく、身が軽くなったなぁと思っていたんですが。

パキスタン航空PK-607便7時発「ギルギット(Gilgit)」行きの、発券カウンターに一旦は並んだんですが、30〜40分待てというので、待合スペースで待っていると、程無くキャンセルとなりました。

これがエィプリルフールなら許せるのですが、「カラコルム・ハイウェイ(Karakoram Highway,KKH)」でのバス旅行になりました。

このハイウェイは古代のシルクロードをも通っていて、パキスタンの「アボッターバード」(Abbottabad)」から中華人民共和国の「カシュガル」までの約1,300kmを結んでおり、イスラマバード西方で、GTロードに接続しています。

キャンセルは良くあるそうで、今日はギルギットよりも東の方にある「チトラル」へのフライトもキャンセルされたので、山岳部の天気が悪くては仕方ありません。

イスラマバードからパ中国境の「クンジェラブ峠(Khunjerab Pass)」までは906kmあり、「フンザ(Hunza)地方」の「カリマバード(Karimabad)」までは730km、ギルギットまでは628km、今日の目的地である「チラス(Chilas)」までは482kmあります。

ハイウェイとは名ばかりで、山岳部に入ると、インダス河の峡谷の岩肌を縫って落石を避けながら、くねくねとしたデコボコ道が続きます。

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今にも落ちて来そうな岩石に、上から睨みつけられている様で、生きた心地がしません。

フンザを訪ねての戻り道ならばいざ知らず、ここで死んでしまっては、元も子もありません。

「ベシャム(Besham)」というイスラマバードから272kmの町で昼食を摂りましたが、その手前の「サコット(Thakot)」という町からは、ポリスのエスコートが付きました。

ベシャムには、シルクロードが機能していた頃にはキャラバンサライがあり、中国からクンジェラブ峠を越えて南下して来た旅人達は、西に向かって「ペシャーワル(Peshawar)」へ、東はインドへ、南はタキシラへと、分かれていったようです。

ベシャムは標高が未だ550mしかないのですが、7時から走り初めて14時まで、彼これ7時間走っても272kmですから、今日中に未だ210kmも、くねくねのデコボコ道を走らなあかんと思うと、うんざりしてきます。

昼食はパキスタン料理のヴァイキングで、美味しくいただけましたが、これから先の地域では、イスラム教シーア派とスンニー派の抗争が激化していることを聞き、少し不安を覚えました。

ベシャムからチラスまでの道中の半ば辺りにある「ダスゥ(Dasu)」という、「コーヒスタン(Kohistan)地方」の町からは、「コーヒスタンのK2」と呼ばれる、5,526mの山が聳えているのが見られます。

「ドゥディシャル(Dudishal)」という、「ギルギット・バルティスタン州(Gilgit-Baltistan)」(州都ギルギット。パキスタンが実効支配している地域の1っで、「アザド・カシミール州(Azad Jammu and Kashmir)」(地域首府ムザファラバード)とともに、「パキスタンの実効支配しているカシミール」(Pakistan-administered Kashmir)と呼ばれる。)、に属していて、「カイバル・パクトゥンクワ州(Khyber Pakhtunkhwa)」(州都ペシャーワル)と州境を接する町に入ると、ポリスのエスコートが俄然厳しくなりました。

ここから30km先のチラスまでの間が最も危険な地域で、先日には乗合バスがスンニー派に襲われて、シーア派の人達6人が殺害されるという事件が起こっています。

ここからは車列を組んで、ポリスが前後をエスコートして行きます。

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乗合バスは日が暮れると危険なので通行させてないのですが、ある程度の数の車列になって通行を認められたらしく、同じ車列になったので、正直に言って不安を感じます。

辺りは真っ暗闇で、不意に襲われたら一溜まりも無さそうですから、車が一時停止した時などは、少々不安になりました。

22時半過ぎにチラスに着いた時には、流石にホッとしました。

チラスは緯度が東京辺りであり、標高が1,000mありますから、Tシャツでは寒いです。

ホテルの部屋の壁や備品類は石とか土で出来ていて、キャラバンサライをイメージしているのかなと思われましたが、バスタブに湯を溜めて、長かった一日の疲れを癒しました。

「インダスビュウ」というのがホテルの名称ですから、明日の朝が楽しみです。

2012年04月18日

タキシラ

2012年3月31日(金) タキシラ

ホテルの前の道を朝散しましたが、緯度が高知や福岡辺りになり、標高が550mあるので、少し肌寒く感じます。

「フンザ」方面の山が遠望されますが、山手は快晴とは言えず、明日の「ギルギット」までの飛行機が飛ぶかどうか心配です。

「タキシラ(Taxila)」はイスラマバードの北西約40kmにある、「ガンダーラ(Gandhara)」の典型的な仏教遺跡ですが、途中立寄った古来の「GT(Grand Trunk) Road」では、幅10mくらいの道に石が敷き詰められているのが、見られました。

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GT Road は、今のアフガニスタンの「カーブル」からインドの「アグラ」まで続いていて、30kmか35km毎に、キャラバンサライが設けられていたそうです。

「ジョウリアン(Jaulian)」は、タキシラにある2〜5世紀の仏教寺院址ですが、小高い丘の上にあり、嘗ては3,000人の僧侶がいたと言われています。

僧侶の生活した僧院区と、仏塔と奉献仏塔、祠堂からなる塔院区から成っています。

仏塔は基壇しか残っていませんが、基壇には「ストゥッコ(Stucco)」(化粧漆喰)の、浮彫装飾や仏像等の浮彫彫像が残っています。

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玄奘三蔵に依れば、6世紀には破壊されていたそうですから、5世紀に「エフタル(Hephthalite)族」(白いフン族)に破壊されもので、モスレムによる破壊ではないようです。

「モーラ・モラドゥ(Mohra Moradu)」も、僧院と塔院からなる仏教寺院で、仏塔の一部と、長方形の基壇とが残っています。
塔院区のストゥッコ装飾
基壇のストゥッコ装飾は、長い間泥に埋まっていたために保存状態が良く、出土品の多くは「タキシラ博物館」に展示されています。

僧院には第9部屋に高さが3.6m程の「奉献仏塔」が置かれていて、尊敬する先輩僧の為に、後輩僧が建造したものだそうです。

「シルカップ(Sirkap)」は、紀元前2世紀に、「バクトリア」(今のアフガニスタン北部)のギリシャ人が侵入して建設した町です。

その後、「サカ朝」(紀元前85年〜紀元19年)、「パルティア朝」(20〜75年)、「クシャン(Kushan)朝」(80?〜375年)という時代に、栄えました。

今の処、紀元前4世紀のギリシャ以前の都市からクシャン朝まで、7層の都市址が発掘されていて、今地上に現れている層は、上から2層目のパルティア朝時代のものが主となっています。

約600mあるメインストリートの両側には、仏教寺院や拝火教寺院、ジャイナ教寺院、住居、商店、日時計等が残っています。

有名な「双頭の鷲」は想像していたよりも小さいものでしたが、インド風とペルシャ風、ギリシャ風のアーチと柱のレリーフが、3文化を融合して、仲良く並んでいました。

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「タキシラ博物館」では、「瞑想する仏陀像」(ジョウリアンから出土、4〜5世紀)を観ました。

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「ダルマラージカ(Dharmarajika)」は、タキシラの中で最も古く、最も大きな仏教寺院です。

紀元前3世紀に「アショカ王」(在位:紀元前268年頃〜同232年頃)が、仏舎利を8つの仏塔に分納した内の1つが此のダルマラージカで、中心の仏塔の周りには、奉献仏塔や祠堂が並んでいます。

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仏塔は元々高さが40mあったそうですが、現在では20m位です。

イスラマバードに戻って、1966年にサウジアラビア王国の国王「シャー・ファイサル」の寄進によって建設された「シャー・ファイサル・モスク(Shar Faisal Masjid)」を見学しました。

形は砂漠のテントをイメージしたもので、ミナレット(尖塔)の高さは99mだそうです。

日本に電話をして、気になっていた阪神タイガースの戦績を確認した処、金曜日の開幕戦を横浜と5−5で引き分け、土曜日は3−2で勝っていたので、気分良く就寝しました。

ところが、ホテルで結婚式が3件も行われていて、1階は騒がしかったのですが、悪ガキどもが夜中に部屋のドアを叩いて逃げていくので、堪りかねてドアを開けて、「こら、静かにしろ!」と怒鳴り付けました。

私の部屋は其の後何もなかったのですが、隣室には24時過ぎに、再度仕返しに来たそうですから、性質(たち)が悪いですね。


2012年04月17日

ロータス砦

2012年3月30日(木) ロータス砦

ラホールから300kmほど北にある、現在の首都である「イスラマバード(Islamabad)」へ向かい、途中180km程の所にある「ロータス砦(Rohtas Fort)」に寄りました。

ラホールとイスラマバードの間には、「GT(Grand Trunk)Road」と呼ばれる、古代の幹線道路が通っていて、明日「タキシラ」付近で、石畳の旧道を見ることになります。

ムガル帝国初代皇帝の「バーブル(Babur)」(在位;1526〜1530年、「ティムール朝サマルカンド政権」の第6代君主としての在位は、1497〜1498年)が、今のアフガニスタンからインドまでの間の道を、16世紀に建設し始めました。

昼食は、国道5号線沿いの食堂で摂りましたが、魚のフライと魚のカレー、マンゴーアイスクリームが美味しかったです。

ロータス砦は、「スール朝」(1539〜1555年)の創始者「シェール・シャー・スリ(Sher Shah Suri)」(在位;1539〜1545年)によって16世紀に建設され、パシュトゥーン建築とヒンドゥー建築様式が、絶妙に融合されています。

インドからペルシャに追放された、ムガル帝国第2代皇帝「フマーユーン(Humayun)」のインド復帰を阻止することと、パンジャーブ平原のガーカル族を制圧することを目的にして、建設されました。

標高は約800mにあり、北側には、カーハーン川が蛇行しながら流れているのが見られます。

「ソヘール(Sohail)門 」や「バーリ階段井戸(Bari Baoli)」、城壁等を観ました。

この階段井戸は城砦の中央部に掘られていて、兵士や軍馬、戦象が水分を補給しましたが、階段は一直線に下っていて、139段もある深いもので、標高は約330mあります。

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「ハヴェーリー・マン・シン(Haveli Maan Singh)」は、シク教徒が此処を支配した頃に、シク教の王が建てた高殿です。

イスラマバードに近づくにつれて標高が上がって行き、550mまで来ました。

日本の旅行社の現地法人会社の経営する日本料理店で、最初の客として、茶碗蒸しや、冷奴、サラダ、柔らかい蕎麦、鶏肉八宝菜、アイスクリームをいただきました。

フンザで出すと40日は掛かると言われたので、1週間程度で届くと言われたイスラマバードから、日本へ葉書を出しました。(しかし4月16日現在でも未着ですので、7週間程度の聞き間違いではなかったかと、自らを責め且つ慰め始めました。)

昨年9月19日にブルガリアのリラ修道院から出した葉書は、4月16日現在でも未着ですから、ブルガリアの様な国はギリシャなんかと共に、EUを脱退されたら如何でしょうね。


2012年04月16日

ラホール

2012年3月29日(木) ラホール

ホテルの前の通りを右の方へ朝散すると、PoliceのHeadquarterがあり、教会を持ったキリスト教の学校が2種類とPakistan RailwayのHeadquarterもありました。

PoliceのHeadquarterの前あたりは、流石に警備が厳重で、2車線の片側が交互にジグザグに封鎖されていて、不審車の検問がなされています。

ホテルの左前方には、イスラム教の学校もあり、複雑です。

ラホール市内にある「バドシャヒ(Badshahi)モスク」は、ラホールが「ムガル帝国」の主要都市として栄えていた17世紀に、時の第6代皇帝「アウラングゼーブ(Aurangzeb)」(在位;1658〜1707年)によって建立されたモスクで、インドから赤煉瓦を取り寄せて一部を修復中です。
 
タジマハルとは、また一風変わった趣があります。

「ラホール城(Lahore Fort)」は、ムガル帝国第3代皇帝「アクバル(Akbar)」(在位;1556〜1605年)によって、原型が造られました。

ラホール城とバドシャヒモスクの間にある門の外には、ホテルや飲み屋の集まった一角があり、昔は遊郭街だったそうですが、何処でもこの種の町には独特の佇まいがあります。

パキスタン最古最大の「ラホール博物館」では、「Ganddhara Gallery」で、かの有名な「断食仏陀像」や「バーンチカ像」を観ましたが、仏陀は高さが70〜80cm位の座像です。

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仏陀の生涯を描いたレリーフ等が、生誕から順を追って展示されていて、非常に分かり易かったです。

「Prehistoric and Indus Gallery」では、「アムリ(Amri)遺跡」(紀元前3,600〜同3,300年)や「コート・ディジ遺跡」についても、展示されていました。

「シャリマール(Shalamar)庭園」は王族たちの保養地で、ペルシャの影響が強く、ムガル帝国第5代皇帝「シャー・ジャハーン(Shah Jahan)」によって、17世紀に造営されました。

池には噴水が出ていないので、その良さが、もう一つ良く分かりません。

夕方には、ラホールから国道60号線を東へ20kmにある、印パ国境の「ワガ(Wagah)」で毎夕行われる「国旗降納式(Flag Ceremony)」を見にというか、パキスタン側の応援に出掛けました。

国境を挟んだ印パ両側の通路の両側に、阪神甲子園球場のアルプススタンドの様な応援席が常設されていて、国境に向かって右側の男性席、左側の女性席ともに、応援団がボチボチ入り始めています。

我々は通路に沿った席に座りましたが、向かい側に陣取った20人程の女性応援団は、早くも気勢を上げていて、イスラム圏の女性のイメージを一新させる激しさです。

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これやったら甲子園球場顔負けやんか。

スカーフを被っていない女性もいます。

後で彼女達に訊くと、ラホールの北にある都市のカレッジ(大学予科)の学生達だそうで、学校の名は聴き取れませんでしたが、確か“甲子園学園カレッジ”という風に聞こえた様な気がします。

程無く、名物爺さんや名物旗振りと思われる人達が出て来て、応援席と声を掛け合って、気勢を上げていきます。

17時頃には国旗降納が始まり、黒装束で、鶏の鶏冠の様な形をした帽子を被った兵士(Border Security Force Pakistan Rangers)達が、足を高く上げた独特の歩き方で、国境との間を行き来します。

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この頃には、応援団は沸騰状態になり、「ジーベジーベ(Jeewe Jeewe、永遠に、永遠に)パキスタン」とか、「パキスタン ジンダバード(Zindabad、万歳)」の大合唱になりました。

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私も頑張って、2008年甲子園球場1塁側シーズンシートでの応援の実績を引っ提げて、参加しました。

ジベジベとジンダバードは勉強していったのですが、それ以外は、周りの人達が何を言ってるのか分からないので、代わりに「わっしょい、わっしょい」とか、「かっ飛ばせ〜 鳥谷」、「読売倒せ〜 KO」とか叫びました。

歩いて駐車場に戻る道筋には、パキスタンとインドの国民が、柵を隔てて親しげに交歓している姿が見られました。

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夕食はラホールの街中にある“屋台村”で、羊の脳味噌と睾丸の料理を食べましたが、睾丸は魚の白子の様な味でした。

街中には男女一緒の姿も多く見掛けられ、スカーフを被っていない女性も多く見られます。

元気な賑わいを見ていると、テレヴィなんかで見てパキスタンに対して勝手に持っていたイメージとは、違うように感じます。

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2012年04月15日

ハラッパ

2012年3月28日(水) ハラッパ

6時の気温は19.4℃でしたので、鹿児島よりも暖かいのかな、という気がしました。

ホテルの前には公園があり、阪神鳴尾浜球場と見紛うばかりのクリケット球場も見えたので、朝散に出掛けました。

クリケット球場には観客席も少しはあり、ロッカールームや本部席の様なものもありましたので、流石はクリケットの本場やなぁと思いました。

今日はムルタンから北東へ300kmばかりの、パンジャブ州の州都である「ラホール(Lahore)」を目指し、途中で「ハラッパ(Harappa)遺跡」(ハラッパは、「終わった」という意味)に寄りますが、標高は未だ120m位しかありません。

ハラッパは、ムルタンから約120km東にありますが、途中には綿花や小麦等の畑が見られます。

ハラッパ遺跡は、紀元前33世紀から同17世紀のものとされていますが、一説によると、5つの時代区分がなされています。

それらは、1.ラーヴィー(Ravi。ハラッパ遺跡は、パンジャブ5河川の一つ、Ravi川の南方にあります)期、2.コート・ディジ期、3.インダス文明期、4.変移期、5.H墓地期、と呼ばれています。

行政地区、住宅地区、倉庫街、工場、墓地、商店街、オールドモスク(16世紀のもの)等を観て歩きましたが、往時2万人が暮らしていたと言われる町も、今では粗方、“原っぱ”となっています。

鉄道建設の時に此処の煉瓦が持ち去られたので、モヘンジョダロに比べると、残っている物が少ないようです。

直径が3〜4mあって、煉瓦が円周状に敷き詰められたものが、「工場・就労者住居址(Workshops & Workers Quarters)」に残されていて、粘土工房址とか、脱穀場址、藍染め場址、といった諸説があります。

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旅行前に書物で勉強していた頃から、大いに興味をそそられていただけに、直径や土盛りの高さが違うものが幾つか並んでいるのを観て、“壮観”だと感じました。

紀元前25世紀頃のものと言われています。

ハラッパからの出土品が少なく、好いものは大都市の博物館へ移されてもいるので、「ハラッパ博物館」には、展示品は多くはなかったです。

パンジャブ州の州都ラホールは標高が190mあるので、近づくにつれて、徐々に高度が上がって行きます。

町の中心部のホテルはテロの標的にされ易いので、少し郊外にある、スター数の若干少ない所に泊まりました。

夕食は街中にある、一応“中華レストラン”で摂りましたが、パ中関係が好い事や、カラコルムハイウェイの工事等で、、実際に中国人が多く居たこともあって、中華風料理は多いのですが、何といっても食材に制限が多いので、“中華風”としか言いようがありません。

このレストランでは、中国人と思しき人間は、見掛けませんでした。

ラホールは約700万人の人口を擁していて電力需要が大きく、十分な石油を確保出来ないのか、計画停電をしている様なので度々停電しますが、ホテルは自家発電装置があるので直ぐに復旧します。

安全な代替エナジーの開発が急がれますが、今夜は蚊がいなかったので、取り敢えず助かりました。


2012年04月14日

ムルタンへ

2012年3月27日(火) ムルタンへ

今日は、「チョリスタン(Cholistan)砂漠」を右側に、インダス河を左側にして、その間を走る国道5号線をひたすら走るだけで、見学はありません。

ガンバットから北西へ500km弱にある、「パンジャブ(Punjab)州」の「ムルタン(Multan)」という町を目指します。

国道沿いには、ヤシ林やマンゴー林、バナナ、砂糖キビ畑等が続きますが、小麦は収穫中の所が多く、次は稲作が予定されています。

トイレ休憩に立ち寄ったガスステーションで油の値段を見ると、ディーゼル用軽油がガソリンより少し高目で、両方ともリッター当り100円程度ですから、物価水準からすると安くはありません。

バイクの運転手は、0.5リッター(50ルピー、約50円)づつ給油していきます。

パキスタンの人達の平均寿命は58歳程度と高くはなく、骨や血液の癌や脳溢血、心臓病で死ぬ人が多いそうです。

パキスタンでは、広場や空地、校庭などで、クリケットで遊んでいる子供達が多く見られ、インドよりも目立つように感じました。

昼食はドライヴァーズレストランと呼ばれる一角のレストランで摂りましたが、羊肉が柔らかくて美味しく、野菜煮込みも味付けが日本食に近く、食べ易かったです。

デコトラ等の運転手達は、広い部屋に敷かれたカーペットの上に座って食事をし、枕に凭れて休養するそうです。

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デコトラの運転手が愛車を洗っていたので話してみると、ドンドン写真を撮って欲しいと言います。

彼らはデコレーションに情熱を傾け、運転している車を愛し、誇りに思っているそうです。

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道端の所々にある“砂糖工場”に立ち寄りましたが、インドで見たものと同じく黄色い砂糖で、黒砂糖とは少し違う味がしました。

ムルタンは、緯度は鹿児島市と同じ辺りにあり、標高は未だ80m程しかありません。

バザールに寄りましたが、中の道をバイクが走り回っていて、落ち落ち店を覘いても居られません。

ホテルに入る時に上を見ると、2階部分にセキュリティが銃を持って、土嚢を積んだ防塁の中に立っています。

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パキスタンでは、ホテルがテロ攻撃の対象になることが多いので、致し方の無い所なんでしょうね。

夕食はヴァイキング式で、中華風スープや生野菜、パキスタン式のカレー類、プリンを食べました。

日頃摂取不足が懸念される野菜類の補給に努め、プリン等の甘い菓子類も楽しみました。


2012年04月13日

モヘンジョ・ダロ

2012年3月26日(月) モヘンジョ・ダロ

6時半の気温は21℃でしたが、近所に朝散する所もないので、部屋でゆっくりしていました。

朝食は、パン、粥、オムレツ、茶という簡単なものなので、パンを5枚と粥を多めに食べて、腹の足しにしました。

リピータ銃を持った警官が、エスコートの為にバスに乗り込んで来ましたが、ここ「シンドゥ(Sindh)州」では、州政府の判断で付けられているそうです。

シンドゥ州は穀倉地帯で、未だに大地主(「ミール(Mir)」)と小作人の関係が堅固に存続していて、嘗ての首相である「ベーナズィール・ブット(Benazir Bhutto)」なんかも大地主でしたが、こんな国が良くなっていくのは難しい様な気がします。

「モヘンジョ・ダロ(Moenjo-Daro)」(意味は、「死の丘」)へは、少し北上してインダス河を渡り、「ラルカナ(Larkana)」の町の南東を掠めて、南下します。

遂に、齢64歳強にして初めて、小学校で習って以来半世紀以上もの間、夢見て来た所に遣って来たのです。

敷地は標高60m位の所にあって、5kmx4km平方の広さがあり、35℃の炎天下を歩きまわると結構疲れますが、見学した後に2箱飲んだマンゴージュースが、ほんまに美味しかったです。

印章に書かれた文字が解明されていないので、未だ未だ謎だらけですが、紀元前25世紀〜同18世紀に亘るものと考えられていて、最大時には4万人が暮らして居たと言われています。

仏塔はひと際高く聳えていますが、インダス文明から2千年紀後の、紀元2世紀に建てられたものだそうですから、歴史の悠久性を感じさせられざるを得ません。

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沐浴場(12mx7m、2.5m高)や穀物倉(46mx23m)、下水システム、一般・高級住宅地、軍隊居住地等を観て回りましたが、形状の統一された焼き煉瓦が、整然と積み重ねられた姿には、驚きを感じます。

しかし所々に塩害が生じており、歯周病の様に煉瓦が壊れていってるのを見ると、自然の力の物凄さに、愕然とします。

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この文明が消滅した原因については諸説ありますが、洪水にしろ、アーリア系民族による侵略にしろ、遺跡を目の当たりにして往時の光景を想像してみると、ゾクゾクとしてきます。

インダス文明は5つの河川の周辺に発生しましたが、モヘンジョ・ダロの様な町が、一説には1,500はあるのではないかとも言われているので、そのスケールの大きさには、広大なロマンを感じます。

モヘンジョ・ダロ博物館では、一角獣などの印章を観ましたが、メソポタミア文明やエジプト文明との共通性が指摘されていて、両文明との地理的な近さに、今更ながら気付かされます。

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しかしエジプト文明の様な大建造物が、ここには無かった事が幸せなことでだったのではないか、という議論もあります。

パキスタンでは今が選挙キャンペーンの時期で、何処かの政党の演説やら音楽が、ラウドスピーカーから流されていたのが喧しく、折角の遺跡探訪のムードをぶち壊してくれたのは、残念でした。

こんな国が、良くなれるのか!!

遺跡の前の土産物屋では、印章10個セットを、100ルピー値切って、400ルピー(約400円)で購入しました。

昼は遺跡のレストランで摂りましたが、邦人の家族旅行者にあっただけで、毛唐系統には出合いませんでした。

1日1本のミネラルウォーターでは足りなくなったので、1月にインド・オリッサへ行く前に成田空港の売店で買った「Water Boiler」を初めて使用し、カラチのホテルから持って来た紅茶を淹れました。

連泊のホテルで斎戒沐浴した後に、モヘンジョ・ダロを観て興奮した身体を、ラム酒で癒しました。


2012年04月12日

コート・ディジ

2012年3月25日(日) コート・ディジ

ハイデラバードの緯度は台北辺りと同等ですが、6時半の気温は22.8℃で、日中は35℃くらいまで上がるようです。

昨晩は21時半頃に寝て朝は5時に起きたので、睡眠不足は一応解消しましたが、ベッドメーキングする必要が無いほどに、何も被らずに寝てしまっていました。

ホテルの前の道はポリ袋等が散らかっていて汚く、野犬が屯していたので、それ以上先の朝散は諦めて、ホテルに引き返しました。

ホテルの入り口では、セキュリティが炭火を焚いて暖をとっていましたが、夜中は冷えるんでしょうね。


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ハイデラバードから北へ300km近くの所にある「コート・ディジ(Kot Diji)」に向かって、国道5号線を北上しました。

国道沿いには、バナナやマンゴー、小麦等が栽培されていて、小麦の脱穀は機械化されています。

途中、「サルワル・ヌー(Sarwar Nooh)」とうい聖人の廟に立ち寄りましたが、こうした聖人達はイスラム教を広めた功績のある人々だそうで、その子孫には、政治家として活躍している者達が多いそうです。

聖人廟はペルシャ風の形をしていますが、パキスタン南部の此の地域がペルシャに近く、ペルシャ文化の影響下にあったことを物語っているようです。

廟前のバザールでは、結婚式の時に新郎新婦が身に付けるという、札束で造った飾り物が売られていましたが、価格は1,000円程度するそうです。

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コート・ディジは標高90m位ですが、だだっ広い平原の中を、高度を上げ下げすることなく、進みます。

私は今回の旅行も18日間、お蔭様で無傷でしたが、昼食に出たアイスクリームでお腹を壊した人が、何人か居たようです。

コート・ディジには18世紀の城砦があり、その上からは、「コート・ディジ遺跡」が、遠方に見られます。

ここは「インダス文明初期ハラッパ文化」の遺跡であり、紀元前3,500年〜同2,500年のものとされています。

見た目は単なる土砂の堆積場の様に見えますが、既に5回も発掘調査が行われたそうで、丘に登ってみると、土の層の中に、多くの土器の破片が散らばっています。

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「サッカル(Sukkur)」の少し南にある「ガンバット(Gambat)」という集落にある、国道沿いの田舎ホテルに泊まりましたが、湯が出ないので仕方なく水でシャワーした処、環境がまぁまぁ暖かく水もぬるかったので、左程苦にはなりませんでした。

ラム酒を秘かにいただく前に、インダス河の聖水で斎戒沐浴できたかと思うと、幸せな気分になりました。

今ではインダス河は、ガンバットの西方40km、コート・ディジの西方60kmを流れており、川向うには「モヘンジョダロ遺跡」があります。

夕食は中華風パキスタン料理で、麺の入ったスープが美味しかったです。

ホテルの電気が時々停電しても、自家発電装置があるので直ぐに復旧しますが、電気蚊取りが消えてしまって、一々オンにしなければならないので、困りました。

2012年04月11日

カラチ、チャウカンディ、タッタ

2012年3月24日(土) カラチ、チャウカンディ、タッタ

3時間くらいは寝られたので、何とか成りましたが、日中のバスの中では、よく居眠りしました。

ホテルの前の綺麗な道を朝散しましたが、気温は19℃前後に感じられ、散歩に丁度良い位です。

此れでも、日中は34℃くらいに上がるそうですから、俄かには信じ難いです。

駐車場には、TOYOTAを中心とした日本車が圧倒的に多いのには、驚きました。

カラチにある「パキスタン国立博物館(National Museum of Pakistan)」では、有名な「神官王像(Priest King)」(紀元前3,500〜同2,500年)や「踊り子像」等を、観賞しました。

神官王像は高さが約17cmの小さなものですが、これから訪問する予定の、インダス文明を代表する「モヘンジョダロ(Moenjo-Daro)遺跡」から発見されました。

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一角獣や犀等を表わした土製の「印章」や、女性等の「土偶」、牛車の模型、サイコロゲーム盤等の、インダス文明の遺跡から発掘された出土品が、多く展示されていました。

同じくモヘンジョダロから出土した踊り子像は、先般、インド東部・チャティッシュガール州で購入した、インドの先住民族であるムリア・コンド族の女性像との近似性を感じました。(2012年02月17日投稿。2012年2月5日訪問。「ムリア・ゴンド族、アブジュマリア・ゴンド族」。)

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カラチから東へ30km程の所にある「チャウカンディ(Chaukhandi)」というムスリム墳墓群までの道筋には、「OSAKA」という電器店が所々で目に付きましたが、この店名にすると良く売れるそうです。

チャウカンディ(パキスタンで約15%話されている「スィンドゥ語」で、「四角」という意味)には、棺の形をした石の箱が、何段かに積み重ねたられた墳墓群があり、様々な彫刻がなされています。

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女性の場合にはイヤリング等、男性の場合には弓や刀が彫られています。

15世紀から19世紀の「バローチ(Balochi)人」(多くはパキスタン東南部バローチスタン州に居住し、パキスタンの人口の4%)の墳墓が、約1万5千基あると言われています。

海外からの観光客は、特にパキスタン南部では、9.11以降に激減したそうで、確かに他の観光客には殆ど出会いませんでした。

現地の日本語ガイドは、1年振りの仕事にありついたと言っていました。

昼食は、カラチから南東へ110kmほどにある「タッタ(Thatta)」近くの街中の地元料理の店で摂りましたが、蠅が我が物顔で飛び交う中で、羊肉カレーや豆、ヨーグルト、「チャパティ」(インド料理の「ナン」みたいなもの)等を食べました。

タッタ近郊にある「マクリーヒルズ(Makli Hills)」には、14世紀から18世紀に亘る4王朝時代の「ネクロポリス」で、15万平方mの敷地に、墳墓が約100万基あると言われています。

4王朝とは、「サマー(Sama)」(1340〜1520年)、「ダルカン(Darkhan)」(1520〜1555年)、「アルグーン(Arghoon)」(1555〜1614年)、「ムガル(Mughal)」(1614〜1739年) を言います。

聖人の廟が建てられると、人々が聖人の近くに葬られたいと集まって来て、墳墓群が出来たそうです。

大きな聖人廟はペルシャ様式で建てられており、「イワーン」という門が4方にあり、「ラピスラズリ」が使われた青色のタイルが鮮やかです。

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「シャージャハン(Shah Jahan)」によって建てられた「ジャミア・モスク(Jamia Mosque)」を訪ねた頃から、地元の人達から「チャイナか?」と訊かれる事が普通になりましたが、パ中の関係が好いので、中国人の存在感が大きいことに、気分は良くありませんが、嫌っちゅうほど気付かされます。

カラチから北東200km弱にある「ハイデラバード(Hyderabad)」に向かう途中、「キンチャル(Kinjhar)湖」に寄りましたが、「インダス(Indus)河」の支流の一つを堰き止めた、灌漑用の湖です。

車道では、「デコトラ(Deco Tru)」と呼ばれる満艦飾の大型トラックが、荷物を満載して擦れ違って行きますが、トラックもISUZUやHINO等の日本車が殆どです。

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中には、積荷が車幅の倍くらいの、サトウキビや牧草を積んだトラックもあり、ヒヤッとします。

ハイデラバードの様な南部のホテルは、6〜7年前から観光客がバッタリと来なくなったので、碌なホテルが無いそうで、水は赤茶色をしていて、調節の効かない湯で火傷をしそうになったりします。

夕食は中華風のパキスタン料理で、「フィンガーフィッシュ」と呼ばれる魚のフライが、美味しかったです。

ここで、500ml入りのペットボトル2本に詰めて、スーツケースに忍ばせて持ち込んだラム酒の登場ですが、現地の氷は危ないので、ストレートで飲むしかありません。

ウェーター達がどう思うか、若干は心配したのですが、ノープロブレムでした。

2012年04月10日

成田からカラチへ

2012年3月23日(金) 成田からカラチへ

成田発14時の、パキスタンインターナショナル航空PK853便で、「パキスタン・イスラム共和国」の「カラチ(Karachi)」へ向かいました。

乗客の中には、イラン人というか、アフガニスタン辺りのパシュトゥーン人というか、そういう系統の顔立ちをした人達も見られます。

石川県から山陰沖、ソウル、東シナ海を通って、北京空港にワンストップしました。

北京空港に降りる20から30分前には、北京では無くなりつつある四合院らしき街並みが、随所に見られました。

折角空いたと思ったら、ここからは中国人が乗って来て、パ中の親密な関係を暗示しています。

座席の前後幅は狭く、トイレも汚いのですが、食事は羊肉の麺が美味しく、客室乗務員の対応も悪くはありません。

北京からは、ウルムチ、タクラマカン砂漠、ヒンドゥークシュ山脈を越えて、首都「イスラマバード(Islamabad)」でもワンストップしました。

カラチ空港に着いたのは2時45分頃(日本との時差は4時間)で、風呂に入って寝たのは、4時になって仕舞いました。

ホテルでは、駐車場からホテルの敷地に入る時と、ホテルの建物に入る時の2回も、セキュリティチェックを受けました。

セキュリティは銃を持っていて、物々しい警戒体制です。

2012年03月22日

横浜中華街媽祖廟「媽祖祭」

2012年3月20日(火) 横浜中華街媽祖廟「媽祖祭」

新京成、総武快速、根岸線を乗り継いで、横浜中華街の「媽祖廟(まそびょう)」には、10時45分頃に着きました。

中華街は、昨年5月6日の阪神・横浜戦の後に食事した時以来約1年振りで、秋のクラス会で宴会をした時からでも、ほぼ半年経ちます。

媽祖廟は2006年に落慶した新しい廟で、航海安全を守る「道教」の女神である「媽祖(まそ)」を祀っており、旧暦3月23日に行われる「媽祖誕(まそたん)」とは別の、媽祖廟開廟6周年目の祭りです。

媽祖は中国福建省や広東省潮州、中国の沿岸部、台湾、南方等の華人の間で、広く信仰されています。

媽祖は北宋時代(960〜1279年)に実在した官吏の娘、「林黙娘(りんもうにゃん)」が神となったものであるとされています。

林黙娘は建隆元(960)年、福建省興化府の官吏「林愿」の7女として生まれましたが、28歳の時に修行を終えて天に召された後も、赤い衣装を纏って海上を舞い難民を救助する姿が見られたので、護国救民の神として廟に祀られました。

神殿の前には、11時から始まる予定の「拝神儀式(はいしんぎしき)」の為に、大きなテーブルの上に、豚の丸焼や、鴨、鶏、鯛、するめ等が、所狭しと並べられています。

11時から拝神儀式が始まりましたが、媽祖廟へ上がる階段の踊り場には、媽祖が安置され、向かって左には「順風耳(じゅんぷうじ)将軍」、右には「千里眼(せんりがん)将軍」という「随神」達が、立っています。

順風耳は、あらゆる人々の声を聞き分けて、千里眼は、あらゆるものを見分けて、媽祖に報告します。

「横浜天后宮(てんごうぐう)」(媽祖廟)の林兼正理事長が中心となって、様々な供物を順次、媽祖に奉げていきます。

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司会進行は、一部に日本語が含まれてはいますが殆どが中国語なので、儀式の内容については、理解することが出来ません。

11時半近くには、「新生児成長祈願」が行われ、数組の親子が祝福を受け、祈願を受けていました。

理事長からは、儀式の初めにも儀式について説明がありましたが、11時40分頃には儀式が終わったことと、16時から「神輿行列」があることの説明がありました。

昼食には特にアイディアが無く、偶々「得々中華満腹コース 1,980円」という看板が目に付いたので、「四川料理 謝朋酒楼」に入って、生ビで渇いたのどを潤して6品を平らげましたが、麻婆豆腐には咽喉がヒリヒリしました。

食後は「関帝廟(かんていびょう)」を見学して、元町を歩きましたが、ここは入社後数年の頃、会社の同期の友人と来て以来ですから、40年近く振りの事になります。

「GODIVA」元町店があったので覘いてみると、ホワイトデイの贈り物はもう置いてないとのことなので、何かないかなぁと思ってキョロキョロしていると、「ショコリキサー ホワイトチョコレート セイロンミルクティー」は如何ですかと訊かれたので、飛び付きました。

セイロンから買って帰ったセイロンティーに、病み付きになっているので、その美味しさを再確認した次第です。

「港の見える丘公園」からの眺望は、ガントリークレーンや倉庫群ばかりで、期待していた海水部分は、殆ど見ることが出来ません。

16時前に媽祖廟に戻ると、廟の周辺は黒山の人だかりで、廟の前の階段前を下りた所には、媽祖を載せた神輿が安置されています。

16時になると、爆竹が金属製の網箱の中で炸裂し、神輿行列が始まりました。

最初には、高さが3m近くある「北海龍王」(黒色)を先頭に、「南海龍王」(赤色)、「西海龍王」(白色)、「東海龍王」(蒼色)という、「四竜(しりゅう)」が行列し、太鼓やラッパが可也喧しい音を立てて続きます。

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四竜は、「台湾台南 祠天大天后宮 安瀾堂將軍會 敬献」という襷を掛けています。

続いて赤や白、黄色の二人「獅子舞」が登場すると、可愛らしい仕草に対して、沿道に詰めかけた人達から、声援が飛びます。

獅子の首の辺りには、「横浜中華学院校友会」(中華民国系)と書かれています。

7分頃には、長さが30m位はある「竜舞」が出て来ました。

「横浜天后宮 天上聖母 聖駕(せいが)」と書かれた、長さ5m位の「幡」や、2匹の「獅子舞」、4人の子供の将軍「招財童子」「進寶童郎」ら、の後には、

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高さが3m位の「千里眼将軍」と「順風耳将軍」とがやっと登場し、その後17分頃に愈々、媽祖の乗った神輿が現れました。

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8人によって担がれた神輿には、わっしょいわっしょいという雰囲気はなく、神輿を大きく揺らすような独特のステップ(「北斗七星歩」)で進み、静かに担がれていきます。

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再度初めから行列を観るべく、遠回りして比較的人の少ない道を通って、関帝廟へ到りました。

ここでは、関帝廟の階段の上に設えられた祭壇と媽祖廟の役員に対して、行列の面々が挨拶をしていきます。

関帝廟から少し先の道路の真ん中には、多くの人達が縦一列に蹲っていて、その上を神輿が通って行きます。

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これが「神輿くぐり」と言われるもので、溜め込んだ厄を落としてもらえ、福を授かるという、御利益があるとされています。

この神輿くぐりは女神が乗った神輿でしか行われず、横浜中華街では、媽祖祭と旧正月にしか行われていません。

昼も夜も中華料理では重いので、夕食は船橋まで戻って若干高級な居酒屋で、生牡蠣や蒸し蛤などの和食を、日本酒と共にいただきました。

2012年03月19日

焼津市藤守大井八幡宮「田遊び」

2012年3月17日(土) 焼津市藤守大井八幡宮「田遊び」

京都の実家を早朝に発ち、雨が本降りになってきたので、途中で静岡県焼津市藤守(ふじもり)にある「藤守大井八幡宮(おおいはちまんぐう)」に電話を入れた所、雨天の場合でも拝殿の中で行うというので、神名東を吉田ICで下りました。

ICから神社がある海側に向かって国道159号線に出る道が大渋滞で進まないので川上に上がって川を越し、目的地に向かいましたが、現代版の“こすにこされぬ大井川”でしょうか。

この神社は旧「大井川町」にあって、直ぐ近くに航空自衛隊静浜基地があるのですが、ナヴィでは番地まで登録されてなかったので、散々迷った挙句に、14時20分頃にやっとの思いで着きました。

「藤森の田遊び」は、大井八幡宮の「祈年(きねん)祭」が行われる毎年3月17日に、氏子の中の未婚の男子によって奉納されます。

大井八幡宮は、1,200年ほど前の平安時代初期に、大井川の水害に対する「川除けの神 大井宮」として祀られ、その後100年ほど後に社殿が造営された時から田遊びが行われてきたと、伝えられています。

今の様な田遊びの様式は、室町時代末期に定められたと言われています。

拝殿の前に設えられた、竹を立てて注連縄が張られた、3間四方位の舞台は雨に濡れています。

14時半頃には拝殿で「浦安の舞」等が奉納されていたらしく、多くの氏子が外へ出て来ました。

女性はここまでで、これ以降は男性の世界になります。

揃いの着物と羽織を着た人達が30人位はいて、高校生や中学生位が多いように思われますが、若い人達が此れだけ集まっているのは珍しく、頼もしい限りです。

交通整理をしていた氏子さんに話を訊いていたら、以前は成年男子が多かったのですが、今では人が集まらないので、下限を中学3年生まで下げているとのことでした。

藤守の集落には戸数が350戸ほどあるそうですから、「藤守の田遊び保存会」も何とか人数を確保出来ているのでしょう。

保存会の「専門委員」の方々は、1週間前に舞の役割を決め、1週間指導し、仕上げると言っておられました。

15時には花火が上がり、拝殿で「外祭(げさい)の儀」が始まりましたが、「四座饗応(しざきょうおう)」といって、4人の重鎮と神職2人に若者たちが酒肴を運び、もて成す儀式です。

若者たちは裃袴姿で、独特の立ち居振る舞いをして、三宝に載せた酒肴を持ち運びます。

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外祭の儀の後には、「的射(まとい)の儀」になり、神職が鳥居の下に掲げられた的に向かって5本の矢を射て、作柄の豊凶を占いました。

運よく神社横の駐車場に駐車出来たので、田遊びの舞が始まる18時前まで車の中で少し本を読みましたが、直ぐに居眠りしてしまいした。

コンビニお握りで腹ごしらえをして拝殿へ行くと、昼間より人が増えたとはいえ、そんなに多くの人出ではありません。

「番組」には、25番の舞と番外があり、次のものが順番に舞われましたが、雨のため拝殿の中で行われたので、周囲の廊下に座って観賞しました。

昨年1月に、岩手県一関へ、「毛越寺の延年」を観に行った時のことを思い出しましたが、あの時程は寒くはなく、助かりました。

番外;天狗(てんぐ) 舞台を祓い清めます。

第1番;長刀(なぎなた) 荒草を薙ぎ払い、農地を開拓します。

第2番;振取(ふっとり) 御獅子を和め慰めます。 

振取は、「ショッコ」という、造花が飾られた「藁笠」を被り、ショッコの前には、面が取り付けられています。

第3番;御獅子(おしし) 振取の舞を受納します。
                                                     
本殿から神の依代である「御獅子」を誘導した「振取」は、跪いて扇子を見て、後ろに仰け反って飛び跳ねる所作を、4方向に行います。

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獅子頭は平たい白木の木彫りで、髭などは白い紙で造られていて、5人が薄い麻布の衣を被って連なって前後に動くなど、他で観る獅子と比べると、形も所作も独特です。

振取が後ろに仰け反って飛び跳ねる所作を行う時に、笛が“ひゅっ”と短く奏でるところも、聴いてて面白く、楽しくなりました。

第4番;鍬入(くわいれ) 田仕事の手始めです。

第5番;荒田(あらた) 荒野開墾を物語るものです。

第6番;寄塗(よせぬり)

群馬県玉村町「春鍬祭り」では「クロヌリ(畔塗り)」と呼ばれていた、水田に水を保つために、畔に土を塗る農作業です。

第7番;水口申(みなくちもうし) 水口からの取水が順調なことを祈りますが、最近は舞われておりません。

第8番;鳥追(とりおい) 鳥や悪者を追い出します。

第9番;山田(やまだ) 荒野開拓を物語ります。

第10番;徳大夫(とくだゆう) 第9番の農民達に、酒を振る舞います。

21本の造花をあしらった「ショッコ」を被り、大きな徳利と扇子を持って踊りますが、ショッコが1.5m位はあるので、天井に閊えて、舞が儘なりません。

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隣り合わせた日本史の研究者によると、農民や徳大夫の話している言葉には、鎌倉時代のものが混じっていたりするそうです。

第11番;麦搗(むぎつき) 麦搗作業を捗らせるものですが、最近は舞われておりません。

第12番;田植(たうえ) 内容は「代かき」で、豊年を祈願します。

19時半頃になって雨が上がったので、この番組からは、拝殿の前に設えられた舞台に場所を移して、行われました。

実際には、のど自慢の様なもので、上手い人が次々と歌い続け、殿と供はじっと立ったままで歌を聴いています。

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2人が交替で歌っていましたが、最近歌える人が少なくなって来たんではないかと思われます。

第13番;代草(しろくさ) 肥料の草を、植田に入れます。

2人が手に持っている「牛の舌餅」が代草と考えられ、2人は餅を串から外して、横や後ろに投げます。

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第14番;孕早乙女(はらみそうとめ) 孕女を祝い、子孫繁栄を祈ります。

第15番;小編木(こざさら) 最年少者が、編木を擦る舞を舞います。

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第16番;早乙女(そうとめ) 男子5歳が、氏子に加わるための儀式です。

第17番;高野殿(こうのとの) 稲の実りを祝って、酒を振る舞います。

第18番;棒(ぼう) 年長者による、護衛役の舞です。

第19番;神子舞(かみこまい) 年少者が、竹蓑で祓い清めます。

ショッコを目深く被った神子役は、宮籠りの間は「神の子」となって、神事の使い走りをします。

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第20番;間田楽(までんがく) 年長者8人により、輪舞や跳躍舞踏を繰り返します。

第21番;猿田楽(さるでんがく) 

年長者の8人が、高さが1.5mくらいはある、紅白の「万燈花(まんとうか)」の付いた「ショッコ」を被り、舞台狭しと舞いまくりますから、舞台が花で覆われた様に見えます。

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第22番;宝来(ほうらい) 神に宝の来るのを、祈り迎える謡です。

第23番;稲刈(いねかり) 稲の刈入れを祝います。

番外;鯛釣(たいつり) 釣り糸に付けた鯛を四面で鯛を釣り上げ、万歳楽を参照します。

第24番;長刀(なぎなた) 神が還御するに当たり、舞台を薙ぎ払い清めます。

第25番;御獅子(おしし) 振取が、御獅子の御供餅を投げ上げて豊凶を占い、神が還御するのを先導します。

番外;天狗(てんぐ) 舞台を祓い鎮めます。

田遊びは、23時に終わりました。

東名は夜中で空いていたので、2時には船橋に帰着出来ました。

Posted by yone at 09:02  |Comments(3)TrackBack(0) | 予祝(稲作) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月13日

秩父市久那諏訪神社「ジャランポン祭り」

2012年3月11日(日) 秩父市久那諏訪神社「ジャランポン祭り」

秩父市山田の春祭りを観て、17時頃に、秩父市下久那(しもくな)にある「諏訪神社」に着きましたが、雨が依然降り続いています。

「下久那公会堂」を覘いてみると、地元の皆さんが飲食中で、既に相当盛り上がっています。

18時まで時間があるので、道路脇に止めた車の中で、時間を潰しました。

「ジャランポン祭り」は、諏訪神社の3月15日に行われる「春祭」の「宵宮祭」で、「葬式祭」とも呼ばれています。

「引鑿(いんきん)」や「大鼓」、「大ハツ(おおはつ)」、「小ハツ(こはつ)」という楽器を用いて、出棺の儀式を行いますが、「キン ドン ジャラン」と奏します。

祭りの名前の由来は、「鐃ハツ(にょうはつ)」を擦り合わせた時に発生する音を表現したもの、とされています。

祭りの起源は定かではありませんが、古老の話では、嘗て村に疫病が流行した時に、諏訪神社に「人身御供(ひとみごくう)」を献じて悪疫を退散させたことがあり、それに由来するということだそうです。

江戸末期までは、近くの「曹洞宗諏訪山宗源寺」で行われており、葬式を行った後に、人身御供を諏訪神社へ送ったと言われています。

宗源寺は、明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となったので、「葬式祭」も諏訪神社へ移されました。

10分程前に「下久那公会堂」へ行くと、宴会用の座卓や座布団を片付けて、皆で「葬式会場」を設営し始めていました。

「祭壇」には、「悪疫退散居士」と書かれた位牌や線香、蝋燭等が置かれ、その後ろには、「御供 下久那氏子中」と横書きされた「棺桶」が置かれています。

棺桶の横に、白無垢姿で寝転ばされていた「死者」は、18時になると、お茶箱の棺桶の中に移されましたが、棺桶が短いので椅子にもたれる様な恰好になります。

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祭壇の前には「大僧正」が座り、「引鑿」や「大鼓」、「鐃ハツ」を持って、唐草模様の風呂敷を袈裟代わりにした3人づつの氏子達が、大僧正の両側に立って音楽を奏でます。

音楽を奏でる氏子を始め氏子の皆さんは、三角形の白い紙を頭に付けています。

大僧正が、死者になった氏子や大震災の事など色んな事について、明石家サンマを意識した調子で滔々としゃべり続け、皆さんの笑いを誘っています。

大僧正は御勤めの間も、喋って咽喉が渇くとビールを所望し続け、ひたすら飲み続けています。

大僧正は死者の一周り上と話していたので、還暦を迎えた頃でしょうが、同好の士が本人に訊いたところでは、今年で5回目ということですから、余人をもって代えがたいタレントなんでしょうね。

18時20分頃には、今まで棺桶の中で日本酒の一升瓶を、ひたすらラッパ飲みしていた死者が、棺桶の中に立って挨拶を始めました。

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5年ほど前に此の地区にやって来た方で、48歳ですが離婚されたのか独り身のようで、今年は進んで死者に立候補しました。

書面に書いたものを読み上げていきましたが、なかなか面白い話で、実は婚約者がいて葬儀会場に来ていることを、明らかにしました。

婚約者である「とも子さん」は、周りの声援に押されて死者の前に押し出され、格好の酒の摘みとされ、最後には死者との “チュッ”となりました。                       

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流石にこんなのは今までにも無かったと、地元の方も言っておられたので、ええ時に来たなと思いました。

儀式の最中に、“カメコ”(一端のカメラマン気取りで写真を撮っている、アマチュア写真撮りの連中のことを、揶揄して言う言葉の様です)が、「他の人と交替して写真を撮れ」、という様な発言を他のカメコにした時に、音楽を奏でていた氏子の1人が、「うるさいな、これは我々の祭りなんだよ、部外者同士で喧嘩するなよ。」と窘められる光景が見られました。

祭りの何たるかを理解しないカメコが、糾弾されるのを目の当たりに見て、留飲の下がる思いがしましたね。

35分頃には大僧正が「引導」を渡す段になって、引導を後ろの氏子衆に向かって投げ入れましたが、キリスト教教会での結婚式の「ブーケトス」ですよと、大僧正が言って受けてました。

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45分頃には、空の棺桶を担いで、歩いて3分位の距離にある諏訪神社へ向かいますが、雨が上がり星空が綺麗です。

諏訪神社では大僧正が話をした後、死者が再度棺桶の中に入り、また出て来ることによって「復活」を遂げます。

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死者が婚約者と共に最後の挨拶をして、19時頃にジャランポン祭りは終わりました。

雨が上がっていたので、山田の春祭りの花火が行われるものと期待して、山田へ戻りました。


Posted by yone at 20:25  |Comments(2)TrackBack(0) | 魔除け | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月12日

秩父市山田恒持神社「春祭り」

2012年3月11日(日) 秩父市山田恒持神社「春祭り」

船橋を7時に発って、首都高・関越経由で、埼玉県秩父市山田には9時半前に着きました。

「高篠(たかしの)中学校」校庭の有料の臨時駐車場に車を置き、「笠鉾(かさぼこ)」や「屋台(やたい)」がけん引される県道に出ると、北の方から「新木本組(あらきほんぐみ)屋台」が「恒持(つねもち)神社」へ向かってけん引されてきました。

「山田の春祭り」は恒持神社の春季例大祭ですが、秩父地方の春祭りの幕開けを飾って、毎年3月の第2日曜日に行われています。

恒持神社の名は、平家の祖「高望王(たかもちおう)」の弟である「恒望王(つねもちおう)」に因むものでです。

恒望王が大同元(806)年に「武蔵権守(むさしごんのかみ)」に任ぜられた時に、官舎に「高斯野社(たかしのしゃ)」を遷し、「勅定(ちょくじょう)高斯野社(たかしのしゃ)」の社号を賜って15か村の総鎮守となりました。

明治39(1906)年には、付近の丹生社や諏訪神社、山の神、稲荷神社、織姫神社、天満宮等が、合祀されています。

屋台には、もう1台の「山田山組(やまだやまぐみ)屋台」がありますが、2台とも安政年間(1850年頃)に建造されたもので、「楽屋」と前の「踊り舞台」が襖で仕切られています。

笠鉾は、「山田上組(やまだかみぐみ)笠鉾」という1台だけです。

笠鉾には桧の真柱が下から上まで貫いて立てられており、頂上には「天道」、その下に「雲形万灯」、三層の「笠」が設けられていて、その笠ごとに竹ヒゴの「造花」を垂らした、秩父地方独特の形で造られています。

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笠鉾は明治時代に建造されていますが、高さが6.4mあって、神の「依代(よりしろ)」としての性格上、屋台の4.8mよりも高く造られています。

山田大棚笠鉾と山田山組屋台が、東の方にある山手の方から恒持神社に到る南北の県道に出て来ようとして、待機しています。

10時前には恒持神社に着きましたが、やがて神楽殿では、「恒持神楽保存会」による「神代御神楽」が始まり、最初は「奉幣」という曲目が奉奏されています。

神楽の曲目が「湯笹の釜」、「猿田彦神」、「白髯大神」と進んだ頃には、2台の屋台と笠鉾が、神社の境内に宮入りしてきました。

この時に気が付いたのですが、「山田山組屋台」の車輪の傍には、潤滑油(石油系)とともに、ネギがぶら下げられています。

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今は形だけですが、昔は車輪の潤滑剤として、ネギを使った名残でしょう。

10時50分頃には、宮入りした笠鉾と屋台に対して神職がお祓いをした後、神殿前に設えられた神域に関係者が座って「祭典」が始まると、神楽は一時中断しましたが、中断直前に齧り付きで観ていたら、中に飴が2個入った「御福袋」をいただきました。

直会が始まったので、昼食の出来る所を探したのですが、ラーメン店があったので、ラーメン定食を食べました。

神社に戻ってくると、13時頃には、「新木本組屋台」の舞台で「長唄 舞妓」という演目が始まりましたが、黒留袖姿の女性二人が三味線を弾き、その前で女の子が日本舞踊を奉納します。

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女の子たちには、花柳流の指導が入っているそうです。

同好の士が此の女の子に年齢を訊くと、小学校4年生でしたが、「山田山組屋台」の舞台で「長唄 羽根の禿」を踊った女の子は、小学校1年生でした。

黒留姿の女性達は、かの有名な秩父祭りでも屋台に乗る人達だそうで、それらしき趣を感じました。

この後、神輿は、屋台と笠鉾とともに、「御旅所」である「八坂神社」へ渡御します。

笠鉾や屋台の前面には、「若行(わかぎょう)」と呼ばれる人5人(ただし笠鉾がけん引を辞めた後は7〜8人)が、色鮮やかな衣装に身を包み、「ほぉーりゃーい、ほぉーりゃーい」と囃し立てながら、けん引している人達を鼓舞します。

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「若行」は「若行事」の略で、祭りの進行役である「行事(ぎょうじ)」の前役だそうですが、祭りの花的な存在ですから、屋台・笠鉾によっては、7万円位の自己負担をするとのことです。

同好の士が「けん引」している人に尋ねると、元々の「宝来(ほうらい)」が訛って、「ほぉーりゃーい」と聞こえるようになったそうです。

14時20分頃、雪をいただく「武甲山(ぶこうざん)」を遠景に景色の好い所で、「山田山組屋台」の舞台で「長唄 羽根の禿」の踊りが披露されました。

15時半過ぎ頃には八坂神社で神事が行われ、2台の屋台で長唄と踊りが奉納された後、芸能関係者は16時前に屋台を降り、マイクロバスで帰って行きました。

神事の途中から降り出した雨が、神事の終わった頃には、かなり降って来たので、駐車場まで急いで戻り、18時から「ジャランポン祭り」が行われる、10kmほど南の秩父市下久那(しもくな)へと向かいました。

「ジャランポン祭りを観た後、19時半頃に此処山田へ花火を見に戻ってくると、雨もほぼ止んでいて、花火は実施されました。

3年ほど前までは「音楽花火」と言って、4楽章のクラシック音楽に合わせて花火を打ち上げていたのが有名だったのですが、住宅が建て込んできたため、残念ながら中止となったそうです。

それでも8部立ての花火が夜空を焦がすと、距離が近いだけに、迫力満点の花火を楽しむことが出来ました。

夕食時間が中途半端になったので、セヴンイレヴンで買って車の中で食べたスパゲッティとおでんも、とても美味しかったです。

帰りは、玉村町での「春鍬祭り」からの帰り道に、首都高の道を間違えて澁谷(東名高速)方面へ行ってしまった轍を踏まない様に、細心の注意を払って、無事に池袋・神田橋方面へ行くことが出来たので、23時には船橋に辿り着くことが出来ました。


Posted by yone at 22:48  |Comments(2)TrackBack(0) | 鉾・笠鉾 , 芸屋台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月26日

館山茂名十二所神社「里芋祭」

2012年2月20日(月) 館山茂名十二所神社「里芋祭」

7時に船橋を発ち、京葉道路、館山道を経由して、館山(たてやま)市茂名(もな)には9時半少し前に着きました。

先ずは「トウバン(当番)」の家に行きましたが、家の方が上に上がって下さいと言われるので、お言葉に甘えて上がり込みました。

8畳ほどの部屋には、村の鎮守である「十二所(じゅうにしょ)神社」と「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」の掛け軸が、左右に並べて掛けられていて、その前には「里芋(さといも)」が90個程入った竹籠が左右1対づつと、「鏡餅」や「鯛」、「御神酒」(此処でも何故か、灘の清酒、松竹梅)が供えられています。

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一番上の里芋には、梅の花が咲いた枝が、左右3本づつ突き刺されています。

「里芋祭(さといもまつり)」は、毎年2月19日から21日に行われ、里芋を村の鎮守である「十二所神社」に奉納して、豊作を祈願する祭りです。

この祭りの起源については、調べてはみたのですが、良く分かりません。

昨日19日の夜に、当番の家で、供え物に仕立てられました。

里芋は、氏子の2軒を一組とした、「ツミバンナカマ(積み番仲間)」という組織を単位として栽培され、供出されます。

ここの里芋は、「茂名芋(もないも)」と呼ばれる「アカメ」の一種と言われ、1軒で20〜50株栽培されているそうです。

里芋は、大きな親芋の周りに、小芋が沢山付くので、豊穣や子孫繁栄を象徴する縁起物とされています。

今年の「当番」である石井さんは、「神主」が未だ来んかと気を揉んでおられますが、茂名には氏子が27軒ありますから、次に当番が回ってくるのが27年先という大役なので、緊張の面持ちです。

お茶と美味しい蜜柑をいただき、有難うございました。

10時前に神主が到着すると、里芋は棒を通して2人に担がれて、神主や区長、総代、当番や、「鏡餅」、「鯛」の後を付いて、十二所神社へ向かいます。

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里芋90個というのは重いので、途中、「茂名区民館」や道端での休憩を入れながら進みますが、天気が快晴で暖かくて良かったです。

10時20分頃に、少し山手にある「十二所神社」に着くと、御神酒や餅等と共に里芋も、神饌として供えられました。

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神事が50分頃に終わると、竹籠の中で、赤萩の枝によって繋ぎあわされていた里芋が、一つ一つにばらされ、氏子達に配られていました。

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此の里芋を食べると、風邪を引かないとか、子宝に恵まれるとか、言われているそうです。

見物客である我々にも、直径が10cmもある大きな里芋を、一つづつ分けていただいたので、嬉しい気持ちで一杯になって、11時過ぎに神社を後にしました。

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「里芋祭」は、「畑作物」である里芋を祭祀に供える点に特徴があり、芋を用いた予祝(よしゅく)的な儀礼としても珍しいとされていて、「畑作文化と儀礼」の関係を知る上で、貴重な例であると考えられています。

日本の「基層文化(きそうぶんか)」は稲作中心に考えられてきましたが、近年は里芋を中心とした畑作系統の基層文化の存在が指摘されてきているそうで、「里芋祭」は畑作系統の基層文化を考える上で貴重であり、農耕儀礼の変遷を知る上でも重要なようです。

因みに里芋の起源は、南方のマレー地方にあると言われています。

帰り際に、石井さんがNHKのテレヴィ撮影とインターヴューを受けていて、「国の重要無形民俗文化財の行事の当番を無事終えられて、安堵しています。2回目の当番を出来て幸せです。行事を子孫に継承していきたいです。天気が良くて、本当に良かったです。」と答えていました。

菜の花が咲き乱れる南房総のフラワーラインを快走していたら、コーヒー豆を売る小さな店を見付けたので、中を覘いてみました。

私の嘗て勤務していた、インドネシア共和国のスマトラ島の「マンデイリン」を煎ってもらって、きらきら光る太平洋を眺めながら、飲んでみました。

白浜町の「野島埼灯台」とか、鴨川市の「仁右衛門島(にえもんじま)」、日蓮上人の「誕生寺」、「鯛の浦」を見て回っていると、日がとっぷりと暮れてしまいました。

勝浦市で、「野趣・海の幸 かくい」という、国道沿いの店に入り、「きんき塩焼き定食」を、仕方なくアルコールフリー飲料を飲みながら、食べました。

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次回来た時には、きんきの煮物を食べてみようと思いました。


Posted by yone at 09:17  |Comments(2)TrackBack(0) | 予祝(畑作) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月25日

赤塚諏訪神社「田遊び」

2012年2月13日(月) 赤塚諏訪神社「田遊び」

東上線「下赤塚駅」を降りて、駅から北の方へ20分位の板橋区大門(だいもん)にある「赤塚諏訪(あかつかすわ)神社」には、東京地方の乱雑な道の為に、またまた道に迷った挙句に、18時半過ぎには何とか辿り着きました。

荒川右岸一帯の此の辺りは、台地からの湧水の多い湿地帯で、江戸時代には「徳丸ヶ原」と呼ばれていました。

明治時代以降には大掛かりな開墾が行われて穀倉地帯になりましたが、嘗て此の地方の大半が「赤塚村」に属していたので、農家の間では「赤塚たんぼ」と呼ばれていました。

「田遊(たあそ)び」は、その創始の時期については不詳ですが、江戸時代の記録には、「大昔から行われていて、古風を失わない祭礼」と書かれているそうです。

五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する、「予祝(よしゅく)」の祭りです。

「田遊び」は似た様なものが全国的に残っていますが、「板橋(下赤塚と徳丸)の田遊び」では、ほぼ完全な形で受け継がれている所が特徴です。

境内には本殿の左前方に、注連縄が飾られた、2mと3m位の方形の板の間の「もがり」が設営されており、ここで「田遊び」が行われるようです。

「もがり」には、太陽と月を模した「日月鉾」、竜頭の付いた江戸時代の「神旗」、竹の輪に和紙を付けた「かかし(梵天)」等が、付けられています。

本殿の左奥にある社務所の大広間には氏子と来賓達が集って、「新年の会(年頭式)」が始まろうとしていますが、同じ「板橋の田遊び」でも、北野神社では気付かなかったものです。

床の間には祭りの道具が飾られ、鴨居の上の壁には、「田遊役定」と人名が書かれた紙が貼られています。

「宮司」、「大稲本(おおいなもと)」、「小稲本(こいなもと)」、「控人」、「鍬取(くわどり)」、「御神輿」、「花籠」、「笛」、「天狗」、「太鼓」、「弓」、「駒」、「駒子」、「獅子」、「白杖」、「金棒」、「昼飯持」、「開笠」、「呼」、「田行事」、「高張」、「警護」、「総賄」といった、実にきめ細かい役割分担が定められています。

田遊びは、「大稲本」が主導し、「小稲本」や「鍬取」が補佐します。

所作を始め笛の演奏なども、口伝によって今日まで、伝承されて来ました。

19時10分過ぎには、上座に座った「大稲本」や「小稲本」、「控人」に対して、「昼飯持」が御神酒と沢庵を運び、振る舞います。

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振る舞いを受けた後、「大稲本」達は、心身潔斎のために謡曲を謡います。

19時30分前には、拝殿に於いて「修拔(しゅばつ)」や「降神(こうしん)の儀」、「祝詞奏上(のりとそうじょう)」を終えた「宮司」が現れて、御神酒と沢庵が献じられた後、御幣を持って立ち去りました。

19時45分過ぎには、「宮司」が「もがり」の上に安置された「御神輿」に、祝詞を奏上します。

20時前には、「大稲本」が太鼓の上に立ち、諸役が白扇を広げて、「五月女(さおとめ)」役の子供達を、呼び込みます。

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20時になると、「御神輿」が担ぎ出され、神社から少し離れた「浅間神社」の広場まで渡御します。

「五月女」の子供たちの持つ「金棒」ならぬ「ささら(青竹)」が道を叩きながら先導し、「花籠」や「天狗」、御幣を持った「宮司」、「高張提灯」、「御神輿」が続きます。

広場では、「花籠」を振って五色の紙片が振り落とされ、花籠に向かって「破魔矢」や男の子が乗った「駒」等が突進し、厄を落します。

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悪疫を退散させる獅子舞である、「九字の舞」も奉納されました。

「御神輿」が諏訪神社に戻り、「天狗」が「もがり」の前で、「地鎮の舞」(槍突き、ともいう)を舞います。

20時半頃から「もがり」の中で「田遊び」が始まり、少し遅れて「お篝(かが)り」(「どんど焼き」)にも点火されて、災厄を祓います。

「田遊び」は、「唱え言葉」や所作によって、1年間の稲作の様子を模倣します。

その内容は、「町歩調べ」から始まり、「田打ち」(鍬取りが、持ちで作った鍬を、田圃に見立てた太鼓の上に置き、搗きながら回ります)、

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「苗代かき」、「大足(おおあし)ふみ」、「種まき」、「水かけ」、「鳥追い苗見」、「春田打ち」、「植田代かき」、「呼び込み」(弁当箱を持った「よねぼ」が抱きかかえられて「もがり」に向かい、

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「太郎次」と「やすめ」の夫婦が踊りながら登場して、抱き合います)、

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「田植え」、「鳥追い」、「田草取り」、「田廻り(穂ばらみ)」、「稲刈り」、「倉入れ」まで、16種類の所作があります。

21時頃に終わったので、帰りは、都営地下鉄三田線「新高島平駅」まで歩いて、帰りました。

Posted by yone at 19:35  |Comments(2)TrackBack(0) | 予祝(稲作) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする