2012年05月16日
下鴨神社「御蔭祭」
2012年5月12日(土) 下鴨神社「御蔭祭」
「京都観光一日乗車券」(1,200円)を買って、バスで「下鴨神社」(正式には、「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」)や八瀬の「御蔭(みかげ)神社」(下鴨神社の摂社)、高野の「赤の宮神社」(下鴨神社の摂社)を駈け廻りました。
「御蔭(みかげ)祭」は、「賀茂祭諸儀」(5月1日〜5月19日)の一環として、「賀茂祭(葵祭)」(5月15日)に先んじて、毎年5月12日に行われるもので、葵祭の始原の姿を伝えていて、自然と人との関係を知ることの出来る祭り、とされています。
比叡山の西麓、八瀬にある「御生(みあれ)山」(御蔭山ともいう)で新しく生まれた、「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と「玉依媛命(たまよりひめひめのみこと)」(2柱とも、本社「下鴨神社」の祭神)の「荒御魂(あらみたま)」を、本社に迎えて「和御霊(にぎみたま)」と合体し、神威を増す為の神事が「御蔭祭」です。
神威を増した2柱の神を持て成し、讃えて、御霊を鎮め、五穀豊穣と万民安寧を祈る祭りが、「葵祭」です。
龍安寺の実家を7時半に出て8時過ぎに下鴨神社に着いて、糺の森(ただすのもり)を本殿に向かって歩いて行くと、鳥居の前あたりに乗用車や、「御蔭祭供奉(ぐぶ)」という幕が張られた10数台のマイクロバスが置かれていて、供奉団を運ぶ準備がなされています。
9時から「勧盃(かんぱい)の儀」が「舞殿(まいどの)」で行われ、神職6人に御神酒が振る舞われました。

続いて「みたらし池」の前で祝詞が奏上され、机上にあった「大麻(おおぬさ)」で、関係者や参列者に対して、お祓いが行われました。
続いて「橋殿(はしどの)」の前で、「神宝(しんぽう)」である、「榊」や「御鉾」、「御楯」、「金幣」、「銀幣」、「和琴(わごん)」、「御鳴鏑箭」、「御弓」、「御太刀」、「御剣」、「御鞭」、「御白杖」が、供奉する人達に渡されていきます。

供奉する人達は神職だけではなく、嘗て下鴨神社の社領であった5ヶ郷の氏人や、「葵桂(あおいかつら)」を採って納める静原や雲ケ畑の人々も、加わっているそうです。
御祓いを受けた後、供奉団の「行粧(ぎょうそう)」は進発し、本殿への「中門」に停めてあった、「錦蓋(きんがい)」で覆われた「神霊櫃(しんれいびつ)」を載せたトラックが、9時40分過ぎに最後に、「楼門(ろうもん)」を出て行きました。
昭和38(1963)年以降、交通事情によって車での行粧となっていますが、神霊櫃を載せたトラックを先頭に、八瀬の御蔭神社へ向かって、9時50分頃に進発していきました。
時間が出来たので朝食をと思ったのですが、時間が中途半端で開いている食堂が無かったので、出町柳の名曲喫茶「風月堂」でクラシック音楽を聴きながら、アップルパイとモンブランを戴きました。
御蔭神社には11時40分頃に着きましたが、12時からの「御生神事(みあれしんじ)」の準備がなされていて、本殿の門には紅白緑黄の垂れ幕が張られています。
11時50分頃から、門の前に控えている供奉団の人々に御楯や御鉾等の神宝が渡されて行きます。
12時、午の刻、になると、「御生木(みあれぎ)」が本殿に奉じられたようで、神職が祝詞を奏上する声が聞こえて来ました。
12時10分過ぎには門が開いて、中からは、御生木に遷御した荒御魂の入った「神霊櫃」が、神職に奉じられて出て来ました。

御蔭神社から下鴨神社までの「還立(かえりだち)」の道中は、府立大学前からは神霊櫃を「神馬(じんめ)」に移しますが、高野橋の近くにあって、「路次祭(ろじさい)」の行われる「賀茂波爾(かもはに)神社」(通称は「赤の宮神社」)までは、供奉団は車に乗って移動します。
ここでは舞殿で、13時40分頃から、「陪柔(べいじゅう)」と呼ばれる楽人の奏楽によって、舞人による「還城楽(げんじょうらく)」という舞が、舞殿の前に置かれたトラックに乗った神霊に対して、奉納されました。

近くの「基礎化学研究所」に勤務していた頃から知っていて、赤の宮の近くの高野川に程近い所にある、うどん屋を訪ね、明太子丼ときつねうどんセットを戴きました。
一旦下鴨神社に戻り、下鴨中通りを御蔭橋通りの辺りから北上し、府立大学前から南下して行粧して来る、供奉団一行を観に行きました。
15時半頃に行粧に出会いましたが、御神霊は神馬の背中の錦蓋に揺られて、下鴨神社で行われる「切芝神事(きりしばしんじ)」へと向かって行きます。

神馬は16時前に、糺の森の中頃にある「切芝(きりしば)」という祭祀場に到着し、紅白緑黄の幕が張られた「幄(とばり)」の中に牽き入れられて、顔だけを外に出されています。
神馬の前で、神を讃える風俗歌「三代詠(さんだいえい)」等が唄われて、「東游(あずまあそび)」という舞が奉納されました。

そもそも私が御蔭祭りを知ったのは、もう彼是5年ほど前に、この東游が此処で舞われることを、ある書物で読んだからです。
16時半過ぎには、神馬の一行は下鴨神社の本殿へと向かい、閉ざされていた中門が開かれて中に入って行きましたが、中門は再び閉ざされました。
中では「御生木(みあれぎ)」が本殿の中に納められることによって、「御生(みあれ)山」(御蔭山ともいう)で若々しく「ミアレ」した神霊が本宮に迎え入れられ、「和御霊(にぎみたま)」と合体して神威を増したようです。
5分程経って、16時50分過ぎには、中門が開いて大役を終えた神馬が出て来たので、それを見届けて京都駅へと急ぎました。
中学時代の友人と、京都駅近くで30年以上振りの再会をする為ですが、17時半の約束を30分遅らせた甲斐があり、悠々間に合いました。
「京都観光一日乗車券」(1,200円)を買って、バスで「下鴨神社」(正式には、「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」)や八瀬の「御蔭(みかげ)神社」(下鴨神社の摂社)、高野の「赤の宮神社」(下鴨神社の摂社)を駈け廻りました。
「御蔭(みかげ)祭」は、「賀茂祭諸儀」(5月1日〜5月19日)の一環として、「賀茂祭(葵祭)」(5月15日)に先んじて、毎年5月12日に行われるもので、葵祭の始原の姿を伝えていて、自然と人との関係を知ることの出来る祭り、とされています。
比叡山の西麓、八瀬にある「御生(みあれ)山」(御蔭山ともいう)で新しく生まれた、「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と「玉依媛命(たまよりひめひめのみこと)」(2柱とも、本社「下鴨神社」の祭神)の「荒御魂(あらみたま)」を、本社に迎えて「和御霊(にぎみたま)」と合体し、神威を増す為の神事が「御蔭祭」です。
神威を増した2柱の神を持て成し、讃えて、御霊を鎮め、五穀豊穣と万民安寧を祈る祭りが、「葵祭」です。
龍安寺の実家を7時半に出て8時過ぎに下鴨神社に着いて、糺の森(ただすのもり)を本殿に向かって歩いて行くと、鳥居の前あたりに乗用車や、「御蔭祭供奉(ぐぶ)」という幕が張られた10数台のマイクロバスが置かれていて、供奉団を運ぶ準備がなされています。
9時から「勧盃(かんぱい)の儀」が「舞殿(まいどの)」で行われ、神職6人に御神酒が振る舞われました。
続いて「みたらし池」の前で祝詞が奏上され、机上にあった「大麻(おおぬさ)」で、関係者や参列者に対して、お祓いが行われました。
続いて「橋殿(はしどの)」の前で、「神宝(しんぽう)」である、「榊」や「御鉾」、「御楯」、「金幣」、「銀幣」、「和琴(わごん)」、「御鳴鏑箭」、「御弓」、「御太刀」、「御剣」、「御鞭」、「御白杖」が、供奉する人達に渡されていきます。
供奉する人達は神職だけではなく、嘗て下鴨神社の社領であった5ヶ郷の氏人や、「葵桂(あおいかつら)」を採って納める静原や雲ケ畑の人々も、加わっているそうです。
御祓いを受けた後、供奉団の「行粧(ぎょうそう)」は進発し、本殿への「中門」に停めてあった、「錦蓋(きんがい)」で覆われた「神霊櫃(しんれいびつ)」を載せたトラックが、9時40分過ぎに最後に、「楼門(ろうもん)」を出て行きました。
昭和38(1963)年以降、交通事情によって車での行粧となっていますが、神霊櫃を載せたトラックを先頭に、八瀬の御蔭神社へ向かって、9時50分頃に進発していきました。
時間が出来たので朝食をと思ったのですが、時間が中途半端で開いている食堂が無かったので、出町柳の名曲喫茶「風月堂」でクラシック音楽を聴きながら、アップルパイとモンブランを戴きました。
御蔭神社には11時40分頃に着きましたが、12時からの「御生神事(みあれしんじ)」の準備がなされていて、本殿の門には紅白緑黄の垂れ幕が張られています。
11時50分頃から、門の前に控えている供奉団の人々に御楯や御鉾等の神宝が渡されて行きます。
12時、午の刻、になると、「御生木(みあれぎ)」が本殿に奉じられたようで、神職が祝詞を奏上する声が聞こえて来ました。
12時10分過ぎには門が開いて、中からは、御生木に遷御した荒御魂の入った「神霊櫃」が、神職に奉じられて出て来ました。
御蔭神社から下鴨神社までの「還立(かえりだち)」の道中は、府立大学前からは神霊櫃を「神馬(じんめ)」に移しますが、高野橋の近くにあって、「路次祭(ろじさい)」の行われる「賀茂波爾(かもはに)神社」(通称は「赤の宮神社」)までは、供奉団は車に乗って移動します。
ここでは舞殿で、13時40分頃から、「陪柔(べいじゅう)」と呼ばれる楽人の奏楽によって、舞人による「還城楽(げんじょうらく)」という舞が、舞殿の前に置かれたトラックに乗った神霊に対して、奉納されました。
近くの「基礎化学研究所」に勤務していた頃から知っていて、赤の宮の近くの高野川に程近い所にある、うどん屋を訪ね、明太子丼ときつねうどんセットを戴きました。
一旦下鴨神社に戻り、下鴨中通りを御蔭橋通りの辺りから北上し、府立大学前から南下して行粧して来る、供奉団一行を観に行きました。
15時半頃に行粧に出会いましたが、御神霊は神馬の背中の錦蓋に揺られて、下鴨神社で行われる「切芝神事(きりしばしんじ)」へと向かって行きます。
神馬は16時前に、糺の森の中頃にある「切芝(きりしば)」という祭祀場に到着し、紅白緑黄の幕が張られた「幄(とばり)」の中に牽き入れられて、顔だけを外に出されています。
神馬の前で、神を讃える風俗歌「三代詠(さんだいえい)」等が唄われて、「東游(あずまあそび)」という舞が奉納されました。
そもそも私が御蔭祭りを知ったのは、もう彼是5年ほど前に、この東游が此処で舞われることを、ある書物で読んだからです。
16時半過ぎには、神馬の一行は下鴨神社の本殿へと向かい、閉ざされていた中門が開かれて中に入って行きましたが、中門は再び閉ざされました。
中では「御生木(みあれぎ)」が本殿の中に納められることによって、「御生(みあれ)山」(御蔭山ともいう)で若々しく「ミアレ」した神霊が本宮に迎え入れられ、「和御霊(にぎみたま)」と合体して神威を増したようです。
5分程経って、16時50分過ぎには、中門が開いて大役を終えた神馬が出て来たので、それを見届けて京都駅へと急ぎました。
中学時代の友人と、京都駅近くで30年以上振りの再会をする為ですが、17時半の約束を30分遅らせた甲斐があり、悠々間に合いました。
2010年09月04日
富士吉田の火祭り「すすき祭り」
2010年8月27日(金)富士吉田の火祭り「すすき祭り」
8月26日から27日に行われる「鎮火大祭」は、「吉田の火祭り」と呼ばれ、「北口本宮冨士浅間(せんげん)神社」(旧県社)と「諏訪神社」の秋祭りです。
北口本宮冨士浅間神社の起源をたずねてみると、そもそもは諏訪明神社の社地だったようです。
諏訪神社は此の地域の地主神(じぬしのかみ)で、明治年間に北口本宮冨士浅間神社に合祀されています。
北口本宮冨士浅間神社の祭神は、「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」と、「天津日高彦火瓊々杵命(あまつひこひこほににぎのみこと)」、「大山祇命(おおやまずみのみこと)」で、諏訪神社の祭神は、「建御名方命(たけみなかたのみこと) 」と「八坂刀売命(やさかとめのみこと) 」です。
26日の夜に行われた「鎮火祭」には、時間的に間に合わなかったので来年以降回しにし、今年は「すすき祭り」だけを観ることにしました。
愛知県一色町を8時に発って東名高速道路を東進し、山梨県富士吉田市には13時頃に到着しました。
初めは神社の北にある諏訪の森自然公園駐車場に停めたのですが、20時にチェインが架かって仕舞うので、後で富士急行富士吉田駅のパークアンドライドに入れ直しました。
14時から上吉田コミュニティーセンターにある御旅所で、「発輿(はっこう)祭」が行われました。
「大御輿」一基と、富士山を形取った「御影」一基が、色んな法被を着た氏子達に担がれて、氏子町内の渡御に向かいました。

大御輿は諏訪神社のご神体、御影は北口本宮冨士浅間神社のご神体を、奉じていると聞きました。
途中で御影は、3回ほど荒々しく地面に叩き付けられます。
14時半頃から雨が降り出し、16時位まで雷を伴って本格的に降りましたが、此の辺りでも久し振りの降雨だそうで、霊験新たかなりといったところでしょうか。
15時からの「金鳥居(かなどりい)祭」は、富士吉田駅の観光案内所で雨宿りをしていたので、観ることが出来ませんでした。
北口本宮冨士浅間神社から金鳥居に至る道路は、「御師(おし)宿坊の街並」と呼ばれていて、広い道路の両側には、今でも宿坊跡が残っています。
「御師」と言うのは富士山信仰の中心的な存在で、富士山への登拝客に宿舎や登山の世話をし、祈祷によって神との仲立ちをする、宗教者の役割も果した人達です。
当主は神主の資格を持って、東京や千葉方面に富士信仰の布教に出掛け、夏季には山もとに戻って、富士講社などの登拝客を迎え入れたと言います。
此の街並みの基礎は1572年に形成され、富士山信仰最盛期の1800年代後半には86軒の御師の家があり、今でも15軒程度が残っていますが、宿坊は殆ど無くなりました。
18時10分ほど前に神楽殿に着くと、神楽が始まっていました。
「神巫(みこ)の舞」と「四方拝の舞」が奉納されましたが、「採物舞(とりものまい)」を含む出雲流の神楽で、「富士太太(だいだい)神楽」と呼ばれています。
19時から、北口本宮冨士浅間神社の本殿の直ぐ前の「高天原」で「着輿祭」が行われますが、その前に、浅間神社の西へ少し上がった所で、「御鞍石(みくらいし)祭」が行われます。
18時半近くになると、御鞍石の手前の道路には篝火が焚かれ、やがて御神輿と御影が担がれて来て、御鞍石の方へ進んで行きます。
御鞍石は諏訪神社の旧社地で、鞍の形をした岩の上に御輿が置かれて、真っ暗闇の中で神事が執り行われました。

御鞍石祭が終わると、19時10分過ぎに、御輿は高天原へと入って来ました。
「よいよい」という掛け声を掛けながら、御輿は高天原と呼ばれる、注連縄を張った中に御神木のある一角の周りを7周回りますが、途中で還御するのを惜しむかのように、練ったりします。
御輿には、多くの人達が「すすきの玉串」を持って、御輿の後に続きます。

大御輿の次に御影が入ってくると、追いかけられるような形になるので、着き従う人々が逃げまどう姿も見られました。
7周回った後、19時20分頃には御輿は高天原の御神木の前に安置され、やがて19時30分頃には諏訪神社の本殿に還御していきました。
御輿から御神体が本殿に遷座するときには、桐生市の「美和神社」で見た様に、白布の御簾が張られ、神官たちが「わー」とか「あー」といった声を出していました。
19時50分頃には、一間幅に二間長位の白い御簾が諏訪神社から出て来て、ゆっくりと北口本宮冨士浅間神社の本殿まで進みますが、やはり神官が遷座の時と同じような声を上げながら進んで行きます。
これは神さんの遷座ですから、低頭しなければなりませんし、写真撮影は禁止です。
20時過ぎに北口本宮冨士浅間神社の本殿に還御した時点で、提灯を持った氏子達は、其の場を去りました。
この頃になると、篝火の火が暖かく感じられました。
富士吉田駅への帰り道にあった酒屋で、清酒「甲斐の開運 鎮火祭」(山梨県冨士河口湖町、井出醸造店)と、米焼酎「富士山」(山梨県大月市笹子町、笹一酒造)を買い込みました。
8月26日から27日に行われる「鎮火大祭」は、「吉田の火祭り」と呼ばれ、「北口本宮冨士浅間(せんげん)神社」(旧県社)と「諏訪神社」の秋祭りです。
北口本宮冨士浅間神社の起源をたずねてみると、そもそもは諏訪明神社の社地だったようです。
諏訪神社は此の地域の地主神(じぬしのかみ)で、明治年間に北口本宮冨士浅間神社に合祀されています。
北口本宮冨士浅間神社の祭神は、「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」と、「天津日高彦火瓊々杵命(あまつひこひこほににぎのみこと)」、「大山祇命(おおやまずみのみこと)」で、諏訪神社の祭神は、「建御名方命(たけみなかたのみこと) 」と「八坂刀売命(やさかとめのみこと) 」です。
26日の夜に行われた「鎮火祭」には、時間的に間に合わなかったので来年以降回しにし、今年は「すすき祭り」だけを観ることにしました。
愛知県一色町を8時に発って東名高速道路を東進し、山梨県富士吉田市には13時頃に到着しました。
初めは神社の北にある諏訪の森自然公園駐車場に停めたのですが、20時にチェインが架かって仕舞うので、後で富士急行富士吉田駅のパークアンドライドに入れ直しました。
14時から上吉田コミュニティーセンターにある御旅所で、「発輿(はっこう)祭」が行われました。
「大御輿」一基と、富士山を形取った「御影」一基が、色んな法被を着た氏子達に担がれて、氏子町内の渡御に向かいました。

大御輿は諏訪神社のご神体、御影は北口本宮冨士浅間神社のご神体を、奉じていると聞きました。
途中で御影は、3回ほど荒々しく地面に叩き付けられます。
14時半頃から雨が降り出し、16時位まで雷を伴って本格的に降りましたが、此の辺りでも久し振りの降雨だそうで、霊験新たかなりといったところでしょうか。
15時からの「金鳥居(かなどりい)祭」は、富士吉田駅の観光案内所で雨宿りをしていたので、観ることが出来ませんでした。
北口本宮冨士浅間神社から金鳥居に至る道路は、「御師(おし)宿坊の街並」と呼ばれていて、広い道路の両側には、今でも宿坊跡が残っています。
「御師」と言うのは富士山信仰の中心的な存在で、富士山への登拝客に宿舎や登山の世話をし、祈祷によって神との仲立ちをする、宗教者の役割も果した人達です。
当主は神主の資格を持って、東京や千葉方面に富士信仰の布教に出掛け、夏季には山もとに戻って、富士講社などの登拝客を迎え入れたと言います。
此の街並みの基礎は1572年に形成され、富士山信仰最盛期の1800年代後半には86軒の御師の家があり、今でも15軒程度が残っていますが、宿坊は殆ど無くなりました。
18時10分ほど前に神楽殿に着くと、神楽が始まっていました。
「神巫(みこ)の舞」と「四方拝の舞」が奉納されましたが、「採物舞(とりものまい)」を含む出雲流の神楽で、「富士太太(だいだい)神楽」と呼ばれています。
19時から、北口本宮冨士浅間神社の本殿の直ぐ前の「高天原」で「着輿祭」が行われますが、その前に、浅間神社の西へ少し上がった所で、「御鞍石(みくらいし)祭」が行われます。
18時半近くになると、御鞍石の手前の道路には篝火が焚かれ、やがて御神輿と御影が担がれて来て、御鞍石の方へ進んで行きます。
御鞍石は諏訪神社の旧社地で、鞍の形をした岩の上に御輿が置かれて、真っ暗闇の中で神事が執り行われました。

御鞍石祭が終わると、19時10分過ぎに、御輿は高天原へと入って来ました。
「よいよい」という掛け声を掛けながら、御輿は高天原と呼ばれる、注連縄を張った中に御神木のある一角の周りを7周回りますが、途中で還御するのを惜しむかのように、練ったりします。
御輿には、多くの人達が「すすきの玉串」を持って、御輿の後に続きます。

大御輿の次に御影が入ってくると、追いかけられるような形になるので、着き従う人々が逃げまどう姿も見られました。
7周回った後、19時20分頃には御輿は高天原の御神木の前に安置され、やがて19時30分頃には諏訪神社の本殿に還御していきました。
御輿から御神体が本殿に遷座するときには、桐生市の「美和神社」で見た様に、白布の御簾が張られ、神官たちが「わー」とか「あー」といった声を出していました。
19時50分頃には、一間幅に二間長位の白い御簾が諏訪神社から出て来て、ゆっくりと北口本宮冨士浅間神社の本殿まで進みますが、やはり神官が遷座の時と同じような声を上げながら進んで行きます。
これは神さんの遷座ですから、低頭しなければなりませんし、写真撮影は禁止です。
20時過ぎに北口本宮冨士浅間神社の本殿に還御した時点で、提灯を持った氏子達は、其の場を去りました。
この頃になると、篝火の火が暖かく感じられました。
富士吉田駅への帰り道にあった酒屋で、清酒「甲斐の開運 鎮火祭」(山梨県冨士河口湖町、井出醸造店)と、米焼酎「富士山」(山梨県大月市笹子町、笹一酒造)を買い込みました。
2010年07月31日
平方八枝神社「どろいんきょ」(祇園祭)
2010年7月18日(日)平方どろいんきょ(祇園祭)
テニスクラブの朝練を中途で切り上げて、10時頃に船橋を発ち、12時前に埼玉県上尾市平方(ひらかた)に着き、埼玉県立上尾橘高校に駐車しました。
「どろいんきょ」というのは変わった名称ですが、平方の上宿地区に伝わる祭りで、毎年7月中旬の日曜日に行われます。
所謂「祇園祭(ぎおんさい)」で「天王様(てんのうさま)」とも呼ばれ、疫病退散や五穀豊穣を祈念します。
12時20分頃に「八枝(やえだ)神社」に着きました。
八枝神社は江戸時代初期から「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」として祀られていたとの記録があり、明治初年に、京都八坂神社と同じ祭神を祀っていることから、八坂神社の枝社として、八枝神社と改称されています。
12時45分頃から、神楽殿に置かれた、白木造りの「いんきょ神輿」の前で、神事が始まりました。
13時を過ぎて神事が終わると、氏子が御幣を奪い合い、殿上の神輿をおろし、神社境内で練った後、渡御に出て行きました。

「お山だし」と呼ばれています。
1923(大正12)年までは、平方の「上宿」や、「下宿」、「南」、「新田」の4地区で渡御していましたが、1973(昭和48)年に上宿地区で復活し、現在に至っています。
神社の前の通りを練り歩いた後、13時半過ぎに神輿は、第一回目のどろいんきょが行われる4班の「神酒所(みきしょ)」である民家の庭に、入って来ました。
此処には既に庭に水が撒かれ、白木造りのいんきょ神輿が転がされて泥だらけになるのを、観ようと思っている人達で一杯です。
約15分間、神輿は泥の上に放り投げられ、転がされ、立たされたかと思うと其のまま倒され続けますので、神輿も氏子も泥だらけです。


立たされた神輿が倒された時には、泥が四方八方に飛び散り、私にも少し掛りました。

どろいんきょは、20時頃までに、此処以外の5か所で行われ、21時頃に「お山納め」となる予定です。
どろいんきょという名称や由来については良く分かっていないそうです。
しかし、「古くなって隠居した神輿を、祇園祭に担ぎ出して転がし、泥だらけにしたから」とか、「隠居した老人達が、余興で担いだのが始まり」とか、諸説が伝えられています。
テニスクラブの朝練を中途で切り上げて、10時頃に船橋を発ち、12時前に埼玉県上尾市平方(ひらかた)に着き、埼玉県立上尾橘高校に駐車しました。
「どろいんきょ」というのは変わった名称ですが、平方の上宿地区に伝わる祭りで、毎年7月中旬の日曜日に行われます。
所謂「祇園祭(ぎおんさい)」で「天王様(てんのうさま)」とも呼ばれ、疫病退散や五穀豊穣を祈念します。
12時20分頃に「八枝(やえだ)神社」に着きました。
八枝神社は江戸時代初期から「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」として祀られていたとの記録があり、明治初年に、京都八坂神社と同じ祭神を祀っていることから、八坂神社の枝社として、八枝神社と改称されています。
12時45分頃から、神楽殿に置かれた、白木造りの「いんきょ神輿」の前で、神事が始まりました。
13時を過ぎて神事が終わると、氏子が御幣を奪い合い、殿上の神輿をおろし、神社境内で練った後、渡御に出て行きました。

「お山だし」と呼ばれています。
1923(大正12)年までは、平方の「上宿」や、「下宿」、「南」、「新田」の4地区で渡御していましたが、1973(昭和48)年に上宿地区で復活し、現在に至っています。
神社の前の通りを練り歩いた後、13時半過ぎに神輿は、第一回目のどろいんきょが行われる4班の「神酒所(みきしょ)」である民家の庭に、入って来ました。
此処には既に庭に水が撒かれ、白木造りのいんきょ神輿が転がされて泥だらけになるのを、観ようと思っている人達で一杯です。
約15分間、神輿は泥の上に放り投げられ、転がされ、立たされたかと思うと其のまま倒され続けますので、神輿も氏子も泥だらけです。


立たされた神輿が倒された時には、泥が四方八方に飛び散り、私にも少し掛りました。

どろいんきょは、20時頃までに、此処以外の5か所で行われ、21時頃に「お山納め」となる予定です。
どろいんきょという名称や由来については良く分かっていないそうです。
しかし、「古くなって隠居した神輿を、祇園祭に担ぎ出して転がし、泥だらけにしたから」とか、「隠居した老人達が、余興で担いだのが始まり」とか、諸説が伝えられています。
2009年11月26日
八王子神社臨時例大祭「下総三山の七年祭り」
2009年11月24(火)八王子神社臨時例大祭(七年祭り)
八王子神社は千葉県船橋市古和釜(こわがま)にあります。
私の住まいの近くにある訳ですが、それだけでは私も、交通規制をしているな程度で終わっていたのでしょうが、古和釜にある私の所属する「サングリーンテニスクラブ」のオーナー夫人から、7年に一度のお祭りだから是非見てねと、かねがね聞かされていたことによって、意識していたのです。
八王子神社は、調べてみると、「総本社は大阪市東成区にある八王子神社と考えられている」という、記述があります。
この祭りは「下総三山(みやま)の七年祭り」の中で、「弟(末息子)」の役割を担っています。船橋市三山にある二宮神社を「お父さん」とし、「お母さん」、「子守」、「産婆」、「叔父さん」、「叔母さん」、「お兄さん」、「お姉さん」の役割を、千葉市(3社)、習志野市(2社)、八千代市(2社)にある七つの神社が担います。
22日には、二宮神社に9社の神輿が集合しました。
前回の6年前には12万人が観に来たそうですが、今年も盛大だったようです。
6年先、生きていれば、是非見に行きたいと思います。
昼食の後、歩いて八王子神社へ出掛けました。
神輿が氏子の町内を巡幸しているため、神社には人が少なかったのですが、「神輿番」の人達が残っておられたので、話を聞きました。
今年は神輿を新調したので、庫には、江戸時代からの古い神輿(以前、投げ落とした結果、軸がずれたとのこと)と、比較的新しいやや小振りの神輿の2基が収められています。
テニスクラブのオーナーもこの当番に当たっていて、昨晩は寝ずの番をしたらしく、この時間は、どうも家に戻って休んでいる様子でした。
昨晩当番の方々が、焼いて食べたという焼き鳥をいただきましたが、本当に美味かったです。
この後、神輿の巡幸を観にゆきましたが、神輿の担ぎ手が結構大勢おられて、6年先でも大丈夫ではないかと思われました。
氏子の町内を回っていくのですが、車一台がようやく走れるような、初めて行く場所ばかりで、新鮮味がありました。
神社に戻ると、テニスクラブのオーナーも戻っておられて、樽酒を振舞われました。
美味かったです。胃の形がよく分かるような気がしました。
16時頃、予定通りの時刻に、神輿が参道の階段を上って神社に戻ってきました。

参道階段の両側に並んでいる「寄付石」の一番上の高いところには、テニスクラブのオーナーのものがありました。

やっぱり地元の名士なんですねぇ。
しかし名士もコートでは、ローラーを運転し、箒で落ち葉を掃き清めておられます。
八王子神社の宮司さんが、近くの梨園の経営者ということも聞きました。
17時半過ぎから囃子が始まり、18時からは「馬鹿面踊り」が始まりました。

色んな馬鹿面が出てきて、面白い仕草で観衆を笑わせます。やがて餅が投げ撒かれました。
餅は大きいのもありかなり固いので、指先に当たるとしびれるし、油断していて顔面に当たった時は、痛かったです。
甲子園球場でファウルボールを避けることより、ずっと難しいです。
八王子神社は千葉県船橋市古和釜(こわがま)にあります。
私の住まいの近くにある訳ですが、それだけでは私も、交通規制をしているな程度で終わっていたのでしょうが、古和釜にある私の所属する「サングリーンテニスクラブ」のオーナー夫人から、7年に一度のお祭りだから是非見てねと、かねがね聞かされていたことによって、意識していたのです。
八王子神社は、調べてみると、「総本社は大阪市東成区にある八王子神社と考えられている」という、記述があります。
この祭りは「下総三山(みやま)の七年祭り」の中で、「弟(末息子)」の役割を担っています。船橋市三山にある二宮神社を「お父さん」とし、「お母さん」、「子守」、「産婆」、「叔父さん」、「叔母さん」、「お兄さん」、「お姉さん」の役割を、千葉市(3社)、習志野市(2社)、八千代市(2社)にある七つの神社が担います。
22日には、二宮神社に9社の神輿が集合しました。
前回の6年前には12万人が観に来たそうですが、今年も盛大だったようです。
6年先、生きていれば、是非見に行きたいと思います。
昼食の後、歩いて八王子神社へ出掛けました。
神輿が氏子の町内を巡幸しているため、神社には人が少なかったのですが、「神輿番」の人達が残っておられたので、話を聞きました。
今年は神輿を新調したので、庫には、江戸時代からの古い神輿(以前、投げ落とした結果、軸がずれたとのこと)と、比較的新しいやや小振りの神輿の2基が収められています。
テニスクラブのオーナーもこの当番に当たっていて、昨晩は寝ずの番をしたらしく、この時間は、どうも家に戻って休んでいる様子でした。
昨晩当番の方々が、焼いて食べたという焼き鳥をいただきましたが、本当に美味かったです。
この後、神輿の巡幸を観にゆきましたが、神輿の担ぎ手が結構大勢おられて、6年先でも大丈夫ではないかと思われました。
氏子の町内を回っていくのですが、車一台がようやく走れるような、初めて行く場所ばかりで、新鮮味がありました。
神社に戻ると、テニスクラブのオーナーも戻っておられて、樽酒を振舞われました。
美味かったです。胃の形がよく分かるような気がしました。
16時頃、予定通りの時刻に、神輿が参道の階段を上って神社に戻ってきました。

参道階段の両側に並んでいる「寄付石」の一番上の高いところには、テニスクラブのオーナーのものがありました。

やっぱり地元の名士なんですねぇ。
しかし名士もコートでは、ローラーを運転し、箒で落ち葉を掃き清めておられます。
八王子神社の宮司さんが、近くの梨園の経営者ということも聞きました。
17時半過ぎから囃子が始まり、18時からは「馬鹿面踊り」が始まりました。

色んな馬鹿面が出てきて、面白い仕草で観衆を笑わせます。やがて餅が投げ撒かれました。
餅は大きいのもありかなり固いので、指先に当たるとしびれるし、油断していて顔面に当たった時は、痛かったです。
甲子園球場でファウルボールを避けることより、ずっと難しいです。
2009年09月20日
日吉大社「神輿上げ神事」
2009年3月1日(日)日吉大社神輿上げ神事
滋賀県大津市日吉神社「山王祭神輿上げ」は、10時開始と聞いていたので、西宮を7時には出て9時前には坂本に着きましたが、神社内は駐車余地は少なく、辛うじて、木と木の間に駐車スペースを確保しました。
「山王総本宮日吉大社」の境内には、「西本宮」を筆頭に、「東本宮」、「宇佐宮」、「牛尾宮」、「白山宮」、「樹下宮」、「三宮宮」、の7社が鎮座しています。
今日はその内の、「牛尾宮」と「三宮宮」2社の祭りで、神輿を標高381Mある「八王子山(牛尾山)」山上近くにある両宮まで、担ぎ上げる神事です。
八王子山山上近くには、日吉大社の起源と言われる「磐座(いわくら)」があり、その両側に、牛尾神社と三宮神社が鎮座しています。
両社の神輿は山麓の「遙拝所」の神輿庫に収蔵されていますが、今日はそれら2基の神輿を八王子山に担ぎあげ、4月12日の「午の神事」まで、山上の神社で神火が献げられます。
高校野球の名門「比叡山高校」(京滋代表時代には、滋賀県の高校が代表になることは稀でしたが、今もし京滋代表にしたら、滋賀県勢の方が強いかも知れませんね)の野球部員が先頭で神輿を綱で引っ張ります。
担ぎ手は氏子が中心なのでしょうが、大変な労力です。
それでも結構速い速度で登っていくので驚きました。
この標高差を2時間ばかりで担ぎあげるのですから。

最難関は、両神社の間にある狭い急階段を担ぎあげる所です。
勾配の角度は45度はあったと思いますが、よくもまあ怪我人を出さずに済んだものです。

「午の神事」では、逆に担ぎ下ろすわけですが、下りの方が怖いような気がします。
私は単に後ろから付いて歩いただけですが、神社から見た琵琶湖の眺望は素晴らしかったです。
担ぎあげた方々は、すごい達成感を持って眺められたことでしょう。
滋賀県大津市日吉神社「山王祭神輿上げ」は、10時開始と聞いていたので、西宮を7時には出て9時前には坂本に着きましたが、神社内は駐車余地は少なく、辛うじて、木と木の間に駐車スペースを確保しました。
「山王総本宮日吉大社」の境内には、「西本宮」を筆頭に、「東本宮」、「宇佐宮」、「牛尾宮」、「白山宮」、「樹下宮」、「三宮宮」、の7社が鎮座しています。
今日はその内の、「牛尾宮」と「三宮宮」2社の祭りで、神輿を標高381Mある「八王子山(牛尾山)」山上近くにある両宮まで、担ぎ上げる神事です。
八王子山山上近くには、日吉大社の起源と言われる「磐座(いわくら)」があり、その両側に、牛尾神社と三宮神社が鎮座しています。
両社の神輿は山麓の「遙拝所」の神輿庫に収蔵されていますが、今日はそれら2基の神輿を八王子山に担ぎあげ、4月12日の「午の神事」まで、山上の神社で神火が献げられます。
高校野球の名門「比叡山高校」(京滋代表時代には、滋賀県の高校が代表になることは稀でしたが、今もし京滋代表にしたら、滋賀県勢の方が強いかも知れませんね)の野球部員が先頭で神輿を綱で引っ張ります。
担ぎ手は氏子が中心なのでしょうが、大変な労力です。
それでも結構速い速度で登っていくので驚きました。
この標高差を2時間ばかりで担ぎあげるのですから。

最難関は、両神社の間にある狭い急階段を担ぎあげる所です。
勾配の角度は45度はあったと思いますが、よくもまあ怪我人を出さずに済んだものです。

「午の神事」では、逆に担ぎ下ろすわけですが、下りの方が怖いような気がします。
私は単に後ろから付いて歩いただけですが、神社から見た琵琶湖の眺望は素晴らしかったです。
担ぎあげた方々は、すごい達成感を持って眺められたことでしょう。

