2008年09月14日

古典の秋

最近、古典への注目がひろがっていることを感じます。しかも社会科学への注目を感じます。

光文社が古典文庫をシリーズで発売していますが、ここ2ヶ月、ルソーの翻訳を出しています。『社会契約論〔ジュネーブ草稿〕』と『人間不平等起源論』の2冊。このシリーズでは、レーニン『帝国主義論』やJ・S・ミル『自由論』も出されています。スミスの『道徳感情論』の新訳があれば買うかもな〜〜

岩波現代文庫は、宇沢弘文『ケインズ「一般理論」を読む』を新しい装いで出してます。これは買ってしまいました。

そのなかでも、マルクスにも新しい注目を感じています。
今月、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日〔初版〕』が平凡社から出版されます。ちょうど、不破さんの研究を『古典研究』と「革命論」で学んでいた所。ちょうど問題意識とかみあう時期に出版されるので、買ってみようと思います。
また、朝日新書が嶋崇『いまこそ「資本論」』を出版しています。編集者の嶋さんが、『資本論』を分かりやすく紹介するという一冊。買いました。まだ「まえがき」しか読んでいませんが、『資本論』全三巻に渡って解説していること、マルクスの分析の評価を、「資本主義の優れた面と危険な面の両面を指摘した」点に求めていることなど、なかなか期待がもてる構成になっています。

あらためて古典に立ち返る秋にしたいな、と思っています。


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2008年09月03日

総裁選だそうで

世の中は、「総裁選」一色になってます。

「開かれた政党」をアピールするということが、自民党の有力者の方々の共通したセリフですが。
総裁選って、自民党内の選挙ですよね。
自民党内で、仲間内で、ぐだぐたやってるだけですよね。
それを国民的アピールの場にしたいという自民党の思惑は分かりますが、それに無批判なマスコミの報道はよく分かりません。

さらに名前があがっている人は。麻生さん。小池さん。石原さんの息子。小池さんを推しているのは中川さんだそうです。こぞって靖国派じゃないですか。

マスコミはお祭り騒ぎですが、国民生活から考えると、あまり生産的ではないような気がします。

「政策を競い合う」というなら、自民党内の傷の舐めあいを主戦場にするのではなく、国民に公開されている国会の場で堂々と政策論争をすればよいのではないでしょうか。


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2008年08月25日

オリンピックが終って

オリンピックが終りました。

ソフトボールが金なのに、野球が四位。ということで、星野監督の苦しい表情をみる日が続きます。

そもそも、日本のスポーツチームへの前評判って、あまり客観的じゃないような気がするんです。『資本論』は商品の物神的性格について語っていますが、それに似た問題があるような気がしてます。つまり、「自分でつくりあげた妄想に、勝手に降りまわされている」ってこと。
サッカーが典型だと思うのですが、日本のサッカーて強いんですかね? あまり結果がぱっとしないような気がするわりには、前評判は高いのが常。
野球は、確かに客観的には力をもった選手が揃ったかもしれませんが、私は、星野監督の力量をあまり高く評価していません。星野監督が、「負けた責任は全部自分が負う」みたいに言っていることについては、好感をもっていますが。

根本には、「日本のことしか関係がない」という発想があって、スポーツそのものを楽しむ発想がマスコミに見られないことがあるように思います。サッカーだって野球だって、決勝はあまり注目されなかったし。

それにしても、スポーツの魅力をあらためて感じたのも事実です。冷静に、スポーツの祭典であり平和の祭典であるオリンピックの魅力はかみしめたいと思った夏でした。
 
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2008年07月22日

世界史は世界審判である

科学的社会主義の立場に自覚的にたった雑誌として新しく創刊された『季論21』を読んでいます。
辻井喬「今日の考察、明日への志慮」、暉峻衆三「私にとってのマルクス」など、なかなか読み応えを感じました。
そして特集は「九条という思想」。牧野広義「憲法九条という思想」も面白かったのですが、愛敬浩二「現代改憲動向下の憲法論を読む」は、現今の改憲論の動向を全体的にとらえる上で必読だなと思いました。愛敬さんの論文では特に、改憲派が九条改憲を狙いの焦点にすえながらも、全文改憲をめざしていることについて、「単なる目くらましとしてとらえないほうがいい」と提起している問題は大事だと思います(地方自治の問題とか)。

牧野さんは、上記論文のなかで、ヘーゲルがシラーから引用している次の言葉を紹介しています。

世界史は世界審判である。


ヘーゲルは、この言葉を「諸民族の戦いの結果として審判は行われる」という意味でつかったようですが、そのヘーゲルの意図とは違い、この言葉そのものは重みを持っていると思います。

世界の歴史の流れは、歴史の審判をくだす。

今日は特に、ソ連崩壊後の世界の現実に照らして、そのことを感慨深く考えた一日でした。
 
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2008年07月16日

それが勉強なんですね。


北村・創作『北村薫の創作表現講義』(新潮選書)を読んでいます。

北村さんのスタンスは、〈「読む」も「書く」も自分を表現することだ〉という趣旨のもの。作家ならではの語り口にも関心しながら、いろいろ学ばされています。

その北村さんが、「勉強」ということについて次のように言っています。NHKの番組「英語でしゃべらナイト」に出演していた釈由美子さんが、独自の学習方法で努力していたエピソードを紹介しながら語っていることです。

わたしは、これを聞いてね、《ああ学習って、これだな》と思った。《どういう風にやったら》というのを、《自分で》考える。それが勉強なんですよね。


たしかにいま、巷では、勉強方法や思考方法まで、ハウツー本が出されていて、結構読まれているようです。でも、《やり方》なんていうのは、人それぞれ。それを編み出していくことも勉強なんだということは、まったくそうだなと思います。

ちなみに、同書で短歌が紹介されているのですが、短歌の良さはいまいち分からない・・・


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2008年06月18日

短篇をよむ楽しみ


バックトス

最後の一行が魔法のように・・・

そんなふうに気持ちに入ってくる一行があるんだと思える短編があつまっています。北村薫『1950年のバックトス』。

最初に収録されている、「百物語」と「万華鏡」は、怖かった。
「雪が降ってきました」と「林檎の香」は、ホロリとさせられます。


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2008年06月04日

アダム・スミスの『道徳感情論』と『国富論』

気がつけば6月。5月はまったく書けませんでした^^;


スミス図書館で見つけて面白いなとおもいはじめているのが、これ。堂目卓生『アダム・スミス』(中公新書)。副題の、「『道徳感情論』と『国富論』の世界」というのに興味をもちました。

筆者は、「はじめに」で本書の問題意識を次のように書いています。

本書は、『道徳感情論』におけるスミスの人間観と社会観を考察し、その考察の上に立って『国富論』を検討することで、これまでとは異なったスミスのイメージを示す。・・・本書において私は、『道徳感情論』と『国富論』において展開されるスミスの議論を、社会の秩序と繁栄に関する、論理一貫したひとつの思想体系として再構築する。


自由放任主義を理論づけたイメージされるアダム・スミスが、実は、単純な自由放任主義ではなかったということ、そしてそのヒントが『道徳感情論』にあったということは、根井雅弘さんの著作から知っていましたが、そこでアダム・スミスが展開している議論の詳細も、『道徳感情論』と『国富論』の関係も、よく分からないまま宿題にしていました。それを展開してくれている一冊ですから、楽しみです。

いま、第一章を読み終えましたが、アダム・スミスが人々の道徳感情について論じている1つひとつが、なかなか面白く読めています。

道徳感情の話と、社会全体の秩序形成の問題と、経済学との関係が、どう展開されるのか、かなり楽しみです。


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2008年04月26日

聖火とチベット問題で素朴な疑問

今日、テレビは聖火の問題一色です。

ふと、素朴な疑問なんですが。

チベット問題で怒りを人は、なぜその怒りを、聖火リレーへの抗議という形で噴出させているのか分かりません。オリンピックを汚す事は、中国への抗議にならないと思います。

今日の新聞に、チベット問題で中国に抗議する人々のデモがありましたが、チベットの旗と一緒に、日の丸が掲げられていました。チベットは独立を主張していないはずなのに、なぜ、「国旗」のような扱いでチベットの旗が登場するのかも分かりませんが、そこに日の丸があることも意味が分かりません。

チベット問題で中国に問題があることも事実でしょう。しかし、いまの状況は、問題の本来のレールを踏み外して、問題を複雑にするだけのことのように思います。


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2008年04月17日

『資本論草稿』から、マルクスの方法論をひとつ

マルクスの『資本論草稿』のうちの一つのノート・「剰余価値に関する諸学説」を読んでいて。

マルクスは、アダム・スミスが、流通過程で等価交換が行われているにも関わらず、利益が生まれる事実に気づきながらも、それを利潤や利子などの「特殊な諸形態」から区別されたカテゴリーとして(つまり「剰余価値」として)理解できなかったことから、さまざまな混乱が生じることを強調しています。そしてこの混乱は、リカードウにおいて、さらに鋭く(リカードウは価値法則の一貫性を重視したため)あらわれることを言った後、次のように言います。

私が注目したのは、方法論の言及としてです。

粗雑な経験主義が、まちがった形而上学、スコラ哲学に一変し、これらは、否定しえない経験的諸現象を、単純な形式的抽象によって、直接に一般的法則から導きだすことに、あるいはその法則に合わせて理屈をこねることに、苦労するのである。


ここで「形而上学」と言っているのは、弁証法と対置した意味として使っている訳ではなさそうです。「まちがった形而上学」と言っているので、では、「まちがっていない形而上学」とは何か、となるから。そしてすぐ後に、「スコラ哲学」と言っている点でも、そう判断できます。

マルクスはここで、「粗雑な経験主義」が「まちがった形而上学」に一変することで、諸事実と一般的法則の間に、“粗雑な関係”が持ち込まれることを言っているように読めます。
例えば、「単純な形式的抽象によって、直接に」この両者をつないでしまうこと。
例えば、「理屈をこねる」こと。

では、諸事実と一般的法則の間の関係は、どう考えればいいのか。その全体は、草稿からよく学んでいきたいと思っていますが、ここでは、マルクスが、諸事実と一般的法則の関係について、スミスへの批判をこういう角度でやっていることについて、注意したいと思います。


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2008年04月09日

ナポレオン民法典への二つの評価

矢野達雄『マンガから考える法と社会』(新日本出版社)を読んでいて、「へぇ〜」と思ったのでメモ。

池田理代子さんの『エロイカ』をとりあげ、ヨーロッパ法史をとりあげた章のなかで、ナポレオンの民法典(1804年制定)についての評価を紹介しています。

一人は、スタンダール。「フランス民法典の条文は簡潔明瞭で、文豪スタンダールが絶賛したほどなんだ」と言います。

もう一人は、植木枝盛。枝盛は、ナポレオンが「女性は男性の所有物だ」と語った事もとりあげて批判。「このような思想にもとづいて民放を制定するのではなくて、男女同権という『19世紀の新思想』にもとづいて民法を制定すべきだと主張した」と紹介されています。

フランスの人権宣言の主語は、すべて男性名詞だったという点をとらえて、「人権宣言がかかげた自由と平等は、女性と植民地には無縁だった」と指摘しているのは憲法学者の樋口陽一さんですが、明治時代の植木枝盛も、同じ視点で語っていたという点に、日本の自由民権の歴史の水準を感じたりもします。


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2008年03月15日

北朝鮮は変化している/『北朝鮮は、いま』(岩波新書)

北朝鮮

『北朝鮮は、いま』(編集=北朝鮮研究学会、監訳=石坂浩一、岩波新書)を読みはじめました。

韓国の研究者たちが書いた、北朝鮮の実像についての連載記事をまとめたもの。
北朝鮮の実情というと、いろいろなイメージが先行してしまうのですが、本書は、北朝鮮の実情を、冷静に、できるだけ客観的に提示しようという目論見のようです。まださわりしか読んでいないので、全体の感想はないのですが、冒頭のいくつかの言明が目にとまりました。

1つは、北朝鮮は変わりつつあるという認識。「一見したところでは10年前とちがわないかもしれないが、内部では急激な変化が起こっている」と言います。どう変化しているのか、その変化の方向はどういうものなのか――このあたりの見極めが、本書からつかむべき中心点になりそうです。

2つは、米ソ冷戦の終焉後におきた、北朝鮮関係の情報の質の変化についての指摘。筆者は、「六・一五時代」という言葉を使います。2000年6月15日の南北共同宣言以来の時代のことを意味するということです。それ自体が、2000年6月15日以前の、「対立と分断」の朝鮮半島から、新しい「統一の時代」への過渡期に位置づけられて呼ばれています。そういう時代の変化のなかで、北朝鮮と韓国の間の人の出入りが激しくなり、北朝鮮の人々の悩みや苦労にも触れて実像を知れるチャンネルが増えてきたといいます。
韓国内では、「アメリカ、日本で出版されている主観的で根拠もない北朝鮮関連書籍は、もはや何の影響力もなくなっている」と指摘されていることも注目しました。

これから「一章」を読みはじめます。いよいよ北朝鮮の実像に入って行くようです。


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復活!

ご無沙汰してました。青森にも春がやってきたので、そろそろ復活しようかと考えはじめています。

といっても、ちょっとコンセプトを変えて、本や新聞を読んだその瞬間にちょっと考えたりしたことを書き込んでいきたいと思います。

あまり考えをまとめて書かないので散漫になってしまうかもしれませんが・・・これまでもそうだったかもしれないから、いいですよね。

ということで、再開におつきあいください。


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Posted by yoshi_you at 10:10  |Comments(0)TrackBack(0) | =洋= 日記

2007年12月09日

お知らせ

ごっついご無沙汰になってしまいました。

いろいろ事情があって、急に「忙しい日々」になってしまっていまして、そのこともあって、いまブログのリニューアルを考えています。

ということで、しばらくお休みが続きます・・・


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Posted by yoshi_you at 22:30  |Comments(2)TrackBack(0) | =洋= 日記

2007年10月19日

「yes」でも「no」でもない視点がある

前々から思っているのですが、設問が的確であるかどうかというのは、問題解決の8割を占めているように感じます。
そのことは、何度もブログに書いてきたし(例えば、ここ)、昨日の金八先生も言ってました。

特に、政治の世界ではそうかもしれません。なかでも、二者択一の選択を、マスコミと政治家がこぞってやりはじめたとき、「ホンマか?」と疑ってみることが必要でしょう。

たとえば、郵政解散選挙がそうでした。いまテレビは、亀田人気を煽った責任を一生懸命TBSに押し付けています。それはそれで間違っていないでしょうが、しかし、「郵政民営化にイエスかノーか」と煽ったみずからの責任――もっと大きな責任に、無自覚であることに驚きます。
いま、インド洋への自衛隊派遣をめぐって、「給油への参加」=テロとのたたかいと結びつけ、「給油への参加=テロとのたたかい」にイエスか、ノーかと迫っています。給油への参加が、報復戦争への支援であり、そのことが本当にテロの根絶に役立っているのかという根本問題は見過ごされています。
消費税増税への動きもでてきました。このときにでるのは、「負担増か給付減かどっちを選ぶ?」という選択。ここには、大企業にさまざまに優遇されているという「聖域」は見過ごされています。

「yesかnoか」と迫られると、分かりやすいように思えてしまいますが、そこに落とし穴があることをよく見ないといけないと思います。


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Posted by yoshi_you at 12:10  |Comments(1)TrackBack(2) | ■thinking , ■政治の世界

2007年10月18日

『満州事変から日中戦争へ』を読んで学ぶ



遅ればせながら・・・ということになるんだと思いますが、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書)を読んでいます。「シリーズ日本近現代史」の一環の1冊です。
もともと、この続編の吉田裕さんのものを読もうと思って図書館にいったのですが、やはり、31年から連続的な認識を持ちたいと思って、こちらから借りてきて読みはじめています。

まだ途中までしか読んでいないので、内容についての感想というよりも、もうちょっと漠然とした感想になってしまいますが、戦前の日本政府も軍部も、相当、当時の国際情勢を意識して、中国への侵略戦争を開始していったということを感じます。その意識の強さの度合いに比べて、冷静で客観的な判断をする能力はなかったんだな、ということと合わせて思います。
例えば、筆者は、柳条湖事件の「かたち」に注目して、その特質の一つに「国際法との抵触を自覚しつつ、しかし国際法違反であるとの批難を避けるように計画された」としていますが、ここでの筆者の注目も、当時の軍部と政府が国際社会への視点を「欠いていた」のではなく「かなり自覚していた」という認識にたってのものでしょう。

もう一つ。筆者は本書の冒頭で、政府部内でも軍部内でも、対中国との戦争は、仇討ちであり、真に討匪戦だと考えていたことを紹介しています。
私は、日本と他のアジア諸国との間には、戦争の記憶の深さの違いがあると考えています。それは、日本では、「被害」の記憶は1年にみたない短期間であったことなどによると思いますが、それは、当時の人士の言葉をもって著者が紹介している言葉――「日本人はあれを戦争と思っていたのか」という認識と重なる気がしました。

ともかく、いろいろ発見をしながら、読んでいる1冊です。


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2007年10月16日

政府が労働時間を規制するということ

マルクスの『資本論草稿集』を読んでいます。といっても、もう何年にも渡って、《読む努力》と《挫折》を繰り返しているので、なかなかすすみませんが。
その『草稿集』第4巻(「61-63年草稿」の第1冊)を読んでいて、次のような記述にあたりました。

過去数世紀の、資本主義的生産に先行する時代にも同様に、政府の側からする強力的な、すなわち法律による規制が見いだされる。しかしそれが、規定時間を労働するよう労働者に強制するためのものであったのにたいして、今日の規制はすべて、もっぱらその反対に、労働者を規定時間しか労働させないように資本家に強制するために定められている。発展した資本に対抗して労働時間を制限することができるのは、政府の強制だけなのである。やっと資本が発展しつつある段階では、政府の強制が現われるのは労働者を強力的に賃労働者に転化するためである。


これはあくまで「草稿」ですから、詳しい方なら、『資本論』にこの記述がどう反映されたかが問題になるんだと思いますが、私の場合は、この文書そのもので感じたことを一つ。

それは、日本の「ルールなき資本主義」といわれている異常さ――とりわけ、労働時間への法的規制が事実上空洞化していることの異常さという問題です。

日本の資本主義が、“世間”では当たり前のルールをもっていないことは有名な話ですが、なかでも、労働時間の規制については顕著なようです。例えば、ILOの条約のうち、労働時間に関するものを日本は一つも批准していないということを、いくつもの本が指摘しています。また、労働基準法も一応の規制は作っていますが、36条によって、「労働者の代表と使用者」の合意があれば、いくらでも働かせることができることになっています。

さて、21世紀の発達した資本主義国の一つである日本において、労働時間の規制が事実上ないという実情がなにを物語るのか。

マルクスが、「発展した資本に対抗して労働時間を制限することができるのは、政府の強制だけなのである」と言っている一節が印象深く残ります。日本の政府は、「資本主義的生産に先行する時代」の遺物として現在に生き残っているということでしょうし、「政府の強制」を強制しきれていない労働運動と政治的闘争の到達という問題もあるでしょう。
同時に、マルクスのここでの指摘が、一般的傾向を指摘したものというよりも、資本主義そのものの成立の条件の一つをいったものと考えれば、日本のこうした異常さが、日本の資本主義の脆弱性と解決すべき課題そのものを示しているというふうにも読み取れるのではないかと思うのです。


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Posted by yoshi_you at 03:46  |Comments(0)TrackBack(2) | 【学問】経済学

2007年10月12日

カメさんの勉強

戦時中の沖縄での集団自殺に、日本軍が関与していたことを教科書から削除した問題が、いま、大きくとりあげられています。
沖縄県が開催した県民集会をめぐって、「朝日新聞」と「産経新聞」がどうでもいいことで非難合戦をやってるようですが、なんかレベルが低いですよね。さらに政府が、「教科書検定に政治からもの申すのはいかがか」などと言っている白々しさも低レベルだな・・・と思います。
そんな周辺の話は置いておいても、沖縄県民のエネルギーの強さを感じざるをえません。県民集会での高校生の発言は、報道番組でみましたが、力強さを感じました。

そんな沖縄が生んだ名士・・・故瀬長亀次郎さんにまつわる記事を、最近の新聞でみつけました。
瀬長さんは、元衆議院議員で、那覇市長などを経て日本共産党の副委員長も歴任した人。「かめさん」という愛称は、ずっと後の世代の私でも知っている大先輩です。

記事は、瀬長さんが米軍占領下の沖縄で獄中にいたあいだに記した読書ノートがみつかったというもの。記事そのものは他愛もないものですが、懲役2年の間に、『資本論』の読書ノートと、国際法の書物からの抜き書きと感想のノートがみつかったという内容に、目がとまりました。

獄中という極限状態を、学びと思考の場にするのは、偉人たちに共通するようです。宮本顕治もそうでしたし、吉田松陰とか高野長英とかギリシャの哲学者もそうじゃなかったかな・・・それに比べて、平凡な毎日なのに勉強に集中できない自分を恥じます(比べる人が悪いかな?)。

また、『資本論』という古典に挑戦していたこととともに、「講和条約や国連憲章の解説書、過去三年の『琉球統計』などの基礎資料のほか、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』も含まれていた」というリストをみると、国際的な視点と統計を通じた実態把握を通じて思考を深めていたことを予想させます。さらに、小林秀雄ですから、文学的な関心も忘れていなかったということでしょう。

瀬長さんが、獄中という環境で、《古典》と実態の正確な把握を、国際的視点と統計からみた把握を心がけ、文学的な関心も失わなかった――となるなら、今日に引き継ぐ姿勢がここにあるんじゃないかと読み取ってみました。

もちろん、ここに記されたメニューに留まらない努力や視点はあったんだと思いますが、このような瀬長さんの視点は、学ばないとダメだなと痛感しました。


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Posted by yoshi_you at 23:44  |Comments(2)TrackBack(0) | ■thinking

2007年10月11日

読み応えあるミステリー



『玻璃の天』に続いて、北村薫『街の灯』を読みました。

「続いて」というのは、私の読んだ順番がそうだということで、話の中身的には、『玻璃の天』が『街の灯』の続編で、どちらも、良家のお嬢様とそのお抱え女性運転手=ベッキーさんが主人公。この2人の話は、2人の出会いから描かれる『街の灯』のはじめから始まり、謎多きベッキーさんの正体が分かる『玻璃の天』の最後で閉じるようになっています。だから、私の読んだ順番は、まったく真逆で、そういう意味では、はじめから話を追っていく楽しみを欠いたまま、小説を読み終えたという感じではありました。

そういうことはあったものの、オモロイ。いくつか全体的な感想を。

一つ。北村薫は、日常に起こる謎を描く作家だということで「日常の謎派」と言われているそうですが、お嬢様の身の回りに起こってくる出来事を、鋭く解いていくあたりは、大変、読んでいて気持ちいいものです。
そして、話の一つひとつにムダがない。すべてのことが、ストーリーとしており込まれていることがよくわかります。
だから、残忍な描写はないはずなのに、すごく怖い。『街の灯』の第一篇に納められた「虚栄の市」の最後のシーンは、秋の夜中に一人で読書するには、少し酷な怖さを感じました。


2つ。時代が描かれていることで作品全体に安定感を感じます。
時は昭和初期。「国体」が最大の関心ごとである時代のなかで、良家のお嬢様が、その地位の上にたって自由に振る舞いながら、そういう人達にありがちな時代への眼差しの欠如がありません。ちゃんと時代と人々の生活――そして、上流階級が故の息苦しさの土台の上に、物語が展開している印象を受けました。

いくつか例をあげると。

例えば、こんなセリフがポンっと出てきます。
「悍馬(かんば)というなら、時代ほどの悍馬はいないさ。ナポレオンでさえ、振り落とされた。」
時代という馬――それは、巨大な幻影となって、鬼押出しの空を駆け過ぎた。

実はこの一節、かなり味わいが深いセリフなんですが、ここでは解説する余裕はありません・・・というか、能力的にも無理です。ぜひ現物を読んでほしい。

もう一つ。お嬢様が貧困な人々の生活に目を向けた時、「でも私は、あそこでは生活できない」とつぶやいたとき、お抱え運転手のベッキーさんの一言が、ものすごいメッセージで迫ってきました。
《あのような家に住む者に幸福はない》と思うのも、失礼ながら、ひとつの傲慢だと思います。



3つ。知的だということ。多くの古典からの引用が折り込まれているということもその一つ。だいたい、『虚栄の市』はサッカレーからのものだし、ベッキーさんのあだ名も、『虚栄の市』の主人公からの借用ですから、なかなか凝っています。


それにしても、北村薫は、「凛とした女性」が好きなのかもしれません。そういう女性に惚れる気持ちは、男の私でもよくわかりますが、女性からみてもそうなのかもしれません。


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2007年10月10日

小児救急医療について考えてみた

昨日、NHKの報道番組で、小児救急の問題を特集していました。仕事をしながら聞き流していただけなので、ちゃんとみたわけじゃないですが。
当地では、先月から、市にある救急センターに小児科医が常駐し、三科体制となっています。先週の土曜日には、青森市医師会が主催してシンポジウムも開かれ、私も参加してきました。

NHKの特集でも、シンポジウムでも共通して感じたメッセージは、「こんなに病院は大変なんだから、あまり急病じゃない患者はこないでくれるかな〜〜」ということ。
こうズバリ言うわけじゃないけど、いかに夜間や休日の患者のうちで重症患者が少ないか、とか、平日の診察より急患の方が多くなった、とか、「コンビニ化」という単語までつくって”コンビニ感覚で病院に来る人が多すぎる”とか、そんな感じで言っています。

なんか、問題の本質から外れているような気がしました。

そもそも、子どもが病気になったら気になるのが親の気持ち。その子が、「救急にでも病院に駆けつけるほどの病状なのかどうか」を判断できるのは、ドクター(もしくは、それにふさわしい力量をつけたナース)しかいないんじゃないかと思います。ドクターがその判断ができるからこそ、医師は「普通の親」と区別されるはずです。それなのに、「救急かどうか見極めてから病院に来い」と言われると、病院そのものへの不信しか残りません。

もっとも、悪いのが病院や医師の側にあるわけではないのも自明のこと。
小児科に限らず、診察室がいっぱいになっているのは、医師の絶対数が不足しているところに原因があります。それにもかかわらず多くの病院が倒産寸前なのも事実。つまり、要因は、政府の医療費抑制政策にあるということです。
さらに、「早期に平日の診察を」などと言いますが、それができない背景に、親の労働時間の長時間かと有給休暇の取得困難性など、親の労働条件の悪化という要因があるでしょう。また、「早期」を困難にする要因として、子どもの医療費の窓口負担の重さということがないかとも想像します。

つまり、医師・病院の側から見ても、患者の側からみても、問題の本質は、政府の姿勢にあり、《医師の側からの患者への不信》と《患者の側からの医師・病院への不信》を払拭することが大事なんじゃないかと思いました。

小児医療の救急体制の整備にとどまらず、小児医療そのものの確立が、いま、問われていると思います。


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2007年10月07日

「医療崩壊」の知られざる現実



医療の現場からの警世の書でした。本田宏『誰が日本の医療を殺すのか』(洋泉社新書)。副題は、「医療崩壊」の知られざる真実」です。

筆者は、現役のお医者さん。その立場から、医師不足に代表される医療界の実情を告発します。そして、日本の医療制度の質を保ってきた、「医師の献身」と「国民皆保険制度」が崖っぷちの状態にあり、このままでは「医療崩壊」は早晩、現実のものになるだろう、と語ります。

何よりも、「誰が」というタイトルの問いかけのこたえは、医療費抑制政策を続ける、政府の愚策にこそあります。

いま、マイケル・ムーア監督の「シッコ」が話題になり、青森県でも昨日から上映されているようですが、医療制度の崩壊は、アメリカだけの話ではありません。

日本の自民党政治が続けてきているような、「医療業界の利益のために、国民の命と健康を生け贄にさらす」かのような医療制度の貧弱さに、あらためて怒りをもち、この転換が切実なことを感じました。


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