2005年12月26日

「人の命は尊いから、戦争はイヤ」と言うことの大切さ

憲法九条を変えないことを一致点にした「九条の会」というものがあります。形態も実態もいろいろですが、いま注目されています。

今日、たまたま弘前市内でつくられている地域「九条の会」の会報を見ました。そこに、元弘前大学の教授が一文を寄せています。
日本国憲法の値打ちを、あらためて感じる内容でした。短いものですが、歴史的な視野から論じられていて、九条を守ることは、人間性に根ざした立場なんだと学ばされるものでした。「人の命は尊いから、戦争はイヤ」と言うことに、恥ずかしさを感じることもあるのですが、その気持ちが大切なことを痛感しました。
それを、感情論としてではなく論じています。〈理性と感性の統一〉で、なおかつ短い文は私が理想とする文章ですが、久しぶりに、そういう文章に出会いました。

狭い地域でつくっている会なので、その範囲でしか紹介されないのはもったいないと思ったので、この場を借りて紹介させてください。
ただし、本人の了解をとっている訳ではないので、本名は省略します。こういう形の紹介って、いいのかな・・・? 会報として配られているものからの紹介なので、許してください(改行など、形式に関わるものについては、私の手が入っています)。


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「日本国憲法は人類の最高の到達点である――戦争の違法化」
 評価基準は時代とともに変わる。戦争についても同じ。
 土地所有原理の支配する封建時代にあっては、土地所有(領有)の拡大のための戦争は善であった。頼朝、義経、謙信、信玄、信長、秀吉、家康・・・。いずれもいくさ上手、領地拡大上手の故に英雄であった。
 資本原理の支配する資本主義時代にあっては、資本の活動領域の拡大、商品や資本の市場拡大のための戦争は許され、そこでのいくさ上手もまた英雄となった。

 しかし、商品、資本の活動は封建的束縛からのそれ自身の解放・自由化とともに、そこで働く人間の解放・自由化を求めた。この過程で人類は、自由・人権の思想を獲得し、財貨すなわち富が人間労働の成果であり、人間こそ尊重されなければならない尊厳的な存在であると自覚するにいたった。
 戦争がこの尊厳なる人間を最も大量に殺戮するにもかかわらず、人類は資本原理の支配のもと、「国益」あるいは「平和の伸長」の名で戦争を遂行して罪悪としなかった。「一人殺せば殺人犯。千人殺せば英雄」(チャップリン「殺人狂時代」)だったのである。

 犠牲者二千万人超の第一次世界大戦、五千万人超の第二次大戦を経るなかで、戦争違法化が急速に進んだ。国際連盟(ベルサイユ条約)、不戦条約、国際連合(国連憲章)を経て戦争放棄、交戦権否認、戦力不保持の日本国憲法にいたった。
 戦力を持てば使いたがるし使う。使えば戦争。持たざるに如くは無しで、日本国憲法は人類最高の到達である。

 戦争評価の基準が、土地でも資本でもなく、尊厳なる人間存在そのものに移行したのである。

Posted by yoshi_you at 23:49  |Comments(0)TrackBack(2) | 感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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記事参考になりました。 又遊びに行かせていただきます。
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