April 26, 2012
花
葉のたくさんついた花が、すきだ。
たとえば葉桜。満開のソメイヨシノは確かに華やかだけれど、花があまりにぽってりとして、枝に重みがかかりすぎているように見え、少し可哀想にもなる。花が半分ほど落ちて側溝に花弁が積り、枝に残った-とはいえすぐに去ってしまうはずの花と、萌え出したばかりの若い黄緑色の葉が混じるころの色合いが、いちばん自然に見えるのだ。
もうすこし言えば、枝垂れ桜の葉桜がじつにすばらしい。どうして枝垂れなくてはならなかったのかは知らないけれど、地球の重みに沿って枝を垂らす木に顔をのぞかせる新緑は、まさにいのちが「生まれ、そだつ」のだということを教えてくれているように思う。いや、これは言い過ぎか。でも本当にきれいなのだ。少なくとも毎日、帰り道を20分ばかり遠回りするくらいの価値はあると思っている。
何気なく全体を指して「花」ということが多いけれど、美しさを担保するのは、じつは花そのものでもなく枝や茎や葉だったりする。花だけにフォーカスを当てたオキーフの絵も嫌いではないが、あれをただ「美しい」」と言いきることにはやはり抵抗がある。
月曜日は、鍵盤の岡村ちゃんの誕生日だった。
メトロに向かう途中の花屋さんで、彼女に贈るための花を買った。フレンドリーながら自分のペースで会話を勧めてゆくおばあちゃん店主と、年のころ40がらみの体格の良い息子さんが相談に乗ってくれた。いまの花か?、今の花といえば山吹やな。あと誕生日やったらバラ入れといたら間違いないわ。リボンはどうしとく?お友達はかわいらしい子か?きれいな子か?山吹はお洒落な感じになるから、しゅっとした色にしといたほうがええなあ。水色?でもとってつけたようになるで。でも、ちょっと変わった感じにしたいんか?わかった、ほな、息子に選んでもらうわ。
ほんでなあ、おにいちゃん、長さはどのくらいで切っとこ?長めか?そうやなあ、山吹はあんまり切らんほうがええわ。
出来上がった花束は、本数こそ少なかったが、ちいさな葉とちいさな花(ほんとうに山吹色だった)をつけた山吹がきれいなアーチ状を描き、濃いめの色みのバラ、群青色の包み、春の街の空にとてもよく映えた。右手で根本を持ち、左手で抱えるようにして鴨川を渡るとき、なぜだか晴れがましい気持ちになった。
岡村ちゃんは大阪から何本かの電車を乗り継いでメトロへ来ている。鍵盤を背負っての移動なので、花を渡しても荷物になるだけかと気がかりでもあった。でも、なんといっても恋人の誕生日だ。今日はきっと彼氏も観に来るに違いないから、手分けして持って帰ってもらおう、という予想の上で選んだ贈り物。びっくりする岡村ちゃん(まさかぼくから花をもらうなんて思いもしなかっただろう)を脇目に、わざとらしいくらい澄ました顔をしていた自分のことを我ながら意地悪だとも思ったのだけれど―そののち、家に帰って考えるに、いくら大事な友人だからといっても、あそこではやはり彼氏を立てなくちゃならなかったかもなあと、それまでの得意げな気分はどこやら、気配りの出来ない差し出がましさに反省。贈り物というのは難しいと痛感させられた。
ただ、それでもハッピーバースデーには花が一番いいという意見は揺らいでいない。花束を持って誰かを祝いに行くとき、自然と背筋が伸びるように思うのは、きっと僕だけではないはず。食べるためとか飾るためとかを差し置いて、「喜ばせる」といいうシンプルな目的に特化しているからだろうか。あとは、花は意外とリーズナブルで、そのうえいつまでも場所をとって使い道に困るという心配のないのも、大事なポイントかもしれない。
さて、いつの間にかこんな時間。帰り道は、すっかり花の落ちて緑だけになった枝垂れ桜の下を歩くとしようか。
たとえば葉桜。満開のソメイヨシノは確かに華やかだけれど、花があまりにぽってりとして、枝に重みがかかりすぎているように見え、少し可哀想にもなる。花が半分ほど落ちて側溝に花弁が積り、枝に残った-とはいえすぐに去ってしまうはずの花と、萌え出したばかりの若い黄緑色の葉が混じるころの色合いが、いちばん自然に見えるのだ。
もうすこし言えば、枝垂れ桜の葉桜がじつにすばらしい。どうして枝垂れなくてはならなかったのかは知らないけれど、地球の重みに沿って枝を垂らす木に顔をのぞかせる新緑は、まさにいのちが「生まれ、そだつ」のだということを教えてくれているように思う。いや、これは言い過ぎか。でも本当にきれいなのだ。少なくとも毎日、帰り道を20分ばかり遠回りするくらいの価値はあると思っている。
何気なく全体を指して「花」ということが多いけれど、美しさを担保するのは、じつは花そのものでもなく枝や茎や葉だったりする。花だけにフォーカスを当てたオキーフの絵も嫌いではないが、あれをただ「美しい」」と言いきることにはやはり抵抗がある。
月曜日は、鍵盤の岡村ちゃんの誕生日だった。
メトロに向かう途中の花屋さんで、彼女に贈るための花を買った。フレンドリーながら自分のペースで会話を勧めてゆくおばあちゃん店主と、年のころ40がらみの体格の良い息子さんが相談に乗ってくれた。いまの花か?、今の花といえば山吹やな。あと誕生日やったらバラ入れといたら間違いないわ。リボンはどうしとく?お友達はかわいらしい子か?きれいな子か?山吹はお洒落な感じになるから、しゅっとした色にしといたほうがええなあ。水色?でもとってつけたようになるで。でも、ちょっと変わった感じにしたいんか?わかった、ほな、息子に選んでもらうわ。
ほんでなあ、おにいちゃん、長さはどのくらいで切っとこ?長めか?そうやなあ、山吹はあんまり切らんほうがええわ。
出来上がった花束は、本数こそ少なかったが、ちいさな葉とちいさな花(ほんとうに山吹色だった)をつけた山吹がきれいなアーチ状を描き、濃いめの色みのバラ、群青色の包み、春の街の空にとてもよく映えた。右手で根本を持ち、左手で抱えるようにして鴨川を渡るとき、なぜだか晴れがましい気持ちになった。
岡村ちゃんは大阪から何本かの電車を乗り継いでメトロへ来ている。鍵盤を背負っての移動なので、花を渡しても荷物になるだけかと気がかりでもあった。でも、なんといっても恋人の誕生日だ。今日はきっと彼氏も観に来るに違いないから、手分けして持って帰ってもらおう、という予想の上で選んだ贈り物。びっくりする岡村ちゃん(まさかぼくから花をもらうなんて思いもしなかっただろう)を脇目に、わざとらしいくらい澄ました顔をしていた自分のことを我ながら意地悪だとも思ったのだけれど―そののち、家に帰って考えるに、いくら大事な友人だからといっても、あそこではやはり彼氏を立てなくちゃならなかったかもなあと、それまでの得意げな気分はどこやら、気配りの出来ない差し出がましさに反省。贈り物というのは難しいと痛感させられた。
ただ、それでもハッピーバースデーには花が一番いいという意見は揺らいでいない。花束を持って誰かを祝いに行くとき、自然と背筋が伸びるように思うのは、きっと僕だけではないはず。食べるためとか飾るためとかを差し置いて、「喜ばせる」といいうシンプルな目的に特化しているからだろうか。あとは、花は意外とリーズナブルで、そのうえいつまでも場所をとって使い道に困るという心配のないのも、大事なポイントかもしれない。
さて、いつの間にかこんな時間。帰り道は、すっかり花の落ちて緑だけになった枝垂れ桜の下を歩くとしようか。
October 13, 2011
2011年10月12日
きょうは『ロータリー・ソングズ』の発売日でした。
今作のリリースにあたっては「七年ぶりのソロアルバム」といううたい文句をレーベルも流通も各媒体も使っていますが、その「七」という数字をタワーレコードで目にして、われながら驚きました。
なにしろ、そんなにも長い間、うたい続けるとは思いもよらなかったのです。ファースト『ひかり』を出すまでにもずいぶんと時間がかかりましたから、足かけ十五年?ほどは「うた」と格闘し続けてきたんじゃないかと思います。いや、初めて詩を書いて、曲にして、録音までしてみたのが十四歳のときですから、そこから数えると、もっとか。
そのあいだに、「うた」をロストしたことは、何度でもあります。あたまのなかで音楽が鳴らなくなったことも、あらゆる音符に無関心になってしまったことも、重力が地上のすべてのものを縛り付けるように、思うように自分の声が出せなくなったことも、あります(ちっとも自慢することではありませんが)。
きっと、ぼくは「シンガー」ではありません―シンガーソングライター、という肩書を使っているくせに。生まれついて歌に選ばれて、祝福されてきたわけでは決してないのです(そればかりか、誤解を恐れずに書くと、ある時期、たしかに歌は呪いそのものでさえあったかもしれません)。にもかかわらず、「うた」がぼくのライフワークであり続けてきたことは、ひとつにはそれ自体の大きな魔力と引力でもあり、もうひとつにはぼくが「うた」に押し潰されたり跳ね飛ばされたりしないように支えてくれたた、たくさんの仲間たち―お客さんも含めて―のおかげだと思っています(名前を挙げ出すとキリがないので、ここでは割愛させてください)。
このアルバムは、あちこちですでにお話ししていますが、大田区下丸子にあった高橋健太郎さんのご実家が取り壊される、その一週間ほど前に、録音されました。きっかけはこのブログと、健太郎さんのmixi日記だったと思います(まだmixiが全盛だったころに始まった録音ということにも、なんだか時の流れを感じる…)。
あくまでひとつの記録、記念、記憶として録りはじめ、ぼくが京都に戻ったあとにはほとんどお蔵入りにすらなっていたものが、あの真冬のWHOOPEESで、FRAGMENTのおふたりに会ったことをきっかけにして掘り起こされ、エマーソンさんや田代君、見汐さん、そしてメロウ君の力を借りて、とうとう世に出ることになりました。それはとても幸運なことでしたが、ぼくにとってというよりも、歌にとってというべきでしょう。発し手さえもが、誰にも聴かれなくてもよいと思っていた声―それが、質素ながらも素晴らしい衣装を着せられて、窓の向こうに飛んで行けるのです。感謝のことばは、なにより皆に直接、個別に伝えなくてはなりませんが、まずはこの場を借りてお礼を言わせていただきます。ありがとうございました。
この作品が、どんなひとに、どれだけの人に聴かれ、愛され、また見過ごされ、飽きられてしまうのか―それを思うと、楽しみでもあり、恐ろしくもあります。さっき母から電話がかかってきて、彼女は「あいかわらず歌詞がよくわからんねえ」とひとこと。国語の先生だった女性に歌詞のダメだしをもらうのですから、先が知れてるような気もしますが。
ただ、ここを読んでくださっている奇特な方が、もしどこかで『ロータリー・ソングズ』を手にするようなことがあり、なおかつまた七年先に、さらには何十年もずっと先に、もう一度ふと思い出して、あ、また聴いてよう、などと思っていただける瞬間があれば、そのときこそ、きっとこの作品の意味が成就するような、そんなイメージは抱いています。
それはある意味とても贅沢な願いごとですが、どのみち「音」は、そのままにしておけば空気に消えてしまうだけで、それを第一義的にパッケージするのは「作品」。そして最終的にそれが貯蔵されるのは「記憶」。だから、音を練り、詩を磨いて、やっと出来あがったこのミニアルバムが、ほんの少しでも聴いてくれる人のこころの記録紙に音符とことばを残してくれることを願っても、そんなに贅沢ではありませんよね。
ちなみにこれは、ほぼ十年ぶりに顔をまともに出したPVです(昔、和車が録ってくれた「post coda」以来。そのときは鴨川沿いだった)。撮影は代々木公園、監督はParanelくん、出演は午後の公園を楽しむ皆さん、FRAGMENTのクッシーさんも友情出演してくれました。とても気持ちのいい日だったと覚えています。
今作のリリースにあたっては「七年ぶりのソロアルバム」といううたい文句をレーベルも流通も各媒体も使っていますが、その「七」という数字をタワーレコードで目にして、われながら驚きました。
なにしろ、そんなにも長い間、うたい続けるとは思いもよらなかったのです。ファースト『ひかり』を出すまでにもずいぶんと時間がかかりましたから、足かけ十五年?ほどは「うた」と格闘し続けてきたんじゃないかと思います。いや、初めて詩を書いて、曲にして、録音までしてみたのが十四歳のときですから、そこから数えると、もっとか。
そのあいだに、「うた」をロストしたことは、何度でもあります。あたまのなかで音楽が鳴らなくなったことも、あらゆる音符に無関心になってしまったことも、重力が地上のすべてのものを縛り付けるように、思うように自分の声が出せなくなったことも、あります(ちっとも自慢することではありませんが)。
きっと、ぼくは「シンガー」ではありません―シンガーソングライター、という肩書を使っているくせに。生まれついて歌に選ばれて、祝福されてきたわけでは決してないのです(そればかりか、誤解を恐れずに書くと、ある時期、たしかに歌は呪いそのものでさえあったかもしれません)。にもかかわらず、「うた」がぼくのライフワークであり続けてきたことは、ひとつにはそれ自体の大きな魔力と引力でもあり、もうひとつにはぼくが「うた」に押し潰されたり跳ね飛ばされたりしないように支えてくれたた、たくさんの仲間たち―お客さんも含めて―のおかげだと思っています(名前を挙げ出すとキリがないので、ここでは割愛させてください)。
このアルバムは、あちこちですでにお話ししていますが、大田区下丸子にあった高橋健太郎さんのご実家が取り壊される、その一週間ほど前に、録音されました。きっかけはこのブログと、健太郎さんのmixi日記だったと思います(まだmixiが全盛だったころに始まった録音ということにも、なんだか時の流れを感じる…)。
あくまでひとつの記録、記念、記憶として録りはじめ、ぼくが京都に戻ったあとにはほとんどお蔵入りにすらなっていたものが、あの真冬のWHOOPEESで、FRAGMENTのおふたりに会ったことをきっかけにして掘り起こされ、エマーソンさんや田代君、見汐さん、そしてメロウ君の力を借りて、とうとう世に出ることになりました。それはとても幸運なことでしたが、ぼくにとってというよりも、歌にとってというべきでしょう。発し手さえもが、誰にも聴かれなくてもよいと思っていた声―それが、質素ながらも素晴らしい衣装を着せられて、窓の向こうに飛んで行けるのです。感謝のことばは、なにより皆に直接、個別に伝えなくてはなりませんが、まずはこの場を借りてお礼を言わせていただきます。ありがとうございました。
この作品が、どんなひとに、どれだけの人に聴かれ、愛され、また見過ごされ、飽きられてしまうのか―それを思うと、楽しみでもあり、恐ろしくもあります。さっき母から電話がかかってきて、彼女は「あいかわらず歌詞がよくわからんねえ」とひとこと。国語の先生だった女性に歌詞のダメだしをもらうのですから、先が知れてるような気もしますが。
ただ、ここを読んでくださっている奇特な方が、もしどこかで『ロータリー・ソングズ』を手にするようなことがあり、なおかつまた七年先に、さらには何十年もずっと先に、もう一度ふと思い出して、あ、また聴いてよう、などと思っていただける瞬間があれば、そのときこそ、きっとこの作品の意味が成就するような、そんなイメージは抱いています。
それはある意味とても贅沢な願いごとですが、どのみち「音」は、そのままにしておけば空気に消えてしまうだけで、それを第一義的にパッケージするのは「作品」。そして最終的にそれが貯蔵されるのは「記憶」。だから、音を練り、詩を磨いて、やっと出来あがったこのミニアルバムが、ほんの少しでも聴いてくれる人のこころの記録紙に音符とことばを残してくれることを願っても、そんなに贅沢ではありませんよね。
ちなみにこれは、ほぼ十年ぶりに顔をまともに出したPVです(昔、和車が録ってくれた「post coda」以来。そのときは鴨川沿いだった)。撮影は代々木公園、監督はParanelくん、出演は午後の公園を楽しむ皆さん、FRAGMENTのクッシーさんも友情出演してくれました。とても気持ちのいい日だったと覚えています。
September 14, 2011
Wild Thing's Arm
遠い風の匂いが一瞬 わたしたちを捉える
雷鳴 そして激しい雨 草原に吠える夏の暗い影
水かきを持たない陸の獣たちが獲物の夢を見る大洪水の前夜
大切なものがいったい何だったのか かれらは果たして覚えているだろうか
あるいは ついぞ知ることもなく 季節の深い袖に沈んでしまうのかもしれないがー
それでも言わなければらない
わたしがきみに贈るのは 金の首飾りではなく 飼いならされた日々の首輪でもなく
たとえば 燃えるようなたてがみの獅子が貪欲に今日を追いかけたその眼差し
たとえば 追いすがる豹を突き放し 明日に辿りつくまで走ったガゼルの足音
たとえば 分厚く立ちこめる雨雲の向こう側 やがて一斉に芽吹くだろう あの青い空の胞子たち
首に掛けるのものは ときに早く ときに静かに波打つ 自分の呼吸ひとつでよい
さあ それらすべてを携えて ゆけ
嵐を越え 夜を越えて あの美しい朝焼けに頬を染めるまで
きみが腕を横たえる場所は いまからこのちっぽけな牧場の外になる
たとえどんな危険も 恐れも 生きることの魅力には抗えないのだから
(9/3 京都METROにてSchroeder-Headz "Wild Thing's Arm"に載せて読んだ詩を、すこし推敲しました)
雷鳴 そして激しい雨 草原に吠える夏の暗い影
水かきを持たない陸の獣たちが獲物の夢を見る大洪水の前夜
大切なものがいったい何だったのか かれらは果たして覚えているだろうか
あるいは ついぞ知ることもなく 季節の深い袖に沈んでしまうのかもしれないがー
それでも言わなければらない
わたしがきみに贈るのは 金の首飾りではなく 飼いならされた日々の首輪でもなく
たとえば 燃えるようなたてがみの獅子が貪欲に今日を追いかけたその眼差し
たとえば 追いすがる豹を突き放し 明日に辿りつくまで走ったガゼルの足音
たとえば 分厚く立ちこめる雨雲の向こう側 やがて一斉に芽吹くだろう あの青い空の胞子たち
首に掛けるのものは ときに早く ときに静かに波打つ 自分の呼吸ひとつでよい
さあ それらすべてを携えて ゆけ
嵐を越え 夜を越えて あの美しい朝焼けに頬を染めるまで
きみが腕を横たえる場所は いまからこのちっぽけな牧場の外になる
たとえどんな危険も 恐れも 生きることの魅力には抗えないのだから
(9/3 京都METROにてSchroeder-Headz "Wild Thing's Arm"に載せて読んだ詩を、すこし推敲しました)
August 26, 2011
セブン
西洞院釜座通の「セブン」という喫茶店がとても好きで、わりと頻繁に通っていた。
背の高いおじいちゃんがひとりでやっているお店で、メニューはコーヒーとカフェオレしかない。そのかわり、かならずキャンディ型のチョコレートが二つ、ついてきた。気取らない味が好きで、打ち合わせのときは大体この店を使った。
なんとなく店主も覚えてくれたのか、「干し柿たべるか?」とか、「煎餅、あげるわ」とか、ボーナスのお茶請けを(けっしてコーヒーに合うとは限らないものまで)くれた。
今年に入って、店主がなくなった。脳梗塞だか心筋梗塞だか、急に倒れたらしい。驚いた。前日まで営業をしていて、たしかその日曜日には雑誌か何かの撮影が来ていて、窓際でレフ板が広げられる景色にも、この老店主はまったく意に介さないまま、常連客と話しこんでいたのだ(たぶん、競馬のことだ。あの店にはいつも競馬好きが集まっていた)。
お店は閉まり、取り壊されるとばかり思っていた。
ところが、あのお店のあとにも、また喫茶店ができるるらしい。買ったのか、借りたのか、わからないけれど、とにかく、息子さんが「この店の内装をそのままにする」ということを条件に、不動産屋さんに出したのだそうだ。
しかも、それに手を上げたのは知り合いだった。月曜日の昼、工事の途中のお店から「ゆーきゃん!」と呼び止める声がしたので、なにごとかと思って振り向くと、「サンシロウさん」とぼくらが呼んでいる彼だった。9月1日オープンらしい。ふと軒を見上げると、扉の上に、一度はがされた「COFFEE]の文字が並ぶ。セブンのときと同じフォントだ。
伝染沿いに掲げられる自動灯の看板は、まだ、というか、確信を持ってなお「セブン」だった(お店の名前には、別の名前が予定されている)。
ぼくはこの店に、やっぱり足しげく通うと思う。もう干し柿が出てこなくて、カウンターから競馬の予想を持ちかけられることもなくて、コーヒー以外のメニューが増えて、一杯350円のシンプルなコーヒーを飲めなくなり、店名が変わっても、半ば家具の配置もそのままなセブンをしのび、なかばこの新しい店を楽しみむために、あるいはただコーヒーが飲みたいがために、お店に入って、東の窓際、Salyuのサインがおかれていた壁の傍らのテーブルに、腰掛けることはやめないと思う。すくなくとも、押小路通の上空3メートルほどに掲げられた光るパネルの名前が「セブン(ダートコーヒー)」である限りは。
背の高いおじいちゃんがひとりでやっているお店で、メニューはコーヒーとカフェオレしかない。そのかわり、かならずキャンディ型のチョコレートが二つ、ついてきた。気取らない味が好きで、打ち合わせのときは大体この店を使った。
なんとなく店主も覚えてくれたのか、「干し柿たべるか?」とか、「煎餅、あげるわ」とか、ボーナスのお茶請けを(けっしてコーヒーに合うとは限らないものまで)くれた。
今年に入って、店主がなくなった。脳梗塞だか心筋梗塞だか、急に倒れたらしい。驚いた。前日まで営業をしていて、たしかその日曜日には雑誌か何かの撮影が来ていて、窓際でレフ板が広げられる景色にも、この老店主はまったく意に介さないまま、常連客と話しこんでいたのだ(たぶん、競馬のことだ。あの店にはいつも競馬好きが集まっていた)。
お店は閉まり、取り壊されるとばかり思っていた。
ところが、あのお店のあとにも、また喫茶店ができるるらしい。買ったのか、借りたのか、わからないけれど、とにかく、息子さんが「この店の内装をそのままにする」ということを条件に、不動産屋さんに出したのだそうだ。
しかも、それに手を上げたのは知り合いだった。月曜日の昼、工事の途中のお店から「ゆーきゃん!」と呼び止める声がしたので、なにごとかと思って振り向くと、「サンシロウさん」とぼくらが呼んでいる彼だった。9月1日オープンらしい。ふと軒を見上げると、扉の上に、一度はがされた「COFFEE]の文字が並ぶ。セブンのときと同じフォントだ。
伝染沿いに掲げられる自動灯の看板は、まだ、というか、確信を持ってなお「セブン」だった(お店の名前には、別の名前が予定されている)。
ぼくはこの店に、やっぱり足しげく通うと思う。もう干し柿が出てこなくて、カウンターから競馬の予想を持ちかけられることもなくて、コーヒー以外のメニューが増えて、一杯350円のシンプルなコーヒーを飲めなくなり、店名が変わっても、半ば家具の配置もそのままなセブンをしのび、なかばこの新しい店を楽しみむために、あるいはただコーヒーが飲みたいがために、お店に入って、東の窓際、Salyuのサインがおかれていた壁の傍らのテーブルに、腰掛けることはやめないと思う。すくなくとも、押小路通の上空3メートルほどに掲げられた光るパネルの名前が「セブン(ダートコーヒー)」である限りは。
August 02, 2011
犬も歩けば
ボロフェスタ関係の用事で、セカンドロイヤルの事務所へ行ったのですが、小山内くんやターンテーブル・フィルムズの井上くんと話しているうちに、なんだかまたちょっと面白い企てに混ぜてもらえそうです。これは来週くらいには詳しく書けるかも。(最近ここで書くことは、決まったけれどまだ話せない、みたいな中途半端な秘密ばかりですが…)
とりあえずは明後日のlete、田代君にもベースを弾いてもらいます。お時間ある方はぜひいらしてください。東京では西院フェスに向けてエマーソン北村さんとスタジオに入り、PVの撮影をする予定です。その間、ボロフェスタの第二弾発表もあります。
あ、それからお盆のあいだ京都に居るかた、いらっしゃる方は、ぜひこちらへ。面白い、そしてとても意義深いことが。
http://www.metro.ne.jp/schedule/2011/08/15/index.html#event01
とりあえずは明後日のlete、田代君にもベースを弾いてもらいます。お時間ある方はぜひいらしてください。東京では西院フェスに向けてエマーソン北村さんとスタジオに入り、PVの撮影をする予定です。その間、ボロフェスタの第二弾発表もあります。
あ、それからお盆のあいだ京都に居るかた、いらっしゃる方は、ぜひこちらへ。面白い、そしてとても意義深いことが。
http://www.metro.ne.jp/schedule/2011/08/15/index.html#event01
July 29, 2011
覚えがき
祝祭は、そこに加わる誰かのうち、
たったひとりが永遠に終わってほしくないと思えば、永遠に続くべきだと思う。
ただし、だれもが或る瞬間に突然、参加者としての権利を失うことがあること、
どんなに望まれた祝祭でも、永遠に続くことはない、ということ、
このふたつを、忘れてはいけない。
(とあるパーティの終わりに)
たったひとりが永遠に終わってほしくないと思えば、永遠に続くべきだと思う。
ただし、だれもが或る瞬間に突然、参加者としての権利を失うことがあること、
どんなに望まれた祝祭でも、永遠に続くことはない、ということ、
このふたつを、忘れてはいけない。
(とあるパーティの終わりに)
July 07, 2011
覚書
ことばの反動について。
大臣が知事にぞんざいな口を利き、新聞社に緘口令を出したのをテレビにすっぱ抜かれ、職を失った。その口調や態度が失脚の原因となったわけだけれど、その能力や資質はさておき、結局はその会談というもので彼が何を伝えたかったのか、わからなくなってしまった。何をしに行ったのだろう?
一説には、知事が立てている復興計画が東京のシンクタンクに頼りっきりで、地元を無視しているということに、大臣が苛立っていたのだというが、その場で苛立ちを伝えることには成功しても、その対価はあまりにも大きかったといわざるを得ない。
ぼくは、最近古本屋で一冊100円で買った本で読んだ、火縄銃のことを思い出す。
この原始的な銃は、引き金を動かすときの反動が大きすぎて「引く」などしては、まともに狙いを撃つことなどできないのだそうだ。「月夜に霜のふるごとく」そっと引き金を「落とす」のが、こつらしい。
そういえばUstreamで見た東京電力の株主総会のときもそうだった。個人株主たちは、めいめい怒りと憤りをもって引き金をやたらめったら引いたが、人でなしの会長はうるさげな顔ひとつせず、ただ立っていた。どんな弾がどんな風に飛んでくるのか、もうはじめから十分知っていたにちがいない(大株主からの委任状を持っているから、個人株主の挙手には意味がないと言ったときには、さすがにぼくも頭に血が上ったけれど)。
あの場で訴えられ、問いかけられ、叫びにすらなった株主たちのことばには、実は二種類あると思っている。どちらのことばも聴衆を鼓舞し、脱原発への意思を明確にさせる力は持っていたはずだが、それだけではなくて、話し手の怒りをさらに掻き立てるだけだったり、自己顕示欲や演説欲を満たすだけだったりすることばも、幾人かの質問者の口調には含まれていた。その演説の響きは、的に向けての射撃そのものというよりは、ただの発語にともなう反動でしかないように聞こえた。画面のこっち側で聞いていて、それが一番もどかしかったのだ。
たぶん、ことばを発するときには、絶えず反動がある。反動が大きいと、的を得ることはできない。ときには反動がぼくらを迷わせ、奪い取ってゆく。ことばに奪われるのもときには悪くないが(だって気持ちいいもの。ことばに酔った経験は、たいていの人ならあるんじゃないかな)、ほんとうにひとや物事を動かそうとするとき、困難を解決しようとするときには、ことばに奪われていては何も始まらない。ことば自体と、意図との摩擦をできるだけ減らさなくては。
ところで大臣、というか政治家は、もともとはことばひとつで社会を動かしているのではなかったか。「舌先三寸」で国を滅亡から救った宰相が昔の中国には居た気がするのだけれど、口げんかに負け、インタビューにもまともに受け答えできず、ラジオで放送事故を起こしそうになるぼくなんかと同程度の酷さで「ことば」に振り回されっぱなしの偉い人たちの姿を見て、正直なところ、戸惑いと不安を隠せないでいる。子供のころから思っていた「偉い人たち」なんて、はじめっから、いなかったんだ、と。
ことばを使いこなしていると信じているから、そんなことになるのだろうか。使いこなしているつもりでいて、結局は振り回され、つまずき、奪われて、言いたかったはずのことも失言や見え透いたその場限りのうそに変わり、議論のように見える茶番めいた揚げ足取りになり、条文に文言ひとつを入れるか入れないかでその魂まで変わってしまう、それもこれも、ことばの反動であり、副作用であり、もっと言えば復讐なのではないだろうか。
ことばをつむいで暮らしている者として、日々身につまされることが多い。ツイッターのタイムラインを猛烈な速さで流れてゆく140文字を見ながら、ぼくはしばしばことばが怖ろしくなり、(これはとても奇妙なことだが)同時に猛烈に自分も何かを話したくなる。いや、何かに狙いを定めて撃つのではなくて、やみくもにでたらめに、砂がこぼれ落ちるみたいにざーっとぶちまけたい、というだけなので、たとえば今日のこの文章みたいないい加減なものになってしまうのだけれど。
ただ、仕事の関係もあり一日中ツイッターばかり見ていた日に、ひとつだけはっきりしたことがある。つまり、ぼくらはときに、ことばを越えて生きていかなくてはならないということだ。あるいは、話すだけでは示せないことを、示そうとする努力が必要だ、ということ。
火縄銃あるいは「ことば」だけでは、けしてかなわないことがある。ことばに、大地を耕し、花を育て、魚をすなどり、誰かを抱きしめることはできない。ことばは、それらの「行動」に憧れ、そうできない現実に身もだえしながら自分を磨く、その憧れの分だけ強さと美しさを持つ(すくなくともぼくはそう思う)。ことばの、そのやるせない美しさや強さを、ぼくは信じている。でも、ことばを追いかけてゆく過程で、いつも、その限界や、断崖や、亀裂を見てしまい、そこで立ち止まってしまうのも確かだ。
3月11日以降(いや、ほんとうはその前からずっとそうだったのだろう)、ぼくらに求められているのは、きっとその「ことば」の果てから飛ぶこと。ことばを信じ、たずさえ、その一方でことばを信じず、裏切られることも覚悟の上で、置いてけぼりにして、ことばが属する「声」と「体」そのものを動かしてゆくこと。
もちろん、声にも体にも行動にも、反動はある。叫ぶことはのどを傷つけることだし、走ることは筋肉を傷つけること、アスファルトを削り取ること、草木を踏みにじることだってあるかもしれない。ただし、ことばと違うのは、その行動はかならず自分の身を毀ち、ゆがめて、為されるということだ。
たぶんぼくはもう、「ことば」だけで生きることは、できないだろう。汗を流したり、足をくじいたり、蚊に刺されたり雨にぬれすぎて風邪をひいたりしながら、歌い、叩き、踊り、歩いて、ゆかなくてはならない。それはとても(まさにここに書いていることばの範囲を超えて)面倒くさいし、気持ち悪いし、格好わるいことだ。でも、仕方ないよね。自分で打ち立てたかりそめの神話、その神話を組み立てることばとの蜜月(のようにぼくらは勝手に思っていた)が終わってしまったんだもの。
大臣が知事にぞんざいな口を利き、新聞社に緘口令を出したのをテレビにすっぱ抜かれ、職を失った。その口調や態度が失脚の原因となったわけだけれど、その能力や資質はさておき、結局はその会談というもので彼が何を伝えたかったのか、わからなくなってしまった。何をしに行ったのだろう?
一説には、知事が立てている復興計画が東京のシンクタンクに頼りっきりで、地元を無視しているということに、大臣が苛立っていたのだというが、その場で苛立ちを伝えることには成功しても、その対価はあまりにも大きかったといわざるを得ない。
ぼくは、最近古本屋で一冊100円で買った本で読んだ、火縄銃のことを思い出す。
この原始的な銃は、引き金を動かすときの反動が大きすぎて「引く」などしては、まともに狙いを撃つことなどできないのだそうだ。「月夜に霜のふるごとく」そっと引き金を「落とす」のが、こつらしい。
そういえばUstreamで見た東京電力の株主総会のときもそうだった。個人株主たちは、めいめい怒りと憤りをもって引き金をやたらめったら引いたが、人でなしの会長はうるさげな顔ひとつせず、ただ立っていた。どんな弾がどんな風に飛んでくるのか、もうはじめから十分知っていたにちがいない(大株主からの委任状を持っているから、個人株主の挙手には意味がないと言ったときには、さすがにぼくも頭に血が上ったけれど)。
あの場で訴えられ、問いかけられ、叫びにすらなった株主たちのことばには、実は二種類あると思っている。どちらのことばも聴衆を鼓舞し、脱原発への意思を明確にさせる力は持っていたはずだが、それだけではなくて、話し手の怒りをさらに掻き立てるだけだったり、自己顕示欲や演説欲を満たすだけだったりすることばも、幾人かの質問者の口調には含まれていた。その演説の響きは、的に向けての射撃そのものというよりは、ただの発語にともなう反動でしかないように聞こえた。画面のこっち側で聞いていて、それが一番もどかしかったのだ。
たぶん、ことばを発するときには、絶えず反動がある。反動が大きいと、的を得ることはできない。ときには反動がぼくらを迷わせ、奪い取ってゆく。ことばに奪われるのもときには悪くないが(だって気持ちいいもの。ことばに酔った経験は、たいていの人ならあるんじゃないかな)、ほんとうにひとや物事を動かそうとするとき、困難を解決しようとするときには、ことばに奪われていては何も始まらない。ことば自体と、意図との摩擦をできるだけ減らさなくては。
ところで大臣、というか政治家は、もともとはことばひとつで社会を動かしているのではなかったか。「舌先三寸」で国を滅亡から救った宰相が昔の中国には居た気がするのだけれど、口げんかに負け、インタビューにもまともに受け答えできず、ラジオで放送事故を起こしそうになるぼくなんかと同程度の酷さで「ことば」に振り回されっぱなしの偉い人たちの姿を見て、正直なところ、戸惑いと不安を隠せないでいる。子供のころから思っていた「偉い人たち」なんて、はじめっから、いなかったんだ、と。
ことばを使いこなしていると信じているから、そんなことになるのだろうか。使いこなしているつもりでいて、結局は振り回され、つまずき、奪われて、言いたかったはずのことも失言や見え透いたその場限りのうそに変わり、議論のように見える茶番めいた揚げ足取りになり、条文に文言ひとつを入れるか入れないかでその魂まで変わってしまう、それもこれも、ことばの反動であり、副作用であり、もっと言えば復讐なのではないだろうか。
ことばをつむいで暮らしている者として、日々身につまされることが多い。ツイッターのタイムラインを猛烈な速さで流れてゆく140文字を見ながら、ぼくはしばしばことばが怖ろしくなり、(これはとても奇妙なことだが)同時に猛烈に自分も何かを話したくなる。いや、何かに狙いを定めて撃つのではなくて、やみくもにでたらめに、砂がこぼれ落ちるみたいにざーっとぶちまけたい、というだけなので、たとえば今日のこの文章みたいないい加減なものになってしまうのだけれど。
ただ、仕事の関係もあり一日中ツイッターばかり見ていた日に、ひとつだけはっきりしたことがある。つまり、ぼくらはときに、ことばを越えて生きていかなくてはならないということだ。あるいは、話すだけでは示せないことを、示そうとする努力が必要だ、ということ。
火縄銃あるいは「ことば」だけでは、けしてかなわないことがある。ことばに、大地を耕し、花を育て、魚をすなどり、誰かを抱きしめることはできない。ことばは、それらの「行動」に憧れ、そうできない現実に身もだえしながら自分を磨く、その憧れの分だけ強さと美しさを持つ(すくなくともぼくはそう思う)。ことばの、そのやるせない美しさや強さを、ぼくは信じている。でも、ことばを追いかけてゆく過程で、いつも、その限界や、断崖や、亀裂を見てしまい、そこで立ち止まってしまうのも確かだ。
3月11日以降(いや、ほんとうはその前からずっとそうだったのだろう)、ぼくらに求められているのは、きっとその「ことば」の果てから飛ぶこと。ことばを信じ、たずさえ、その一方でことばを信じず、裏切られることも覚悟の上で、置いてけぼりにして、ことばが属する「声」と「体」そのものを動かしてゆくこと。
もちろん、声にも体にも行動にも、反動はある。叫ぶことはのどを傷つけることだし、走ることは筋肉を傷つけること、アスファルトを削り取ること、草木を踏みにじることだってあるかもしれない。ただし、ことばと違うのは、その行動はかならず自分の身を毀ち、ゆがめて、為されるということだ。
たぶんぼくはもう、「ことば」だけで生きることは、できないだろう。汗を流したり、足をくじいたり、蚊に刺されたり雨にぬれすぎて風邪をひいたりしながら、歌い、叩き、踊り、歩いて、ゆかなくてはならない。それはとても(まさにここに書いていることばの範囲を超えて)面倒くさいし、気持ち悪いし、格好わるいことだ。でも、仕方ないよね。自分で打ち立てたかりそめの神話、その神話を組み立てることばとの蜜月(のようにぼくらは勝手に思っていた)が終わってしまったんだもの。
June 15, 2011
スナップ
午前十時を少し回ったばかりの新宿駅東口に、幾組かの親子連れが歩いていた。ベビーカーを押したり、娘のて引いて信号が変わるのを待ったり、しゃがみこんで息子と話したり、どの親子も若かった。急ぎがちの靴音が街を埋め尽くすあさのラッシュアワーも終わり、もういちどビルが会社員や従業員たちを一斉に吐き出す正午までにはまだ間があり、通りには弱い風が吹いていた。たぶん心地よい部類に入る、でも六月らしい湿気も含んだその風を受けて、横断歩道のいちばん手前には、軽やかな髪をふわふわと揺らす男の子がひとり。隣に並んだ母親の回りをくるくると回り、信号機が青になるまでの時間を数え、白い部分を飛び越しながら向こうへ行ってしまった。そのあとを、風は追うようにして進路を変え、見とれていたせいで、ぼくは青信号を渡りそびれてしまう。その瞬間に、ほんとうに大事なものは、目に見えないんだよと言ったあのひとのことばがあらゆる色合いを帯びて頭上に落ちてきた。いや、でも今日はきっとすこし違う。正しくは「うつくしいものも、恐ろしいものも、大事なものも、憎むべきものも、ほんとうのことは、いつだって目に見えない。けれど、それらはかならず目に見えるものと隣合い、あるいは目に見えるものの中に隠され、ときには目に見えるものから放たれることもある」そう言わなくてはならないだろう。こどもたちだけでなく、ぼくらには覚えるべきことが日々増えてゆく。もの凄い速さで。人類よ、日本人よ、わたしよ、どうか学べ。
May 14, 2011
うさぎの涙
ミッフィーの生誕55周年を記念した展覧会へ行ってきた。
ぼくは、このうさぎの女の子が好きで、一時期は手帳も赤のうさこちゃんだったくらいだ(笑う友人が幾人もいたが、一年のあいだ意地と愛着で使い続けた)。ひょんなことから招待券をもらい、改装されたばかりの大丸梅田店の十五階にあるちいさなミュージアムに、ひとりで足を向けたのだった。
親子連れとバッティングしないよう平日の昼下がりを選んたのだけれど、予想を超えて客層は多彩だった。女性グループ、男女二人組、家族連れ、ブルーナさんによく似たおじいさんがひとり、ゆっくりと展示を見て回っていたりもした。
原画やデッサン、絵本に採用されなかったカットが制作時期に沿ってずらっと並んでいた。途中のモニターでは、ブルーナさんにインタビューした映像が流れていた。さらっとした語り口の中にいろいろ感銘を受ける事柄があったけれど、なかでも印象に残ったのは、先人たちに影響を受けまた次の世代に影響を及ぼしてゆく、そのサイクルの中に自分が居ると知ったときに感じる喜びについて、彼が話している短いシーンだった。
この八十歳を過ぎた現役画家は、黒のポスターカラーで丁寧に丁寧に線を描き続け、描き続けて今に至る。さらに今もなお、「これまでよりほんのちょっと、よく」ということを考え続けているのだそうだ。そしてその信条と、それを語る彼の眼差しのすばらしさを幾重にも飛び越えて、圧倒的な事実がある。それは、あのうさぎの絵本が、こんなにもたくさんのこどもに、おとなに、愛されているということだ。
泣くところなんて一つもなかったのだが。
展示の最後には、東日本大震災の知らせを受けて、ブルーナさんが描き下ろしたといううさこちゃんの絵が、そのニュースを掲載した新聞記事とともに掛けられていた。両目から大粒の涙をこぼすミッフィー。両目から涙を流したのは、大好きなおばあちゃんが亡くなったとき以来らしい。
ニッポンのために泣いてくれたミッフィー。それから2カ月、大地を汚し海を傷つけるニッポンのことはどう言うのだろうか。いや、それでも彼女は泣いてくれるだろう―ただしそれはニッポンのおとなではなく、きっとこどもたちのためだけだ。あるいは、もう彼女を泣かせてはいけないと言うべきだろうか。
なにはともあれ、うさこちゃんのことばかりを考えながら、帰りのラッシュアワーが始まった阪急電車にすし詰めになって揺られるぼくは、取り澄ました外見からは想像もつかない滑稽さだったと思う。
ぼくは、このうさぎの女の子が好きで、一時期は手帳も赤のうさこちゃんだったくらいだ(笑う友人が幾人もいたが、一年のあいだ意地と愛着で使い続けた)。ひょんなことから招待券をもらい、改装されたばかりの大丸梅田店の十五階にあるちいさなミュージアムに、ひとりで足を向けたのだった。
親子連れとバッティングしないよう平日の昼下がりを選んたのだけれど、予想を超えて客層は多彩だった。女性グループ、男女二人組、家族連れ、ブルーナさんによく似たおじいさんがひとり、ゆっくりと展示を見て回っていたりもした。
原画やデッサン、絵本に採用されなかったカットが制作時期に沿ってずらっと並んでいた。途中のモニターでは、ブルーナさんにインタビューした映像が流れていた。さらっとした語り口の中にいろいろ感銘を受ける事柄があったけれど、なかでも印象に残ったのは、先人たちに影響を受けまた次の世代に影響を及ぼしてゆく、そのサイクルの中に自分が居ると知ったときに感じる喜びについて、彼が話している短いシーンだった。
この八十歳を過ぎた現役画家は、黒のポスターカラーで丁寧に丁寧に線を描き続け、描き続けて今に至る。さらに今もなお、「これまでよりほんのちょっと、よく」ということを考え続けているのだそうだ。そしてその信条と、それを語る彼の眼差しのすばらしさを幾重にも飛び越えて、圧倒的な事実がある。それは、あのうさぎの絵本が、こんなにもたくさんのこどもに、おとなに、愛されているということだ。
泣くところなんて一つもなかったのだが。
展示の最後には、東日本大震災の知らせを受けて、ブルーナさんが描き下ろしたといううさこちゃんの絵が、そのニュースを掲載した新聞記事とともに掛けられていた。両目から大粒の涙をこぼすミッフィー。両目から涙を流したのは、大好きなおばあちゃんが亡くなったとき以来らしい。
ニッポンのために泣いてくれたミッフィー。それから2カ月、大地を汚し海を傷つけるニッポンのことはどう言うのだろうか。いや、それでも彼女は泣いてくれるだろう―ただしそれはニッポンのおとなではなく、きっとこどもたちのためだけだ。あるいは、もう彼女を泣かせてはいけないと言うべきだろうか。
なにはともあれ、うさこちゃんのことばかりを考えながら、帰りのラッシュアワーが始まった阪急電車にすし詰めになって揺られるぼくは、取り澄ました外見からは想像もつかない滑稽さだったと思う。
May 11, 2011
最後の科学
都立家政駅から南へ少し行った古本屋の店外に出された特価品の棚。まぼろしの健康法や二流の処世術の本に混じって、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」が並んでいた。
裏表紙の中ごろ、チャンドラーのモノクロの写真の下には百円の値札シール。ハードボイルドの金字塔がすぐ隣の自販機のサービス価格で売られていたペプシコーラと同じ値段だということに、そのときはなんともいえない可笑しさと悲しさを覚えたのだが、いまさらチャンドラーを読むだろうかと半信半疑でレジに持っていったその本を、それから一年のちのいま、夢中になって読んでいる。探偵だけに、わたしたちの窓から忍び込むのはたやすい、ということだろうか。
それはそうと、いつか大学のアメリカ文学講義の時間で、この話の最後にマーロウが語ることばについて教わった。講義の内容はとっくに忘れてしまったのだが、なぜかそのセンテンスだけはまだ覚えていた。読み始めるその前に、真っ先にいちばん後ろのページを開いて確かめたのだ。
「警官にさよらなを言う方法は、いまだ発見されていない」
折しもぼくのツイッターのTL上で飛び交っていたのは、日曜日に渋谷であったデモのYOUTUBE映像(逮捕者が出たらしい)の短縮アドレスと、ウガンダで成立しようとしている同性愛者を死刑にできる法律を阻止する署名への呼びかけについてのRT。―いや、これはシンクロニシティではない。さらば愛しき女よはもちろん、悲しみにさよならもさよならアメリカもニッポンもさらば地球よ緑の大地もその猫や友達やポニーテールや他あらゆるものに別れを言えるようになったとして、いつもふいに曲がり角から現れるあの謎の正義の仮面にさよなら、もう現れなくていいよと告げられるのはいつなんだろう。
裏表紙の中ごろ、チャンドラーのモノクロの写真の下には百円の値札シール。ハードボイルドの金字塔がすぐ隣の自販機のサービス価格で売られていたペプシコーラと同じ値段だということに、そのときはなんともいえない可笑しさと悲しさを覚えたのだが、いまさらチャンドラーを読むだろうかと半信半疑でレジに持っていったその本を、それから一年のちのいま、夢中になって読んでいる。探偵だけに、わたしたちの窓から忍び込むのはたやすい、ということだろうか。
それはそうと、いつか大学のアメリカ文学講義の時間で、この話の最後にマーロウが語ることばについて教わった。講義の内容はとっくに忘れてしまったのだが、なぜかそのセンテンスだけはまだ覚えていた。読み始めるその前に、真っ先にいちばん後ろのページを開いて確かめたのだ。
「警官にさよらなを言う方法は、いまだ発見されていない」
折しもぼくのツイッターのTL上で飛び交っていたのは、日曜日に渋谷であったデモのYOUTUBE映像(逮捕者が出たらしい)の短縮アドレスと、ウガンダで成立しようとしている同性愛者を死刑にできる法律を阻止する署名への呼びかけについてのRT。―いや、これはシンクロニシティではない。さらば愛しき女よはもちろん、悲しみにさよならもさよならアメリカもニッポンもさらば地球よ緑の大地もその猫や友達やポニーテールや他あらゆるものに別れを言えるようになったとして、いつもふいに曲がり角から現れるあの謎の正義の仮面にさよなら、もう現れなくていいよと告げられるのはいつなんだろう。
April 30, 2011
無題
覚書程度に。
弱さを、そこから逃げられないものだと思ってきた。
人間は弱く、弱いがゆえに醜く汚く、また美しいものだと。
人間は弱く、だからこそかけがえがないのだと。
たとえば他人の命と自分の生活を天秤にかけ、何かに目を瞑ってしまうこと。
たとえば乏しさと共にある平穏を、豊かさにすり替えるために、すべてを打ち壊してしまうこと。
たとえば成長、たとえば繁栄、そういう漠然とした大きなことばに、あっけないほど簡単に飲みこまれてしまうのは、弱さゆえに仕方がないのかもしれない―
だが、仕方がないとしても、次にすべきことは何なのだろう。
許すことと、許さないことの境目はどこにあるのだろう。
醜さや、汚さや、欠損や、欺瞞には、
憎み乗り越えるべき類のものと、許し共に生きるべき類のもの、
そしてその類別の間に浮遊する曖昧で未確定なものがあるように思える。
わたしたちは、わたしたちの弱さがどこに潜んでいるのか、知らなくてはならない。
それがこの瞬間に断罪すべきことなのか、あるいは寛容であるべきことなのか、
つねに確かめながら、確かめ合いながら、歩いていかなくてはならない。
お互いの弱さや、自分の弱さと対話することには、
どうしようもない恥ずかしさと痛みが伴うけれど、
そうしなくては、きっと生きられない季節がやって来つつあるように思える。
自分たちの後に、当たり前のように続くと思っていた未来は、来ないように思える。
(つづくかもしれない、つづかないかもしれない。
ノートに書いた文章はすぐになくしてしまうので、ここに)
弱さを、そこから逃げられないものだと思ってきた。
人間は弱く、弱いがゆえに醜く汚く、また美しいものだと。
人間は弱く、だからこそかけがえがないのだと。
たとえば他人の命と自分の生活を天秤にかけ、何かに目を瞑ってしまうこと。
たとえば乏しさと共にある平穏を、豊かさにすり替えるために、すべてを打ち壊してしまうこと。
たとえば成長、たとえば繁栄、そういう漠然とした大きなことばに、あっけないほど簡単に飲みこまれてしまうのは、弱さゆえに仕方がないのかもしれない―
だが、仕方がないとしても、次にすべきことは何なのだろう。
許すことと、許さないことの境目はどこにあるのだろう。
醜さや、汚さや、欠損や、欺瞞には、
憎み乗り越えるべき類のものと、許し共に生きるべき類のもの、
そしてその類別の間に浮遊する曖昧で未確定なものがあるように思える。
わたしたちは、わたしたちの弱さがどこに潜んでいるのか、知らなくてはならない。
それがこの瞬間に断罪すべきことなのか、あるいは寛容であるべきことなのか、
つねに確かめながら、確かめ合いながら、歩いていかなくてはならない。
お互いの弱さや、自分の弱さと対話することには、
どうしようもない恥ずかしさと痛みが伴うけれど、
そうしなくては、きっと生きられない季節がやって来つつあるように思える。
自分たちの後に、当たり前のように続くと思っていた未来は、来ないように思える。
(つづくかもしれない、つづかないかもしれない。
ノートに書いた文章はすぐになくしてしまうので、ここに)
December 23, 2010
都市の足許
東京は、駅前の商店街が、よい。とりわけ、石畳のある通りが好きだ。
自動車が一台やっとすれ違えるくらいの幅、アスファルトではなく石畳で舗装された道路、水銀灯の一本一本に商店街の旗が掲げられて、電柱のあいだを張り巡らされた電線が生きている街を証しているように見える。その下にはさほど個性のあるわけでもない、けれどだからこそ胸を張って八百屋らしい八百屋、同じように荒物屋らしい荒物屋、そば屋らしいそば屋...そのどれもが、これまた駅然とした駅を起点として、東西にあるいは南北に続く。歯医者帰りの老人、スタジオに向かうバンドマン、犬の散歩をするおばさん、石畳が気分を軽くくしているのだろうか、右側通行も何もなくめいめいが道の真ん中を、左側を、思い思いのスピードで歩いてはすれ違ってゆく。
とくにこの時期は、ひとがただ歩くだけで巻き上がる、圧倒的な「押し迫りの空気」が何とも言えす面白い。遠回りでも、さしたる用事がなくても、わざとこういった石畳の商店街を道筋に選んでみたりしたくなる。魚屋の軒には伊達巻きや昆布巻きといったおせちの具の名を連ねた張り紙、なぜ?と思うような街の靴屋でも突然の大売り出し、やたら大きな紙袋を抱えた人が増え、歳末商戦という単語が別に大きなデパートのためだけにあるのではないのだと知った。
だが、いくら人の多い東京といえ、どこもかしこも賑わいというわけではない。日常があちこちで軽快にざわめく通りを抜けて、石畳の終わりに差しかかるとき、そこから始まるアスファルトの上になんとも言えない寂しさが落ちているのを感じないか。偶然その傍らに空きテナントの張り紙を見つけたりしてしまうと、さらにその寂しさは路面から立ち上がって見えてくる。
不思議なことに、石畳のあるあいだに見かけた空き店舗にはそれほどの寂しさを覚えない。また、たとえばさほど人通りのない時間―たとえば早朝にも、石畳には押し迫った気分が抜けずに残っているように思える。舗装ひとつで、どうしてこんなに街の景色が、空気が変わるのだろう。京都では、祇園や西陣や先斗町といった地名自体に大きな意味のあるところで舗装を変えているケースが多いが、むしろ、街中に散らばる駅たちからめいめいに伸びるメインストリートで石畳を敷き詰めているこの東京という都市においてこそ、舗装の持つ力がはっきりと分かったような気がする。今日はどの通りを行くのだろうか。
自動車が一台やっとすれ違えるくらいの幅、アスファルトではなく石畳で舗装された道路、水銀灯の一本一本に商店街の旗が掲げられて、電柱のあいだを張り巡らされた電線が生きている街を証しているように見える。その下にはさほど個性のあるわけでもない、けれどだからこそ胸を張って八百屋らしい八百屋、同じように荒物屋らしい荒物屋、そば屋らしいそば屋...そのどれもが、これまた駅然とした駅を起点として、東西にあるいは南北に続く。歯医者帰りの老人、スタジオに向かうバンドマン、犬の散歩をするおばさん、石畳が気分を軽くくしているのだろうか、右側通行も何もなくめいめいが道の真ん中を、左側を、思い思いのスピードで歩いてはすれ違ってゆく。
とくにこの時期は、ひとがただ歩くだけで巻き上がる、圧倒的な「押し迫りの空気」が何とも言えす面白い。遠回りでも、さしたる用事がなくても、わざとこういった石畳の商店街を道筋に選んでみたりしたくなる。魚屋の軒には伊達巻きや昆布巻きといったおせちの具の名を連ねた張り紙、なぜ?と思うような街の靴屋でも突然の大売り出し、やたら大きな紙袋を抱えた人が増え、歳末商戦という単語が別に大きなデパートのためだけにあるのではないのだと知った。
だが、いくら人の多い東京といえ、どこもかしこも賑わいというわけではない。日常があちこちで軽快にざわめく通りを抜けて、石畳の終わりに差しかかるとき、そこから始まるアスファルトの上になんとも言えない寂しさが落ちているのを感じないか。偶然その傍らに空きテナントの張り紙を見つけたりしてしまうと、さらにその寂しさは路面から立ち上がって見えてくる。
不思議なことに、石畳のあるあいだに見かけた空き店舗にはそれほどの寂しさを覚えない。また、たとえばさほど人通りのない時間―たとえば早朝にも、石畳には押し迫った気分が抜けずに残っているように思える。舗装ひとつで、どうしてこんなに街の景色が、空気が変わるのだろう。京都では、祇園や西陣や先斗町といった地名自体に大きな意味のあるところで舗装を変えているケースが多いが、むしろ、街中に散らばる駅たちからめいめいに伸びるメインストリートで石畳を敷き詰めているこの東京という都市においてこそ、舗装の持つ力がはっきりと分かったような気がする。今日はどの通りを行くのだろうか。
December 03, 2010
霜月に葬る
街路樹の紅葉も、黄色い葉より枝が目立つようになってきた。もう十二月なのだ。
二年ぶりでその中に身を置いた京都の秋は、覚えているよりもさらに感情的だったように思う。丸太町の鴨川河川敷、金色に枯れた芝生から石積みのカーブを降りて、あんなにも水面に近づいたのはいったい何年ぶりだっただろうか。
東のほうに行くときはいつも京都御苑を横切ることにした。出町に用事があるのには、清和院御門のすこし前で左に折れ、木に囲まれた小径を抜けて、寺町今出川に出る。京都迎賓館のすぐ南東にある開けた一角には、だれかが意図して敷き詰めたのかと見間違うくらいの、一面の枯れ葉。そこから分け入ってゆくと、およそ街の真ん中らしくない木立がつづく。ここに来たばかりの頃、ちいさな居酒屋で働いていたことがあるのだけど、ある常連のお客さんが酔うといつも、京都の劣悪な住宅事情(ぼくは実際そういう家に住んだことがないのだけど、とにもかくにも彼はそう言っていた)をこの御苑のせいにしていたことを覚えている。街の真ん中にある庭があまりに広く街を占拠するので、庶民はこんなちっちゃな場所に木造三階建てのちっちゃな家を建てて満足せなあかん、というわけだ。でも、家に快適さを求めない貧乏書生気質にとっては、こんな街の真ん中にふと日常から乖離したスペースが広がっているほうが、ちょっとばかり部屋が広くなるよりもはるかにいい。何百年前には貴人を載せた牛車が行き来した砂利の大通りを、間の抜けた顔の子犬たちがちょこちょこと駈けてゆく眺め。なんとかの宮が住んでいた邸宅の傍らで、歩こう会のおっちゃんとおばちゃんたちがブルーシートを広げてお弁当を食べたりする眺め。まったく機能的ではないこういう場所が、権威と歴史を笠に着て、そのくせ妙に庶民的な姿で、平気な顔をして居座っているのはなんだか嬉しい。
でも、もうすぐに紅葉も散ってしまえば、これら憩いの景色を見られる機会もおそらく減ってしまうだろう。今年の冬はとくに寒くなるらしい。たとえば犬の散歩とランニングのためのコースと化した、人通りの疎らな御苑もまたいいけれど、まだ秋の名残があるうちは秋を精一杯に惜しみたいと思う。
二年ぶりでその中に身を置いた京都の秋は、覚えているよりもさらに感情的だったように思う。丸太町の鴨川河川敷、金色に枯れた芝生から石積みのカーブを降りて、あんなにも水面に近づいたのはいったい何年ぶりだっただろうか。
東のほうに行くときはいつも京都御苑を横切ることにした。出町に用事があるのには、清和院御門のすこし前で左に折れ、木に囲まれた小径を抜けて、寺町今出川に出る。京都迎賓館のすぐ南東にある開けた一角には、だれかが意図して敷き詰めたのかと見間違うくらいの、一面の枯れ葉。そこから分け入ってゆくと、およそ街の真ん中らしくない木立がつづく。ここに来たばかりの頃、ちいさな居酒屋で働いていたことがあるのだけど、ある常連のお客さんが酔うといつも、京都の劣悪な住宅事情(ぼくは実際そういう家に住んだことがないのだけど、とにもかくにも彼はそう言っていた)をこの御苑のせいにしていたことを覚えている。街の真ん中にある庭があまりに広く街を占拠するので、庶民はこんなちっちゃな場所に木造三階建てのちっちゃな家を建てて満足せなあかん、というわけだ。でも、家に快適さを求めない貧乏書生気質にとっては、こんな街の真ん中にふと日常から乖離したスペースが広がっているほうが、ちょっとばかり部屋が広くなるよりもはるかにいい。何百年前には貴人を載せた牛車が行き来した砂利の大通りを、間の抜けた顔の子犬たちがちょこちょこと駈けてゆく眺め。なんとかの宮が住んでいた邸宅の傍らで、歩こう会のおっちゃんとおばちゃんたちがブルーシートを広げてお弁当を食べたりする眺め。まったく機能的ではないこういう場所が、権威と歴史を笠に着て、そのくせ妙に庶民的な姿で、平気な顔をして居座っているのはなんだか嬉しい。
でも、もうすぐに紅葉も散ってしまえば、これら憩いの景色を見られる機会もおそらく減ってしまうだろう。今年の冬はとくに寒くなるらしい。たとえば犬の散歩とランニングのためのコースと化した、人通りの疎らな御苑もまたいいけれど、まだ秋の名残があるうちは秋を精一杯に惜しみたいと思う。
November 25, 2010
人生の午後
インフルエンザの予防接種に行く。外科で、整体院のようなこともやっていて、看護師さんがおばあちゃんに向かって「福本さん、きょうは電気(おそらく電気マッサージのことだろう)はあてますか?」と訊いているような医院。年配のお医者さんは陽気で、「いままで副作用が出たひとは三人くらいしかないです」だの「肩を出してください。腕の先のほうだと麻痺が残っちゃいますから」だのと言っては笑う。使い終わった注射器を、すこし離れたシンクに向かってぽーんと放り投げる。診察室とは別に処置室-というより唯のマッサージルームなのかもしれない-があり、くつろいだおじいちゃんたちの世間話がやたらと賑やかな医院。まるでバスの待合室のように雑多な人々が詰めるロビー、どこにも病んだ空気が流れていないその部屋の中で、会計待ち(なぜか15分程も待たされただろうか)の間に思わずうつらうつらしながら、ふと、不健康であることよりも、笑えなくなることや、優しさから遠のくことのほうが、人間にとって危ういのだと知った気がした。
November 21, 2010
もみじ
友人の結婚式の二次会の呼ばれたのだが、正装というものが分からず、着慣れないスーツでは心もとなかったので、ひさしぶりにパーマでもあててみれば何とか見栄えするかと思い、当時行きつけだった美容院へ向かった。
担当してくれていた美容師さんはもう居なかった。尋ねてみると、二年前に広島へ帰ったのだという。実家を使って自分の店を始められたそうだ。蛙の鳴き声がやかましいほどの田舎らしいですよ、と後輩の美容師さんは笑っていた。
三次会の席で向かいに座った三人組の女性は新婦の高校の同級生だったが、その高校と言うのが広島の高校で、彼女たちはとてもきれいな広島弁で喋っていた(方言がきれい、というのは不思議な気もするが)。三人のうちいまも広島に住んでいるのは一人だけで、あとの二人は神戸に住んでいるそうだ。どうやらスーパーノアの岩橋の実家の近くらしい。そんな岩橋は京都に住んでいる。
ともあれ、ひとは移り住む生き物で、移り住んだ場所で喜んだり悲しんだりする生き物で、誰かと出会っては愛し合ったり憎み合ったりする生き物で、根を下ろしたかと思えばまたどこかへ散らばってゆく生き物で、髪を切ってもらう以外には会うことのなかった人を淋しく思ったりする生き物、遅刻は絶対にいけないと言いながらぎりぎりに到着した受付の前でショールを忘れたことに気づいてしまう生き物、余興のビンゴ大会がくだらないと言いながらも景品は欲しかったりする生き物、三次会のテーブルに着くや否や眠りこんでしまう生き物、あててもらったパーマがくせ毛風というよりくせ毛そのものにしか見えなかったりする生き物でもある。
「月並み」という形容詞が、なんだかうつくしいと思った。
担当してくれていた美容師さんはもう居なかった。尋ねてみると、二年前に広島へ帰ったのだという。実家を使って自分の店を始められたそうだ。蛙の鳴き声がやかましいほどの田舎らしいですよ、と後輩の美容師さんは笑っていた。
三次会の席で向かいに座った三人組の女性は新婦の高校の同級生だったが、その高校と言うのが広島の高校で、彼女たちはとてもきれいな広島弁で喋っていた(方言がきれい、というのは不思議な気もするが)。三人のうちいまも広島に住んでいるのは一人だけで、あとの二人は神戸に住んでいるそうだ。どうやらスーパーノアの岩橋の実家の近くらしい。そんな岩橋は京都に住んでいる。
ともあれ、ひとは移り住む生き物で、移り住んだ場所で喜んだり悲しんだりする生き物で、誰かと出会っては愛し合ったり憎み合ったりする生き物で、根を下ろしたかと思えばまたどこかへ散らばってゆく生き物で、髪を切ってもらう以外には会うことのなかった人を淋しく思ったりする生き物、遅刻は絶対にいけないと言いながらぎりぎりに到着した受付の前でショールを忘れたことに気づいてしまう生き物、余興のビンゴ大会がくだらないと言いながらも景品は欲しかったりする生き物、三次会のテーブルに着くや否や眠りこんでしまう生き物、あててもらったパーマがくせ毛風というよりくせ毛そのものにしか見えなかったりする生き物でもある。
「月並み」という形容詞が、なんだかうつくしいと思った。
November 19, 2010
枯葉の季節
歯医者に行ってきた。一本の半分がなくなった。「もうだめなので神経を抜きます」と言われ、つまりその歯は死ぬということだと思うと涙が出た。麻酔が切れてきているけれど、この痛みは悼みなのだと思うことにする。
いままでありがとう、わたしの歯。あなたの根元から先はもうしばらく生きて、擦り減ったり黄ばんだりぐらついたりしながら土を噛んで歩きます。
今日はいつになく空がまぶしい。
いままでありがとう、わたしの歯。あなたの根元から先はもうしばらく生きて、擦り減ったり黄ばんだりぐらついたりしながら土を噛んで歩きます。
今日はいつになく空がまぶしい。
August 21, 2010
庭のこと
生家には、庭がある。
限られた面積を区切って、なんとなく作られた築山の上に、ほとんどでたらめにいろいろな木が植えられている。風情も何もないのだが、久しぶりに家に帰って感心したことには、この庭はぼくが物心ついたその時分と、ほとんど変わりがないように見えるのだ。
立ち枯れた木もない。毒虫がついて大騒ぎしたことのある椿や松もいまだ健在、けして立派でもないが椿は椿、松は松らしい枝ぶりを見せている。毎年夏が来るたびに病葉を落としてばかりいた貧弱な泰山木はすこし健やかになっただろうか。
造られて40年ほどの庭である。幼いころにここまで連れてこられた木々は、その狭い地面を各々分け合いながら暮らしてきた。いま雑然としながらも落ち着いた風貌で立ち並ぶ彼らを見ていて、なんとなくであるが、お互いを運命共同体だと思っているのではないか、という気がしてくる。
記憶している限り、我が家の庭で伐られた木は、無花果と朴の木だけだ。無花果は小学校に上がる頃、伐られてしまった。なぜ伐られたかは覚えていない。それは裏庭にあった。一度だけその実を食べたように思う。実は割れていた。鴉が食べに集まるから、という理由だっただろうか。だがいまでもスーパーで無花果を買ってきて食べると、我が家の裏庭のことを思い出す。灯油缶とスキー板と荒縄が仕舞ってある、埃っぽい納屋の隣にあった無花果。祖母と一緒に食べた、ジャムみたいに甘い無花果。
朴の木は、縁側のガラス戸の真正面だ。居間から見える庭の景色といえば、この朴の木だった。夏にはよくある季節のスナップ写真よりも見事な構図で蝉が止まり、秋には朴葉焼きの店が出来るほどに端正な葉を落とした。ぼくは一人で遊ぶのが好きな子供だったけれど、とくに好きなのは庭をあちこち歩いて棒きれで叩いたり石を積んだり落ち葉を拾ったりすること、なかでもいちばんだったのは(どういうわけか)この朴の木のまわりをぐるぐる回ることだった。象の皮膚にも似た幾何学的なざらつき、そのうえ乾いて清潔な木肌。大きくて見事な意匠の葉を夏には青々と繁らせ、秋には惜しげもなく落とす。ぼくはきっとこの木のさっぱりとしたおおらかさを誇りに思っていたのだ。それが自分の家にあるということが、とてもうれしかったのだ。
高校2年生の春だった。その頃には朴の木は大きくなりすぎていた。周囲の木を圧倒し、不要な日陰を作ってしまうというので、父は植木屋さんを呼び、あまりにあっけなく朴の木は伐られた。退屈な高校生活だったので他に大した記憶がないせいか、その日の窓の外の景色だけはいまでもありありと思い出せる。切り株だけになった朴の木。昨日までは見えなかった、しらじらとしたコンクリートの壁。
その翌年、家をはなれて京都に引っ越した。何年か経った。どのくらいだったろう。5年か、10年か。朴の木は新しい枝を伸ばした。切り株から二本、すこしその元で捩れ、あとはピースサインをするようにV字に、すらっとした枝を伸ばす。いや、これは新しい幹と呼ぶべきかもしれない。その枝からは次の枝が分かれ、またあの端正な大きい葉が風に揺れていたのだ。
そして今年。お盆に帰省して、まだ子供の二の腕ほどの幹に、蝉が帰ってきているのを見つけた。網戸を開けて、玄関から下駄を取ってきて縁側へ落とし、思わず庭へ出た。ツクツクボウシだった。蝉の止まっていないほうの幹に手を触れる(蝉は、逃げなかった)。木肌の感触は、覚えているまま、ほとんど変わっていなかった。ぼくは夏が好きだったことを思い出した。のどが渇いたのでまた縁側から家に上がり、すっかり小さくなった祖母と、扇風機を目いっぱい回しながら麦茶を飲んだ。
限られた面積を区切って、なんとなく作られた築山の上に、ほとんどでたらめにいろいろな木が植えられている。風情も何もないのだが、久しぶりに家に帰って感心したことには、この庭はぼくが物心ついたその時分と、ほとんど変わりがないように見えるのだ。
立ち枯れた木もない。毒虫がついて大騒ぎしたことのある椿や松もいまだ健在、けして立派でもないが椿は椿、松は松らしい枝ぶりを見せている。毎年夏が来るたびに病葉を落としてばかりいた貧弱な泰山木はすこし健やかになっただろうか。
造られて40年ほどの庭である。幼いころにここまで連れてこられた木々は、その狭い地面を各々分け合いながら暮らしてきた。いま雑然としながらも落ち着いた風貌で立ち並ぶ彼らを見ていて、なんとなくであるが、お互いを運命共同体だと思っているのではないか、という気がしてくる。
記憶している限り、我が家の庭で伐られた木は、無花果と朴の木だけだ。無花果は小学校に上がる頃、伐られてしまった。なぜ伐られたかは覚えていない。それは裏庭にあった。一度だけその実を食べたように思う。実は割れていた。鴉が食べに集まるから、という理由だっただろうか。だがいまでもスーパーで無花果を買ってきて食べると、我が家の裏庭のことを思い出す。灯油缶とスキー板と荒縄が仕舞ってある、埃っぽい納屋の隣にあった無花果。祖母と一緒に食べた、ジャムみたいに甘い無花果。
朴の木は、縁側のガラス戸の真正面だ。居間から見える庭の景色といえば、この朴の木だった。夏にはよくある季節のスナップ写真よりも見事な構図で蝉が止まり、秋には朴葉焼きの店が出来るほどに端正な葉を落とした。ぼくは一人で遊ぶのが好きな子供だったけれど、とくに好きなのは庭をあちこち歩いて棒きれで叩いたり石を積んだり落ち葉を拾ったりすること、なかでもいちばんだったのは(どういうわけか)この朴の木のまわりをぐるぐる回ることだった。象の皮膚にも似た幾何学的なざらつき、そのうえ乾いて清潔な木肌。大きくて見事な意匠の葉を夏には青々と繁らせ、秋には惜しげもなく落とす。ぼくはきっとこの木のさっぱりとしたおおらかさを誇りに思っていたのだ。それが自分の家にあるということが、とてもうれしかったのだ。
高校2年生の春だった。その頃には朴の木は大きくなりすぎていた。周囲の木を圧倒し、不要な日陰を作ってしまうというので、父は植木屋さんを呼び、あまりにあっけなく朴の木は伐られた。退屈な高校生活だったので他に大した記憶がないせいか、その日の窓の外の景色だけはいまでもありありと思い出せる。切り株だけになった朴の木。昨日までは見えなかった、しらじらとしたコンクリートの壁。
その翌年、家をはなれて京都に引っ越した。何年か経った。どのくらいだったろう。5年か、10年か。朴の木は新しい枝を伸ばした。切り株から二本、すこしその元で捩れ、あとはピースサインをするようにV字に、すらっとした枝を伸ばす。いや、これは新しい幹と呼ぶべきかもしれない。その枝からは次の枝が分かれ、またあの端正な大きい葉が風に揺れていたのだ。
そして今年。お盆に帰省して、まだ子供の二の腕ほどの幹に、蝉が帰ってきているのを見つけた。網戸を開けて、玄関から下駄を取ってきて縁側へ落とし、思わず庭へ出た。ツクツクボウシだった。蝉の止まっていないほうの幹に手を触れる(蝉は、逃げなかった)。木肌の感触は、覚えているまま、ほとんど変わっていなかった。ぼくは夏が好きだったことを思い出した。のどが渇いたのでまた縁側から家に上がり、すっかり小さくなった祖母と、扇風機を目いっぱい回しながら麦茶を飲んだ。
November 13, 2009
無題
いろんな本を読み散らかしている。高円寺のあちこちにある古本屋さん-何十年も続いているのかもしれない、薄暗く、狭く、壁沿いにずっと本が積んであるような古い古本屋さんから、「BOOK MART」とか「DRAMA」とかいう青い看板が掲げられた古本量販店まで、とにかく100円コーナーというサインを見つけては面白そうなものがないか、がさごそと探っている。「ニーチェとの対話」「なぜ心は苦しむのか」「日本語練習帳」「ピンク」「ダロウェイ婦人」「一茶」「モードの冒険」...近くを見渡すだけでこんな感じ。ある店では2000円で売られているハードカバーが、別の店ではこのワンコイン籠のなかに雑然と突っ込まれていることもある。
気になったものを手当たり次第に買って、バスに乗るとき、ご飯を食べるとき、ときには歩きながら読んだりもする。
読書の秋というわけではなくて、むしろほんの僅かな時間の隙間さえも電話連絡や資料のまとめ等に廻さなくてはいけなかったあの狂った9月10月の反動なのだと思う。とにかく読みたい。飛行機の前座席の網棚に差さっていたJALの会報も、銀行のロビーに置いてある絵本も、サンレインに日々流れ込んでくるフライヤーの裏面も、このところ病気かと思うほどに興味をそそる。
今朝、台所の壁に寄りかかって温めなおしたをすすりながら読んだ本に書かれていたのは、こんなこと。
僕にはまだこの「意味」が明らかになるときは遠いだろう。ただ飢えに従って活字を食い漁っているだけ。でも、ことばを以て世界へ語りかけるべく何十年も苦闘してきたひとがこういうふうに書いているのを見ると、それだけで続けることへの「希望」を示されている気になるのだった(もちろんこの本にはそんな安易な「継続は力なり」は一切書かれていないが)。
話は変わるけれど、マイケル・ジャクソン「THIS IS IT」は素敵な映画だった。サンレインのスタッフ、佐野さんに激推薦されて思わず観にいったのだけど、本当に行ってよかった。音楽って素晴らしいね。
気になったものを手当たり次第に買って、バスに乗るとき、ご飯を食べるとき、ときには歩きながら読んだりもする。
読書の秋というわけではなくて、むしろほんの僅かな時間の隙間さえも電話連絡や資料のまとめ等に廻さなくてはいけなかったあの狂った9月10月の反動なのだと思う。とにかく読みたい。飛行機の前座席の網棚に差さっていたJALの会報も、銀行のロビーに置いてある絵本も、サンレインに日々流れ込んでくるフライヤーの裏面も、このところ病気かと思うほどに興味をそそる。
今朝、台所の壁に寄りかかって温めなおしたをすすりながら読んだ本に書かれていたのは、こんなこと。
心理学者はその心理学の野外調査や分析の日々の積み重ねをつうじて、小説家はそのイメージや文体をこれも日々作り上げ・作り変えてゆく労作をつうじて、ある日、それまでただ楽しみを広げる仕方で自由に読んできた詩や小説が、統合される視点にゆきあたる。喜びのための読書に、人生が介入する。そしてこれまでに読んできたチリヂリバラバラの詩や小説が、ひとつのはっきりした全体の一部として、この世界とそこに自分が生きてあることの意味をあかしだす・・・(大江健三郎『ヒロシマの生命の木』)
僕にはまだこの「意味」が明らかになるときは遠いだろう。ただ飢えに従って活字を食い漁っているだけ。でも、ことばを以て世界へ語りかけるべく何十年も苦闘してきたひとがこういうふうに書いているのを見ると、それだけで続けることへの「希望」を示されている気になるのだった(もちろんこの本にはそんな安易な「継続は力なり」は一切書かれていないが)。
話は変わるけれど、マイケル・ジャクソン「THIS IS IT」は素敵な映画だった。サンレインのスタッフ、佐野さんに激推薦されて思わず観にいったのだけど、本当に行ってよかった。音楽って素晴らしいね。
January 08, 2009
ある街で
何も始まらない悲しみだ、と彼女は言った。
たしかに歴史や地形や地理や社会環境が悲しみを蓄積させることはあるかもしれない。現に、鈍行で東京から丸半日かけても辿り着かない(僕らは失敗した)その街を「最果て」と呼んでも差し支えなかったのかもしれない。
でも、肝心なのは生命がどんな状況下でも何かを始めようとして震えだすことだ。
展望室で初老の男性が何にもないところだなと悪気さえなく切り捨てたその隣、僕はあの山並みと蛇行する河と新幹線の軌跡をめちゃくちゃに美しいと思ったし、
正月のデパートを逆さにひっくり返すほどのミニチュアめいた初売り騒ぎを抜け出して登った城跡ではあの詩人が十五歳のこころを吸わせたという空の名残がいまでも確かに残っていたし、
なにより街を出た若者や街を出ようとする若者や街に残った若がぎっしりと詰め掛けた瀟洒な居酒屋などは、その空間の一切がささやかで鮮やかなはじまりに満ちていたように見えた。
この街のどこかでは、きっと誰かがいいことも悪いこともたく企んでいるだろうさ。ロック・フェスをやりたがっている大学生だっているに違いない。きみたちの悲しみが細かな震えを束ねるなら、それは大きな波になるだろう(これを数学用語で逆フーリエ解析というらしい)。
僕は日本中どこにいっても変わらない味とおかわりサービスを提供してくれるちっとも悲しくないドーナツショップのちっとも悲しくないコーヒーを啜りながら、そんなふうに思った。
表通りは、美しい街並みだった。
たしかに歴史や地形や地理や社会環境が悲しみを蓄積させることはあるかもしれない。現に、鈍行で東京から丸半日かけても辿り着かない(僕らは失敗した)その街を「最果て」と呼んでも差し支えなかったのかもしれない。
でも、肝心なのは生命がどんな状況下でも何かを始めようとして震えだすことだ。
展望室で初老の男性が何にもないところだなと悪気さえなく切り捨てたその隣、僕はあの山並みと蛇行する河と新幹線の軌跡をめちゃくちゃに美しいと思ったし、
正月のデパートを逆さにひっくり返すほどのミニチュアめいた初売り騒ぎを抜け出して登った城跡ではあの詩人が十五歳のこころを吸わせたという空の名残がいまでも確かに残っていたし、
なにより街を出た若者や街を出ようとする若者や街に残った若がぎっしりと詰め掛けた瀟洒な居酒屋などは、その空間の一切がささやかで鮮やかなはじまりに満ちていたように見えた。
この街のどこかでは、きっと誰かがいいことも悪いこともたく企んでいるだろうさ。ロック・フェスをやりたがっている大学生だっているに違いない。きみたちの悲しみが細かな震えを束ねるなら、それは大きな波になるだろう(これを数学用語で逆フーリエ解析というらしい)。
僕は日本中どこにいっても変わらない味とおかわりサービスを提供してくれるちっとも悲しくないドーナツショップのちっとも悲しくないコーヒーを啜りながら、そんなふうに思った。
表通りは、美しい街並みだった。
December 14, 2008
無題
十二月の空気の粒が
錐状の光を まっすぐに飛ばす
眠たげな瞼を射抜かれて
はじめて甘い夢がとっくに終わっていたと知る
大変だ 駆け出すその速度ではもう次の快速にも間に合わない
迷ってしまったみたい
迷っていたことに気づいてしまったみたい
ねえ きみは
あの初夏の芳しいシンフォニーをいつまでも纏っていられると
本気で思っていたんだろう
きりぎりすのように
うさぎのように
祈りのように 願いのように
ただ健やかに涼やかに生きてゆけると
信じていたんだろう
冬はいつだって巧妙な罠で 僕らを不意に襲うのに
陽だまりを奪い合い 炎を盗み合い
街中をぴかぴか光る浪漫で飾り立てては必死でかき集めたぬくもりの山
その先にあったのは腐敗と火災 誰かの肩に掛けられるほどの布きれ一枚ない
そんなふうになるまで きみは一体なにをしていたんだい
この季節が美しいのは
ひとを凍え殺す程に残酷さが輝くから
骨のような枯枝の向こうに月が燦然と嘯くから
老いた獣の泥だらけの歳月の上に
線路傍らの廃家電から染み出したオイルの表面に
満員の酒臭い終電車がぶちぶちと潰しながら進む年の瀬の断片に
青白く反復するメロディが 繰り返し繰り返し降り注ぐから
そのなかでたとえばひとつ繋ぐ手
36度すこしの温度があればそれで充分だって
もっと早く気付けばよかったのにね
ほら でも
恐れてはいけない もう一度
この中途半端な寒さの底から始めよう
東京にはあのいやなみぞれ雪はあまり降らないんだってさ
錐状の光を まっすぐに飛ばす
眠たげな瞼を射抜かれて
はじめて甘い夢がとっくに終わっていたと知る
大変だ 駆け出すその速度ではもう次の快速にも間に合わない
迷ってしまったみたい
迷っていたことに気づいてしまったみたい
ねえ きみは
あの初夏の芳しいシンフォニーをいつまでも纏っていられると
本気で思っていたんだろう
きりぎりすのように
うさぎのように
祈りのように 願いのように
ただ健やかに涼やかに生きてゆけると
信じていたんだろう
冬はいつだって巧妙な罠で 僕らを不意に襲うのに
陽だまりを奪い合い 炎を盗み合い
街中をぴかぴか光る浪漫で飾り立てては必死でかき集めたぬくもりの山
その先にあったのは腐敗と火災 誰かの肩に掛けられるほどの布きれ一枚ない
そんなふうになるまで きみは一体なにをしていたんだい
この季節が美しいのは
ひとを凍え殺す程に残酷さが輝くから
骨のような枯枝の向こうに月が燦然と嘯くから
老いた獣の泥だらけの歳月の上に
線路傍らの廃家電から染み出したオイルの表面に
満員の酒臭い終電車がぶちぶちと潰しながら進む年の瀬の断片に
青白く反復するメロディが 繰り返し繰り返し降り注ぐから
そのなかでたとえばひとつ繋ぐ手
36度すこしの温度があればそれで充分だって
もっと早く気付けばよかったのにね
ほら でも
恐れてはいけない もう一度
この中途半端な寒さの底から始めよう
東京にはあのいやなみぞれ雪はあまり降らないんだってさ

