2010年08月23日

『テガミバチ』 on Twitter

Tue Aug 10 02:30:53 2010
『テガミバチ』がおもしろい! ゴーシュが気になる気になる!! 『テガミバチ・ハンドブック』にある、「こんなかっこいいのに何故に引き込もり系のにおいが漂うのか」という鬼頭莫宏のコメントが言い得て妙。テガミバチのエースとして実力一番なのに、万事控えめに感じるのは丁寧語キャラだからか……?
うん、かなり天然入ってるのはわかってる(笑)。>ゴーシュ

Tue Aug 10 02:33:50 2010
「ジャンプスクエア9月号」、ラグはいったいゴーシュについてなにを知ってしまったんだーっ! ということで、早くも次号発売が待ち遠しい。月刊誌で大きな「引き」をされちゃうと、1カ月のお預けにもだもだします。ラグの涙が哀しいというより、悔しいって感じなのがまた……。
ザジとジギー・ペッパーの「青棘」&「群青」のコンビ、いいですねv 憧れの人と共闘できて大喜びのザジがかわいい。そして、男前な活躍っぷり! 目覚めたときに、ジギーの背中を叩いて居場所確認している仕種に萌え。
先月号からラグ&ゴーシュ、ザジ&ジギーの少年とその憧れの人というコンビ続きで、読み応えありました! それだけに来月号がちょっと恐い。ゴーシュが、ラグの手の届かないところに行ってしまったりしませんように……。

Tue Aug 10 02:52:34 2010
う、うん。なんとなく水瓶座A型っぽいところは似てるかも……。でも血が苦手なので、カイボーは無理! カイボー好きも無理!>「あなたにぴったりのテガミバチのキャラはサンダーランドJr.です。」(『あなたにぴったりのテガミバチキャラは誰ったー』http://shindanmaker.com/38752

Tue Aug 10 03:05:26 2010
現在のBGMはアニメ『テガミバチ』第一期前半のエンディングテーマだったHIMEKAの「果てなき道」。HIMEKAの透明でハリのある声で歌われる、特にサビの盛り上がりが気持ちいい。『テガミバチ』の物語によく合った曲だと思いますv

Wed Aug 11 01:28:30 2010
『テガミバチ・ハンドブック』覚書。ゴーシュの名は『セロ弾きのゴーシュ』から、ヨダカという地名は『よだかの星』から。

Wed Aug 11 01:29:42 2010
心弾銃の名が「夜想曲第二十番」(ショパンの「夜想曲第20番遺作KK. IVa-16」。『風のガーデン』の主題歌「ノクターン(カンパニュラの恋)」でも有名)だったり、「ジムノペディ」(エリック・サティの名曲)だったりするのも、作品中にBGM的に曲名が出てくる宮沢賢治の影響?
鎧虫を倒すには、その空っぽの甲殻内に「こころ」を響かせるしか手段がない。ということで、それが音楽につながるのはわかる気がします。アリアの「紅緋色の旋律」とか、精神回復心弾の「管弦楽曲第三番(G線上のアリア)」とか。そういう設定がいちいちツボを突いてくるので、ハマりまくり。
 
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2010年08月22日

惜しい気持ちが今でも消えない巨編、「最終戦争」シリーズ

 私のマンガ読書の始まりは、中学時代、友だちの家で読んだ『超少女明日香』(和田慎二/白泉社)と別の友だちから借りた『幽霊狩り』(曽祢まさこ/講談社)でした。家ではマンガを禁止されていたので、友だちの家に遊びに行ったときにしか読めなかったのです。
 『超少女明日香』は1巻につきワンシーン、変身後の明日香のセミヌードが描かれていて、その美しさにドキドキしながら見入ったものです(笑)。『幽霊狩り』は、盲目の少年ダニエルが“見る”闇の世界にゾクゾクしました。ダニエルの唯一の理解者、お兄さんのアーサーが好きでしたね。今でもホラーサスペンスの傑作だと思っています。

 高校生になってお小遣いからこっそりコミックを買い込むことを覚え、『スケバン刑事』(和田慎二/白泉社)、『みき&ユーティ』『あいつ』『エイリアン通り(ストリート)』(成田美名子/白泉社)、『超人ロック』(聖悠紀/少年画報社)などが、ベッドの下に隠したダンボール製衣装箱の蔵書となりました。
 そのころにどっぷりハマったのが、山田ミネコの「最終戦争(ハルマゲドン)」シリーズ。それがどのくらいのインパクトだったかというと、当時の私の描いたマンガ絵はことごとく山田ミネコの描く目の大きいキャラクターに似ていたというくらい。
 記憶が定かではないのですが、たしか徳間書店から出ていた「パトロール」シリーズの第1巻『笛吹伝説(パイド・パイパー)』を読んで、すぐさま白泉社から出ていた『アリスと3人のふたご』『男爵夫人(バロネス)ラム』『スプーン一杯の愛で』『冬の円盤』『西の22』『暗黒の自我系めぐる銀河の魚』『緑の少女』を集めまくったような……(このうち、『男爵夫人ラム』『スプーン一杯の愛で』は「最終戦争(ハルマゲドン)」シリーズではありません)。東京三世社のA5判コミックまで手を伸ばしたのは、大学に入って、親がマンガ禁止令を諦めてからです。

 なかでもいちばん印象に残っているのが『緑の少女』。
 時は2800年ごろの日本。医療技術の発達により長い長い寿命を得た人びとは、生きることに倦み疲れていました。自然分娩で生まれる子どもは極少数になり、都市機能を維持するために、過去に死んだ若年者をその日その時に時間跳躍して蘇生させ、時間移民として生活させる。そんな対策も必要になっていました。

 秋吉唱(となえ)は自殺癖のある竪琴奏者で歌い手。彼女は絶望を歌い、聴衆を死に誘う危険人物として当局にマークされていました。偶然、自殺しようとする彼女を助けた志月竹流(たける)は、人工授精で最高の遺伝子をもつ者として生み出され、英才教育を施された画家。その天才的な画力で人びとに生命力を与えるような絵を描くことを期待されていた彼は、自分の絵の力で唱を自殺願望から救おうとします。しかし、その試みは失敗。
 唱の息子でタイムパトロールの西塔小角(おづぬ)は、絵を描くことを放棄した竹流を飛鳥時代の日本へ連れて行きます。退廃的な未来世界に比べて、生命力に充ち満ちた古の日本。そこで竹流が出会った安曇比女(あづみひめ)は、三角関係に悩み、かなわぬ恋に涙し、そして少女から美しく強い女性へと成長します。
 その変化を目の当たりにし、生命のもつ力強さと美しさを知った竹流は、今度こそ、生きる気力を失った未来世界の人々の希望となる絵を描き始めます。

 私の額田王へのイメージを決定づけた作品。さらに、長岡良子の「古代幻想ロマン」シリーズ(秋田書店)で止めを刺された感じ(笑)。マンガからの影響って大きいですね。

 山田ミネコの「最終戦争」シリーズは、白泉社、東京三世社、徳間書店、朝日ソノラマ、秋田書店と掲載誌どころか出版社をまたいで描き継がれてきた大長編SFです。別の主人公、別の時代の物語で、シリーズ作品に見えなくても、実はつながっていました、「最終戦争」シリーズの年表に組み込まれていましたという、どこぞの『F.S.S.』並みに、いや、それ以上に寄木細工の秘密箱のような作品なのです。

 寿命が延びたことで人びとが生きる気力を失い、少子化が進み、都市機能が維持できない。そのために過去から夭折の運命にある者を蘇生し、移住させる、時間跳躍機の開発と時間移民計画。しかし、逆に未来世界を捨てて、過去の時代で生きようとする人びとが現われ、それを斡旋する犯罪組織が出現したことで、歴史の改変を阻止するために組織されたタイムパトロールの存在。
 一方で、死んだ女性を生き返らせ、仲間を増やす妖魔(デーヴァダッタ)の恐怖。男性の生気を食糧とする彼女らのおかげで、ますます世界人口は減少するばかり。「最終戦争(ハルマゲドン)」とは、このデーヴァダッタと人類との戦い……のはず。

 こんなにすばらしくSF的なギミックが散りばめられているのに、出版社の垣根を越えて長く長く続けられてきたのに、今ひとつマイナー感が漂うのはなぜなのか。
 これはあくまでも私感ですが、作者がキャラクター萌えに突っ走っちゃうとダメだよなあ、という。小角が主人公の「パトロール」シリーズで影(シャドウ)やドクター・レイクが現われたときから、小角と熾天使(セラフィム)が主軸だった物語が軋み始めたんですよね。でも、このときはそういうものかなと思えたのです。
 けれども朝日ソノラマから刊行された『最終戦争伝説』と秋田書店の『最終戦争シリーズ』で、キャラクターが物語から離れて一人歩きを始めたような感があり、その行動がどうにも納得できない独りよがりなもので、とうとうついていけなくなったのでした。もしかしたら、変わったのは作者ではなく、読んでいる私の感じ方が年齢とともに変わったということかもしれませんが……。
 ただ、今でも惜しい作品だなあという印象は強いのです。シリーズ中、もっとも聡明なはずの尾鷹星野(せいや)がその聡明さと(大槻笑(えみ)が絡むこと以外での)沈着冷静さを保っていてくれたら、とか。小角と大槻真砂流(まさる)と伊津原永都(ながと)のそっくりトリオなメインキャラクターが、もうちょっと自分の立場をわきまえて行動してくれていたら、とか。特に真砂流の最期は泣けただけに、それからあとの彼には疑問符がいっぱいだ。

 作品中で生きているキャラクターたちを、その性格的な魅力のままに動かしたいという気持ちはわかるのです。が、その行動の動機やそこにあるはずの信念などが読者にも納得できるものとして伝わらないと、物語が追えなくなるんですよね。やはり作品のつくり手には、まず物語の最後を見越して筋立てをし、その芯がぶれないようにキャラクターを動かしてもらいたい。そんなことを切に思った作品でもありました。
 
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2010年08月15日

「たんぽぽクレーター」は現実の恐怖に限りなく近いファンタジー

 昨日の記事を書いていたら、「ぽぽクレ」シリーズについてもう少しくわしく書きたくなってしまった。じ、時間泥棒…… orz。

 『ものまね鳥シンフォニー』と『小さき花や小さき花びら』は「もうひとつのたんぽぽクレーター」シリーズと呼ばれる作品で、小学館の「プチフラワー」に連載された『たんぽぽクレーター』の前日譚です。
 『たんぽぽクレーター』は、エネルギーを原子力に頼る時代に放射能汚染で苦しむ人びと、特に子どもたちを月面につくられた総合医療都市「たんぽぽクレーター」に収容し、救おうと奮闘する人々の物語。地球の国際企業10社の協力により民間レベルで運営されているため、ときには地球では禁じられている治療を行なうことも。やがて、こんな言葉が囁かれるようになります。
 「たんぽぽクレーターに来れば、どんな子どもでも元気になれるよ」。

 それは、2007年秋のこと。軍事衛星の高出力レーザー兵器の実験が行われました。その影響により、地球の環境は激変し、擬似氷河期状態に陥ります。月から見る地球は、あの生命力に満ちた青い星の面影さえない、氷に覆われた白い星。氷点下数十度の地球からの連絡は途絶え、月で働く人びとは地球に残した家族や友人、そして故郷を失う恐怖にパニックに陥ります。
 地球からの物資輸送も絶え、困窮した人びとは、難病の子どもたちを多く抱える医療都市にも襲いかかります。原子炉が止まり、電力供給を失った「たんぽぽクレーター」が持ちこたえられるのは、わずか4時間。
 15歳で大学の医学課程を終え、「たんぽぽクレーター」のインターンとして働くジョイことジョイス・C・マクローフリンは、ひとりの子どもを犠牲にして、ほかの患者やスタッフを救うという決断を迫られ、葛藤します。
 子どもたちを救う立場である自分が、子どもを死なせる決断を迫られる。──そんなことが二度と起きないように。
 ジョイは廃棄された太陽光発電用車両を見つけ、原子炉の代わりに使えるよう、手作業で太陽電池パネルをつないでいきます。そこに不法投棄された放射性物質があるとも知らずに……。

 『ものまね鳥シンフォニー』は、この『たんぽぽクレーター』以前の「たんぽぽクレーター」建設中の物語です。
 楽器工場に偽装された軍の化学兵器工場から溢れ出した毒の風。その日、「ミュージックタウン」と呼ばれた、ジョージア州のひとつの町が死に絶えました。夫と妊娠中の子どもを失ったキャロライン・マクローフリンは、ファージィ・ジェンキンスの招きでマックギルベリー月面研究所に収容されます。
 キャロラインとファージィは、PK(念動力)の制御法を教える教育機関で共に過ごした、姉弟のような関係。破壊傾向にある自分の念動力を持て余していたファージィは、自分と同じくらいハイパワーの念動力者に制御を教わるため、研究所に滞在していたのでした。
 キャロラインはそこで「たんぽぽクレーター」の院長マックギルベリーと捨て子のジョイ、そして念動力を駆使してたったひとりで「たんぽぽクレーター」を建設している、超能力者でサイボーグのハインリヒ・ハイ・ファイに出会います。

 夫の実家が軍関係者であるために、被害者として訴訟に関わることを拒否し、月の上で沈黙するキャロライン。しかし、ファイ・ハイの助力で念動力を制御できるようになったファージィが、否定するばかりだった自分の力をようやく「いいもの」と受けとめ、今では「たんぽぽクレーター」の建設を手伝っている、その生き生きとした表情や、ファージィという手伝いができて楽になったというハイ・ファイの言葉から、自分にもできることがあるのでは、と手探りをはじめます。
 毒ガスの後遺症で両手が動かないものの、精密動作を得意とする念動力者である彼女は、研究所の掃除・洗濯・料理といった家事から、「たんぽぽクレーター」内の施設の内装工事まで一手に引き受け、大活躍! やがてジョイが聴覚器官をもたない聾唖者であること、またハイ・ファイのサイボーグの耳が雑音ばかりが聞こえる難聴状態であることを知り、キャロラインはふたりに音楽を聞かせたいと願うようになります。
 動かない手に代わる念動力による音楽。それは人の動きをトレースしただけの、ものまね鳥の歌のようなものかもしれない。音楽とは認められないものかもしれない。でも、安らぎを楽しさを喜びをもたらす音楽を届けたい人がいるから、楽器を演奏したい。
 キャロラインの念動力が生み出す音は、聴覚器官をもたない耳にも聞こえ、月の真空にも伝わる、直接に人びとの心に響くクリアでピュアでシュアな「なにか」でした。ヴァイオリンひとつから弦楽四重奏、室内管弦楽、そして大編成オーケストラへ。キャロラインの音楽は月どころか、地球にまで響くようになります。
 最初はジョイとハイ・ファイのためだった。でも今はあの失われた街、自分を守って亡くなった夫、そしてその悲しみを抱えて沈黙するしかなかった自分のために……。ようやく過去を受け入れ、未来を見ることができるようになった彼女はジョイに言います。「あなたのお母さんになれるかしら」。

 『小さき花や小さき花びら』は、キャロラインの息子となったジョイが成長し、インターンとして「たんぽぽクレーター」にやってくるところから始まります。
 なぜ「たんぽぽクレーター」に子どもが多いのか。それは、1999年にニューヨークで起こったミニ水爆の誤爆事故で、放射能を浴びながら命を賭して子どもたちを助けた旧友の遺言があったから。「ニューヨークっ子を、あなたは見捨てないでください」。満地球の美しい夜、マックギルベリー院長はその青と同じ青い目をしたサイボーグのことを思い出します。
 しかしながら、思うように動かないのが子ども。8人兄弟の養親を探そうにも、全員いっしょというのは難しく、しかし子どもたちは離れ離れはイヤだと反抗的。悪ガキどものボスは、なぜかネコをいじめてばかり。拳を握りしめたまま、動くことも話すこともしない少女。熱湯を浴びせられ、皮膚移植が完了した少女の、親の虐待を問う裁判。爆破テロで足を失った少年のリハビリ。
 さらに、娘を病気で失い、寄付を打ち切ると言ってきた出資者。子どもを暴力でしつけようとする新入り医師。
 どれもこれもが難問で、到着するはずのインターン、なつかしのジョイは行方不明。マックギルベリーは、満地球に旧友の約束を思います。──いつかあなたの時間が動かなくなったとき、(私の残留思念で)動かしてあげます。「なにも動かないということは、まだまいっていないということなのだろう」。
 忙しい日々のなか、見落とし、見失い、気づかずにいることがたくさん。いつしか「気づき」の心を失っていたことに気づいたとき、やさしい残留思念の波がマックギルベリーに見せたものは……。

 『空の上のアレン』は、より以前の物語。飛行能力をもつ超能力者アレンの、超音速への挑戦が描かれます。
 筒井氏の真骨頂、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての軍用機が次々に登場するのが楽しい作品。夜空に道を失ったアレンを、リンドバーグのスピリット・オブ・セントルイス号からライト兄弟のライトフライヤー号、果てはイカロスに至るまで、飛行を目指した者たちが導くさまに感動!
 その裏では、北方のノルランド国の政変がらみの陰謀が進行。ハイ・ファイがサイボーグになった理由やマックギルベリーとの出会い、そしてアメリカ海軍の航空母艦、原子力空母エンタープレイズがマックギルベリー月面研究所として月に上がった経緯などがわかったり……。
 「ハイ・ファイ年代記(クロニクル)」として見ると、『小さき花や小さき花びら』と時間的なパラドックスがあるけれど、気にしない。いわゆる、ひとつの平行宇宙(笑)。


 一連の作品のメインキャラクターのひとり、ハインリヒ・ハイ・ファイと、アメリカのTVドラマ『Beauty & The Beast(美女と野獣)』のヴィンセント。このふたりのおかげで、シェイクスピアやブラウニング、ブレイク、ワーズワース、リルケ、カミングスなどの詩に興味をもったのでした。

 Ye that pipe and ye that play,
 Ye that through your hearts to-day
 Feel the gladness of the May!
 What though the radiance which was once so bright
 Be now for ever taken from my sight,
 Though nothing can bring back the hour
 Of splendour in the grass, of glory in the flower;
 We will grieve not, rather find
 Strength in what remains behind;

 「笛吹くものよ、戯(たわむ)るるものよ
  今日、5月のよろこびを
  全身に感ずるものよ
  かつて輝やかしかりしもの
  今やわが眼より永(とこし)えに消え失せたりとも
  はた、草には光輝、花には栄光ある
  時代を取り返すこと能(あた)わずとても何かせん
  われら悲しまず、寧(むし)ろ
  後に残れるものに力を見出さん」

William Wordsworth(「536. Ode Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」より抜粋)

 『小さき花や小さき花びら』の第一章でいちばん印象的なシーンの背景に綴られたワーズワースの詩。『Beauty & The Beast』でも、ヴィンセントが低く響く青銅の声で口ずさみます。
 筒井作品には魅力的なキャラクターが多々登場しますが、この詩を聞くと涙がにじむくらい、ハイ・ファイのことが好きでした(いや、今でも好きですが!)。


 月面クレーターにつくられた総合医療都市というSFな設定。毒気のない、かわいらしく、ファンタジーめいた容姿のキャラクターたち。アメリカ文学に多大に影響を受けたと思われる、ネーミングやエピソードの数々。
 やわらかい印象の画稿に描かれる事象は、しかし「いつか起こりそうな」現実の恐怖。そこから生まれる悲劇や感情の迸りもまた、いつか私たちが遭遇しそうなことに感じます。
 「地球崩壊の予言書」めいた恐さと追い詰められたキャラクターたちの感情のリアルさと、それをやわらかくオブラートに包んでしまう絵柄と子どもたちに託された未来を感じる明るさ。これらが不思議に混ざり合って感動をつくりあげているところが、筒井作品のたまらない魅力です。
 
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2010年08月01日

夏の星座のもとで読むマンガ版『銀河鉄道の夜』

 7月1日、集英社から「マンガで読む文豪作品」というキャッチフレーズで文庫本サイズの「MANGA BUNGOシリーズ」が創刊されました。日本の近代文学をマンガ化した書籍はすでにいくつか存在しますが、このシリーズがすごいのは、すべて描き下しマンガで7月、8月、9月、10月と毎月10冊ずつ一挙に刊行されること。
 たとえば7月1日に発売された第1弾は、太宰治の『人間失格』(マンガ:伊藤チカ)、『走れメロス・富嶽百景』(マンガ:高芝昌子・井沢まさみ)、野坂昭如の『火垂るの墓』(マンガ:三堂司)、林芙美子の『放浪記』(マンガ:三原陽子)、森鴎外の『舞姫』(マンガ:藤丞めぐる)、夏目漱石の『こころ』(マンガ:吉崎凪)、『坊ちゃん』(マンガ:大倉かおり)、芥川龍之介の『藪の中・羅生門』(マンガ:坂本久作)、『地獄変』(マンガ:未浩)、そして宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(マンガ:北原文野)。まさに「この文豪ならこの作品!」のラインナップです。

 2007年、『人間失格』の文庫本の表紙イラストを『DEATH NOTE』の漫画家・小畑健が描き下ろして大ヒット! 2008年には『こころ』『地獄変』を再びの小畑健、『伊豆の踊子』を『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦、『汚れつちまつた悲しみに……(中原中也詩集)』を『テガミバチ』の浅田弘幸が描き下し。さらに去年には『地獄変』『堕落論』を『BLEACH』の久保帯人、『走れメロス』を『テニスの王子様』の許斐剛が手がけました。
 人呼んで「お固い文学作品の表紙イラストを『ジャンプ』の人気漫画家が描いたら売れちゃったシリーズ」。今年の「集英社ナツイチ2010」では『銀河鉄道の夜』『汚れつちまつた悲しみに……』(新装版)を浅田弘幸、『たけくらべ』を『いちご100%』の河下水希、『シャーロック・ホームズ傑作選』を『D.Gray-man』の星野桂、『十五少年漂流記』を『ZETMAN』の桂正和が描き下ろしています。

 文学作品とマンガとの親和性を見せつけてくれた集英社から、いずれ文豪の諸作品のマンガ版が発売されることは想像に難くなく、今回の発売は満を持してというところでしょうか。

 その「MANGA BUNGOシリーズ」から宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読みました。マンガを担当するのは、『夢の果て』『瞳に映るは銀の月』など、虐げられる超能力者を主人公にした「Pシリーズ」を代表作にもつ北原文野です。
 実は、この作品を読むまでにかなりの葛藤がありました。
 まず、私は小説のマンガ化作品は基本的に読みません。漫画家が原作に殊更に思い入れてマンガ化したものでないかぎり、特にこういう「日本文学の紹介」といったスタンスのマンガ化は、単なる小説のダイジェストになりがちで、小説のよさが伝わらないまま筋書きだけわかってしまうという中途半端なものに感じるからです。
 また、『銀河鉄道の夜』は私の聖域のひとつで、イメージが固定化されてしまうような画像・映像はできるだけ目に入れたくないと思ってきました。特にジョバンニとカムパネルラについては、挿絵にもその姿を描いてほしくないほど。私の頭のなかでも、この二人は容姿をもたない、影のような存在なのです。
 さらに、1985年に公開された劇場版アニメ『宮澤賢治 銀河鉄道の夜』が私にとって「神アニメ」で、ジョバンニたちの住む町や郊外の景色、ケンタウル祭のようす、銀河鉄道の窓外に現れては消える風景……ジョバンニとカムパネルラ以外のイメージは、すべてこのアニメ映画に描かれたヴィジュアルに拠っています。だから、アニメの映像から離れた絵を見ると、間違いなくマイナス方向に違和感を覚えるだろうなという予感がありました。

 では、なぜ北原文野版『銀河鉄道の夜』を手に取ったか。それは、内向的な少年の感情や行動の描写と「せつなさ」の表情表現に魅力があり、繊細な線で描かれる西欧風の風景が独特の世界観をつくりあげている北原氏のマンガと『銀河鉄道の夜』が融合したら、どんな「絵」になるのか、興味があったからです。
 不安半分、好奇心半分でコンパクトな文庫サイズの本を開き……うん、普通におもしろかった。

 いちばん不安だったジョバンニとカムパネルラの容姿は、「ああ、こんな感じかもしれないな」という納得の造形。北原氏の描線の繊細さが幸いして、押しつけがましさがないところがいいです。マンガを読んでいる間は二人はこの姿だけれども、原作小説を読むときにはまた影の存在に戻ってくれるのが、私にはたいへんありがたい。
 街なかの建物は西欧風、郊外の景色は岩手の農場を彷彿させる背景の設定もほどよく現実感があって、自然に物語世界に入ることができました。
 銀河鉄道に乗ってからの窓外の風景も「現実にありそうな風景」から乖離することなく、そこが北原版『銀河鉄道の夜』の「いいところ」なのかなと思います。原作小説を知っている者から見ると、幻想世界であるはずの銀河の風景が現実的に描かれていることに物足りなさを感じるのですが、初めて『銀河鉄道の夜』に触れる人にとっては、日常から逸脱した風景が展開されるのも戸惑いの元になるでしょう。
 むしろ、現実世界の風景も、銀河鉄道に乗ってからの風景も、同じタッチ、同じ視点、同じ次元で描かれているところが、北原版『銀河鉄道の夜』の特長と言えるかもしれません。

 ただ、やはり原作小説のダイジェストになっているところは、仕方がないとはいえ、少々残念なところ。ページ数に限りがあって原作小説のすべてを描くことは、しょせん不可能。であるならば、もう少しジョバンニとカムパネルラの、二人の心の動きに焦点を当てて構成してもよかったかも。
 二人の父親が友人同士だったこともあって、小さい頃から仲が良かったジョバンニとカムパネルラ。しかし、北の海に漁に出たまま消息を絶った父親の代わりに、朝も放課後も働いて家計を助けるジョバンニは遊ぶ暇がなく、父親が密漁で捕まったという噂もあって級友たちと疎遠になります。クラスでただひとりジョバンニを気づかってくれるカムパネルラも、遊ぶのは級友たちといっしょ。放課後、バイト先の印刷所へ急ぎながら、ジョバンニはカムパネルラを級友たちに取られてしまったような、寂しさに心を痛めます。
 だからこそ、銀河鉄道でカムパネルラと再会し、二人だけで旅ができると知ったとき、ジョバンニは飛び上がるほどうれしかったんですね。ずっと願っていたカムパネルラと友だちとして語らえる時間を邪魔されたくなかったから、隣りに座ってきた鳥捕りをうっとおしく思い、途中から乗ってきた女の子と仲良く話すカムパネルラに拗ねてしまいます。
 一方、カムパネルラはたぶん最初はジョバンニも自分と同じような事情で銀河鉄道に乗り、同じところまで行くと思っていたでしょう。でも検札でジョバンニの切符が自分とは違うもので、「どこまででも行ける」通行券と知り、そこでおそらくジョバンニと自分の間の齟齬を感じます。
 「カムパネルラとどこまでも行く」。それがかなわないかもしれないという不安を小さく抱えつつも、二人でいられる喜びに胸いっぱいのジョバンニ。
 「別れるべきところで、自分たちは別れなければならない。もはや同じ道をどこまでも行くことはできない」。結局、死という闇へはひとりで行くしかないのだと覚悟を決めたカムパネルラ。
 この二人が銀河鉄道に乗り合わせたのは、健気なジョバンニへの贈り物だったのか、それとも自分を犠牲にして人を救ったカムパネルラへの慰めと救済だったのか。

 そこから紐解いていけば、深く描かなければならないシーン、1コマで終わらせてもいいシーンの取捨選択ができて、物語がぐっと身近なものになったのではないか、と、これはシロウト考えでしょうか。
 鳥捕りを、なぜジョバンニもカムパネルラも邪魔に思ってしまったのか。なぜカムパネルラが女の子と親しく話したのか。なぜそれを見たジョバンニが哀しくなってしまったのか。そして、なぜジョバンニの「どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのサソリのように、ほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という言葉を聞いて、カムパネルラが涙を浮かべたのか。
 一本の線でつながりそうなところが微妙にぼけてしまっていて、「ああ、もう一歩踏み込んでほしい〜」なんてちょっともだもだしてしまいました。

 あと、やはり灯台守は年老いていてほしかった。あの「なにがしあわせかわからないです」のセリフは、年齢を重ねた人が言ってこそ説得力があると思います。というか、銀河鉄道にはもっと年寄りが乗ってないと!(笑)
 それと、船が沈むときとカササギの森から聞こえてくる「讃美歌三〇六番」(讃美歌三二〇番)は、歌詞を出してもよかったのでは……。
 「主よ、みもとに 近づかん
  登る道は 十字架に
  ありともなど 悲しむべき
  主よ、みもとに 近づかん」
 この讃美歌があってこそ、灯台守の「峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」の言葉が生きてくると思うんですけどね。

 と、まあ、こんなふうに、『銀河鉄道の夜』は、個人的な思い入れや解釈をもっている方がたくさんいる作品です。ディープでマニアックなファンが多いと言ってもいいでしょうか。ですから、北原氏が『銀河鉄道の夜』をマンガ化すると知ったとき、「うわあ、またいちばん難しい作品を……」となぜか私が頭を抱えてしまった次第。でも、完成したマンガ版を見れば、原作に忠実に、ひじょうにニュートラルな見地から描かれていて、初めて読む方に向けてなら、このかたちが最上だったかもと思えます。

 原作小説を知っている方も、知らない方も、白鳥座、鷲座、琴座が真白き「夏の大三角」を描き、蠍座の赤い星アンタレスがひときわ美しく輝く夜空のもと、ほんわかせつない北原文野版『銀河鉄道の夜』を読まれてみてはいかがでしょう。


「『マンガで読む文豪作品』ホーム社MANGA BUNGOシリーズ」サイト
http://www.shueisha.co.jp/home-sha/manga/bungo/index2.html

第一弾10冊(7月1日発売)リスト
http://www.shueisha.co.jp/home-sha/manga/bungo/bungo.html

集英社文庫「世界をめくろう。 ナツイチ2010」サイト
http://bunko.shueisha.co.jp/natsuichi/


kitahara_ginga.jpg
『銀河鉄道の夜』(MANGA BUNGOシリーズ) マンガ:北原文野
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natsuichi_ginga.jpg
集英社文庫「ナツイチ2010」特装版『銀河鉄道の夜』 表紙イラスト:浅田弘幸
amazon詳細ページへ
 
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2010年07月07日

世界に「こころ」を届ける12歳の郵便配達員……『テガミバチ』

 偶然、先月末に浅田弘幸のマンガ『テガミバチ』(集英社/ジャンプ・コミックス)を読んでいたので、このたび遭遇した「ゆうパック」の遅配との妙な符合に苦笑してしまいました。

 2007年11月に創刊した「ジャンプスクエア 2007年12月号」で見たときから気になっていたマンガ。コミックのカバーイラストが独特のブルー系でまとめられていて、雰囲気があって美しいのですv


 一日中沈むことのない「人工太陽」に照らされたアンバーグラウンド国。人工太陽の直下にある首都「アカツキ」は、女帝を中心に、政府に選ばれたごく少数の特権階級が住まう地だった。アカツキと大河を隔てた外周にある「ユウサリ」は、人工太陽の光がぎりぎり届く黄昏の地で、中産階級が住んでいる。さらに大河を隔てた外周にある「ヨダカ」は、内側から外側に向かうにつれ闇が深くなる夜の地で、下等階級の人々が貧しく暮らしていた。
 これら三つのエリアはそれぞれの大河に一本だけかかる橋で結ばれていたが、それを渡るには政府発行の「通行許可証」が必要だった。通行証は政府に貢献することでしか入手できず、特にユウサリからアカツキへの「首都通行証」はひと握りの選ばれた者にしか許されなかった。

 黄昏の地ユウサリも、夜闇の地ヨダカも、町や村、集落はそれぞれが山脈や砂漠、荒野に隔てられて点在する。人が住まないところの多くには、鎧虫(ガイチュウ)という、人の「こころ」をエサにする、剣も銃弾も利かない生物が巣食っている。離れたところに住む人々の往来は困難で、ましてやエリアを越えて行き来することは不可能に近かった。そこで利用されたのが、郵便である。
 ユウサリの中央市(ユウサリ・セントラル)にある郵便館BEE-HIVE(ハチノス)に所属するのは、アンバーグラウンド国家公務郵便配達員「BEE」。通称、テガミバチ。マニュアルに曰く、「首都をのぞいたこの国の町から町へ旅をし、どんな危険すらいとわず、国民の大切な『テガミ』をお届けする。それこそが、テガミバチの仕事なのです」。


 ヨダカの町レングスのはずれ、コーザ・ベルに母とふたりで暮らしていた7歳のラグ・シーイングは、ある日、「悪いやつら」に襲撃され、家を燃やされ、母をアカツキに連れ去られる。ひとり荒野に残されたラグには、何者かにより切手貼付済みの配達用紙が貼られていた。彼は、テガミバチのゴーシュ・スエードに集荷され、「テガミ」としてヨダカ南端の港町キャンベル・リートゥスに運ばれることに……。

 18歳のゴーシュはテガミバチのエースで、実績と技能を評価され、この配達が終われば、アカツキへの栄転が待っていた。ラグは、母を奪われ、家を失い、知り合いの元とはいえ見知らぬ町に連れて行かれる恐怖と怒りと不安でいっぱいいっぱいになっていたが、ゴーシュは「『テガミ』の内容をテガミバチが盗み見するわけにはいきません」と言い、「(キミ自身のことなど)知ったことではないのです」と突き放す。
 ゴーシュの徹底したビジネスライクでドライな言動に反発しながらも、鎧虫に襲われたときの冷静な対処や、テガミバチへの疑問に真面目に答えてくれる誠実な態度に、少しずつ信頼を寄せていくラグ。テガミバチの使う、自らの「こころ」の欠片を武器とする心弾銃の作用により、ゴーシュの妹や幼なじみの姿を垣間見てからは、親しみも感じるようになる。ゴーシュもまた、ラグが引き起こした心弾銃の暴発によって彼と母親の身に起こったことを知り、「こころ」を揺らされる。

 十日間の旅は順調に進み、明日はキャンベル・リートゥスに到着するという日。母を取り戻すためにアカツキへ連れて行ってほしいとせがむラグを、ゴーシュは拒絶する。ラグを目的地に届けるのが仕事のすべて。ラグの事情は自分には関係がなく、友人となって力を貸すことなどできないと言い放つ彼に失望したラグは、心弾銃を盗み、ひとり白い砂漠を行く。足下の砂が崩れたとき、ラグはアリジゴクのような鎧虫の巣の中にいた。
 ラグ目がけて鎧虫がくり出した角は、駆けつけて彼を庇ったゴーシュを傷つける。重傷を負いながらも、諦めることなくアリジゴクのすり鉢から活路を見出そうとするゴーシュ。
 「命をかけてきみを必ずキャンベルに届けます…!! それがテガミバチの仕事ですから…!!」。
 ずっと反発を覚えてきた「仕事」という言葉の重みをようやく理解するラグ。泣きながら放った心弾は、鎧虫を粉々に吹き飛ばした。

 意識を無くしたゴーシュを肩にかつぎ、引きずって、数十キール(距離の単位)。ラグはやっとの思いでキャンベル・リートゥスに到着する……。
 いよいよ別れというとき、ゴーシュはラグがいちばん欲しかったものをくれた。「友達」という言葉を。「もう…配達は終わったんだよ、ラグ…」「キミはもう『テガミ』ではなく一人前の男だよ…ラグ・シーイング」。

 5年後。国家公務員の一次審査にパスし、国家公務郵便館員の面接審査を受けるため、ヨダカからユウサリに向かうラグの姿があった。
 目標は、すべての人の「会いたくても会えない人」への「こころ」、すなわち「テガミ」を、どんなに困難な条件のもと、状況のもとでも届けることを目指した、ゴーシュのようなテガミバチになること。そして、いつかアカツキに渡り、ゴーシュと母に再会する。それだけを胸にユウサリ・セントラルに到着したラグを待っていたのは、過酷な事実だった。4年半前、アカツキで勤務していたゴーシュは「こころ」を失い、BEEを解雇され、行方不明になっていたのだ。
 テガミバチとして世界中を旅し、ゴーシュを見つける。「こころ」を失っているなら、取り戻してみせる。──新たな決意を固め、新米テガミバチの配達行が始まった。


 以上のあらすじは1・2巻のもの。10巻を重ねた今、物語はかなり核心に近づいてきました。
 ラグについては、女帝に似ている母親のこと、「瞬きの日」生まれであること、左目が精霊琥珀の義眼であること、自身の持ち得ない記憶の風景をもっていることなど、「人工太陽」との接点をさまざま感じるのですが、「太陽神」の名をもつ子なのでそんなに心配していません。
 さて、「人工太陽」に代わるエネルギー源として、太古に存在した「大地のエネルギーを宿した精霊虫」を人工でつくろうと、政府が行なったと噂される「人工精霊計画」。計画では、ヨダカやユウサリからアカツキに呼び寄せられた人間がさまざまな生物と融合され、ことごとく失敗作として廃棄されたと囁かれています。かろうじて生き残った実験体たちは「精霊になれなかった者」と称し、反政府組織「リバース」を結成。格差社会の象徴である「人工太陽」の消滅と「闇」のなかでの世界の再生を画策します。
 ゴーシュの相棒(ディンゴ)のロダは、もとはイヌに似た生き物でした。彼女は「人工精霊計画」によって少女の姿となり、過去の記憶を失ったまま、「リバース」のロレンスの命令でノワールのディンゴになります。
 「精霊になれなかった者」を名乗り、「リバース」の重要人物らしいロレンスが、瀕死の状態で「こころ」も記憶も失ったゴーシュにかけた言葉が、「『光』から生還した、たった一人の人間」。ロダも「彼は世界を救うために必要な人」なんて言ってます。
 ついでに、ラグの左目に定着している精霊琥珀のように、本来の「こころ」を失っても心弾銃が使えるゴーシュのように、アルビス種は精霊虫と相性がいいらしい。……などなどキーワードを拾っていくと、「黒(ノワール)」の別名をもつゴーシュの先行きはまさに真っ暗としか思えない。ラグ、なんとかしてください……。
 「毒なしの物語で」という作者の言葉を信じたいところです(表向きはさまざまな人に「こころ」を届けるほのぼのした物語で進行してるけど、裏はけっこう毒が含まれているので、かなり不安)。


 この『テガミバチ』、2009年10月3日〜2010年3月27日にアニメ作品が放送されました。現在もテレビ東京で毎週木曜深夜3:40〜再放送中、キッズステーションでも放送中です。特に前半の原作にあるストーリーの話数はとってもいいできだと思います。アニメとして面白いv
 10月より第2期が放送予定です。第1期がコミック第5巻までだったので、第2期はラグ&「ハチノス」VSノワール&「リバース」のストーリーになりそうですね。
 個人的に「カベルネ」がアニメ化されるとどんな色になるのか見てみたい。幼虫時代にノワールの心弾におびき出されるようすがかわいいのです。成虫になってからは恐怖の権化ですが、色が気になるのですよ。かわいい水色とかだったらどうしよう……。オニヤンマやキンヤンマよりギンヤンマが好きv
 原作コミックもアニメ第2期も楽しみな作品です。


「ジャンプスクエアSQ.『テガミバチ』」サイト
http://jumpsq.shueisha.co.jp/contents/t_bachi/index.html


「テレビ東京・あにてれ『テガミバチ』」サイト
http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/tegamibachi/


「テガミバチ」公式サイト

http://www.tegamibachi.com/
 
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2010年06月12日

アジサイ・ブルーと『天を見つめて地の底で』

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 自宅近くの遊歩道に咲いている紫陽花が異様に青い……。ガクアジサイは「エゾ青ガクアジサイ」だよね。セルリアンブルーのほうは「ヒメアジサイ」? 植木職人さんに青色が好きな人がいると見た。
 紫色の花はいろいろありますが、青色の花ってちょっとないですもんね。

 こだわりついでに「シチダンカ(七段花)」も植えてほしかった。シーボルトが『日本植物誌』で紹介したにも関わらず、日本人は誰もその実物を見たことがなかったという「幻のアジサイ」。約130年後の1959(昭和34)年、神戸の六甲山でその存在が確認されたのでした。
 これもけっこう濃い紫や青色に咲きますよ。いかがですか?


 帰りがけに書店に寄ったら、マンガ雑誌コーナーに平積みにされていた雑誌にとても懐かしいキャラクターを発見! 高橋美由紀の『天を見つめて地の底で』の聖さんではないですか!! 表紙の煽り文句は「あの伝説の作品が、新シリーズで奇跡の復活!」。ええええーっ!? というわけで、「ミステリーボニータ 7月号」(秋田書店)を持って即行レジへ。
 コミック最終巻の18巻が出たのが2000(平成12)年だから、もう10年も前ですか。『天・地』は相思相愛の天使と人間が、その想いの深さゆえにすれ違いにすれ違いを重ねる物語です。

 天使は、はるか昔、親友のルシフェルに唆され、神に弓を引き、天界から堕とされた堕天使。その後、魔王となったルシフェルの元から逃れた天使は、いつか許されて「天の扉」が開き、天界へ帰ることを唯一の望みとして、人間界を放浪します。人間の歴史に寄り添うような悠久の旅のなか、知り合った人間のひとりから「本條聖」と名付けられ、以後、そう名乗るように。
 ルシフェルは、自分に匹敵する力をもつ聖が敵となるのを恐れ(聖への複雑な思いもあり)、人間界に魔物を送り込んで地底(魔界)へ連れ戻そうとします。また、突然に人間界と魔界を隔てる魔道が開いて魔物が襲来することもあり、聖の旅は常に緊張と戦闘を強いられるものでした。
 そんなあるとき、魔道が開いた高校に女子高生として入り込んだ聖は、同級生の麻宮洋に正体を知られてしまいます。男でも女でもなく、天使の羽と魔物の角をもつ聖。魔物に襲われた人間に哀れみをかけるどころか、むしろ自分を害した人間を囮にして魔物を倒そうとする聖。敵と見なした者は魔物でも人間でも容赦はしない。人間ではなく、聖でも魔でもないその正体を目の当たりにして、なお聖を気づかう洋。長い長い旅路のなかで、聖の真の姿を知っても変わらなかったのはたったひとり、洋だけ。
 その地を去るとき、自分に関わった人間の自分に関する記憶をすべて消去するのが、聖の常。しかし洋の記憶だけは消すことができませんでした。
 ──天使の力は愛する者には効かない。
 洋が自分にとって特別な存在になってしまったことに気づく聖。それはルシフェルの知るところとなり、魔王は「洋が生き続けるかぎり、この国に雨は降らない。それを止めたければ、魔界へ戻れ」と聖に迫ります。未曾有の干ばつに、危機に瀕する日本。
 聖を魔界へ堕としたくない、日本を滅ぼしたくもない。洋にできる選択はたったひとつ。
 洋を失いたくはない、魔界へ堕ちたくもない。聖が選んだのは相討ち覚悟のルシフェルとの決闘。そのとき、乾いた大地に雨が降り出します。
 恵みの雨が降りしきるなか、空に開いた「天の扉」に聖が願ったこと。それは……。

 天の力により聖の記憶を失ったはずの洋。しかし彼は、街なかですれ違った聖の姿に振り返り、そして姿を消すのでした。
 天使と人間、ふたりの旅は続きます。天使は、彼の人間としての人生を壊してしまう前に別れ、自分にとって天にも等しい光である彼の生を陰ながら見守っていきたいと願いながら。人間は、天使が地上をさまようかぎり傍にいてその孤独を癒し、いつか自分こそが「天の扉」を見つけ、天使を天へ帰すのだと願いながら。

 最終巻でようやく別れが前提のすれ違い愛にも決着がついたかと思ったのに、連載再開の『新章』ではまたぐるぐるやってるよ……。
 あれだけふたり共通の友人たちも、魔界の堕天使たちも振り回しておいて、究極の殺し文句で告白をして、また繰り返すのか(主に洋が!)。ほんとにお前らときたら、連載終了から10年経っても相変わらずで、イラッとくるような、ホッとしたような。

 「好いた惚れた」がテーマの小説やマンガ、ドラマが苦手だと思い込んでいた私に、「自分、意外とメロドラマいけるやん!」と開眼させてくれた作品です(笑)。まあ、純粋なメロドラマとは言い難いですけどね。
 1992(平成4)年にイメージアルバムも発売されたのですが、美しくもせつない旋律の楽曲もさることながら、洋のイメージソングを歌う野見山正貴のやさしい深みと色気のある男らしい声がのけぞるほどよくて、今でもよく聴くCDの一枚です(つか、まさに今聴いてます)。

 さて、この『新章』、どう展開していくのか。聖と洋の気持ちが少しは変化したのかどうかも合わせて、しばらく追ってみたいと思います。


「高橋美由紀公式ホームページ」内『天を見つめて地の底で』
http://t-miyuki.jp/prof/?key=A01
 
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2010年02月19日

ディック・フランシスの作品を宣伝してみる

 ディック・フランシスの小説をたとえるなら、現代の『アーサー王物語』だと思うわけです。
 アーサー王の「円卓の騎士」には、「湖の騎士」ランスロット、ガウェイン、ケイ(アーサー王の乳兄弟)、「悲しみの子」トリスタン、「世界で最も偉大な騎士」ガラハッド(ランスロットの息子)、パーシヴァル(「白鳥の騎士」ローエングリンの父親)、ボールス、モルドレッド(アーサー王の息子)などなどが名を連ねています。朝から正午までは力が3倍になるという豪傑や大変な毒舌家がいれば、不倫、二股、禁断の愛に走る者もいたりして、メンバーはなかなかに個性的。
 彼らが目指すものは、王の守護であったり、恋の成就であったり、聖杯の探求であったり、いろいろですが、思いは常に一途です。そして、その行動の根底を貫いているのが騎士道精神!
 まあ、アーサー王ファンにとってみれば、ランスロットはとんでもない裏切り者なわけですが、「最も誉れ高き最高の騎士」が騎士道と不義の恋の間で苦悩し、結局は恋に殉じることになるのが一途といえば一途。その人気ぶりは、トランプの絵札、クラブのジャックになってしまったほど。

 フランシスの小説の主人公たちも、職業、趣味、性格ともにばらばらで、上流階級に属する者から、商業活動の成功者、知識階級、中産階級、労働者階級とそれぞれ「住む世界」も違います。目指すものも、守るべきものの守護であったり、恋の成就であったり、自信の回復であったり、退屈な日常を離れたスリルだったりするわけですが、最終的には「自分という人間の器の確認」に帰結します。さらに、どの主人公の行動にも騎士道精神が感じられて、敵にまっすぐに挑んでいくその姿には中世の騎士の面影が重なるよう……。
 この、帰結する部分が同じなところと、主人公全員が騎士的行動をとるところが、フランシスの作品がマンネリと言われる所以なのですが、人気作家となった理由もそこにあるわけで。読み手が主人公の行動に共感を抱き、むしろカッコいいとさえ思い、読み終えて「ああ、すっきりした」と思える作品を1年に1作というペースで生み出し続けたことに、フランシスの偉大さがあると思うのです。

 実際、英国の男性を見ると、行動の基盤には未だに騎士道精神が息づいているんだなあと感じます。特に女性への礼儀とか、他人への親切とか、言動に誠実で、寛大であろうとするところは、美徳だと思います。ただ、それらは自分に自信と余裕がないとなかなかできないところで、気位の高さも見え隠れするんですけどね。

 もうひとつ、特筆すべきは、歴史のなかで脈々と受け継がれてきた英国独特の階級意識で、フランシスは小説の登場人物たちの言動においてそれをみごとに描写しています。そこは、ウェールズの騎手の家に生まれ、障害競馬の騎手となり、最多勝利騎手の栄誉を得て成功。さらにクイーンマザー(エリザベス王太后)の専属騎手を務めることになったフランシスならでは、ですね。英国社会や英国気質を知る上でとても参考になります。

 フランシスの競馬ミステリーは43作。そのうち、シッド・ハレーを主人公にしたものが『大穴』『利腕』『敵手』『再起』の4作、キット・フィールディングを主人公にしたものが『侵入』『連闘』の2作。総勢39人の現代の騎士たちの活躍を、未読の方はぜひ目にしていただきたいと思います。

 2000年以降、作品が発表されなくなったので、覚悟はしていたんですけどね。'06年に息子さんとの共著で『再起』が、それからも『祝宴』『審判』『拮抗』と出版されたので、ほっとしたりしてたのですが……。
 訃報を聞いて「年齢的には大往生」と思いつつも、もやもやと気が晴れません。夏夕介に引き続いてだからかなあ。それとも、ここのところ名を知る方々の訃報が続くからでしょうか。切ないですね。


<余談>
 ちなみに、トランプの絵札のモデルは以下のとおり。
[キング]
スペード=ダビデ王、ハート=カール大帝(シャルルマーニュ)、ダイヤ=カエサル(ジュリアス・シーザー)、クラブ=アレキサンダー大王
[クイーン]
スペード=パラスあるいはパラス・アテナ(ミネルヴァ)、ハート=ユディト(ジューディス)、ダイヤ=ラケル、クラブ=アルジーヌ(アージン/regina(女王)のアナグラムでマリー・ダンジューあるいはアニュ・ソレル)
[ジャック]
スペード=オジェ・ル・ダノワ(ホルガー・ダンスク)、ハート=ラ・イル(エティエンヌ・ド・ヴィニョル)、ダイヤ=ヘクトル、クラブ=ランスロット

 全部わかる人は、かなりのヨーロッパの神話・聖書・歴史通だと思います。
 
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2010年01月19日

神社にまつわる幕末小説『ゆめつげ』で、時代の空気を感じる

 4、5年前に「時代小説ブーム」と聞いた気がするのですが、今も続いているみたいですね。書店に行くと時代小説を集めたコーナーが設置されていますし、新刊も平積み、棚にあっても面出し率が高い。もともとブームだったところに、歴史ブームも加わっていよいよ磐石というところでしょうか。
 池波正太郎、柴田錬三郎、藤沢周平、山田風太郎、司馬遼太郎といった時代小説・歴史小説の大御所に加えて、最近では『バッテリー』のあさのあつこが『弥勒の月』『夜叉桜』を、SF・ライトノベル作家で『蒼穹のファフナー』『シュヴァリエ』『ヒロイック・エイジ』のアニメの原案・脚本でも知られる冲方丁(うぶかた とう)が『天地明察』を発表するなど、意外な作家の参戦もあって、目が離せなくなってきました。

 私はと言うと、時代小説はめったに手に取りません。司馬遼太郎の歴史小説はそこそこ読みましたが、時代小説については、記憶にあるのは平岩弓枝の『御宿かわせみ』シリーズを何冊かと宮部みゆきの『初ものがたり』くらい。事務所の所長には「藤沢周平くらい読め」とよく言われるんですけどね。藤沢周平の美文は、一度は触れておくべきなのだとか。


 さて、年末の帰省のおり、新幹線の中で読もうと持ち込んだのが、畠中恵の『ゆめつげ』(角川書店/角川文庫)でした。氏の代表作『しゃばけ』シリーズのうち『しゃばけ』『うそうそ』がTVドラマ化されたので、ご存知の方も多いでしょう。本書『ゆめつげ』は『しゃばけ』シリーズではありませんが、やはりファンタジーよりの時代小説です。

 黒船来航から10年を数えた、江戸時代末期のお江戸は上野。その片隅に、宮司の父親と禰宜(ねぎ)の兄弟が切り盛りする小さな神社──清鏡神社がありました。兄の弓月はのんびりとしたお人好し。しっかり者の弟・信行は、兄のトボけた言動にツッコミを入れつつも、そのつかみどころのなさを案じています。
 そんなある日、白加巳(しらかみ)神社の権宮司・佐伯彰彦が訪ねてきました。極上の社格を誇る神社の権宮司の来訪を訝しむ父子に、彰彦は夢告を依頼します。実は清鏡神社にも小さなウリがあり、それが弓月の夢告こと夢占いでした。精神統一することで神鏡に夢を結び、それを読み解くのです。ただしその神託は的を外してばかりで、故に氏子しか知らない「小さなウリ」だったのです。
 彰彦に見せた夢告も、的外れな結果に。しかし彰彦は白加巳神社でもう一度占ってほしいと言います。本殿の修理にも事欠く清鏡神社。弓月は屋根の修理代と引き換えに、大物札差(ふださし)の行方不明の子どもについて占うことに……。

 既読の『しゃばけ』でも感じましたが、畠中氏はまず導入部分が上手い! 禰宜の兄弟が辻斬りに襲われる、たった5ページの緊迫感に満ちたシーンのなかで、黒船来航後の幕末であること、浪士による辻斬りが横行していたこと、そして禰宜兄弟の人となりまで、読み手に伝えてしまいます。
 今は何年何月で、場所はどこで、その時代の世情はどうで、登場人物の容姿性格はこうで、などと説明文で行を埋めなくても、事件と同時進行で物語世界を表現してしまえるという、これはいいお手本です。

 また、古い言葉遣いやセリフ回しを多用していないにもかかわらず、江戸時代に生きている人が話しているように感じられるところもさすが。それは、登場人物の立ち居振る舞いや価値観が、現代ではありえない、時代という枠の中にきっちりはめられていてブレがないから。また、建物や小物、着物などの風俗に、時代が吟味されているから。
 私は江戸時代をよく知りませんから卑近な例で言いますと、昭和40年代前半までの低所得者向けアパートで、部屋の電話が鳴る描写はおかしい。当時は電話加入権が高額だったので、たいていの店子は電報か大家の電話を使っていましたから。今は希少になったであろう「呼び出し電話」ですね。
 そういうレベルでの「あれ?」と引っかかるところがないというのは、その文章が書かれるまでに膨大な調査があったということ。畠中作品のいいところは、調査した事柄をいちいち得々と書いてしまわないところ。知識も情報も文章をつくるための材料に過ぎず、どんどんそぎ落として知識とも情報とも感知できないように埋没させてしまう。引き算の文章づくりは、つい衒学に走る私などは見習うべきところです。

 とは言っても、時は幕末、舞台は神社です。当時の神仏習合の実態、やがて明治政府が発布する「神仏判然令(神仏分離令)」や神官・社家の世襲を禁止し、政府任命の神職が神社に奉仕することになる「太政官布告」を予感しての、神職たちの不安や動揺がかなりリアルに描かれていて、思わぬところで勉強になりました。
 幕末の「浪士の辻斬り」も、これまでは新選組や新徴組と尊皇攘夷浪士や不逞浪士との戦いの狭間で起こったことのように感じていました。でも辻斬りに襲われた弓月と信行の必死の逃走に、身を守る武器を持たない町人にとっては、当然のことながら、恐怖以外の何ものでもなかったよなあと見方が変わりました。

 物語が進むにつれて、弓月から立ち上る血臭が強くなってきます。弓月が夢告をしないと事態が進まないという、ストーリー的に平板に陥りそうなところ、血の色と匂いがおどろおどろしくも危機感を高めていきます。
 白加巳神社の付近で辻斬り浪人が消え、境内で人が殺される……。謎もどんどん増えますが、最初に提示された「行方不明の子どもの謎」が、敷かれた伏線の集束するところで解決されるのが気持ちいい(途中で◯◯トリックと気づきましたが、意外に思う部分もあって、得心の膝打ち!)。手馴れた物語構成は、まさに「信頼と安心のクオリティ」です。

 惜しむらくは、弓月と信行の兄弟のやり取りが物足りなかったこと。弓月の視点で書かれているので、他の登場人物について描ききれないのは仕方がないのですが。いちばん身近な存在で、頼りない兄を叱りつけながらも、その心のあり方を心配しているという(兄弟萌えにはたまらない)設定でもあるのだから、そのあたりをもう少し掘り下げてほしかったですね。弓月の思いの比重が彰彦に傾いてしまったのがちょっと残念。

 あと、白加巳神社の境内の見取り図が欲しかった! 小説を読んでいて、なにかしらの絵図が欲しいと思ったことなどありませんが、『ゆめつげ』に限っては「建物の位置関係がわからない」と頭を抱えてしまいました。参詣したことのある神社の記憶を呼び起こしながら、「拝殿がこのへんにあるとすると、庁屋はこの位置?」「水堀って、東殿とどういう位置関係?」などなど想像しましたが、見取り図があれば、この苦労は無用だったはず orz。

 ま、そんなことは枝葉末節。最後はサイキック弓月のパワー全開で、余韻のある引きもいい。時代小説入門に適した作品だと思います。未読の方は、ぜひご賞味あれ。
 
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2009年06月10日

腑甲斐ないファンでごめんなさい……『XAZSA(ザザ)』

 仕事で資料として必要な雑誌のバックナンバーを探すために、渋谷のまんだらけと池袋のまんだらけとK-BOOKS、ついでにアニメイトを回りました。BLゲーム系の雑誌に関しては、池袋のK-BOOKSが揃っているし、値付けも安いと学習。またの機会があれば、池袋の乙女ロードに直行だ! メモ代わりに書いておく。

 渋谷のまんだらけの近くにある古書店にもダメ元で寄ってみたら、探しているものはありませんでしたが、若木未生の『XAZSA メカニックスD』(集英社/コバルト文庫)を発見しました。うわあ、出てたんだーっ! 奥付を見たら、2000年6月の発行。時期的に絶版になってる可能性もあるので、即確保。105円だもの。書店で見かけたときに買い直しても惜しくない値段です。
 シリーズものがほとんどの若木氏の作品のなかで、「ハイスクール・オーラバスター」シリーズを長らく追いかけていました。水沢諒くんが好きで好きで……。過去形なのは、徳間書店デュエル文庫から出た『オーラバスター・インテグラル 月光人魚』を買い逃したからです。いつの間にやら出版されて、いつの間にやら絶版(重版未定)に。外伝とは言え、なんてこったい orz。
 でも、若木作品のなかでいちばん好きなのは短編連作の『XAZSA』なんです。ですから、久しぶりにザザ野ザザ太郎ことXAZSA(ザザ)や京平さん、真砂くん、シグマ、ゼロ、お嬢の物語を読んで、長く会ってなかった旧友に街で偶然再会したような、懐かしくもうれしい気分になりましたv 京平さんじゃないけど、「ひどく遅くなってごめん。俺は腑甲斐ないダンナで、二年も君を置き去りにしたけれど」(2年どころじゃねーっ!)なんてね。

 ギターを弾けなくなったギタリスト・早水京平が夜の都会で出会ったのは、「人間になりたい」と願う機械人間(マシノイド)、ザザだった。
 現代版『ピノキオ』か「ピグマリオン」かという感じですが、物語自体がふんわりと手のひらで撫でられるようなやさしさに満ちていて、なにかが癒されたような読後感があります。
 みんな、だれかのためになにかをしたいと思う。それぞれに想う人がいて、その人のために自分を変えようとまで思いつめて、でも一途すぎる想いはすれ違い、哀しみが生まれる。
 若木未生という作家は、現代の「寂しい若者」を描写するのがうまいと思います。自分が言ったことや行なったことを、自分だけの判断で「よかった」「悪かった」と決めつけてしまう。「自分が!こうしたからよかったんだろう」「自分が!こうしたから悪かったんだろう」。それを言われた、あるいはされた相手がどう思ったかを尋ねて確認することもなく、「こうしてやったんだから、あの人はうれしいはずだ」と独善的な満足感に浸ったり、全能感を抱いたり、「たぶんあの人はこう思っただろう」「自分のこと、嫌いになっただろう」「許してくれないだろう」と自己嫌悪・自己否定の深みにはまっていったり。まさにコミュニケーション不全と自意識過剰がつくりあげた、世界に<自分>しか存在していない「寂しい若者」たちが、彼女の作品には姿を変え、かたちを変え、多く登場します。

 「ハイスクール・オーラバスター」シリーズでは、それが時空を超えて続いてきたトラブルの根源だったりするので、相手を思いやる気持ちのなかに「自分さえ犠牲になれば」「あの人の幸せこそ、自分の幸せ」という、突き詰めれば自己満足に帰結する感情がある以上、真の解決は遠いものに思われます。
 「オーラバ」に関しては、若木氏自身がたいへんな深淵にはまってしまったんじゃないかと、ひそかに思ってるんですけどね。「世界は不完全だから美しい」というところで、バランスを保っていくしかないんじゃないかな、とか。
 
 『XAZSA』においては、突っ走る少年少女の独り善がりの思い込みや自意識過剰をへし折る人物が登場します。生活能力ゼロで、職業不定で、元家出小僧で、自分の「魂」であるギターを弾き続けるためなら人を泣かせても平気とうそぶく自称「冷たい人間」で、心に深い傷を負っている早水京平こそ、その人。この世に誕生して3年のザザとか、誕生したばかりのシグマとか、11歳の天才少女とかは、この飄々としていて、軽口が達者で、めったに本当の感情を見せない20代の青年にかかっては、ひとたまりもありません。主張は論破され、隠していた、あるいは気づかずにいた気持ちをきれいにすくい上げられてしまいます。
 こんがらがってしまった人間関係も、部外者の立場で見渡せば、もつれた根っこが見えてくるもの。そこをきちんと指摘して、真の想いに気づかせることができる京平の言葉がいちいちカッコイイですv
 そうしてお子サマたちを諭すうちに、京平自身も自分の心の傷を癒していくところが最高にいい。失ってはいけないものを失った哀しみばかりで、自身も他人も見失っていた彼が、義弟の真砂や音楽仲間たちに見守られていることに気づいて自分の存在意義を取り戻し、ザザやシグマに慕われて「人間とはなんなのか」を考えるようになり、最後には失っても失えないものの存在に気づく。彼の再生の過程は、人間同士の思いやりと語らいこそが人を生きさせてくれるのだと、そっとささやくように教えてくれます。

 特に『XAZSA ver.2』のクライマックスは、もう「できすぎ!」っていうくらいに快感です。初めて読んだときは、「これぞ小説の醍醐味だよ!」って思わず心のなかでスタンディングオベーションしちゃいました。
 『XAZSA』は、人間になりたい機械人間の物語というSFの体裁をとってはいますが、「寂しい若者」たちに「それでいいの? 自分の気持ち、言わなきゃわかってもらえないよ。相手の気持ち、聞かなきゃわかり合えないままだよ」と問いかけている現代小説のような気がします。

 ライターの仕事については「我が前に人なし、我が後に人なし!(>ダメじゃん)」と断言しますが、趣味の創作のほうではわりと宮部みゆきと若木未生に影響を受けちゃってます。ちょっと悔しかったりするんですけどね。
 
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2009年06月07日

三読目でハマった「萌えの宝箱」……『夏目友人帳』

 アニメ第一期が始まったときは、興味の大きさはアニメ>原作マンガでした。仕事でアニメについての紹介記事を書かなくてはならないという事情もありましたけどね。ところが、昨年9月にアニメ第一期が終わってから、俄然、原作マンガが気になるように……。20年ぶりくらいに「月刊 LaLa」を買っちゃったりしました。
 その作品とは、『夏目友人帳』(緑川ゆき/白泉社 花とゆめコミックス)です。

 最初に原作コミックを読んだのは、仕事で関わる前。今市子の『百鬼夜行抄』(朝日ソノラマ・朝日新聞出版)に似たマンガがあると聞いて、「それは好みのど真ん中に違いない!」と書店に行きました。当時、3巻まで発行されていましたが、2巻がなかったので1巻と3巻を購入。でも、このときはなんだかピンと来なかったんです。
 まず、キャラクターの立ち位置が『百鬼夜行抄』にかぶるのが気になりました。夏目貴志(夏目)が飯嶋律、夏目レイコが飯嶋伶(蝸牛)、ニャンコ先生(斑)が青嵐、名取周一が飯嶋開というぐあいに。加えて、画面に描かなければいけないところと描かなくていいところの選択、コマ割りによる緩急のつけ方に鈍いものを感じて、物語に素直に入れない。ストーリーは読み切りとしてまとまっているし、感動もできるのに惜しいなと思ったきり、本棚にしまってしまいました。

 その後、アニメ化決定。作品を雑誌で紹介するということで、5巻まで揃えました。ひととおり目を通したのですが、やはりハマれず。しかし、アニメの大森貴弘監督にインタビューした際、「原作を読んでいると、ちょっとしたひとコマに、ニャンコ先生のアップが描かれていたりするんです。…(中略)…『このニャンコ先生の表情の切り取りはなんだろう』ってすごく気になってきて……」(「Charaberrys Vol.5」P.32より)と言われて、「ああ、そういえば、『夏目友人帳』は夏目貴志の視点で物語が描かれているのに、夏目が気づいてなさそげなニャンコ先生の表情のコマが入るよなあ」と気づきました。
 そこでようやく、ニャンコ先生が夏目を見守ると決めたとき、そのベースには夏目の祖母であるレイコへの想いがあったことの裏付けが取れたのです。……私的な解釈のなかでの話ですが。
 1巻を読んだときになにより気になったのが、なぜニャンコ先生が「妖に名前を返す」という夏目につき合う気になったのかということだったんですね。「隙を見て『友人帳』を奪う」「隙を見て夏目を食う」「暇つぶし」「結界を破ってもらったことの御礼」という動機づけでは、「妖に名前を返せば、『友人帳』が薄くなる(=支配できる妖が減っていく)」というデメリットと引き比べたときに弱いなあ、と。「見届けよう」とニャンコ先生(斑)が言うまでのところで、描くべきなにかが抜けているんじゃないかと思ったことが、「この作品にはハマれそうにない」と感じたいちばん大きな理由だったのです。
 それがまあ、ニャンコ先生ったら、夏目がジタバタしているコマとコマの間でこっそり感情表現をしていたとは、奥ゆかしいったらありゃしない。そういう解釈で読み直すと、ドッジボール2個分の招き猫な体形に似合わぬニャンコ先生のロマンチストっぷりにくらくらキます。いやあ、甘酸っぱいなあ(笑)。

 で、アニメ第一期が終わり、仕事と関係なくなったところで腰を据えて読んでみたら、どっぷりハマッてしまったわけです。5巻を数えるうちに夏目の世界が広がって『百鬼夜行抄』の印象が薄くなったことも一因ですが、同時に夏目の心の動きがどんどんかわいくなっていくのがね……。もうキュンキュンですよっv
 そもそも、私、子どもが大人に守られるという物語は大好物です。親子や祖父母と孫といった「血縁関係もの」も好きですが、寄る辺ない子どもが赤の他人である大人に守られるというのに、すごく弱い。とっても弱い。それも、ひたすら庇護を求めるだけの弱い子どもではなく、なにかしらのポテンシャルを秘めていて、それがチラチラ垣間見える、本人は「守られたい」とはまったく思っていない、ちょっと生意気なくらいの子どもがツボです。口先と行動力は一人前だけど、経験値の低さからくる猪突猛進と迷走を遺憾なく発揮する子どもを、大人がフォローしてやるという図にたいへん萌えます。大人のほうは、積み重ねてきた経験の分、余裕をもって子どもにつき合える、大人らしい大人であることが条件です。

 作品中、ニャンコ先生は、夏目の言動に対して「阿呆」「またお前はやっかいなことに首つっこみおって」とは言っても、「お前は我がままだな」と返したことはなかったと思います。そこが好きです。他人の言動を「我がまま」と感じるのは、「自分はその言動を容認できない」ということですよね。「容認できないけど、我慢してやるんだ」という、自分基準の上から目線が働いている。
 夏目がなにをしても、それを受け入れて、必要なときにはフォローに入る。悪態をつきながらも、決して夏目に「我がまま」という言葉を投げないニャンコ先生に、私は理想的な「大人の余裕」を感じます。
 藤原夫妻も夏目に「我がまま」と言ったことはありません。でも名取は冗談に紛らわせつつ「我がままだなぁ」と言っちゃう(柊が代弁したりね)。名取、まだ23ですからね。
 たぶん意図されてのことだと思います。そういう繊細な言葉の選び方が好ましいです。

 幼いころから、目にしているものが人間なのか妖怪なのかわからないほど、はっきりと妖怪の姿を見てきた夏目(映画『シックス・センス』のコール・シアーの視界に近いとしたら、かなり怖い)。ふつうに見えるソレをふつうに口に出せば、周囲の人から「ウソつき」と言われ、親がいない寂しさから構ってもらいたくて怖いことを言うのだろう、親戚中をタライ回しにされて情緒不安定になっているんだろうと、冷ややかな目で見られ、いじめられ、忌避される始末。
 それまで引き取らざるをえない荷物として家から家に受け渡されてきた彼が、ついに出逢ったのが、「私たちの家に来てくれない?」と声をかけてきた藤原夫妻。生まれて初めて存在を望まれた夏目は、「藤原家では妖怪が見えることは言わない。夫妻を怖がらせるようなことは絶対にしない」と誓い、妖怪絡みの出来事に巻き込まれても「なんでもありません」とウソをつきます。それは学校でも同じで、妖怪の存在を感じてしまう田沼と先祖が陰陽師で妖怪にくわしい多軌以外の友人には、挙動を不審がられてもごまかしています。
 しかし、藤原家のある土地は、「友人帳」の元の所有者であり、妖怪に名を知られたレイコが住んでいたところ。今まで以上に妖怪に絡まれるはめになった夏目は、そろそろウソでごまかしきれなくなってきているようです。「何やってんだ」って北本と西村に怒られちゃいましたよ。

 昔はウソなんかついてなかったのに、「ウソつき」と言われた。今は妖怪が見えることと「友人帳」の存在を隠すためにウソをついている。しかし藤原夫妻や名取に心配されて「ウソをつくのか、この人たちに」と惑い、初めて友人にかばわれて「幸せなんだ。どうすればいいんだろう」と布団のなかで泣いてしまう夏目。カイの件では、離れて行く人の背中を追いたいと思うことのなかった自分は、仲直りの方法を知らないのだと愕然とします。
 孤独で頑なで自己否定ばかりだった夏目の心が、どんどんやわらかく広がっていくのが心地いいです。人のやさしさに驚いて、顔を赤らめて、素直な表情を見せた挙げ句に泣いちゃうような夏目がほんとにかわいい。

 一方、拳ひとつで妖怪を退けてしまう、レイコ譲りの強力な妖力と、妖怪たちを支配できる「友人帳」をもつ夏目は、妖怪祓いを生業とする呪術師たちのリーダー的存在である的場に目をつけられたようで、こちらの展開も目が離せません。

 とりあえず7月3日発売予定の『夏目友人帳』8巻は、文化祭でおめかしする夏目や友人たちに囲まれて幸せな夏目や田沼のために奔走する夏目がいっぱいで、夏目と藤原夫妻の出逢いもあって(たぶんそこまでの話が収録されるはず)、キュンキュンすること間違いなし。もちろんニャンコ先生の中年妖怪的な魅力もむんむんなので、みんな、買えばいいと思うよ! ほとんどの話数を「LaLa」で読んじゃった私も買いますとも。2話分ほど買い逃してるし orz。
 ずいぶんな回り道をしてハマッた『夏目友人帳』。一読して「ツボと違う」と思った作品も、再読してみれば、案外「萌えの大漁船」だったりするかもしれません。
 
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2009年01月24日

幻月が結び合わせたふたり……『幻月楼奇譚』

 「Chara」2009年2月号(徳間書店刊)を購入しました。約1年に一度掲載される、今市子の『幻月楼奇譚』のためです。今のところ、単行本化を待ちきれず、雑誌を買ってしまうほどにのめり込んでいる作品はマンガも小説もないのですが、『幻月楼奇譚』は特別です。コミックにまとめられるのは何年先かという状態ですから orz。
 ある書評サイトで、この作品のほぼ年一連載について「今市子は自分のなかの時間の流れを早くしてください!」と書かれていましたが、まったくそのとおりと言いたいです。

 昭和初期に近いいつかの時代を舞台にした、このシリーズの主人公は男性ふたり。
 江戸時代から続く高級味噌屋の若旦那、鶴来升一郎は世事に疎く、言動がどこか素っ頓狂。上背のある美男子で、容姿に惹かれる女性は数多。絵画、工作、歌舞音曲など、なにをやらせてもそこそここなすが、こなせるがためになにごとにも情熱がもてない。亡父の跡を継いで鶴来屋の主人となるものの、商売にも熱心になれない。
 コミック第1巻に収録のシリーズ初期作では、そんな升一郎が実はなかなか食えない性格をしており、それに吉原遊郭の幇間(ほうかん/たいこもち)の与三郎が振り舞わされるというお話でしたが……。「与三郎(切られの与三)」というあだ名の由来となった身体中の刀傷の因縁話が描かれたあたりから、与三郎のキャラクターがぐっと立ってきました。
 「お前に味噌屋の主人なぞ務まるもんか」と父親に笑われたことが心に刺さり、「やりたいことがなにもない」と嘆息する升一郎。そんな彼が、「幻月」の光の導きか、初めて興味をもったのが、長唄・三味線がからっきしダメで、得意は怪談の語り聞かせという三流幇間の与三郎。過去に全身に刀刃を浴びて長く生死の境をさまよった彼は、今なお片足を冥府に突っ込んでいるのだとか。故に目に見えないものが見えるため、そこからネタを拾って、仕立てた怪談を“売り”にしています。
 言動が率直すぎて世間知らずに見える升一郎ですが、かなりの頭脳派。愛憎の修羅場をくぐり、吉原という苦界を泳ぎ渡ってきた与三郎も、(主に悪知恵的な意味で)頭が切れます。すべてを語らずともツーカーで話が通じる(おかげで、読むほうには脳内補完が必要なときが……(笑))ふたりが、人ももと人であった者も訪なう吉原の茶屋「幻月楼」とその周辺で起こる不思議な事件に関わったり、解決したりしていきます。

 常に升一郎が一方的に与三郎に言い寄っている態ではありますが、話数を重ねるに連れて、与三郎も徐々に絆(ほだ)されてきたようす。まあ、其ノ一から幻月楼では「升一郎は与三郎の情夫(いろ)」と公認されていますけどね(笑)。

 さて、『幻月楼奇譚』其ノ十です。まずは「そうかあ。ようやく10話になったかあ」と感無量でした。そんな作品、ほかにはありません orz。
 これまで、升一郎の求愛行動は実を結ばないまでも、いいコンビネーションを見せてきたふたり。しかし、なんと別れたらしいというところから物語は始まります。
 同居する従弟で味噌職人の太郎の見合いに、なぜか熱心な升一郎。一方、与三郎は子どもを拾い、幻月楼の女将に下足番として預けます。一見、まったく関係がないこのふたつの事柄が一本の糸に縒り上がっていくさまは、おみごとさすがの今市子。
 相変わらず一回読んだだけではわからない部分があって、二度三度と読み重ねて「そういうことか」と得心する次第。今回は、殊になぜ「吉原百人斬り」こと『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』が関わってくるのかの解釈に悩みました。

 いちばんの見どころは、与三郎が升一郎に啖呵を切る場面。其ノ七では升一郎を食いモノにしようとする彼の悪友にみごとな啖呵を切ってくれましたが、今度は升一郎に向かってですよ。幇間という商売柄に処世術も働いて、ヘラヘラするばかりで真意を見せない与三郎ですが、本気で怒ると、まとう空気がとたんに鋭利になります。その威力、押しの一手の升一郎が近づけなくなるほど(笑)。与三郎のほうが年上ですしね。
 さらに、眼鏡をはずしたら役者顔のご尊顔や、「なるほど。これは升一郎が見たがるはずだ」と納得の寝顔に寝乱れた姿も見せてくれます。
 其ノ七の「吸い付けたばこ」の件やこのたびの貸し座敷の件など、遊郭の流儀や挑発の流し方がわからない升一郎もかわいい。洗練されているのに野暮という抜けっぷりと、去る者追わずで鷹揚なわりに、与三郎にだけは執着する偏りが、升一郎の魅力でしょうか。

 一話完結の事件ものという体裁ですから、続けようと思えば、どこまでも続けられる作品です。気になるのはやはり、二歩進んで一歩下がるような升一郎と与三郎の関係がどうなっていくのか、ですね。今氏の作品は焦らして焦らして最終話でようやくカップル成立という話が多いので、さて升一郎の恋路に決着がつくのは何年先やら。
 そのときが早く見たいけれど、でも長く続いてほしい。次に読めるのは……やっぱり来年でしょうかね。

 コミックスは2巻まで発売中。1巻には其ノ一〜其ノ四、2巻には其ノ五〜其ノ八が収録されています。3巻は2年後かなあ(笑)。
 描写はキスまでですが、ボーイズラブ作品ではありますので、苦手な方はご注意ください。
 
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2008年09月03日

20年越しのナイトメアのイメージ

 本年12月に公開予定の映画『悪夢探偵2』の試写会に行ってきました。原作・製作・脚本・撮影・編集はすべて、塚本晋也。まさに塚本ワールドという作品になっています。主人公の「悪夢探偵」こと影沼京一を演じるのは、松田龍平。
 映画の紹介はいずれ仕事のほうでできたらと思います。

 今回は『悪夢探偵2』に絡めて、「悪い夢」を扱ったマンガの話などを。
 私の大好きな作品に、杉山志保子の「ばくシリーズ」(白泉社/花とゆめコミックス)があります。シリーズを収録したコミックスは『ばくの飼い方教えます』『天使が僕に堕ちてくる』『幻獣博物館』の3冊。『ばくの飼い方教えます』の初版発行が1988(昭和63)年10月。第1作目の「ぼくらはみんな起きている」が今は無き「花ゆめEPO」に掲載されたのが1986(昭和61)年ですから、実に20年以上前の作品になります。
 最近、杉山先生が『アンジェリーク ラブラブ通信』『ネオロマンス通信Cure!』『コミック アンジェリーク』などでご活躍中と聞いてなんだか安心したのでした。ただ、「ばくシリーズ」はおそらく絶版だと思われます。なので、簡単に内容をご紹介しますね。

 高校生の御与士郎(おき よしろう)は、保健省精神衛生局心療課に所属する国家公務員でもある勤労学生。なぜ高校生が公務員をやっているのかと言うと、彼はテレパシー(精神感応能力)をもつ超能力者だからです。
 保健省精神衛生局心療課とは、人びとの心の悩みが寄せられるセクション。拒食症の児童相談から、殺人願望のみが人から人へ乗り移っていく連続殺人犯の捜査、クローン再生技術で生み出された感情をもたない実験体の保護などなど、「精神」が絡む、常識では割りきれない相談事や事件・事故を専門に扱います。表に出ない心の深層を探らなくてはならないため、心療課の実働部隊はほとんどがテレパス(精神感応者)。彼らは、人の悪夢を食べるという貘になぞらえて、「ばく」と呼ばれています。

 両親を早くに亡くした与士郎は、猫のよたろうとふたり暮らし。人格が分裂した少女の精神を分裂前まで遡らせて、後から生まれた人格を消し去ったり(元の少女は与士郎の親友の彼女で、分裂した人格の少女は与士郎が好きというオマケつき)、自覚のない三角関係で悩んでいた老婦人の心のなかに入り込み、恋心を好意に置き換えてつじつまを合わせたり……。「象の不眠症も治す」と言われる彼は、クレヤボヤンス(透視能力)やサイコキネシス(念動力)もこっそり使えたりする、心療課きっての凄腕の「ばく」だったりするのです。

 与士郎の姿を借りた超能力者の悪戯で心療課のメンバーに狩られるハメになったり、テレパシーの波長がターゲットと同じだったという理由で暗殺者に命を狙われたり、彼の能力を欲しがっている企業に洗脳されて、仲間と戦わされそうになったり……。
 そもそも、10歳のとき、母親の死について心療課に記憶操作され、記憶も自覚もないまま残ってしまった罪悪感のせいで心療課の仕事を受けるようになったのかも……という、どこまでも不幸体質な彼。
 けれども、消えた少女に涙を流し、感情が芽生えたばかりの女の子の背中を前に進めるよう押してやり、自分を殺しかけた暗殺者を許してしまう、そんなやさしさを失わずにいるのは、与士郎自身が孤独のつらさや心に受けた傷の痛みをよく知っているから。それに、与士郎の連日の遅刻に頭を痛めながらもフォローしてくれる先生や、なにか事あらば(鳴海&津々井コンビを派遣して)ケアに努めてくれる上司である部長、そして心強い仲間たちがいるから……。
 他校に通う1学年下の高校生で、接触テレパス(他人の身体に触れることにより、精神感応できる)であり、同じテレパスとして与士郎を尊敬しまくっている鳴海笙。鳴海のクラスメイトでケンカ友だち、ただし仕事では絶妙なコンビネーションを見せるサイコキノ(念動力者)の津々井箏治。そして、与士郎のクラスに転校してきた、サイコキネシス、テレポート(瞬間移動)、テレパシーを使う万能型エスパー・大野深雪。事件をきっかけに知り合った彼らは、与士郎を理解し、慕ってきます。フォローしたり、フォローされたり。だから、「すぐにでもやめられるからな、おれはーっ」とつぶやきながら、飄々とした風で与士郎は今日も他者の心と向き合うのです。

 連作の一話一話で扱っている事件はけっこう深いのだけれど、基本的に行動範囲や生活基盤が「高校生」という枠からはみ出さない、まじめな物語のつくりが好きです。なんといっても、強力な超能力者にも関わらず、与士郎はじめ仲間たちの感性が地に足がついているのがいいなあと思います。

 前書きがたいへん長くなりましたが、マンガを読みながら、与士郎が人の心の深層に入り込んで悪夢を片づけるとき、どういう映像を見ているのだろうと考えていたんですね。マンガにはほとんど絵として描かれてなかったので、よけいに気になったんです。
 それが、今回の『悪夢探偵2』を観て、「ああ、もしかしたらこんな感じなのかもなあ」と理解できた気がしたと申しますか。幽霊っぽい部分は『悪夢探偵』ならではの映像でしょうが、その不条理感や日常の風景にぽっかりと空いた穴のようなイメージは共通するところではないかと思われて、20年越しのもやもやがだいぶん晴れたような気がしたのでした。
 『悪夢探偵』の第1弾は観ていないので、早めにレンタルビデオででも観たいなあと思います。

『悪夢探偵2』公式サイト
http://www.akumu-tantei.com/
 
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2008年03月27日

ファンタジーとサイエンス・フィクションの中間点

 23日の「日記」で、たいへんな方を忘れていました。レイ・ブラッドベリ。1920年生まれで、現在も創作活動を続けていらっしゃるようです。ほっとしつつも、そのバイタリティに感服。彼より半世紀近く若いのですから、負けてはおれませんね!
 『華氏451度』『火星年代記』『何かが道をやってくる』『たんぽぽのお酒』といった長編も、『ウは宇宙船のウ』『十月はたそがれの国』などの短編集も好きでした。
 ブラッドベリの作品には、それがSFであれ、幻想文学であれ、アメリカ北東部の古き良き時代の息吹を感じます。ハロウィンや魔女伝説など、アイルランドや英国、ドイツ、オランダなどから移民たちがもたらした「森と霧の文化」が色濃く残る地域。イリノイ州出身のブラッドベリの作品に描かれた不思議や恐怖には、大草原の干し草の香りとヨーロッパ的な情趣の絶妙なミクスチャーを感じて浸ってしまいます。……とはいえ、今は遠き学生時代の話ですが。
 カリフォルニアやテキサス、フロリダ、ニューヨークなどの映像から受けるパワフルなアメリカとは違った、やわらかな日の光のあたたかさとしっとりとした霧に包まれた「もうひとつのアメリカ」の顔を、ブラッドベリの作品から知ることができると思います。

 萩尾望都が「ウは宇宙船のウ」などのブラッドベリの短編を何本かマンガ化していますし(『ウは宇宙船のウ』/小学館文庫)、筒井百々子の「たんぽぽクレーター」シリーズや、内田善美の作品にも影響を感じます。篠崎佳久子の『カミニート』も、ちらっと香りがあったりして好きですね。


 ブラッドベリが描いた不思議や恐怖の根底にあるものはファンタジックかつノスタルジックで、子どものころの思い出のように壊したくない美しいもの、やさしいものを守っているようなイメージがあります。
 それに「えぐみ」を加えたのが、トム・リーミイの『沈黙の声』でしょうか。以下は簡単なあらすじです。
 夏のある日、カンザス州の田舎町に「フリークショー」がやってきました。娯楽の少ない町は、その噂でもちきりです。小人や半獣人「ミノタウロス」、ヘビ女など、神話伝説に生きる者たちを見せ物にしたショーのトリを飾るのは、空中を自在に浮遊する、白い髪に白い肌、赤い瞳の少年「天使(エンジェル)」。姉とふたりでショーを観ていた少女エヴィは、エンジェルに心惹かれます。しかし彼は、ショーの団長である「魔術師」ハーヴァーストックの「力」の源であり、その「力」を搾取されるために生かされ、愛される存在だったのです。
 数日後、ミノタウルスの起こした婦女暴行殺害事件で「フリークショー」は崩壊。ほかのメンバーの手引きでハーヴァーストックのもとから逃げ出し、行き倒れたエンジェルを助けたのはエヴィでした。エヴィは彼をかくまいますが、それはハーヴァーストックとエンジェルとの死闘に巻き込まれることを意味していました。

 エンジェルはアルビノ(先天性色素欠乏症)で、生まれつき声帯がないために声をもちませんが、音波を操る超能力者です。自分を守ろうと必死のエヴィに感謝の気持ちを伝えたいと願った彼は、彼女の鼓膜を音波で震わせることで、意思の疎通に成功します。これが、それまで自分の意志で力を操ったことのなかったエンジェルの、超能力者としての目覚めの一歩となります。
 ハーヴァーストックは、たしか空気をはじめとする四大エレメンツを操り、その強力さ故に「魔術師」と呼ばれているという設定だったような気がします(うろ覚え。エンジェルについての記憶との差は、イコール私の愛の差。今、手元に本がないんですよ)。

 平和な共同体にストレンジャーが入り込むことで起こる波紋の描写は、物語のオーソドックスな題材のひとつ。『沈黙の声』もそのなかの一作品ですが、見渡すかぎり小麦とトウモロコシの畑しかない小さな町が、ひと晩で魔女狩りのようなパニックに陥るさまは、読んでいて恐いくらい。夏の日射しに黄金色に輝いていた大地が、見る見る黒い雷雲に覆われていくようなスピード感と迫力がありました。
 リーミイの作品は『沈黙の声』しか知りませんが、読み返すたびにブラッドベリ的な叙情を感じます。ファンタジーとサイエンス・フィクションの中間点、みたいなところも似ているでしょうか。

 中山星香によってマンガ化されました。でも文字読みで想像するほうが、恐さもえぐみも倍増かな。
 翻訳は、タニス・リーの『銀色の恋人』やマイケル・ムアコックのファン(というか、「メルニボネのエルリック」シリーズファン)にはおなじみの井辻朱美。まあ、いろいろと共通項がね。ついでに、ハーヴァーストックとエンジェルの関係も、はっきりとは描かれてませんが、ソレっぽい。このあたりでクスリと笑える方は、ぜひ、お友だちになりましょう!(笑) サンリオ出版と筑摩書房から出版されましたが、たぶん今は絶版です。

 『沈黙の声』を処女作に、短編集『サンディエゴ・ライトフット・スー』を書き、次の長編作品を出版する前に急逝。『沈黙の声』で相当の筆力を見せたリーミイ。生きていらしたら、どれほどの作品を創られたことかと惜しまれます。


<追記>
予定調和的共通項
『銀色の恋人』→オラトリオ兄さん、KAITO兄さん
「メルニボネのエルリック」シリーズ→アルビノ→エンジェル
タニス・リー→ソレ
 
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2008年02月22日

「ニャーニャーニャーの日」&「にぃにぃの日」

 今日は「猫の日」だそうで。そのせいかは知りませんが、出版社に発注していた猫の本が届きました! その名も『碧い眼をした黒猫チロ』著:宮良隆彦(定価:税込1575円 発行:サンクチュアリ出版)。
 この「日記」にも書いたことがある猫blog「ふちゃぎん家」の「ふちゃ主」であり、DVD付き猫写真集『ふちゃぎとエリザベス』の著者でもある、宮良隆彦の2冊目の猫写真集です。2月27日発売のところ、出版社のサイトから通販を申し込めば、早めに入手できるうえに、いろいろオマケもつくということで注文しました。
 今回はDVDなしの写真のみ。「ふちゃぎん家」の長老猫チロ(動画などでは「チロさま」と呼ばれる)の日々が撮影、収録されています。チロはたしかに、思わず「さま」づけしたくなるほど、貴族的な雰囲気のある猫。ついでに、私が英国にいたおり、下宿していた家で飼われていた「こゆき」にそっくりで、最初に動画に登場したときから親近感を抱いていました(「こゆき」については、当サイト内「納屋猫とチェシャ猫」をご覧ください)。
 本の中では、チロという猫の、猫ならではの神秘的なところと、猫とは思えない品のある生活が活写されています。飼い主家族やほかの家猫たちとの関係を重視して撮影されていますので、『ふちゃぎとエリザベス』よりも家庭の風景が写った写真が多いです。飼い主の生活が見えてしまうので、猫だけを美しく撮影されたものに比べて、泥くささを感じる方がいるかもしれません。私は、他人のアルバムを見ているような、この感じも好きですけどねv
 「猫がいる家の生活風景」にほんわかしたい方は、27日を待って書店にGO!

『碧い眼をした黒猫チロ』特設サイト↓
http://www.sanctuarybooks.jp/chiro/

chiro.jpg
amazon詳細ページ


 そして、本日は「にぃにぃの日」。「小説サイト」のblogに「VOCALOID五兄弟」および「卑怯戦○うろ○んだー」についての妄想テキストをUPしました。「にぃにぃ」ことKAITOのことばかりなのは、仕様でお約束です。ツッコミは勘弁するのです。脳内メモリから妄想を吐き出せて、ああ、すっきり!
 また、2月18日の「暫定日記」以降、2月7日、11日,14日に遡り日記をエントリーしました。
 これにて、blogの更新、コメントや「掲示板」のレスをしばらく停止します。まあでも、みなさまご存じのとおり、気まぐれにちょこちょこなにか書くかもしれません。実際、書きたいネタをひとつ残していますし、VOCALOID関係で「神曲」が来れば、うっかり紹介しちゃいそうです(笑)。
 それでは、しばしお別れ。Lovely to see you soon!
 
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2008年02月11日

萌えはここにもありました──『誰か Somebody』

 宮部みゆきの『誰か Somebody』(文藝春秋/文春文庫)を読了しました。ほかでも言われていることですが、著者の他作品に見られるストーリー展開の「切れ」のよさや、ぐいぐいと読者を引き込んでいく筆致の迫力がこの作品には感じられず、ちょっと残念。
 読んでいる途中で、「あ、もしかしたらこういう展開? いや、でもそれはあまりにやるせないだろう。もしそうだったとして、どう決着つけるんだろう」と思ったら、危惧したとおりに進んだうえ、なんともすっきりしない終わり方をしたのにもモヤモヤ。時間をかけてゲームを解いたら、いちばんそうなってほしくないBAD ENDに行き着いたかのような気分を味わいました。
 それでも、相変わらず、年配者の描写には眼を見張るものがあります。元は玩具会社の経営者で、現在は一線を退き、町の小さな玩具店を営んでいる友野栄次郎や、今多コンツェルンの総帥・今多嘉親(よしちか)といった、人生の酸いも甘いも知り尽くした老人たちに、なにより魅力を感じました。

 この今多嘉親と主人公・杉村三郎は、嘉親の娘と三郎が結婚したため、義理の親子関係にあります。巨大コンツェルンを一代で築き上げた嘉親は、若いころには「猛禽」とあだ名された人物でした。狙った獲物は必ず狩ってきたからです。80歳間近になっても、その凄みと頭脳の切れ味の鋭さは衰えを見せていません。
 その嘉親と愛人との間に生まれた娘は、生まれつき身体が弱く、父母の配慮もあってコンツェルンの経営には一切関わらない立場にいました。おかげで三郎も、娘婿とはいえ経営に関わることなく、ただ結婚の条件として提示された、嘉親直下の社内報編集部に勤務しています。
 と、ここまでふたりの関係を把握して、「あれ、これは私の『萌えシチュ』じゃん!」と気づきました。これに似た関係のふたりに、もう20年以上、どっぷりハマっているからです。

 ディック・フランシスの「競馬シリーズ」のなかでも気に入っているのが、シッド・ハレーが主人公の一連の作品です。一作ごとに主人公を変えるフランシスには珍しく、シッドを主人公にした小説は4作書かれているんですよね(4作目の『再起』(早川書房)が出ているのを知らずに、友人から聞いて「なぜ一年以上も気づかなかったんだーっ!」と落ち込んだのは、つい最近の話)。
 障害競馬のチャンピオン騎手から事故で引退せざるを得なくなったシッドは、失意のなか、誘われるままに探偵社に入り、そこで2年を過ごします。魂の抜け殻となっていた彼を目覚めさせたのは、1発の弾丸でした。自分を撃った弾に、英国各地の競馬場を閉鎖させて、宅地に変えようとする陰謀が隠されていることを知ったシッドは、愛する競馬を守るため、立ち上がります(第1作目『大穴』(早川書房))。
 シッドが騎手だったときに結婚して、今は別居中の妻ジェニィの父親、チャールズ・ロランドは英国海軍の退役少将で、通称「提督」。66歳には見えない立派な体躯と鼻につくほど優雅な物腰、なにより緻密な頭脳をもち、その緻密さに喜びを感じている人物です。ロランドがシッドと娘の結婚に反対したのは、娘婿に自分と同等の知性を求めたから。騎手という職業は、ロランドには知性的とは思えなかったのです。ある日、シッドとチェスをしたロランドは、負かされて、娘婿の並々ならぬ知能に気づき、それからふたりは無二の親友、実の親子以上の親子になります。なにせ、シッドが離婚してからも、彼らの親子のような関係は続くのですから。このふたりの思いやりと愛情と策略と腹の探り合いに満ちたやり取りがツボなんです(笑)。

 だから、嘉親と三郎のやり取りを読んだとき、顔がにやけるのを止めることができませんでした。「モエシチュ、キタコレ!」。特に(経過報告の義務があったにしろ)三郎がすべての終わりに、妻の待つ家ではなく、嘉親の元に行ったところで、もう、もう……。
 「唐突に、私の心の、未だに地図の描かれていない未開の地から、そこに棲む蛮族が雄たけびをあげるように、ひとつの思いが押し寄せてきた。いつか本当に、義父の生涯を綴った本を出したい。私がそれを作りたい。(中略)だから──長生きをしてください。紅茶に砂糖は二匙までにして。」(『誰か Somebody』P.445より引用)。
 どこよりも、ここに感動しました。正道から外れているかもしれませんが(笑)。私と同じ萌えツボをお持ちの方には、オススメです!
 
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2007年10月06日

天国と地獄の日

池田あきこ女史の『ダヤン、タシルに帰る』刊行記念サイン会に引き続き、またまた猫の本のサイン会に行ってまいりましたv
この「日記」でも紹介しました「ふちゃぎん家」のふちゃぎとエリザベスたちが写真集になったのです!
発売は10月1日(ふちゃぎが拾われた日)だったのですが、その前の9月12〜16日にメールでサイン会参加申し込みがあり、即行、送りました。
申し込みが多かったらしく抽選になったのですが、珍しく当たりました! 常々の自分のクジ運のなさを顧みるに、メッセージ欄に写真や動画について熱い感想を書いておいたのがよかったのでしょうか。

有隣堂アトレ恵比寿店にて、14:00からのサイン会にワクワクしながら行きました。
blogなどでは、ふちゃぎの飼い主こと「ふちゃ主」で知られる宮良隆彦氏は沖縄在住で、写真家のドイツ人のお父様と元美術教師の日本人のお母様をもつ方です。
サイン会に参加申し込みをしたときは、そのような事情を知らず、ただふちゃぎやエリザベス、しゃらく、チロほかの猫たちを、あんなにも活き活きと、それぞれの性格が見てとれるほどに愛情深く撮影された方にお会いしたかっただけだったのですが。
写真集の特設サイトの著者近影を見て、もうひとつ楽しみが増えましたv

いや、本当にテライケメンv スーツが似合うがっしりした体つきに、「この顔でそれはありなのか」と思えるほどに、誠実さがにじみ出ているような方でした。
スタッフに整理券代わりのレシート裏に宛書きを書いておくよう指示されたのですが、それを見て「○○○○○○さんですか?」と呼び方を確認しながら、私の名前とご自分のサインを書いてくださいました。
机の上にもぐらのぬいぐるみが置かれていたので、「これ、ふちゃぎの宝物のもぐらですか?」と尋ねたら、「そうです。エリザベスたちはつれて来れないので、せめてふちゃぎだけはと思って。ふちゃぎの代わりに……」とおっしゃっていました。
1年近くふちゃぎが宝物として、くわえ、なめ、つつきまわし、いっしょに眠り、していたためか、ぬいぐるみのフワフワ感はなくて、色もあせていました。いかにも「愛用の品」な感じ。それに、動画を見て想像していたより小さくて、「ああ、ふちゃぎって小さかったんだ」としみじみ。他人の匂いがついたらマズイかなと思いつつ、指先でちょっと触らせてもらいましたv
握手もしていただきました。私が差し出した右手を両手で包むように握ってくださったのですが、さらっとした、でも熱くて厚くて大きな手の感触が残りました。

「ふちゃぎん家」の報告で、ふちゃぎが8月末に家出していたことは知っていました。出版社のスタッフの方から、東京・立川の猫返し神社(立川水天宮 阿豆佐味天神社)の絵馬に「名前を書いてください」と言われたので、書いてきました。
いつになったとしても、冒険を終えて無事に帰ってきてほしいと思います。

写真集『ふちゃぎとエリザベス』は、DVD付きで税抜1800円(発行:サンクチュアリ出版)。
『ふちゃぎとエリザベス』のサンクチュアリ出版特設サイトは、こちら
情報で、「売り上げカード」にふちゃぎとエリザベスの足形が印刷されていると聞いたので、有隣堂での購入時に「カードもいただけますか」と言ったら、抜かずに袋に入れてくれました。
あとで確認したら、2匹の足形が! かわいい〜v そんな遊び心も楽しいです(知らなければ、見逃す確率100%の遊び心ですが(苦笑))。

この写真集のいいところは、猫という生物が愛らしく、そしてポートレートのように克明に撮影されていることです。猫にまつげがあること、猫の目に涙がたまるようす、顔中を網羅するようなひげの細かさ、そのひげが前後に引かれるさま、仔猫がミルクを飲むとき、耳がピクピク動くさま……細やかな猫の動きが写真に、動画に写されています。
「これだよ! これが猫のかわいさなんだよっ!!」と、のたうち回りたくような写真集。
猫や犬の写真集というと、「人間の勝手で不幸になるペット」「人間に虐待された野良猫や野良犬」「こんなにかわいい動物を捨てる人間をどう思いますか」といったメッセージをもったものがけっこうあります。そういうメッセージ性のある作品も、たしかに必要だとは思います。
でも私は、猫のかわいらしさや、こんなにも性格などに個体差があるといったところを、人間の恣意なく見せてくれるから、『ふちゃぎとエリザベス』を購入する気になりました。
ふちゃぎもエリザベスも捨て猫。彼らの仕種を見ているだけで、捨てたり、虐待したりする人は減るのではないか。こういうメッセージの発信の仕方もあると思うのですが、どうでしょう。

私の生活圏内の書店では見かけないのですが、大きな書店の「写真集」あるいは「ペット」のコーナーに置かれているのではないかと思います。
ご購入の際には、ぜひ店員さんに「売り上げカード、いただけませんか」と言ってみてください。売り上げをPOSシステムで管理している(購入時、書籍のバーコードを機械で読み取っている)お店なら、抜かずに渡してくれると思います。



サインをいただいてから、新宿経由で向かいました……歯医者へ。
大学生のときに治療した差し歯が5本あるのですが、経年劣化で歯肉との間に隙間ができていたのです。
本来の歯の上にセラミックの歯をかぶせているので、歯肉とセラミックの歯の間に隙間が空くと、そこから菌が入って本来の歯がムシ歯になる危険があるんですね。本来の歯がヤラれると、差し歯ではなく、入れ歯にしなければならなくなる……ということで、5本のうち、劣化の激しい2本を1カ月半かけて、差し歯をつくりなおすことになっていたのです。

今日はそのうち1本の治療だったのですが、隣りの差し歯とつながっているのをまず切断し、それから接着剤でぺったりついているセラミックを壊して、剥がしました。
ンキューンバリバリガリガリという、あの歯医者さん独特のアレが頭蓋中に響き渡りました。30分近くガリガリされた気がします。
顎が疲れて、ピクピクワナワナするのを止めるのに必死。ついでに、脚がこむらがえりを起こしそうになって、それを耐えるのにも必死。
差し歯にしたときに神経を抜いてしまっているので痛みはないのですが、頭蓋を細かく揺すぶられる感覚に、途中で「もうイヤだ〜!」とネを上げそうになりました orz。

7月のインフォームド・コンセントの際に、5本いっぺんの治療を勧められたのですが、仕事で時間が取れない事情などで「待ったなし」の2本だけお願いしました。
……2本にしておいて、よかった。あのガリガリが5回もなんて、耐えられない。
でも、体力があるうちに、残りの3本もやり直したほうがいいなあとも思いました。1本の差し歯をはがし、本来の歯を消毒し、差し歯の型を取り、仮歯まで1時間。帰宅して、ご飯も食べずに寝てしまいました。身体中、くったくた。ものすごく体力を消耗しました。
……あと、1本あるのよね。11月中旬まで、治療に通わなきゃならないのよね……。

まさに天国と地獄を味わった1日でした。
 
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2006年12月01日

相互依存がおいしい、美味しい探偵小説『青空の卵』

いつまでも秋っぽいのもなんですので、本館TOPをクリスマス仕様にしてみました。去年と同じだけど、気にしない!

やはりまだ暇だったときに、伊藤さまの「永久機関」blogで紹介されていました「ひきこもり探偵」シリーズを読みました。まずは1冊と思い、『青空の卵』坂木司(東京創元社/創元推理文庫)を購入。一気にハマって、2日後には続編の『仔羊の巣』『動物園の鳥』のシリーズ全3作が手元に揃っていました(笑)。
オビの「名探偵はひきこもり」というキャッチフレーズがなかなかに効果的v(『青空の卵』の書名をあやふやに覚えていたので、このフレーズで「これだ!」とわかったのです)

坂木司は20代後半の外資系保険会社に勤めるサラリーマン。外資系を選んだ理由は長期休暇があるから。営業職を選んだのは勤務時間に多少融通が利くから。定時退社は、自分のアパートに帰る前に必ず寄るところがあるから。週休2日を日曜日と月曜日に設定しているのは、月曜日午前中のスーパーは買い物客が少ないから。
そう、彼には仕事よりなにより優先すべき「人」がいるのだ。彼のプライベートな時間はすべてその「人」に捧げられているといっていい。その「人」こそ、坂木の中学以来の親友で、過去にあったいじめや母との歪な関係からひきこもりになってしまった鳥井真一である。

鳥井はひきこもりが嵩じて、現在はコンピュータプログラムの在宅ワークで生計を立てている。小柄で細身、睫毛の長い、線の細いハンサムだが、伸びた前髪がその顔を隠している。理髪店にさえ行けない彼は自分で髪を切っているのだが、前髪だけは「素人の手におえる範疇じゃない」と放置気味なのだ。話し言葉は「あり得ねーよ」「俺に曜日の観念があると思うのかよ」等々、坂木いわくの「殿様」系。
そんな彼は料理の研究に余念がない。通販で産地直送の食材を仕入れ、在宅ワークをいいことに時間のかかる煮込み料理などを味よく仕上げる。坂木は帰宅前に必ず「小料理屋・鳥井」「ダイナー・トリイ」「トラットリア・トリイ」などなど、日々変わる鳥井の食卓に立ち寄っては相伴に預かっている。
坂木が月曜日に休みをとるのは、買い物客が少ない午前中に鳥井をスーパーに連れていくため。そのスーパーまでの500メートルが鳥井の外出の北限だったりする。

とまあ、同窓会で「お前たちのどっちか一人だけで思い出すことなんてできないよ!」と言われるくらい、昔からベッタリの二人。
その裏には、鳥井の不安定な精神状態がある。とくに家族関係に傷つけられた彼は、なにかの拍子に精神のバランスを崩し、生きることを放棄してしまいかねないのだ。高校時代にその現場に居合わせてしまった坂木は、精一杯の思いで鳥井を生に引き戻し、以来、彼の精神の盾になることを自分に課している。
鳥井もまた坂木を唯一の拠りどころにし、坂木が泣いたりしようものなら、「さかき……泣いてる?」とすっかり子どもに戻って自分も泣いてしまうありさま。
世界が自分を見捨てたなら、自分も世界を捨てると決意した鳥井にとって、「坂木」と「それ以外」が判断のすべて。その子どものように嘘のない瞳に恥じない人間になろうと、坂木は努力する。彼もまた、心の奥底に本人も気づいていない傷を抱えながら。

こんな二人のどこらへんが探偵なのかといいますと、坂木が会社の行き帰りに出会った人物や遭遇した事件ともいえない出来事をつれづれに鳥井に語ると、鳥井がそこにある謎を次々解いていくというところ。ワトスン&ホームズの関係が成り立っているのです。
ただしこのホームズは外出嫌いで、ワトスンに無理矢理セーターを着せられ、服が気に入らないと3度も家に戻っても辛抱強く待ち続けられ、ぐずぐず文句をたれても、ワトスンの「僕が信用できない?」のひと言に負かされ、やっと外へ連れ出されるような「天才」ですが。
そして、心に傷を負った鳥井と、やはり無自覚に傷を負っていた坂木が解くのは、殺人事件の謎などではなく、もつれてしまった人間関係。鳥井の乱暴で容赦のない言葉が、わだかまった感情を暴き、誤解を曝け出し、それにより、人は関係を結び直したり、新たな出発を決意したりする。傍若無人に見える鳥井の元に、事件が解決してもなお関係者が手土産をもって訪ねてきたり、相談してきたりするのは、そこに隠されたやさしさを感じて、精神的に不安定な彼にやさしさを返してやりたいと、きっと誰もが思うから。
そうして、どんどん知り合いを増やしていく鳥井に、いつか彼が自分以外に友人をつくる日が来るのではないかと、期待と同時に激しい寂寥感を感じている坂木の煩悶も見どころ(笑)。タイトルの卵→巣→鳥が二人の変化を暗示しているでしょうか。

相互依存のはなはだしい二人ですが、「やっぱり整った顔立ちだけど、これにキスはできないなあ」と坂木がつぶやくとおり、ホモセクシャルではありません。でもかぎりなくそれっぽい(笑)。読んでいると、二人の関係のビミョ〜さ、やりとりのおもしろさに顔がにやけてきます。

ついでに、坂木司自身がこの本を書いているという体裁をとっているためか、文章は滔々とは流れず、少しぎこちなさが漂っています。そこがまた味があっていいですね。たしかに一風変わった推理小説です。


今年、芥川賞を受賞した三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』(文藝春秋)も、そこはかとなくボーイズラブテイストが漂う物語でした。三浦氏の場合、確信犯だと思われますが(笑)。
これもまた「変人」と、相手が「変人」だからこそ、その存在を無視できずつい構ってしまい、深みにはまっていく男の物語です。

ほそぼそと便利屋を営む多田啓介の元に、行き場をなくした行天春彦が転がり込んでくる。多田と行天は高校時代の同級生で、当時、変人として有名だった彼を、多田はなぜか無視できずにいた。再会したとたん、行天と自分のいる高校生活の風景が甦る。ある罪の思い出と共に……。
行天の気まぐれな行動に振り回されながら、助けもし、助けられもし、やがて長年抱えていた罪の意識も、自分の視界に映る行天という男を、より濃く彩る要素となっていたことを知る多田。
多田が最後に思う「幸福は再生する」の言葉は、1冊読み終えたとき、得心できます。

こういうテイストの小説が芥川賞に選ばれるんだと、たいへん驚いた作品。3年ほど前からわからなくなっていた芥川賞の選考基準が、さらにわからなくなりました(笑)。
好きな作品なので、賞についてはどうでもいいのですが。文学界に「時代」を感じた出来事ではありました。

テープ起こしからの逃避が長くなりました。さあ、仕事に戻りますか……。
 
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2006年10月30日

「お薦めBL〜♪」なんて言ってみる。

以下は、ボーイズラブ(BL)なつぶやき。苦手な方はここまでで、「プリーズ、回れ、右」(笑)。




2005年2月に刊行しました『パラケルスス・パラミールム 指先にくちづけて』伊藤智砂(学習研究社/もえぎ文庫)の編集作業をして以来、商業BLもそこそこ読むようになりました。
とはいえ、どっぷりはまっている方に比べれば、「It's Elementary, My Dear Watson!」(このセリフ、コナン・ドイルの「正典」にはなくて、ホームズ映画で有名になったのですね)という段階ですが。
その初歩の初歩な読書経験の中でも、来し方を眺めて気に入った作品をコミックス限定で上げてみます。

『はつこいの死霊』草間さかえ(東京漫画社/マーブルコミック)
定規を使わない独特の画面構成とパースの取り方が、まったくもって二次元の絵にしか見えないのに、三次元的奥行きを感じさる、独特の空間描写が好きです。とくに主人公たちの情事の舞台となるラブホ裏の洋館風共同住宅がいい感じなのですよv
そしてなにより、主人公ふたりが色っぽい! 甘さのないシャープな描線が男性の身体をきちんと象っていて、その骨ばった感じがまず萌えますv 考えてみれば、裕一にとっては「誤解で犬に噛まれた」ような状況なのですが、いつか彼がそれに気づいても、二人の関係はこのまま続いていくんじゃないかという、二人のしっくりとはまり合った関係がいいなあと思います。
片方が女性っぽい甘えを見せるのではなく、両方が男として立っている作品が好きです。女の甘え方と男の甘え方は違いますから、そのあたり、きちんと描かれていると「ええなあv」と目を細めてしまいます。
購入して以来、私の特別愛蔵書の棚に常にキープの1冊です。


『未来の記憶』『風の行方』国枝彩香(ビブロス/BE×BOY COMICS)
今市子の作品が好きな方なら、こちらの作品もけっこう好みに合うのではと思います。物語の中心にいるのは主人公たち二人だけど、たとえば職場の同僚とか、お互いの家族とかがしっかり絡んできて、二人の関係に波風を立てたり、進展させたりというのは、すごくリアルな感じがします。絡まり方が、所詮ギャグでも(笑)。
国枝氏は、男はどうしようもなく肉の誘惑に弱いけれど、その行為には間違いなく心が伴っていくのだ、ということを、描こうとされているような気がしてなりません。
本作の二人も、片方はノーマル、片方はステディな関係はお断りという出会いだったのが、だんだん「彼でなければ」と思うようになってくる。その想いの深化には、間違いなく「抱き合ったときの快楽」が作用しているという、とても人間的で根源的な部分がナチュラルに描かれているところが好印象。
『未来の記憶』と『風の行方』で完結する、カタブツ教師とナンパ教師の恋物語。リブレから早く再出版されるといいのになあと思っています。

ちなみに国枝氏の『夏時間』『ため息の温度』『いつか雨が降るように』(竹書房/BAMBOO COMICS REIJIN selection)もけっこう気に入っています。1冊に収録された短編のシリアスからギャグまでの振り幅の大きさに、ストーリーテラーの才能を感じつつ、振り回されていますが(笑)。
でも私にとってのいちばんは、『未来の記憶』&『風の行方』ですね。


『hand which』鈴木ツタ(竹書房/BAMBOO COMICS REIJIN selection)
なにがこんなに好きと思わせるのかわからない、不思議な作品です。ストーリー的になにかしらの山や谷があるわけでもなく、主人公たちが自分の心の中でジタバタしている程度で、お話自体は淡々と語られる。エロいシーンがきっちり描かれていて、作品としては「Hがメイン!?」とも思えそうなのに、なぜかひどく後味の良さが後を引くのです。
読みながら「恋する気持ち」に感情移入してしまっているのか、それともキャラクターに色っぽさを感じているのか、自分でもよくわからないままに、何度も読み返してしまいます。

今月10日に発売予定のコミック『この世 異聞』(リブレ/ビーボーイコミックス)も、これだけを目当てに「マガジンBE×BOY」を買っていたくらい好きな作品です。こちらも、「セツさん、カッコいいvv 色っぽい〜vvv」と思いながらも、「私が好きなのは昭のほうだし」という、どこに好きポイントがあるんだかよくわからないままに、ドップリハマってしまいました。
雑誌で第1話以外網羅しているにもかかわらず、今、いちばん発売が楽しみなコミックですv


『探偵青猫』本仁戻(芳文社/花音コミックス)
本日、第5巻を手に入れたばかり。大好きな鶯のエピソード「うぐいす」が収録されていたので、我が手に鶯を捕えた気分です(いや、彼は早乙女伯爵と猫さんのモノですけどもさ)。
本仁氏の作品を手に取って思うのは、「これは萌えでも、耽美でもない」ということ。萌えのように、本能にクるわけではない。耽美のように、物語に耽溺できるわけでもない。ではなにかと言えば、表現する言葉がなかったりします。
まずキャラクターがひじょうにクールなんですね。BL作品にありがちな「常識と本能の間で揺れる」とか、「愛する人の心がわからない懊悩」とかが、キャラクターの言動に露になることはまずありません。登場人物ひとりひとりが自分の役回りや分を心得ていて、そこから決して逸脱しないクールさを感じます。
個々のキャラクターは自身の役割や存在意義を自負していますが、キャラクターどうしは一層に横並びでいるのではなく、多層に点在しています。だから彼らは、他のキャラクターとの間合いを測り、自分への感情を探るために言葉を発します。自分の本音はできるだけ隠しつつ、相手のことを探ろうとする言葉は、理性的でエレガント。答える側もまた、本音を隠して、探るようなセリフを紡ぎ出します。結果的に、登場人物たちの会話は、ゲームのように緊張感を伴い、短歌の応酬のように理知的に完成されたものになります。
理性的に計算され、緻密に構築された世界と人間関係。破綻しない感情表現。音楽のような旋律をもつ会話。本仁氏の作品世界は、この方にしか描きえない哲学のようなものを秘めているなあと、読み返すたびに思います。作品が完成に至るまでの、痛いほど張りつめた緊迫感をも感じながら。……思い過ごしかもしれませんけれど。

で、ミキティの言動にキュンキュンvしてしまう『DOG STYLE』第2巻(リブレ/スーパービーボーイコミックス )も今月10日ごろ発売ですね。うん、私はミキティが好きなのですv 理解して、赦して、受け流して、でも我は強い。そんな男が好きなのかもしれません。

これらにプラス、以前に書きました『夢の子供』浜田翔子(朝日ソノラマ/ソノラマ漫画文庫)と、『幻月楼奇譚』今市子(徳間書店/キャラコミックス)、やはり今氏の『楽園まであともうちょっと』(芳文社/花音コミックス)ほか一連のBLもの、『是-ZE-』志水ゆき(新書館/ディアプラスコミックス)、『暗夜』篠原烏童(徳間書店/キャラコミックス)ほか香港ロマン・ノワールシリーズが、今のところの私の一押しBLです。
そのなかで『未来の記憶』&『風の行方』と『探偵青猫』&『DOG STYLE』、『是-ZE-』は、同じ方にお薦めいただいたものv いい出会いをつくっていただきましたvv ありがとうございます揺れるハート
 
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2006年08月01日

端正な人

現在発売中の「クロワッサン特別編集 向田邦子を旅する」(1500円 マガジンハウス)を購入しました。

私は昔からNHK連続テレビ小説や『渡る世間は鬼ばかり』に代表される、家族や日常生活をテーマにしたドラマが好きではありませんでした。家族内のややこしい話やうっとおしい話は、現実だけで充分と思っていたからです。それは今でも続いていまして、向田邦子作品についても、テレビドラマを見たこともなければ、小説を読んだこともありませんでした。
ただ向田氏が飛行機事故で亡くなられたときに、祖母や母が食卓の話題にし、それから後もおりおりに思い出したように話していましたので、お名前には親近感があったのです。

このたび、このムック本で向田氏の軌跡を知り、祖母や母が憧れをこめて話していた理由がわかりました。経歴もさることながら、教養人であり、趣味人であられたこの方は、姿形だけでなく、その存在が端正な方だったのですね。
本誌のなかで向田氏が愛された料理や菓子、衣装や文具類、陶器類が写真つきで紹介されていますが、雑多に思えるなかに筋のとおった好みが透けてみえて、嗜好に妥協のない方だったのだなあと思いました。

再録されたエッセイからうかがえる、ひじょうに知的でかつ、知識の限りない深さをうかがわせる文章。知識を蘊蓄語りではなく、エッセンスとして文章に織り込まれる技。さらりと読ませながら、独特のウイットで印象に残るセンテンスの数々。
端正な文章を書かれる方がいらしたものだと、感心をとおりこして、感動してしまいました。
また手紙がいいのですよね。誌面には向田氏に宛てられた手紙と、向田氏が書かれた手紙が収められているのですが、やさしくも厳しくも思いやりのこもった文章のやりとりが、向田氏の交友関係の豊潤さを感じさせます。
向田氏はあまり手紙を書かれなかったそうですが、残された手紙から、おそらく相手に送る言葉にたいへん気をつかわれる方だったのではないかと拝察します。
坂本龍馬記念館でも思ったのですが、手紙文ほど、書いた人の人柄が出るものはありませんね。

またこのムック本、ここ最近ではたいへん細やかに編集が行き届いた、完成度の高い1冊と思いました。本のつくりがひじょうに端正。編集部の向田氏への思いまでうかがえるようです。

読みながらなんとなく母を思い出したので、電話をかけて「向田さんのムック本が出てるよ」と知らせました。「文章書きとして、到底かなわん人やわ」と言うと、「そらそうやろ」と、ふっと鼻で笑われました。悪かったな!
ついでに向田氏のファンだったのは祖母で、母はむしろ白洲正子が好きだということが判明。旧白洲邸「武相荘」へ行けと勧められました。あなたが行かんかい。

すでに不惑の歳でありますれば、今さら性格や生きざまを変えられるわけもなく、ここまでの道程で手前勝手に積み上げてきた経験からしか語る言葉さえもたないわけですが。
「こういう人がいた」ということが知れただけ、少し心が豊かになったような気がするのは、なんの作用かと思うこのごろです。
 
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2006年07月17日

癒し系ホラー!?『辻占売(つじうらうり)』

書店でコミックの新刊コーナーを眺めていたら、『辻占売』(ぶんか社/ぶんか社コミックス ホラーMシリーズ)の5巻がありました。池田さとみの“ヒーリーングホラー”なら絶対買い!とばかりに5巻を取り上げ、既刊の本棚のほうに他の巻を探しに行ったら、4巻しかありませんでした orz。しかたがないので4巻5巻を購入!

池田氏のホラーといえば、『外科医 東盛玲の所見』全7巻+外伝(朝日ソノラマ/ソノラマコミック文庫)。この続編『新 外科医 東盛玲の所見』が「夢幻館」(朝日ソノラマ)にて連載されています。コミックも2巻まで発売中。
こちらは若くして東盛総合病院の院長を務める、天才外科医・東盛玲の物語。
生まれつき盲目だった玲は、死亡した友人の角膜を移植され、視力を得ます。しかし人に見えないもの(=霊)まで見るように。その能力で病院の内外で起こる事件や、霊障による病気などを解決。ただし表向きは「不思議なこと」を否定し、徹底した現実主義者を通しています。
玲に関わるのは、霊を見る能力をもつ看護師の牧原莉梨子、玲と幼なじみの寺の住職に獣医師、呪術師のワヤン、玲に敵意をもつ氏部桂。
なかでも私の好きなキャラは、ある事件がきっかけで東盛病院に入院してきた少年・朴木咲也。彼は人の言葉に隠された嘘を見抜く能力をもっており、そのために人間不信に陥っていました。しかし玲や牧原といった言葉に裏表のない人の存在を知り、やがて心を開いていきます。後に玲に引き取られ、今は医者を目指して勉強中。

悪霊や生霊、妖怪などが出てきますが、内容はホラーのかたちをとったヒューマンドラマ。泣かされることも多く、「やられた!」と思うことも多い作品です。ネームも多くなく、コマもむしろあっさりしているのに感動できるところ、キャラクターの性格造形、ストーリー展開で「うまいなあ」と感心させられるマンガ家さんの一人です。


そんな池田氏が、今度は道ばたで占いをする易者を主人公に描かれているのです。これはチェックしないわけにいきません! amazonで1〜3巻もゲットです。
もっぱら十字路で易占を売る「辻占売」の閑(しずか)。人とは違った血をもつ彼は、十字路に人の過去や未来、この世とあの世の境を見ることができます。
彼の座る道を往来する人々。その人々のなかに、閑はときに死者が残した思いや生者の行き場のない思いを見い出し、その人を幸せに導きます。あるいは悪をなす者にそれなりの鉄槌をくだします。
占いで人を励ますときもあれば、恐ろしい未来を突きつけることもあります。
いつもやさしげで、でも人間が抱えるドロドロとした欲望を、どこか神の目線で諦観しているように見える閑の雰囲気が、物語がどんな結末を迎えようと、味わいのやわらかなものにしているのだろうなあと思えます。

閑が「辻占売」に出かけている間、自宅兼用の古い土蔵に開いた古書店の店番をするのは弟の未信(みのぶ)。彼は生まれつき盲目で、また自覚のない先見(さきみ)であったため、両親を心中で失ってからは親戚をたらい回しにされて育ちます。彼が「見た」ことを口に出すと、そのとおりのことが起こるので気味悪がられたのです。
ついに最後の引き取り先からも追い出されたとき、未信は閑に出会い、閑の声こそ、幼いころから自分を力づけてくれていた“心に響く声”だと気づきます。閑に引き取られた未信はようやく安らぎの場所を得て、ごくまれに閑の占い以上に確かな能力で人を救ったりします。

その二人に絡んでくるのが、自分の生命力を与えることで病人やけが人を癒す“癒しの手”を持つ小学生の舞子。閑に亡き父の面影を見る舞子は、なにかと古書店を訪ねてきます。

中身は『外科医 東盛玲の所見』と似たテイストの、ホラーのかたちを借りたヒューマンドラマ。ただ東盛玲が関わる事件がほとんど病気や怪我にまつわることだったのに比べて、閑は町中に出ているだけに関わる事件も種々様々。「この世の外の世界」もよりスケールアップしています。

最近は、世界観が特殊で、設定も複雑な、読んでいるうちに眉間にシワが寄るようなものより、日常生活から少しだけはみ出したような、それでいて含むものが深い作品が好みです。
池田さとみ、今市子両氏の作品は、そういう意味で大好物ですvv
 
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