2012年05月27日
OM−Dの使いにくい所「キットレンズとバッテリーグリップ編」

「もしもぼくがOM一桁の設計思想をリスペクトする開発責任者だったら」OM−Dをどう評価をするか考えてみました。
「んで?キットレンズはどうすんの?」
「はい。35mm換算で24mm-100mmの4倍でマクロ付き。インナーフォーカスの電動ズームです。」
「マニュアルズームの切替は?」
「同軸リングのスライドで一発です。」
「へぇ、良さそうじゃん。ちょと見せて・・・長ぇよ!これ!」
「長いっすか?」
「うん。半分になんない?」
「半分はちょっと・・」
「全長が半分なら凄くいいレンズだと思うよ。」
「そりゃそうですけど・・」
「そっちは何?」
「バッテリーグリップです。
「へぇ、2段階にくっつけるのか?これをくっつけるとどうなんの?」
「どうって、バッテリーが入ってるんですけど。それから縦グリップです。」
「あとは?」
「それだけです。」
「たとえばさ、これをくっつけることで、もうちょっとなんか機能が追加されるといいよね。マイクロSDのスロットが3つ増設されるとかさ。あれ?電源のふたが開いちゃったけど?」
「あ!それ、今ちょっとかみ合わせが悪くて時々ひらいちゃうんですよ。製品版ではちゃんとしときますから。」
「たのむよ〜。せっかくの防塵防滴なんだからさ。」
「あ、部長、それから電源入れてる時の音なんですけど、気になるって人もけっこういるんですが、どうですか?」
「ああ、これ?いいんじゃない?このくらい。でさ、どうなの?実際のところおれが言ったとこ直せんの?」
「・・・発売が2年は延びます。」
「そうなの?じゃ、このまま行くか!システムがフリーズするわけじゃねえしな。」
「あ、フリーズは・・・」
「するの!?」
「SDに頻繁にアクセスすると・・ちょっとバッテリーの関係で・・」
「フリーズはまずいだろう、フリーズは!頻度は?」
「それほどでもない、と思います。」
「うー、じゃあしょうがねぇか!」
注:あたり前ですが、この話は全くのフィクションです。こんな開発者が責任者になれるわけはありませんので念のため。
2012年05月26日
OM−Dの使いにくい所

昔のOMシリーズを作り上げたのはカメラ界のカリスマエンジニア、故米谷美久さんです。彼がOM−Dをつくったらどうなったのか?とか言うのはおこがましいので、「もしもぼくがOM一桁の設計思想をリスペクトする開発責任者だったら」OM−Dをどう評価をするか考えてみました。
「部長!できました!これが新しいOMです!」
「できたか!どれどれ・・こりゃ小さ過ぎだろ!ボタンが押しにくくてしょうがねぇ。それから配置もよくねぇな。再生ボタンなんてどうやって押すんだよ?これ?横幅を10mm拡げるか液晶を小さくしてボタンのサイズを最低1mm大きくしろ。」
「液晶は勘弁してくださいよ。これが何インチかで売れ行きが違いますから。」
「お前、自分で写真撮る時にこの液晶より一回り小さかったらなんか困るか?」
「・・・あんまり困らないと思います。」
「だろ?でもまぁでかくて悪いって事はねぇし、だいいち売れなきゃもともこもねぇ。液晶キープでいいからボタンなんとかしろ。サイズだけじゃなくて配置も見直せよ。最初にボタンのサイズと位置を決めてそっから外寸出せって昔から言ってんだろ?」
「はぁ・・・」
「あ、念のため聞いておくけど液晶でっかくしたんでバッテリーくいますから撮影枚数減ります、なんて事はねぇよな?」
「だ、大丈夫だと思います。」
「それからメニューの設計はだれがやってんの?これもう一回機能を整理しないとダメだよ。コンパネとぐじゃぐじゃになってるからわかりにくい。」
「でも機能をてんこ盛りにしてますからね!」
「中身が多機能なほど操作系は単機能にしないとダメなんだよ!それから、この、液晶のチルト。引き出しにくいからせめて下にもギザギザつけといてくれよな!」
「はぁ・・・」
「とにかく今言ったとこがなんとかなんないならOMなんて名前つけんじゃねぇぞ!」
「うー・・・」
「うーじゃねえよ、このやろう。んで?キットレンズはどうすんの?」
「はい。35mm換算で24mm-100mmの4倍でマクロ付き。インナーフォーカスの電動ズームです。」
「マニュアルズームの切替は?」
「同軸リングのスライドで一発です。」
「へぇ、良さそうじゃん。ちょと見せて・・・長ぇよ!これ!」
次回「キットレンズとバッテリーグリップ編」に続く!
2012年05月25日
オリンパスのOM-Dを買ったよ。
このカメラについてはいろいろなところでレビューされていますから想像がつくと思いますが、性能としては必要十分だと思います。
ぼくは昔からデジカメにはEVFと動画機能が必要だと思っていたので、この機種は待望の一台でした。ぼくにとってカメラのファインダーは、「写そうとしている写真がどういうふうに仕上がるか」を確認するものなので、露出補正やホワイトバランスをリアルタイムで確認できるEVFには大きなアドバンテージがあります。もちろん見え方としては一眼レフのほうがはるかにクリアで、いくら露出補正の結果が事前に確認できると言っても、それ以前に被写体が正確に観察できなければ使い物になりません。OM−Dのファインダーは一眼レフほどの見え方は望めないものの、ストレスを感じさせない程度には十分にクリアで、そのリアルタイム性を考えればEVFを採用したメリットのほうが大きいと思います。
それから動画です。世の中には「動画で残しておいたら面白そう!」という場面があふれかえっています。スマホの動画で十分な時も多いとは思いますが、もうちょっときれいに録りたい、とかちょっとパースに変化を付けたいとかいう時のほうがはるかに多いです。「一台でそれなりに満足のいく動画も録れるレンズ交換式デジカメ」というのは確実に撮影機会を拡げてくれる気がします。
そういうわけで、ぼくはこのカメラをけっこう気に入っているのですが、操作性を含め不満なところもたくさんあります。次回はその不満な点について書いてみます。
2012年05月16日
単純労働を肩代わりするロボットは登場するか?
2012年05月13日
普通の人はどうやって生きていけばいいのか?
世の中のほとんどの人は普通の人です。一生懸命頑張っても人並みにやっていくのがやっとで、「なんかスゴイ事」なんかなんにもできません。ぼくも間違いなくそのひとりなんですが、けして負け惜しみだけではなくて、「まぁ、それでもいいや。」と思っています。しかし、その一方で21世紀の10年以上が経過した今、「普通の人がいくらがんばっても人並みになれないケースが増えた事」、それから「自分はちょっと特別だと思っている普通の人が増えた事」が日本にとっての大きな問題のひとつになっているという印象があります。
ぼくは今の日本は「同じ時代の他の場所(例えば現在のアフリカとか)」や「同じ場所の別な時代(例えば大正時代の日本とか)」と較べて遥かに幸福度が高いと考えています。就職ができないとか不況で仕事がなくなったとか格差が広がっているとか言っても、かつて日本でも繰り返されて、今現在も世界中を覆っている戦争や飢餓に較べればたいした話ではありません。例えばいくらブラック企業に勤めていたとしても「労働基準法はどうなってんですか!私にも休みを取らせてください!」と言った途端に公衆の面前で社長から木刀で20回殴られたとか、「おれたちにも仕事をくれ!だれにだって生きる権利はあるはずだ!」と言ったら30年間強制労働をさせられた、とかいう話は聞いたことがありませんし、街の半分が反政府ゲリラに占拠されていて家族が暴行を受けているのを止めようとしたら射殺された、とかいうことも起こりません。だからといって年間3万人を超える自殺者を生む社会がユートピアであるわけがなく、ぼくたちは、史上まれに見る恵まれた時代と地域に生まれながら、毎日言い知れぬ不安を抱えて眠れない夜をすごす羽目に陥っています。その不安は、おそらく近年の先進国で頻発しているデモに参加している人達が抱えているものと同じものです。それでは、今のぼくたちを取り巻いている不安の根底には何があるのでしょう?
今のぼくたちの不安、それは「変容する社会に取り残される不安」です。昔から「世の中は20%のシンボリックアナリストと80%のルーチンワーカー(および対人サービス従事者)に分断される」と言われていました。シンボリックアナリストという言葉自体はアメリカの経済学者ロバート・ライシュが使い出したそうですが、同じ意味の事はいろんな人がいろんな形で言ってきました。端的に言うと、「知識が生産手段となる社会がグローバルネットワークで繋がると必然的に競争が激化する。そこでは生涯を通じた学習が要求されるので、学習する人としない人(あるいは学習できる人とできない人)が社会的に分断される」という事です。自分の事に引き寄せてもっとひらたく言うと、日本で日本人が時給1000円でやっている仕事を、中国で中国人にやらせたら時給100円で済むとしたらその仕事は必然的に中国のものになる。だから日本のルーチンワーカーはもうちょっと高度なスキルを身につけて、同じように高度なスキルを身につけようとしている世界中のルーチンワーカーに先んじて新たな仕事を生み出していかないと時給が100円になる、という事です。しかしぼくのような普通の人間に対して「高度なスキルを身につけろ」というのは相当にキツイ要求です。今現在シンボリックアナリストじゃない80%の人全員にそんな事を期待するのは最初から無理です。ものすごく楽観的に考えてシンボリックアナリストが倍に増えても40%。その対人サービスに就ける人間が30%いたとしても残りの30%の人間が失業する事になります。日本の労働力人口は約6600万人ほどだそうですから2000万人くらいは失業です。ぼくたちの不安は、「自分がその2000万人の中に入ってしまうんじゃないか?」そして「その中に入ってしまったら全てが終わってしまうんじゃないか?」という不安です。実際はそんな事で終わっちゃう事はないのですが、ご飯を食べられない人がたくさん出てくるのは良くありません。いったいその人達はどうすればいいんでしょう?これはとても難しい問題ですが、シンボリックアナリストなんて言葉が出てくるずーっと前から社会を動かせる人間は少数派だったはずです。だったら昔の人はいったいどうしていたのでしょう?そこになにか、普通の人が普通に暮らせるヒントはないんだろうか、と思いました。
昔の日本は間違いなく今よりも貧しい社会でした。格差は当然ありましたし、差別もありました。今よりも希望があったと言う人もますが、希望を実現できる人が圧倒的に少数派だったのは今と同じです。それでは多数派である普通の人はどうやって生活をしていたのでしょうか?(そもそもあまり大きな希望をもっていなかった可能性もありますが、今のぼくたちだってそれほどだいそれた野望を持っているわけではありません。)
例えば昔は頭が悪くてこらえ性が無くても、「やくざ」という生き方がありました。もちろん今でも「やくざ」は存在していますが、そのイメージは完全に「非合法」なものです。しかし、昔のやくざはもうちょっとグレーな存在で、政治家になった人も相当数いたようです。けしてやくざな生き方を肯定するわけではないのですが、少なくともテキヤの類が王道の出世コースとは別のキャリアプランを用意して勉強ができない人間の受け皿になっていた側面は存在したようです。もちろんその中で偉くなるにはそれなりの人物である必要があったのでしょうが、そうでない人の場合でも「おれは学校にも行ってないしまともな仕事にもついちゃいねぇ。けどな、義理にはずれた事だけはしちゃいねえぜ」とか言ってプライドを保つ事ができたようです。しかしやくざがおこなっていたグレーゾーンのシノギは徹底的に排除されてしまいましたから、これからやくざになろうとするのはあまりオススメできません。やくざがダメならどうすればいいのでしょうか?昔は移民という手もありましたが、こっちはどうでしょうか?
日本人というのはなんか閉鎖的で海外に弱いようなイメージがありますがけしてそうではありません。江戸時代に鎖国をする前の堺はちょっとした国際都市でしたし、明治維新後に創られた商社は信じられないスピードで海外に進出していますから、「必要があればいくらでも打って出る」人種なのかもしれません。これはけして一部の優秀な人間、あるいは変わり者に限った話ではなくて、ハワイやブラジルには大規模な移民が行われましたし、満州の例もあります。今の日本は人類史上有数の恵まれた国ですからわざわざ外国に移民をしようという人がいないだけです。でもこのままグローバル化が進行するならちょっと状況が変わるかもしれません。日本より賃金が低い国があるなら日本からはルーチンワークがなくなってルーチンワークしかできない人は失業します。でも世界中のどこかにはルーチンワークが存在していて、たくさんの人がそれで生活しているいるわけですから、そこに移住すればいいというわけです。アフリカには平均年収が14000円位の国がたくさんあるそうですが、物騒な場所が多いですし今のところはたいした産業もありませんから移住先としてはあまり魅力的ではありません。ここはやはり中国あたりで中国人がやりたがらないような仕事をするのが今のところはいいのかもしれません。中国人の平均年収は60万〜70万円位だそうですが物価が安いのでどうにかなりそうです。アルゼンチンとかも同じようなものです。まぁ、移民を受け入れてくれるかどうかがポイントではありますが、選択肢としてはありなのかもしれません。そのうち派遣会社に登録しておくと「中国のちょっと奥地なんですけどどうですか?」とかいう時代になるのかもしれません。どっちにしても楽な時代ではなさそうですが、そこにだってなにかしらの楽しみはあるはずですから一概に悲観したものではないと思います。日本でバイトでもなんでもして多少のお金を貯めて海外移民になる、というのは検討に値するかもしれません。
これからの時代、普通の人はどうやって生きていけばいいのか、あれこれ考えてみましたが、どうももうひとつキレのいい答えはみつかりませんでした。自分が特別な人間じゃないという事を認めるのは、ある意味つらい事かもしれません。でも、謙虚さを持って「私はごく普通のありふれた人間である。」と思えるなら、それはちょっと上品な姿勢なんじゃないかなぁという気もします。それでも「おれはけっしてありきたりの人間じゃない!」という方がいらっしゃるなら、あなたがどう生きればいいのかは明快です。優れた能力を持つ人間は、地球上全ての人類が飢えずに生活できる社会を作りあげる事に全力を尽くすべき、というのが答えです。
ぼくは今の日本は「同じ時代の他の場所(例えば現在のアフリカとか)」や「同じ場所の別な時代(例えば大正時代の日本とか)」と較べて遥かに幸福度が高いと考えています。就職ができないとか不況で仕事がなくなったとか格差が広がっているとか言っても、かつて日本でも繰り返されて、今現在も世界中を覆っている戦争や飢餓に較べればたいした話ではありません。例えばいくらブラック企業に勤めていたとしても「労働基準法はどうなってんですか!私にも休みを取らせてください!」と言った途端に公衆の面前で社長から木刀で20回殴られたとか、「おれたちにも仕事をくれ!だれにだって生きる権利はあるはずだ!」と言ったら30年間強制労働をさせられた、とかいう話は聞いたことがありませんし、街の半分が反政府ゲリラに占拠されていて家族が暴行を受けているのを止めようとしたら射殺された、とかいうことも起こりません。だからといって年間3万人を超える自殺者を生む社会がユートピアであるわけがなく、ぼくたちは、史上まれに見る恵まれた時代と地域に生まれながら、毎日言い知れぬ不安を抱えて眠れない夜をすごす羽目に陥っています。その不安は、おそらく近年の先進国で頻発しているデモに参加している人達が抱えているものと同じものです。それでは、今のぼくたちを取り巻いている不安の根底には何があるのでしょう?
今のぼくたちの不安、それは「変容する社会に取り残される不安」です。昔から「世の中は20%のシンボリックアナリストと80%のルーチンワーカー(および対人サービス従事者)に分断される」と言われていました。シンボリックアナリストという言葉自体はアメリカの経済学者ロバート・ライシュが使い出したそうですが、同じ意味の事はいろんな人がいろんな形で言ってきました。端的に言うと、「知識が生産手段となる社会がグローバルネットワークで繋がると必然的に競争が激化する。そこでは生涯を通じた学習が要求されるので、学習する人としない人(あるいは学習できる人とできない人)が社会的に分断される」という事です。自分の事に引き寄せてもっとひらたく言うと、日本で日本人が時給1000円でやっている仕事を、中国で中国人にやらせたら時給100円で済むとしたらその仕事は必然的に中国のものになる。だから日本のルーチンワーカーはもうちょっと高度なスキルを身につけて、同じように高度なスキルを身につけようとしている世界中のルーチンワーカーに先んじて新たな仕事を生み出していかないと時給が100円になる、という事です。しかしぼくのような普通の人間に対して「高度なスキルを身につけろ」というのは相当にキツイ要求です。今現在シンボリックアナリストじゃない80%の人全員にそんな事を期待するのは最初から無理です。ものすごく楽観的に考えてシンボリックアナリストが倍に増えても40%。その対人サービスに就ける人間が30%いたとしても残りの30%の人間が失業する事になります。日本の労働力人口は約6600万人ほどだそうですから2000万人くらいは失業です。ぼくたちの不安は、「自分がその2000万人の中に入ってしまうんじゃないか?」そして「その中に入ってしまったら全てが終わってしまうんじゃないか?」という不安です。実際はそんな事で終わっちゃう事はないのですが、ご飯を食べられない人がたくさん出てくるのは良くありません。いったいその人達はどうすればいいんでしょう?これはとても難しい問題ですが、シンボリックアナリストなんて言葉が出てくるずーっと前から社会を動かせる人間は少数派だったはずです。だったら昔の人はいったいどうしていたのでしょう?そこになにか、普通の人が普通に暮らせるヒントはないんだろうか、と思いました。
昔の日本は間違いなく今よりも貧しい社会でした。格差は当然ありましたし、差別もありました。今よりも希望があったと言う人もますが、希望を実現できる人が圧倒的に少数派だったのは今と同じです。それでは多数派である普通の人はどうやって生活をしていたのでしょうか?(そもそもあまり大きな希望をもっていなかった可能性もありますが、今のぼくたちだってそれほどだいそれた野望を持っているわけではありません。)
例えば昔は頭が悪くてこらえ性が無くても、「やくざ」という生き方がありました。もちろん今でも「やくざ」は存在していますが、そのイメージは完全に「非合法」なものです。しかし、昔のやくざはもうちょっとグレーな存在で、政治家になった人も相当数いたようです。けしてやくざな生き方を肯定するわけではないのですが、少なくともテキヤの類が王道の出世コースとは別のキャリアプランを用意して勉強ができない人間の受け皿になっていた側面は存在したようです。もちろんその中で偉くなるにはそれなりの人物である必要があったのでしょうが、そうでない人の場合でも「おれは学校にも行ってないしまともな仕事にもついちゃいねぇ。けどな、義理にはずれた事だけはしちゃいねえぜ」とか言ってプライドを保つ事ができたようです。しかしやくざがおこなっていたグレーゾーンのシノギは徹底的に排除されてしまいましたから、これからやくざになろうとするのはあまりオススメできません。やくざがダメならどうすればいいのでしょうか?昔は移民という手もありましたが、こっちはどうでしょうか?
日本人というのはなんか閉鎖的で海外に弱いようなイメージがありますがけしてそうではありません。江戸時代に鎖国をする前の堺はちょっとした国際都市でしたし、明治維新後に創られた商社は信じられないスピードで海外に進出していますから、「必要があればいくらでも打って出る」人種なのかもしれません。これはけして一部の優秀な人間、あるいは変わり者に限った話ではなくて、ハワイやブラジルには大規模な移民が行われましたし、満州の例もあります。今の日本は人類史上有数の恵まれた国ですからわざわざ外国に移民をしようという人がいないだけです。でもこのままグローバル化が進行するならちょっと状況が変わるかもしれません。日本より賃金が低い国があるなら日本からはルーチンワークがなくなってルーチンワークしかできない人は失業します。でも世界中のどこかにはルーチンワークが存在していて、たくさんの人がそれで生活しているいるわけですから、そこに移住すればいいというわけです。アフリカには平均年収が14000円位の国がたくさんあるそうですが、物騒な場所が多いですし今のところはたいした産業もありませんから移住先としてはあまり魅力的ではありません。ここはやはり中国あたりで中国人がやりたがらないような仕事をするのが今のところはいいのかもしれません。中国人の平均年収は60万〜70万円位だそうですが物価が安いのでどうにかなりそうです。アルゼンチンとかも同じようなものです。まぁ、移民を受け入れてくれるかどうかがポイントではありますが、選択肢としてはありなのかもしれません。そのうち派遣会社に登録しておくと「中国のちょっと奥地なんですけどどうですか?」とかいう時代になるのかもしれません。どっちにしても楽な時代ではなさそうですが、そこにだってなにかしらの楽しみはあるはずですから一概に悲観したものではないと思います。日本でバイトでもなんでもして多少のお金を貯めて海外移民になる、というのは検討に値するかもしれません。
これからの時代、普通の人はどうやって生きていけばいいのか、あれこれ考えてみましたが、どうももうひとつキレのいい答えはみつかりませんでした。自分が特別な人間じゃないという事を認めるのは、ある意味つらい事かもしれません。でも、謙虚さを持って「私はごく普通のありふれた人間である。」と思えるなら、それはちょっと上品な姿勢なんじゃないかなぁという気もします。それでも「おれはけっしてありきたりの人間じゃない!」という方がいらっしゃるなら、あなたがどう生きればいいのかは明快です。優れた能力を持つ人間は、地球上全ての人類が飢えずに生活できる社会を作りあげる事に全力を尽くすべき、というのが答えです。
2012年04月30日
世代じゃなくて時代の問題です。
たとえば「イマドキの若者」がどうだこうだなんて話しはどうでもいいです。全く同じ意味で、年寄り世代に潰されてたまるか!的な話もどうでもいいです。
「三つ子の魂百まで」という考え方は大方正しいと思うんですが、今の日本のような時代では、17歳の若者と50歳の老人とではほとんど似たような幼児体験しか持っていません。これがもうちょっと上になると戦争を経験していますから話はちょっと違いますが、50歳以下の日本人なら歳は違ってもみんな同じ世代です。子供の時に見ていたアニメが鉄腕アトムかワンピースかなんて事はたいした違いではありません。だから現在起こっている現象を世代で分析する事にはあまり意味がないと考えています。
イマドキの若者を考えてみることは、今の時代が老若男女に与えている影響を「年齢が若い人間をサンプルにして考えてみる」という事にすぎません。ちょっと前に少しだけ話題になったひきこもりもモンスターペアレンツも老人のゴミ屋敷も全て同じ「現代」の問題です。それを世代で切ってしまうと、「年寄りが悪い」とか「若い奴らはキチガイだ」とかいう他罰主義に陥ってしまうことになります。自分の事を棚に上げて他人を攻撃するのはとても面白い事ですから、そういうことをしていると肝心の問題がなんだったのかわからなくなってしまいます。
問題は常に世代ではなくて時代に存在します。もしも自分と違う世代に問題があると感じるのなら、それは同じ時代を生きてるぼくやあなた自身の問題である、という事です。
「三つ子の魂百まで」という考え方は大方正しいと思うんですが、今の日本のような時代では、17歳の若者と50歳の老人とではほとんど似たような幼児体験しか持っていません。これがもうちょっと上になると戦争を経験していますから話はちょっと違いますが、50歳以下の日本人なら歳は違ってもみんな同じ世代です。子供の時に見ていたアニメが鉄腕アトムかワンピースかなんて事はたいした違いではありません。だから現在起こっている現象を世代で分析する事にはあまり意味がないと考えています。
イマドキの若者を考えてみることは、今の時代が老若男女に与えている影響を「年齢が若い人間をサンプルにして考えてみる」という事にすぎません。ちょっと前に少しだけ話題になったひきこもりもモンスターペアレンツも老人のゴミ屋敷も全て同じ「現代」の問題です。それを世代で切ってしまうと、「年寄りが悪い」とか「若い奴らはキチガイだ」とかいう他罰主義に陥ってしまうことになります。自分の事を棚に上げて他人を攻撃するのはとても面白い事ですから、そういうことをしていると肝心の問題がなんだったのかわからなくなってしまいます。
問題は常に世代ではなくて時代に存在します。もしも自分と違う世代に問題があると感じるのなら、それは同じ時代を生きてるぼくやあなた自身の問題である、という事です。
2012年04月15日
ニコンのP-510を買いました。

ぼくはこの機種の前身であるP-100を使っています。いろんな事がひととおりできるかなり面白いカメラなんですが、露出がかなりシビアで、コントラストが高い被写体、例えば晴天の野外なんかになると撮影場所や露出補正、デイライトシンクロなんかをちょっと考えないと思ったような画質が出せません。それはそれで面白いんですが、気楽に撮りたい時はちょっとしんどいです。(このP-100はそもそもの設定が露出オーバーで、そのまま撮るとハイライトが真っ白になってしまいディティールは全く描写されません。)
そんなわけでぼくはP-510を買う気になったわけです。使ってみた結果はおおむね良好。ないも考えずにひととおり満足のいく画質が得られました。もちろん大型のCCDを搭載した機種のようなわけにはいきませんが、この一台で24mm〜1000mm(35mm換算)のズーム域が持ち歩けてそこそこの動画が撮れて夜景もいける裏面照射型CMOSですからたいしたものです。
P-100との違い
ぼくにとってこの2台の差は上に書いた「露出」が全てです。(もちろん、P-510の画質が向上しているのは単に露出のセッティングだけではなく、画素数が上がっている事や画像エンジンの改良など、総合的な改良の結果なのでしょうが、「ニコンが裏面照射型CMOSの使い方に慣れた」というのが一番の原因かもしれません。)カタログスペック的には、ズームが26mm〜768mmの26倍から24mm〜1000mmの42倍になったという点が一番大きいのでしょうが、これは実際に使ってみるとそれほど違いがありません。もともとの26倍でもぼくにとっては必要十分でした。他にも細かいところはいろいろと変わっていますが、おおむね好ましい改良であり、やはり「デジタルは新しいものがベター」なんだなぁと感じました。
最後にカタログスペックでは絶対にわからない違いをひとつ。上の写真で見るとほとんど同じような大きさで、形も重さも同じようなものなんですが、この二台は手に持った時の感触が全く違います。P-510はなんとなく軽い、ポコポコした印象があり、なんでなんだろうと思ったのですが、ストロボを上げてみてその理由がわかりました。P-510はプラスチックが薄くなっているんです。P-100と比べると全体に相当薄い。ちょっと耐久性が不安になるくらいです。ダイヤルのクリック感を含め、ボディの質感はあきらかにP-100の方が上です。ただ、このへんは42倍ズームをほぼ同じ重量のボディに詰め込んで同じ価格帯で発売することとトレードオフだと思うので、これはこれで賢明な判断だという気もします。
というわけで、全てがそこそこだけどなんでもできるこのカメラ。ぼくは大変気に入っています。
2012年03月20日
オリンパスOM-Dが引き継いだ遺産
神田の小川町にあるオリンパスプラザでOM−Dを触ってきました。結論から言うと、このカメラはなかなかの力作に仕上がっていると思います。
しかし、ちょっと使いにくそうな印象も持ちました。まずは横幅が足りません。同じ体積でも背を低くして横幅を広げた方が持ちやすくなったと思います。それからボタンやダイヤルの配置が人間工学的にちょっと不自然で、押しにくい、回しにくい気がします。このへんは慣れでどうにでも、という気もしますが、もうちょっと別なレイアウトがあったんじゃないかと思います。それから感覚的なところでは、シャッターやボタンを押した時の感触がフニャフニャして頼りないです。
最初に「力作」なんて言ったわりには文句ばっかりじゃねぇか!と思われるかもしれませんが、それもこれも「OM」の名前と外観を引っ張り出されて、採点が辛くなってしまったせいかもしれません。
これがMDXー1とかいう名前で全然違う外観デザインを与えられていたら「いいカメラだよ、これ。操作性がもうひとつ?いゃあ、デジカメはこんなもんだよ。」で終わっているところです。
実際このカメラはなかなかに個性的で、レンズ交換ができるEVF内蔵型の防塵防滴ボディで小型軽量かつ一応満足のできる基本性能、これらを兼ね備えたものは他に見当たりません。ぼくはこのカメラを買いたいと思ったんですが、それはOMの再来としてではなく「あそことあそこをこうしてこうすればいい感じのカメラになると思うんだけど、まぁ昔のOMみたいなのが出るまではとりあえずコレ使っとくか。」って感じです。
できることならパッと見はOMに見えるけど触って見ると違和感があるようなものじゃなくて、外観のデザイン処理が全く違っていても触っているうちに「これはOMだ・・・」と思えるようなカメラにしてほしかったのですが、どうも外観をOMに似せる事を優先するあまり使い勝手の詰めが甘くなってしまった感は否めません。バルナックから米谷に受け継がれた小型カメラ開発の遺伝子は残念ながらこのカメラには見当たりません。ここに見られるのはOMの遺産です。
しかし、遺産を使うという事は「過去の遺産を食いつぶす」といったネガティブな意味だけしかない、わけではないので、これはこれで良しという気がします。
2012年02月05日
オリンパスのOM-D、ついに丸裸の画像!
2012年02月04日
オリンパスOM-Dのでっかいファインダーに期待!
上の画像は4/3RUMORSに掲載されたOM-Dのリーク画像です。見てのとおりファインダーがかなり大きい。というよりファインダーカバーがでかいだけ、のような気もしますが、どっちにしてもこのEVFはけっこう見やすそうです。
現状のEVFの見え方では光学式のヌケの良さに太刀打ちできていないという印象がありますが、ぼくは「見たままが写し取れる」という意味では、露出補正やホワイトバランスの調整がストレートに確認できるEVFのほうが本質的には光学式よりも優位だと考えています。
たとえ解像度がそれほど高くなくとも視野率100%で等倍のEVFが覗きやすい構造(たとえばでっかいファインダーカバーとか?)を備えていれば、一眼レフには無い価値を提供できるはずです。
このOM-Dに関しては、(たとえば)マウントまわりにコントロールホイールが無い、とかいろいろと「ちょっとがっかり」なところもありますが、ファインダーまわりを見て、「もしかしたら良いかも!」という気がしてきました。
まさかこのファインダーが脱着式で拡張可能!とかいう事はさすがになさそうですが、単にOMの名前とルックスを使っただけのカメラにはなっていない可能性も、ちょっとだけ見えてきました。
2012年02月01日
オリンパスOM−Dのリーク画像作戦はとても良くできている!
2月の8日に発表されると言われているオリンパスの新ミラーレス一眼カメラオリンパスOM−Dのリーク画像がごく一部で話題になっています。
ボディの部分写真を3回に分けてリークし、そのたびに高感度耐性が凄そうだ、とか連写は毎秒9コマらしい、とかちょろちょろと漏れてきて、当然のことながらその写真を合成合体させたり、「まとめるとこんなカメラだ」的なつぶやきをする人が現れています。OMシリーズを立ち上げた故米谷氏は伝説的な技術者ですから、「OMがデジタルで復活!」と聞いてドキドキする人は世界中にたくさんいるのでしょうが、その分いろいろな期待も大きいので、オリンパスもなかなか大変なところだと思います。
ともあれ、ぼくが注目しているのは「バルナックから米谷に受け継がれた遺伝子は復活するのか?」という一点です。
2012年01月29日
オリンパスのOMがデジタルで復活する?
これはネットで取り上げられたOM−Dのリーク画像です。なるほど、確かにOMデザイン風に見えます。
ぼくは「OMを名乗る以上OMマウントを復活させてフルサイズCCDを搭載しろ!」と言うつもりはありません。「宇宙からバクテリアまで対応しろ!」というつもりもありません。ただ、このカメラが米谷氏のフィロソフィを、ほんのわずかばかりでも継承したものであってほしいと願うだけです。それは、彼に対するオマージュでもノスタルジーでもなく、ただ「カメラは写真を撮るための道具である」という一点に尽きます。デジタル写真を撮るために必要な道具とはどうあるべきなのか、そこをゼロから考え直したカメラなら、ぼくはそれがたとえプラスチック製でかつてのOMとは全く別もののデザインをまとっていたとしても、それをOMの帰還として歓迎したいと思っています。
2012年01月22日
三国志
ここのところで三国志のDVDを何本か観ました。ひとつめは1994年に中国で作られたテレビドラマ。制作費は100億、撮影に使われた馬が10万頭だそうです。もうひとつも同じく中国のテレビドラマですが、作られたのは2010年と比較的新しいもの。こっちの制作費は25億。それからおまけにレッドクリフ。実質香港映画ですが、こちらの製作費も100億円だそうです。DVD全部で55枚です!
当たり前ですけど基本的な話は同じなんですが同じ場面でも描き方は全く違うので、比較しながら観ているとなかなか面白かったです。特に新旧ドラマの比較は非常に興味深いものでした。
古いほうのドラマが作られたのは今から20年近く前ですから中国はまだ完全に発展途上国です。衣装にしても演技にしてもセットにしても演出にしても音楽にしても完全にチャイナローカルで、なんか京劇みたいな感じです。時間的にはこの作品が一番長いので物語の細部まで描かれていますし、それなりに見応えはあるのですが、ところどころで「ここでこの音楽は無いよなぁ。」とか「どう考えてもこの踊りはヘンだろう!」とか、正直なところ現在の鑑賞に耐えないシーンも多いです。当然この時代ですから(たぶん)CGなんか一切無しのオープンセットと実際の人間と馬の群集シーンの連続なんですが、これがまた迫力が無くて、とてもスターウォーズより後に作られたとは思えません。
しかし、それがわずか20年後に作られた新しいほうのドラマは、全てがグローバルスタンダードのハリウッドスタイルに仕上がっています。CGをふんだんに使った画面は迫力がありますし、なんと言っても役者の顔つきからして全く違います。違和感が無い、というレベルを遥かに越えて、今の日本じゃドラマはおろか映画でもこのレベルのものはおいそれとは創れまい、という印象です。もちろんレッドクリフのレベルで三国志全編を描ききった、というほどではないにせよ、物語の最後まできっちりとまとめあげたのは立派なものです。
ともあれ、中国は単に経済力が急激に強大になっているだけではなく、文化的な側面でも日本よりもはるかにグローバルスタンダードな感覚を手にしている、という事なのかもしれません。(しかし日本のカルチャーがグローバルスタンダードと距離を取っている事は必ずしもマイナスなわけではないですし、新旧の三国志ドラマを比較してみた場合でも一概に新しいほうが凄いとは言い切れない、というのが面白いところです。)
三国志というと群雄割拠する英雄達が繰り広げる壮大な物語というイメージがありますが、ぼくはこの話の本質は諸行無常なんだという印象を強く持ちました。義で結ばれた三兄弟と言っても所詮は戦争に明け暮れた男達の話ですからきれいごとばかりで済むわけは無いですし、名もない雑兵も様々な大望、野望を抱いた英雄達も次々と死んでいきます。そこにあるのはヒロイズムではなくニヒリズムです。ひょっとしたらそれこそがこの長大な物語が長く人々に愛されている理由なのかもしれません。
2012年01月09日
「アメリ」は非常に不気味な映画でした。
ずいぶん昔の作品です。「誰もが幸せになれる映画」とかいうキャッチコピーや、「オシャレでかわいいお話し」という評価は耳にしていましたが、実際に見てみたらそういう印象とは全く違う、とても怖い不気味な映画でした。
アメリというのは主人公の女の子の名前なのですが、彼女はある種のトラウマをかかえていて他人とうまくコミュニケーションがとれません。頭の悪い使用人をいじめている八百屋のアパートに忍びこんで歯磨き粉と靴クリームを取り替えたり、好きになった男に訳のわからないメッセージを送ったりします。どこかファンタジックな描き方をしているのでほんわかとしたイメージになっていますが、彼女は完全に神経症です。
「どこか不思議なところがあるかわいい女の子」? いやぁ、ぼくはこんな子と付き合いたいとは思わないです。パッケージもなんか怖いカンジでしょう?
2011年09月17日
カッコ悪いけどワンアンドオンリーなカメラ

いろんなところがいろんなカメラを作っていますが、なかなか「唯一無二」というものにはお目にかかれません。でも、このカメラはけっこうそれに近いです。
ペンタックスのOptioWG1というカメラで、見た目のとおりアウトドアでの使用を想定しています。10mの防水性能とマイナス10度の耐低温性、1.5mからの落下に耐える耐衝撃性を持っている、とされています。これだけなら他にもっとタフなモデルもあるのですが、このカメラの「唯一無二性」はここからです。顕微鏡モードと呼ばれる超マクロモードが用意されていて、1センチまでの近接撮影が可能なんです。1センチマクロ自体も珍しいものではありませんが、このカメラにはレンズの周囲に5灯のLEDライトが配置されていて、マクロライティングが可能になっているのです!
つまり、山や海にこのカメラを持ち出して珍しい花や虫を見つけたら気軽に接写を楽しんじゃおう!ってわけです。
「おっ!?この虫の脚、ちょっと面白い形してない?。写真に撮っておこう!」って、そんなやついるか!という気もしますが、とりあえずそいういう事ができてしまうという事です。
実際に撮影してみると画質はグダグダですし、背面のボタン配置が良くないので押し間違い連発のうえに、なんといってもルックスが恥ずかしい。それでもこういう使い方ができるのはこれしかありません。昔からちょっと気になってはいたのですが、店頭のプライスが2万円を切っていたので思わず衝動買いをしてしまいました。何に使うかはこれから考えようと思っています。
ちなみに上の写真で一緒に写っているのは、ベルトで腕に装着できるケース。これも「一見便利そうだけどホントに使う機会あんの?」な感じが気にいっています。下の写真はこのカメラで撮ったカナブンです。
2011年09月13日
仕事は「戦争ごっこ」だっ!
毎日きつい仕事に追われて業績が上がったとか下がったとか、どこぞの会社がつぶれたとか、夏の商戦はうちの完敗だとか言うのを聞いていると、「仕事は戦いだ!」って気分になるのもわからなくはありません。企業経営を戦国時代や大平洋戦争になぞらえるのもよくわかります。
しかし、仮に仕事がある種の戦いに似たものであったとしても、全面的な暴力の解放装置である戦争とは全く違うものです。どちらかと言えば「戦争ごっこ」に近いです。
そう考えると辛い仕事も少しは気楽に接する事ができるような気もするんですがいかかでしょうか?
でもぼくは、「戦って勝ち抜く」というような仕事のスタイルはもういい加減旧くなってきたような気がしてしかたがありません。それに「そういうガツガツしたのはもういいや」という気分の先にあるのは必ずしも停滞や後退ではなくて、もしかしたら今よりもちょっとだけ気分のいい繁栄社会かもしれない、とも思っています。
大人は仕事で、子供は遊びで戦争ごっこを繰り返していますから、「戦い」が非常な興奮をもたらす行為である事は間違いないです。でも人類がいつまでもその興奮に屈服していると思ったら大間違い。世の中には戦争や戦争ごっこよりも面白い事はたくさんあって、もうすぐ「仕事」も戦いとは別の面白さを手に入れる事ができるはずだ、とぼくは考えています。
しかし、仮に仕事がある種の戦いに似たものであったとしても、全面的な暴力の解放装置である戦争とは全く違うものです。どちらかと言えば「戦争ごっこ」に近いです。
そう考えると辛い仕事も少しは気楽に接する事ができるような気もするんですがいかかでしょうか?
でもぼくは、「戦って勝ち抜く」というような仕事のスタイルはもういい加減旧くなってきたような気がしてしかたがありません。それに「そういうガツガツしたのはもういいや」という気分の先にあるのは必ずしも停滞や後退ではなくて、もしかしたら今よりもちょっとだけ気分のいい繁栄社会かもしれない、とも思っています。
大人は仕事で、子供は遊びで戦争ごっこを繰り返していますから、「戦い」が非常な興奮をもたらす行為である事は間違いないです。でも人類がいつまでもその興奮に屈服していると思ったら大間違い。世の中には戦争や戦争ごっこよりも面白い事はたくさんあって、もうすぐ「仕事」も戦いとは別の面白さを手に入れる事ができるはずだ、とぼくは考えています。
2011年08月04日
なぜフジテレビと韓流に目くじらを立てるのか?
テレビのコンテンツは昔からずっと利権とタッグを組んでいたのに、なんでいまさら驚いたような事を言うのでしょうか?
それに映画館でアメリカの映画ばっかりやっていて町中にマクドナルドとコカコーラがあふれかえっていても誰も気にしていないのになんでキムチはダメなんでしょう?
ぼくには全く理解できません。
「そんな事を言い出して不買運動をしてるやつらはみんな馬鹿なんだ」で済ませられるものでもないような気もします。
もしもぼくと同じような印象をお持ちの方がいらしたらオルテガの「大衆の反逆」という本を読んでみてください。たぶんこれは、個人の知能が高いとか低いとかいうレベルの問題ではなくて、社会的な病理として考えるべき事象なんだと思います。
2011年07月03日
ブランディングとは何か?
大峽製鞄のポケットブックを買いました。一応「財布」にカテゴライズされるものだと思いますが、横105mm縦200mmのサイズはちょっと大きすぎます。でも通帳やパスポートを入れる事ができるのでちょっとした旅行の時には重宝しそうです。このメーカー、品質に関しては定評がありますし、ルックスも悪くありません。値段はそれなりにするのですが、リーズナブルと言える範囲だと思います。いい財布だとは思うのですが、なんとなく「ちょっとした情けなさ」がつきまとってている感じが否めません。どうしてでしょうか?
このポケットブックは「エルメス社も御用達の革で造られた」とか「プアマンズエルメス」とかいう文脈で語られる事もあります。使っている革やデザインとカラーリングがどことなくエルメスっぽいのでそういう話になるのでしょうが、要するにオリジナリティが低い。これは日本製品によくある事で、せっかく高い技術を持っているのに、それをオリジナルのデザインに落し込めていません。もしも自らのブランドバリューを高めたいと思っているのなら、なにものにも似ていない製品を作り出す必要があります。ただ、個人的には使いやすければオリジナリティなんてどうでもいいと思っているので、ぼくはこの財布をとても気に入っています。だから「でもお金があったらエルメスを買うでしょう?」なんて無粋な質問に対する回答は、当然「NO」です。
2011年07月02日
iPadとAndroidPadの比較
キーボードを合体できるアンドロイドタブレットEee Pad Transformerというのを買ったのでiPad2と使い比べてみました。
こういうモノを両方使っている人はいったいどういう人なのか分かりませんが、たいていはどっちかしか使わないと思いますので、「どっちにしようかな?」と悩む方も多いかもしれません。でも 結論から言うと「どっちをどう使っても大きな差は無い 」というのがぼくの印象です。
もちろんフラッシュが使えるとか使えないとかアプリが多いとか少ないとかSDカードが使えるとか使えないとかいう違いはあるんですが、どっちも工夫次第でどうにかなるレベルです。
それよりもぼくが気になったのは、Androidを眺めているのは圧倒的にぼくのようなオヤジが多いという事でした。iPadの場合、「ヤッパ白いほうがカワイイよね!」とか言っているカップルをよく見かけますが、Androidではそういう事は全くありません。黙々と眺めているオヤジとか、やたら長々と店員さんにあれこれ聞いているオヤジとかばっかりです。
というわけで、今のところは、女の子にモテたいならiPadにしておく事をオススメします。もしもAndroidを買ってしまった場合、まちがっても「これ、キーボードを合体できるんだぜ!しかもそっちにもバッテリーを内蔵してるから駆動時間も延長できるのさ!」なんて事を言ってはいけません。だれもそんな事に興味はありませんし、下手をするとキモイと思われるだけです。
2011年05月07日
買ったぜ!iPad2!

この間ヨドバシカメラをぶらぶらしていたら「アイパッドツー最後のイッコです!16ギガのワイファイモデルブラック、お持ち帰りできまーす!」の声。
確かに一番人気がなさそうなモデルではありますが、それにしてもこの時期、「お持ち帰り」とは!予約のキャンセルでも出たのでしょうか?あるいは意外と売れてなくて、この「最後のイッコ」が売れた後に「予約のキャンセルが出ましたのでイッコだけお持ち帰りできますよー!」とか始まったりするんでしょうか?真相はわかりませんが、「Wi−Fi16GB」というのはどうなのでしょう?
ぼくはこのスペックのiPadを使っていますが、とりたてて不満はありません。容量はクラウドが、通信は無線LANルーターがあればネックにはなりません。新色のホワイトは魅力的ですが別にブラックがかっこ悪いというわけでもありません。問題は前のiPadを持っているのにiPad2を買う必要があるか?という事です。薄く、軽くなったと言ってもしれていますし、「デュアルコアで速い×2」とか言っても体感でそんなに差がない事は今までマックが新型になるたびに何回も経験しています。ただし、カメラは便利そうです。たいしたカメラではないのですが、あるのとないのとでは大違い。それから「スマートカバー」には興味がありました。「風呂のフタ」なんて言われていますが、なんかすごそうに見えます。このへんはアップルのうまいところでしょう。あれやこれやを10秒ほど考えた後「すみません、それください。」という事になってしまいました。
家に帰って箱を取り出して見ると、箱には「iPad」とは書いてありますが、どこにも「iPad2」とはかいてありません。一瞬、「しまった!これは昔のやつじゃねぇか!まぎらわしい事言いやがって!今持ってんのとおんなじやつ買っちまったじゃねぇか!」と思ったのですが、よくよく見てみるとカメラがついています。やっぱりこれが「iPad2」でした。どうやらアップルでは今出ている最新のものがiPadであり1も2もない、という考え方をしているようです。
さて、使ってみた感想は、「カメラ以外は前のとおんなじ」。もともと完成度が高い製品でしたから特に不満はありません。一方、スマートカバーは意外と使いにくい印象でした。磁石でくっつくというのはわりとじゃまくさいですし、背面に回した時に落ち着きがありません。みてくれでは一歩譲りますが、以前のアップルiPADケースの方が使い勝手は上です。濃い色は革製しか選べないのもどうかと思いますし、背面がカバーできないのももうひとつです。しかし、いずれにしてもこれは、一度使うとスマートフォンにはもどれないガジェットであることは間違いありません。



